アネモネは散らない

 誠の手が煌めいて、消えた。金色の粒子が手のひらに残ったかと思うと、それは瞬く間に見えなくなっていった。まぶたの裏に残ったのは、彼が憑き物の落ちたような顔で微笑んでいた姿だった。今まで憎悪という感情に囚われ苦しみ続けてきた彼が、ようやく解放された。そうすると、もう彼はただの心優しい壮年男性でしかない。彼は再び新たな人生を歩み始めたのだった。

 さて、取り残された僕はどうか。机に置かれた「神崎慧」の本に目を向ける。これを読め、ということだ。手に取れば、分厚くて冷たい。まるで冬の夜に投げ打たれていたかのようだ。それは、昔の僕によく似ていて──

 そこで、思考にノイズがかかる。よく思い出せない。いや、忘れたのは自分の意志だ。僕は自分のために、自分の過去を忘却したはずだ。仄暗い過去は知識としては覚えていても、そこに感情は結びつかないようになっているはずだ。

 その感情が、今、結びつこうとしている。そのとき、いったい何が起こるだろう。僕はどうなってしまうのだろう。

 心臓がバクバクと煩く鳴り響く。僕の手も本へと体温を奪われていくようだ。はぁ、はぁ、と息が上がる。考えるだけで抑鬱になる。まだ見てもいないのに、その先の恐怖に体が震える。そういうときは考えないようにしてきた。だが今、それと対面しなくてはならない。

 くだくだしくなる前に、本を開こう──そう思ったとき、硬いノックの音が聞こえてきた。中に人がいると確認するためのノック、三回。本を、ばっ、と手放して、扉のほうへ向かった。

 開いてみれば、全く同じところに目線があった。赤い双眼がこちらを見ている。アネモネだ。彼は半ば強引に部屋に入ってくると、僕が落とした本を拾い上げた。

「ハッ、あんたのことはお見通しだ。誠の奴に勧められたんだろう、これを読むのを」

「どうしてあんたが……」

「分かってんだろう? 僕はあんただ。誰よりも停滞することを望み、絶望に巣食う魔物だよ」

 彼の言葉にはっとさせられる。そうなのだ、彼は僕そのものだ。僕が何をしようか手にとるように分かるのだろう。だとしたら、この展開も予想できて然るべきだろう。しかし、どうして思いつかなかった?

 アネモネは人をナメ腐ったような垂れた目で嘲笑うと、本をぱらぱらと捲り始めた。あ、と僕が声を上げて止める暇も無かった。彼は、うんうん、と言ってわざとらしく頷くと、椅子にどっかりと座り、本を揺らして鼻で笑った。

「うんうん、これじゃあ止める必要も無いか。どうせ乗り越えられないだろうからな」

「知った口を……」

「じゃあ読んでみるか? そして僕と同じように絶望するんだ。全ての感情を捨て、前進を諦めるようになる」

「読んでみなけりゃ分からないでしょう。決めつけないでください」

 僕の言葉に、アネモネは片方の口角を上げ、本を投げつけてきた。受け止めれば、ずっしり重い。さきほどまではそんな重さも感じなかったのに、より重く感じる。

 読めよ、とアネモネは言った、頬杖をつき、八重歯を見せた悪辣な笑みで。まるで悪魔だ。さしずめこれは悪魔の囁きといったところか。

 嗚呼、だとしても構わない。僕は絶望の書へと手を伸ばし、その本を開いた。

 その途端、意識が持っていかれる。あのときの──初めてアネモネ図書館にやってきたときのようだ。でも、ここは酷く寒くて、気持ち悪い。冬の夜空の下、僕は蹲っていた。

 僕はこの記憶を、知っている。ワイシャツ一枚で外に出されて、窓の外から父と母を見ていたときだ。体が凍りつくように痛い。父は母に犯されていて、母は僕に手を伸ばしていた。

 その様を見ただけで、僕は耐えきれなくなって嘔吐した。何も食べていない、胃酸だけの吐瀉物が、白い雪を汚す。

 息を吸うたび、冷気が胸に入ってきて肺を凍らせる。心臓を凍らせる。咽るたび、涙が頬を伝って、さらに頬を冷やした。

 思い出した。思い出した。自分の体が幼い頃から汚れていたことを。母に、女子生徒に何度も犯されていたことを。そしてそれを、最初だけは悲しんでいたことを。泣きながら、ガラスに映る幼い体の自分を抱きしめた。

