キキョウは変花する
ツバキが去った。シオンの下に集った花の中で残ったのは、自称魔女のアザミ、自称管理者のアジサイ、アザレア、検索デバイスのクロッカス、図書館の根幹に関わるミカンとシオン、お世話係であるカトレアさんとサザンカさん、そして──自殺志願者だった俺と先輩と、先輩から生まれたアネモネだ。自殺志願者はもう、たった二人だ。
先輩は何も無いように振る舞っている。そしてツバキを追い出したアザレアも何も無いように振る舞っている。
だが、俺は知っている。先輩がときおり寂しそうな顔をして花を眺めていることを。先輩だけじゃない、アジサイだってアザミだって最近はあまり元気が無い。仲間を失った彼らが、通常どおりに振る舞えるはずが無いのだ。
そんな彼らに逆らうように、俺はアザレアを呼びつけていた。先輩がいつも世話をしている花々の咲き乱れる、ティーテーブルとティーセットのある一角だ。ここでは様々な司書たちが言葉を交わしてきた歴史がある、と俺は思っている。
アザレアは程なくしてやってきた。今日は外で仕事があったらしく、普段とは違いかっちりとスーツを着ている。やぁ、と話しかけてくる様はこともなげだ。まるで俺が昔、先輩との接し方について酒を呑み交わしながら相談したときのようだった。
彼は彫刻のような整った笑みを浮かべている。両手に顎を乗せ、それで、と愉しそうに尋ねてくるのだった。
「俺に何か用かな?」
「……あんた、いったいどうやってダリアたちを追い出したんだ?」
俺の言葉に、アザレアは片眉を上げた。ん、と語尾を上げて訊く様に、沸点に至りそうになる。だがそれを必死に押さえつけ、なんてこと無いような顔をした彼を打ち壊すようにして話を続けた。
「ツバキもそうだが、彼奴らが図書館を出たいようにはとても思えなかった。何を話したらいったいああなるんだ? まさか、あんたお得意のその舌先三寸で騙したらああなるのか?」
「おいおい、兄弟、少々殺気立ってんな? 俺が怒られるようなことをした覚えは無いぜ?」
「……怒ってねぇよ、まだ」
「まだってことは怒りたいってことだな。ははは、怖い怖い」
机の下で握りしめた拳に爪が食い込んで痛む。アザレアは赤い目を猫のように細めてクスクスと嗤っていた──まるで俺を嘲笑うみたいに。
俺が言葉を失っていれば、だいたいさ、と彼は口を開いた。
「だいたいさ、なんでお前が怒るんだ? 誰を思って怒っている?」
「俺が怒ることなんて一つしか無いだろ、なぁ? 俺は先輩のためにしか怒らない」
「じゃあなんで怒ってるんだよ。ヒナゲシは困ってないじゃないか」
「困ってないように見えるかもしれないけれど……!」
「お前はアレだな、少々先輩とやらを見くびっているかもしれないな」
「何だと……!」
立ち上がり、アザレアを睨みつける。彼は少しも悪びれない顔で肩を竦めた。く、と喉の奥が鳴る。そこまで熱い怒りがのし上がってきているのだ。
此奴は何も知らない。残されていく者たちが何を考えているのかなんて。だとしたら、俺が分からせてやらないとならない。ふざけた顔を一発殴ってやろうか、そう思ったときだった。
「やめてよ、二人とも!」
声をかけられ、冷水をかけられる。顔を起こせば、そこには背の低い茶髪の女性が立っていた。薄水色の目が泳いでいる──アザレアの妻・サザンカさんだ。おろおろと俺とアザレアを見比べて、手をもじもじと揉んでいる。
上がってきた怒りが冷えて下がっていって、それにならうように着席する。アザレアもアザレアで小さく息を吐くと、悪いね、と淡白に言った。それが俺に向けてのものか、妻に向けてのものかは分からない。
「つい熱くなっちまっただけだよ、俺もキキョウも。な?」
「……たぶん、瑠衣……アザレア君が怒らせるようなことを言っちゃったんだよね、きっと……」