 光景は変わる。今度は少し大人になった自分が映っている。顧問の先生が、他の学生が、教員が、誠が、それ以外の僕を買ってくれた人が、皆が僕を虐めた。それでも僕はへらへらと笑っていた──泣くことを忘れてしまったのだ。

 幼子は生まれて初めて泣くことを覚える。しかし、大人になるにつれて人は泣くことを忘れていく。例外無く僕もそうだった。けれども歪んでいるのが、僕がそのような行為を全て喜んで受け入れていたことだ。僕の心を、打ち震えるような喜びが満たしていく。だがそれは温かくは無い。それほど、凍てつくように痛い。

 全ての暴力を、僕は「欲望を自分に吐き出させることで人を救っている」と勘違いして迎え入れたのだった。嗚呼、それは人類が憎むべき悪じゃないか。全ての人を堕落させ、全ての人へ愛を振りまいたのだから。だから僕は──だから、「欲望を塞ぐ棒」だなんて僕は呼ばれたんじゃないか?

 ガラスに映る光景は変わる、変わる。ちかちかと変わっていくうち、目の縁が熱くなる。すでに泣いていたのに、さらに涙が込み上げてくる。

 そんな僕が誰かに恋をしたこと。誰かに恋をしながら、その人を傷つけたこと。その瞬間、僕が刑事として働く居場所が崩れ落ちたこと。

 気がつけば、全てを奪い、全てを壊し、去っていったあの男が、僕の目の前で嗤っていた。

「被害者ビジネス、ご苦労さま!」

 明るい声だ。涙でよく前が見えないけれど、彼は満面の笑みを浮かべていた。僕は咄嗟に冷たいガラスに顔をくっつけた。

「これは全部ぜーんぶ、お前が哀れを止めるために出来た物語だ。全部悪いのはお前なのに、俺は何年も──そう、何年も! 加害者として吊るされて、この物語でずっと非難され続けた。

──皆によしよしされて幸せだったか、神崎」

 ヒュッ、と喉が鳴る。そうだ、そうだ、僕はずっとずっと、何年も何年も、彼を馬鹿にして、悪者扱いして、そうして皆の同調を集めてきたのだ。どうして、どうして忘れてきたのだろう。僕が悪かったのに。僕がずっと悪かったのに!

「お前がそうだから俺は不幸になるんだ。お前さえいなければ、俺は幸せになれるんだ」

 ガラスから顔を離し、顔を覆って慟哭した。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい──

 ひとしきり泣いて顔を起こしたとき、僕はその光景に目を疑った。そこには、僕が恋をした男が、他の人々と一緒にいた。

 ……瞳孔が開くのを感じた。彼は、笑っていた。僕が好きだった、あの爽やかな笑顔で。

 彼には居場所がある。どの面を下げて? 僕の居場所を奪って、僕の大切なチームを壊して、どうして今も笑っていられるの? 違う。僕が間違えさえしなければ、違う、違う──

 しゃくり上げていくうちにまた鳥肌が立って、その場に吐き散らした。体が動かなくて、そのまま吐瀉物に顔を埋めた。酸っぱい臭いが奥歯をガチガチと鳴らした。

 雪は僕の体にしんしんと降り続ける。醜くなった僕を冷笑するように。寒さは収まらず、体の震えは止まらず、涙は止まらず、僕の体温と精神力が奪われていく──



「ほら、現実には居場所なんて無いんだよ。分かったか?」

 自分の声で悪夢から目が醒める。自分はベッドに横たえていて、本は眼前に置かれていた。僕は反射的に本を弾き飛ばして、布団を被った。寒い。寒くて仕方が無い。体は意図せずがくがくと震えた。アネモネはその本を拾い上げると、勢いよくゴミ箱へと投げ捨てた。

 また椅子に座り、足を組む。鮮血にも似た色の瞳は、僕を冷ややかに見つめていた。

「何が『前に進む』だよ、こんなザマでさァ。これを知った状態で現実世界に帰って何になる? いつまで女神面を続けられる?」

「……ぼ、僕、は……それでも、前に……ッ」

「『前に』ってどこに進むんだよ。圧倒的に僕が悪いじゃないか。この監獄で余生を過ごすのがお似合いだろう? ほら、ここでなら誰もが肯定してくれて幸せじゃないか。それとも、ここから出て犯罪者にでもなるか?」

「なっ……!」

「あぁ、そういや、恋がしたいんだっけ? 馬鹿馬鹿しい。また傷つくだけなのに。でも、一生ここで魂が腐り果てるまで続けるっていうなら応援してやるぜ?

……まぁ、一生叶わないんだけどな!」

「やめろ……やめろ……ッ」

 息も絶え絶えに彼の言葉を否定する。いや、否定なんてできていない。ただ拒絶しているだけだ。だって彼の言葉は、正論の針の雨だから。僕は間違っていて、ずっと間違えていて、生きていてはいけない存在で──そんな存在を肯定してくれる誠も消えてしまった今、誰が彼の言葉を否定できるだろう?

 アネモネは、はは、と乾いた笑い声を上げた。そして立ち上がり、僕へと近づいてきた。僕の顎を、がっ、と掴むと、彼は甘美で冷たい声でこう言った。

「あぁ、苦しいんだったら……消えちまっていいんだぜ?」

 刹那、ザザッ、とノイズのような音が聞こえた。体の先が冷たくなって、おそるおそる見てみれば、節だった手がノイズがかっていた。驚いて飛び退き、再び手を見てみる。ノイズは走っていないが、何の熱も感じないほど冷たくなっていた。

 僕はこのような現象を何度か見たことがある──アザミもそうだった。不安定だった姿はノイズののちに安定した形となった。ここが何なのかは分からないけれど、「魔法」というものが存在するこの世界ではあり得ることなのだろう。

 この光景を見て、直感する──僕は、このままでは消える。アネモネと同じ存在になって、消去される。

 アネモネはクツクツと喉を鳴らして嗤うと、ふらふらと立ち上がり、笑みを潜めてこう言い放った。

「僕に統合されろ。何も感じないのは快いぜ?」

 そして、部屋から出ていく。待て、と言いたかったのに、泣き疲れた喉では掠れてしまって届かなかった。

 独りになってから、僕は布団を頭から被った。そうしないと、どこかから見られているような気がしてならなかったからだ。僕が少しでも幸せになろうとすると、それを恨むような目線があるような気がするのだ。お願い、誰も見ないで。そしてただ眠らせて。

 体は温まっていくけれど、ノイズが走るのは変わらない。むしろどんどん酷くなっていく。目を閉じても、頭の中ではゾートロープのように苦しかった思い出が繰り返されている。

 このまま眠ったら、死ねるんじゃないか……?

 ほんの少しの安堵を覚えた瞬間だった。目の前がノイズだらけになって、一瞬真っ暗になった。息が詰まり、次に意識が戻ったときには肩で息をしていた。

 ……駄目だ。このままでは死んでしまう。

 布団を羽織ったまま、なんとか立ち上がる。真っ暗になった部屋の中、どう歩けば良いかも分からなかった。そうすると、頭が警鐘を鳴らし始めてパニックに陥る。過呼吸になる体を抱きしめ、死んだ目で辺りを見渡す。僕がなんとかして生きようとしているその最中──ふと、誠の言葉が降ってきた。

──それから周りの人を頼るんだ。

 誰かを頼る。独りでこの暗闇にいてはいけない。そう思ったとき、鈍い金色に光るドアノブを捉えられた。夜目が利き始めたのだろう。

 扉を開ければ、もう夜で暗くなり始めてはいるものの、まだ歩いてはいける。僕が真っ先に思いついた相手も、きっとまだ起きているだろう。重たい布団を引きずりながら、僕は彼の元へと──恋する人の元へと向かった。



 できるだけ優しいノックになるようにして、三度扉を叩く。すると少し間を置いて、扉がそっと開いた。中から出てきたのは、ブラッディレッドの瞳をした同じくらいの背丈の青年だ。三白眼をこちらに向けると、驚いたように目を丸くした。僕が薄い布団を被っているのだから、それは驚くだろう。

「ヒナゲシか……どうしたんだ。眠れないのか」

「シオン……僕と、話をしてほしい」

 そう言ってから慌てて背後を確認する。カトレアはいないだろうか。そうすると彼は首を振り、いないよ、と言った。

「今日は仕事に行っているんだ。とりあえず、部屋へ」

 扉を閉めると、コーヒーの香気が鼻腔を満たす。コーヒーは置いてないから、移り香だろう。ということは、彼の部屋にはいつもコーヒーが置いてあるのだろう。机の上に積まれた本を見て、コーヒーを飲みながら作業する彼の姿が容易に想像できた。