「へぇ、奥さんはよく分かってんだな?」
「ととと、とにかく! アザレア君はきっと皆のために言ってるんだと思うの。前を向けない皆を救うために。だから、」
「──ありがとう、サザンカさん。大丈夫、ここから先は少し静かなところで頭を冷やして話すことにするよ。できるよな、キキョウ?」
下がっていった怒りが冷たく張り詰めている。些細な言葉遣いからでも、アザレアが俺を下に見ていることは分かった。だが、サザンカさんの前で怒るわけにもいかず、俺はしぶしぶ彼の言ったことを飲み込んだ。サザンカさんはほっとしたように胸を撫で下ろし、その場を去っていった。
アザレアは立ち上がり、図書館に戻ろう、と言った。俺もそれについていきながら、ふと、さきほどの会話を思い出す。なんだか縺れているような気がした部分があったからだ。
──ありがとう、サザンカさん。
アザレアは笑顔で彼女の言うことを遮った。あれ以上聞いていれば擁護の言葉がもっと出てきただろう。それなのに、わざわざ奥さんの擁護を邪魔するような真似をなぜしたのか。それを聞きたくて前を見て、ぞわりと背筋が震えた。
彼はもう笑っていなかった。後ろからでも分かるくらい、張り詰めた雰囲気を漂わせていた。一触即発、とはこのことだろう。結局俺は何も言えないまま、彼の案内する目的地へと辿り着いたのだった。
そこは、図書館の中でも一際離れていて、近づくにつれてだんだんと足元が寒くなるような場所だった。本は無限に続けど、人は少なくなっていく。そしてアザレアはあるところで足を止め、こちらへと振り返った。笑顔こそ保っていたが、そこに感情は無いようにも思えた。
「お前に一つ言いたいことがある」
「……ふざけたことを言ったら承知しないからな」
「今の俺がふざけたことを言うと思うか?」
どこか圧のある言い方だった。赤茶の髪の下から赤く切れ長な目がこちらをじっと見つめている。睨んでいたならまだ良いだろう、ただ正視していたのだ。俺は目を合わせていられなくなって逸らしてしまった。
「お前は滞り続けている。ここにいる誰よりも、だ」
「滞り続けている……?」
「お前は何も変わってないんだよ、ここに来たときと。お前はただ盲目的にヒナゲシを愛し、他の全てを排他してきた。まぁ、親交を深めた相手もいただろうが。そんなお前では、この図書館から出ることは叶わない」
「……ッ、それの何がいけないんだよ」
「お前が、お前こそが、一番ヒナゲシの嫌った停滞した人間なんだよ」
アザレアの口角が下がる。ずきり、心臓が痛むようだった。冷たい矢に突き刺され、心臓が凍てついていく。だが、それに対して叫び声を上げたり、怒号を上げたりはできなかった。むしろ、呻き声を上げることくらいしかできなかった。
先輩が、嫌いな、停滞した人間。何も変わっていない。一言で言えば、図星だった。俺はここに来て、何か変わっただろうか? ただ先輩を傷つける者を憎悪し、排他し、アネモネの存在ですら擁護し、彼を崇め奉っていただけだ。そして、先輩のために怒り狂って、シオンを殺そうとして、アザレアを殴ろうとした──
アザレアは目を閉じ、小さく息を吐いた。それから、一冊の本に手を触れる。触れると言ったけれど、どちらかといえば本から彼に吸い込まれたようだった。分厚い本を手に取ると、それを俺に渡してきた。タイトルには、「神城誠」と書かれている──俺の本名だ。
「変わりたいと本気で願うなら、これを読むと良い。だが、無理強いはしない。お前は変わらずここに居続けていい。ただ──もしもお前がそれを読まないのであれば、俺はヒナゲシに同じことをすることはできない」
「……どういう意味だ?」
「ヒナゲシを精神病棟の中から出すことはできない、ということだ」