 彼は僕を布団に座らせた。彼の布団を被れば、ほんのり温かくて、やはりコーヒーの香りがしてくるのだった。

 シオンはというと、机の前に置かれた椅子に座り、頬杖をついてこちらを見ている。最初は何も口にしなかったが、僕をしばし見つめると、話を聞こうか、と穏やかな声色で言った。

「……僕は、自分の本を読んだ」

「アザレアか……?」

「いや、自分の意志で読んだんだ。それで……」

 手を差し出す。ザザッ、とノイズがかかって、色収差がかかったようだった。シオンはそれを見ると焦ったように僕の手を取った。それから元に戻った僕の手をぎゅっと握った。

「アザミの魔法の影響か……君という存在が薄らいでいる。それで、ここに……」

「このままだと僕は消えてしまう。だから……消えたくないから、来たんだ」

「消えたくない、か……」

 ふふ、とシオンが笑った。最初はその意図が汲めなかった。

 彼は、失礼、と言ってから、僕の手を撫でた。

「君はあんなに消えたがっていたのに……生きたいと、そう願う人格になったんだね」

「きっと、彼奴が……アネモネが生まれたからだ。彼奴が僕の絶望の全てを持っていったんだ」

「僕に何を見たか、話してごらん。ゆっくりで良い。君の話を聞こう」

 シオンが僕をじっと見据える。僕は静かに頷くと、彼の言ったとおり、ゆっくりと一つ一つ振り返っていった。

 僕の過去。僕の見てきた悲しみ。僕の大切だった居場所。僕の大切だった人。そして、今僕が存在する意味──それは全て、僕が被害者であるという前提で成り立っていること。僕はずっとずっと、誰かを悪人にして生きてきたのだということ。シオンの部屋に入ってからは少しマシになったが、今でも彼は僕を見ている、ということ。

 シオンは黙ってそれを聞いていてくれた。口を出さずに相手の話を傾聴するというのは難しいことだ。頷き、同調し、話を引き出していく。そのおかげか、心に巣食っていた凍傷が癒やされていくように感じられた。

 僕が話し終えれば、彼はそっと、僕の頬に手を当てた。彼の手は、冷たいけれど温かい。

「嗚呼、ヒナゲシ──君はそれを乗り越えたいと言うんだね?」

「でも、きっとこのまま死んだほうが楽なんだ、とも思う」

「昔なら僕は君に、ずっとここにいたほうが良いと言っただろう。君は全てを忘れてしまえば良いと言っただろう。君に過保護になってね。

でもヒナゲシ、僕たちは今、対等で、お互いを求める存在だ。違うか?」

 手が離れる。彼の視線は熱い。心を溶かしていくように。

「だから言おう──アリス、君は前に進むんだ。僕は君に生きてほしい。別れるのは、寂しいけれど」

「いったいなぜ?」

「好きな人に幸せに生きてほしいのは当然だろう? 自分の人生を生きられなかった君に、今度こそ幸せな生を生きてほしいんだ」

 彼の言葉は熱い。まるで、僕を見るあの男の視線を燃やし尽くすように。

 シオンは薄く微笑んだ。そうすると、まるで微笑みをたたえた女神のようで──僕もこうなりたい、と思った。

「君の言う『あの男』……彼は君が生んだ、幻想にすぎない。だって、あの世界は君無しで回っているのだから。それがどうした? 彼はきっと、君を忘れて幸せになったんだよ」

「幻想……?」

「いいかい、ヒナゲシ。もういないんだ、彼は。これは、君が作り出した恐怖そのものだ。トラウマと同じだよ。

君は終わらない。けれど、彼はもう終わったんだ。君の居場所はまた作れるし、君は幸せに生きて良い。苦痛はもう終わったんだ」

 そして、と言う。シオンは体を寄せ、僕のことを抱きしめた。心音が伝わってくる。彼の心音は柔らかかった。

「君はこれからずっと先、その苦痛を忘れていくため努力するんだ。記憶を消すわけじゃない。自分がもう苦しみの中にはいないと心から納得するんだ。

それが、本当の忘却だ。君に与えた花の真の意味だ」

「真の、意味……」

「その忘却がなされた暁には、君は本当の幸いを得るだろう。だから、どうか、希望を見失わないでくれ」

 彼の声は甘美で、とろけるようで、僕の絶望を溶かしてくれる。心から元気づけられていると、そう確信できる。

 できるか、ヒナゲシ──そう言って、彼はよりいっそう強く僕を抱きしめた。言葉の代わりに、僕は彼を強く強く抱きしめ返した。彼の思いがひしひしと伝わってくる。彼も本当に僕を愛してくれているのだ。