先輩をここから出すことはできないと、彼はそう言い切った。俺はただ、困惑する。先輩がここから出たいと思っているかも知らないからだ。けれども、これを読まなければ先輩の可能性が一つ潰れる、ということだ。
……俺も俺で、このときに察しておくべきだった。これこそが奴の手口なのだと。いや、そんなことを彼は意図していなかったかもしれない。されど、結果としては俺を煽ることになったのだ。だって俺は、先輩の障害になるようなことはできないからだ。自分のせいだと言われてしまえば、何とでもなってしまうだろう。
冷える手を伸ばし、本を一枚捲った。さすれば、一枚、もう一枚と、次第に捲れていって、記述がいくつもの光景となって襲いかかってきた。
一つ目は、まだ俺が幼かった頃の話だ。俺が愛した妹が、首を吊って死んでいたこと。無理心中に巻き込まれていたこと。俺はそのとき、吠えるように泣くことしかできなかった。啼泣だ。ゆらゆらと揺れている優の足を見ながら、あと少し早ければ、その日部活に出ていなければ、と後悔した。そして何より、両親が憎くて仕方無かった。俺の大切な優を持っていかれたときには、まるで俺の心そのものが持っていかれてしまったようにさえ思えた。その日からきっと、正気なんて無かったんだ。
迫り来るメディアの波を憎悪した。仕方無くと引き取った親戚のことを憎悪した。自分より友人や知人たちを憎悪した。何もかもを憎悪した。俺の幸せを奪う者として。
二つ目は、俺が先輩と暮らし始めた頃の話だ。俺は先輩の上に跨って、彼の髪を引っ張り、首を絞め、泣いていた。先輩は凄艶な笑顔で俺を迎え入れた。だから何度でも殴った。どこに向けて良いのか分からない怒りを、全て彼に降らせた──今じゃ考え付きもしないことだ。
でも、あのとき先輩がいなかったら、俺はきっと自殺していたのだろう。精神科医をやりながら、暴力的な一面を隠していたのだから。次第にどちらかが壊れてそのまま死んでいたかもしれない。そんなぼろぼろの俺を、先輩は愛してくれた。だからこそ、先輩を愛している。
三つ目は、先輩が痩せ細り、髪をめちゃくちゃに切り、死んだ目をしていた頃の話だ。これが「神崎慧」としての最期の姿だ。綺麗な亜麻色の長い髪は園芸用のハサミで切られ、蜂蜜色の目は濁り、艷やかだった唇は青紫色に変わっていた。もうあのときのカリスマ性なんて、どこにも無かった。
どうしてそうなってしまったのか? 嗚呼、思い出すだけで腹が立つ! それなのに、光景は止まること無く俺の頭の中へと入ってくる。
彼は初めて恋をしていた──恋と呼べるかは定かではないけれど。とにかく、誰かを愛していた。しかし、その恋は呆気無く終わる。信頼を裏切られ、愛した人々は去っていき、彼は一人になった。
俺はそのとき、一生涯忘れること無いだろう二つ目の憎悪を植え付けられたのだ。
──誠、僕は死のうと思います。
崇拝していた人の死。それを受け入れられなくて、俺は憎悪を滾らせて彼と心中した。次の人生では、きっと奴を見つけ出して見るも無惨な姿で殺してやると誓って。
その殺意と憎悪が一気に流れ込んできて、俺は思わずふらついた。それでもページが捲れるのは止まらない。流れ込んでくる光景で、塗炭の苦しみが襲ってくる。そこから先は、俺の知らない光景だ。視点が俺から俯瞰したものへと変わっていく。
そこにいたのは、こっ酷く先輩をフり、先輩のいた居場所をめちゃくちゃにして壊した男だった。名前を上げることすら気持ち悪くてできそうにない。あの音節そのものが呪いのようだからだ。あの男は今、別の刑事仲間と仲良くしながら、笑顔で日々を過ごしている。先輩の愛したあの居場所を過去の汚点として、幸せに生きている! 彼奴の頭に、もう先輩の姿は無く──あったとしても、諸悪の根源として認識して──死んだ先輩のことなど忘れて生きているのだ!