 ようやく絞り出した自らの言葉が、さらに僕の背中を押した。

「シオン。僕は……僕は、前に進みます。僕はまだ、終わらないから」

 シオンが背中を撫でる。それから離れて、小さく笑った。君ならできるさ、と付け加えて。

 布団から出て、腕にもともと持ってきた布団を掛ける。僕が目指す場所はただ一つ──アネモネの元だ。僕が前に進むには、彼が必要だ。

「シオン、ありがとう。やっぱりあんたは恋しい人だ」

「僕のほうこそ、そんな大切な感情を向けてくれてありがとう。僕も君のことを心から求めているよ」

 最初からこの恋は叶わないものだ、アネモネの言うとおりだ。愛が叶うものだとしたら、恋は叶わないものだ。そしてそれは、同じ感情を向けてくれていたシオンも同じだ。求めるだけで、手には入らない。僕らはやがて、別れなければいけない。

 だとしても、互いを思い合うことに意味はあるんじゃないか? そしてそれに怯える必要なんて、無いんじゃないか?

 今の僕に、恋しい人の恨めしい瞳は映らない。シオンの部屋を出て、まっすぐにアネモネの部屋を目指す。きっと彼は今でも、あの瞳に囚われているのだろう。ならば、僕が引き上げてやらないと。

 この布団を、今度は彼に掛けてあげなければ。



 アネモネは逃げも隠れもせず、部屋の中で僕を待っていた。いや、逃げも隠れもしなかったのは僕のほうかもしれない。今だって存在は不安定だ。シオンが温めてくれたとはいえ、体は冷え切っているし、寒気だって止まらない。けれども、それはアネモネも同じことだ。

 彼は布団を肩まで被り、憂いげに僕を見つめた。自分で言うのもなんだけれど、憂鬱に染まった彼の顔はとてもウツくしい。まるでそれで完成された芸術品のようだと思った。

 低く、冷ややかな声が彼の喉を震わせた。彼は氷の城の女王。心まで凍りついた、寂しい僕自身。

「どうだ? 消える覚悟は出来たか? ……ハッ、僕ってばやっぱり優しいな。女神と呼ばれるわけだ」

「あんたが必要だ。前に進むために」

 はぁ、と彼は息を吐くと、肩を竦めた。人を見下すような真紅の目がこちらを睨んだ。

「前に進んだって良いことなんて無いって言っただろう。それに、恋を信じるなんて馬鹿みたいだ! そんなにシオンの言葉が甘くて優しかったか? 所詮あんたを愛してなんていないのに」

「誠もシオンも僕を愛してくれていたよ。彼らの言葉があるから僕は進めると思ったんだ。僕は、僕に新しい生を与えたい」

 アネモネは溜め息を吐き、目線を上に逸らした。それから頭の後ろに手を回すと、舌打ちをして続けた。

「外の世界には絶望しか無いんだよ。あんたにも分かんだろ? いくらここで元気づけられようと結局この外に出たらその言葉なんて無かったことになる。

僕はあんたのためを思って言ってるんだぜ? 僕と統合されて一生ここで暮らせば良い。そうしたらシオンと恋人ごっこくらい続けてやるよ」

 確かに彼の言うことは正論だ。正論は夜の帳を下ろして僕の視界を暗くする。でも、僕の手元には小さな光がある。シオンから、誠から託された言葉がある。だから暗くない。

 僕はそのつもりで、光を遮る帳を破って口を開いた。

「でも、僕の内には希望がある。光があれば、暗闇だって歩くことができる」

「はあぁ? 正気か? 絶望が希望に勝てるとでも? 絶対に望みが無いと書いて絶望だぞ。希望なんてくだらない! そんな寒い世の中を、ちっぽけな光程度で彷徨うって? どうせ死ぬなら温かく死んだほうが良いんじゃねぇのォ?」

「僕は停滞して絶望して死ぬくらいなら、人生に恋をして死んだほうがマシだ。たとえ凍えようとも、変わらず拘泥し続けるくらいなら変わって変わって、どこかへ進みたい。自分の幸せのために足掻きたいんだ!」

「──あんたの幸せは誰かの不幸だぞ。それでも生きたいって?」

 ぐさり、心臓に刺さる言葉に痛みが走る。そうだ、確かに僕は人を不幸にして生きてきた。

 けれど、本当に僕は人を不幸にしてばかりだっただろうか? 脳裏に蘇るのは、誠やシオンの姿だった。彼は少なくとも、僕のおかげで幸せになれたんじゃないか。

 僕は目を逸らし、苦い顔をするアネモネを正視して言い返した。

「不幸にしてきたばかりじゃない。それに、不幸にした人だってもう僕を忘れて生きているんだ。僕だって不幸になったし、それを忘れて生きて良いはずだ」

「あんたには見えないのか!? ずっと僕たちを睨み続けている不幸な奴らが!」

 声を荒らげるアネモネを見据えたまま、僕は一息ついた。この言葉に対しては、僕は答える術を持っている。シオンから貰った希望の弾丸で、彼を貫いた。

「それは僕が作った幻想だ。僕が絶望し続けるために生み出した、幻影なんだ。もういないんだ、其奴は!」

「──ッ!」

「僕らはこれから、絶望を忘却して前に進み続けなければならない。そのために、あんたは、」

「要らないって言うのか。僕に負けを認めろって言うのか?」

「違う。勝ち負けなんかじゃない。あんたが必要だ、と言ったはずだ。僕は僕という希望も、僕という絶望も抱えて生きていく。

僕を肯定するだけじゃ、愚か者になってしまう。僕を否定することも必要だ、変わっていくためには。だから消えないでくれ、僕と共に生きてくれないか」

 アネモネは俯き、頭を掻いた。あー、と苛立ち、声を漏らす。ずっと気がつかなかった──そんな彼の手もまた、ノイズがかって消え始めていた。不安定なのはどちらも同じだった、というわけだ。

 彼は眉を寄せ、顔を起こした。美しい顔は歪み、悪鬼のようになっていた。

「僕『を』統合する気か……!」

「僕『と』統合しろ、アネモネ。僕もあんたも必要だ。一緒に来てくれ。一緒に幸せになろう」

「僕は許さない……絶対に幸せになるなよ」

「……ふっ、望むところだ。僕は絶対に幸せになってみせる」

 一瞬、ほんの一瞬だったが、アネモネの顔が緩んだような気がした。まるで安堵したかのような、希望したかのような顔だった。

 しかし、その顔も金色のあぶくに照らされて消え始めてしまった。彼は最後の最期まで、僕を睨み続けていた。観念すること無く、僕を嫌悪し続けていた。

 でも、それも当然のことだ。彼は僕の中の自己否定の人格なのだから。絶望し、停滞し続ける彼との対話からでなくては、ジンテーゼは導き出せない。

 全て消えてしまう前に、彼は──彼にしては、比較的──柔らかな声で、こう言い残した。

「──僕が持っている全ての情報を渡してやる。だから──せいぜい苦しんで絶望して惨めで無様に死にやがれ」

 その呪詛のような言葉とは裏腹に、彼は鮮やかに、明るく消えていった。誠を見たときには思いもつかなかった言葉が頭に浮かぶ。こういうのを、成仏、というのかもしれない。

 彼が消えると同時に、確かに情報が頭に流れ込んできた。それは、彼がずっと氷の城の中で独り苦しんできた記憶もあったし、アザミが彼に話していた「この物語の設定」もあった。アネモネに関する全てと、アネモネ図書館の全てについてが、今では僕の手の中にあった。

 ならば、やることは一つだ。アネモネの金の粒を握りしめると、立ち上がり、前を見て歩き始めた。

 途中に置かれている鏡には、片方が真紅の、もう片方が梔子色の目をした一人の王者が映っていた。



 目的地では魔女が独り、寂しげに紅茶を飲んでいた。もう彼女の友達はここを去って久しい。どこか遠くを見つめ、憂いげにしていた彼女に近づけば、彼女は大きく目を見開いてこちらを見たのち、僕のことを鼻で笑った。しかし、決して僕を馬鹿にしたわけではなかったようだった。

「……乗り越えたんだな、ヒナゲシ」

「会議をしよう、アザミ。この物語を、アネモネ図書館を終わらせるために」

「条件は揃ったのに、アンタはまだ逝かないんだな」

「俺は司書長だぜ? 司書が逝くところを見ないと」

 アザミは残っていた紅茶を飲み干すと、ティーセットを持って立ち上がり、行こうか、と言った。

「会議を始めよう。司会はもちろん、アンタだ」

 僕は静かに頷き、彼女の後ろを歩いた。花園を通りがかれば、アネモネの花が咲き誇っていて、僕はほんの少し安心した。

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