そこで光景は終わる。俺は本を手から落として、頭を抱えて蹲った。ヒールの音が近づいてくる、アザレアが寄ってきているのだ。それでも顔を上げることすら叶わなかった。アザレアは足元に転がった本を拾い上げ、自分の小脇に抱えた。
「──駄目か。人間ってやっぱり脆いな」
「……ッ、彼奴は! あのクズ男は、まだ生きてるって言うのかよ!? のうのうと生きて、幸せになってるって……!」
「当然だろう? だって、お前たちは死んだ。そのあとの世界のことを知らなくて当然かもしれないが……ここでのうのうと暮らしているこの時間ごと経過しているようなものなんだぜ?」
「な、なぜそんな大切なことを言わなかった! こんなの、先輩に伝えたら……!」
「だから言っただろ、ヒナゲシをここから出すことはできない、と。この調子だと、お前も無理そうだな」
俺は呆然として立ち上がった。立ちくらみがしたところを、誰かに支えられる。微かなコーヒーの香りがした。振り向けばそこには、アザレアと瓜二つな男性・シオンが立っていた。
アザレアは再び微笑み、やぁ、ダーリン、と言って手をひらひらさせる。シオンは静かな口調で、されど何かを押し込めたような声でこう返した。
「ハニー。君はまた強引に本を読ませたのかい?」
「強引にじゃないさ。キキョウが読む気になったから勝手に読んだだけだよ」
「言ったじゃないか、行き過ぎた暴露療法は精神に以上をきたすって……大丈夫か、キキョウ──」
「……うるせぇ」
俺はシオンを振り切ってなんとか立ち上がる。気が動転している、それは分かってる。だが、それを止めることはできない。俺はそのまま、シオンに掴みかかった。
「どうしたんだ、アリス」
「お前は……お前は、なんでこんな大切なことを言わなかったんだ! あのクソ男がまだ生きているなんて!」
「……それは」
「お前はこの真実を隠し続けて俺たちを飼い殺すつもりだったのか!? 先輩があの事実を知って正気でいられるとでも!?」
突き放した俺の言葉に、シオンは顎に手を当て、しばし悩むような素振りを見せた。まるで何かを言うのを躊躇っているかのようだ。しかし、俺がそれ以上何も言わないと分かったのか、彼は穏やかにこう返答した。
「……アリス。君はヒナゲシを見くびりすぎだ」
──お前はアレだな、少々先輩とやらを見くびっているかもしれないな。
アザレアとシオンの言葉が重なる。彼らの考えていることは一緒だということだ。先輩を招き入れた者も、先輩を──精神病棟からの退院といえばよく聞こえるが──追い出そうとする者も。まさか、一番近くにいる俺が先輩を見誤っているなんて、そんなの。そんなの、あり得ないし、あり得てほしくない。
だとしたら、俺は今まで何をしてきたんだ……?
シオンの手を振り払う。まだまだふらつくが、一人で歩けそうだ。今はもう、頭の中がいっぱいいっぱいだ。後ろから俺を呼び止める声がするけれど、そちらに目を向ける余裕は無い。頭の中をあのとき見た光景がぐるぐると渦巻いて、腹の底が憎悪でぐるぐる痛んで、とにかくこの二人から離れたかった。
……俺には、あまりにも、正論で、目が覚めてしまったから。
◆
先輩のところへ行くことはできなかった。俺は嘘を吐けないし、先輩は嘘を見抜くだろうから、真実を話すことになってしまうだろう。それは俺にはできない。それに、また先輩に抱きしめられて何か言われれば、この目が覚めた感覚は消え、またただの信者に戻ってしまうだろうから。
滞ったまま、何日も生き続けることは簡単だろう。だが、それは先輩が一番嫌う行為だ。だから結論を出す必要がある。でも話す相手なんて誰もいない。強いて挙げられるとしたらアネモネだけれど、きっとアネモネでは前に進む結論は出せないだろう──自殺したその日から滞った先輩そのものなのだから。
一回頭を冷やそうと、キッチンへ向かう。水でも飲もうか──そう考えているとき、ふと、先客と目が合った。焦げ茶のセーターを着ている背の低い女性だ。もちろん、見覚えがある──サザンカさんだ。洗い物をしていたらしい。サザンカさんは水色の目を逸らし、あわあわと辺りを見て、俺に軽く頭を下げた。
「ご、ごめんね! 邪魔だったら退くからね!」
「……いや、大丈夫です。いつもありがとうございます」
「えっと……もしかしてキキョウさん、ちょっと疲れてる……?」
はっとして真顔になってしまう。するとまた、ごめんね、とサザンカさんは言った。
「お節介だったよね、ごめんね」
「まぁ、ちょっと疲れてますよ、はは」
「ええっと……アザレア君とはあのあとちゃんと話せた?」
俺は少しどきっとした。確かに彼女は俺がアザレアと喧嘩していたのを見ていた。だからこういう発言が出るのは当然なのだ。不意を突かれたような気がして、返答に迷う。すると、サザンカさんのほうから口を開いた。
「アザレア君、ちょっと強引だったよね」
「強引……まぁ、そうですね」
「で、でもね、やっぱり本人的には皆に変わってほしいんだと思うの。さっきも同じこと言っちゃったけど……」
「……どうしてそうも変わってほしいと思ってるんですか、あの人」
サザンカさんがきょとんとしてこちらを見つめる。まさか俺から話し出すとは思わなかったのだろう。俺も思っていなかった。アザレアのことを知りたいだなんて思ってなかったはずだからだ。でも発言してみてから思うのは、誰かに「変わってほしい」と願うのは先輩も同じだ。滞ることを良しとせず、常に変わり続けようとする先輩のことが分からなかった。それは、シオンと出会ってからの考えなのかもしれないけれど。
俺の言葉に、しばしサザンカさんは黙り込んだ。しかしそれから重い口を開くようにして話し始めた。
「アザレア君はね、昔は『こうでなくてはいけない』、みたいな自分を持っていたんだ」
「自分で自分を縛り付けていた……みたいな話ですか?」
「そうなの。『榊原瑠衣とはこうでなくてはいけない』、みたいな。そしてそれに則って生きていたんだ。そのために、文字どおり必死で自分を曲げる人で。俺も凄く心配してたんだ。
きっと、今もそうで、直ってないんだね。『アザレアは皆をアネモネ図書館の外へ導かねばならない』みたいなことを思って皆に話しかけてるんだと思う」
サザンカさんの言葉を聞いて頭に浮かんだのは、真剣な顔をして俺に本を渡してきたアザレアの姿だった。そこには喜びや愉しみは無く、まるで動作を淡々とこなすようだった。ふざけてばかりいる彼だったけれど、俺に本を渡したときは確かに真面目だったはずだ。
俺は居た堪れない気分になって、再び口を閉ざした。アザレアのことを馬鹿にしすぎたのかもしれないと、反省している。強引な愉快犯だと思って突っかかったけれど、それは間違いだったのかもしれない、と。そうでもなければ、俺に真実を──あのクズ男が今も幸せそうに生きていると知らせる前に、先輩を脅かして引きこもらせていただろう。彼はちゃんと順番を考えていたのだ。
サザンカさんはそんな俺を気遣ってか、でも別にキキョウさんが悪いわけじゃないよ、と付け足した。そして紅茶を淹れ始めた。机の上には、俺の分とサザンカさんの分が並べられている。
「アザレア君から聞いてたり、俺が見てる限りだと。キキョウさんはとっても優しい人だよ。好きな人に真っ直ぐで、守ってあげたいと思っていて……たとえ自分の存在を拒絶されたとしても、好きな人と一緒に居続けようとする……そんな一途な人だと思ってるの」
自分の存在を拒絶される。きっとそれはアネモネとの一件のことだろう。本当にアザレアがそう言っているのだとすれば──もちろん、サザンカさんの考察は入っているけれど──彼奴は俺のことをちゃんと見ていた、ということになる。ますます敵わない。
そして、目の前の彼女、サザンカさんが俺のことをなぜそこまで擁護するかも気になってしまう。だって、ちゃんと話したのは今回が初めてだ。女性が苦手だから、できる限り避けるようにして生きてきた。だから彼女がどんな姿をしていて、どんな声をしていて、どんなことを考えているかをちゃんと意識することが無かった。ぼんやりとした輪郭の細部が描かれて、一つの絵が完成していくような感覚だった。
「なぜそこまで俺を庇うんです。俺は……図書館に来たときから変わらなくて、ずっと先輩のことしか見てこなかった。ずっと先輩に過保護になることしか考えてなかった……何も、何も変わってなかったんですから。褒められたものじゃないですよ」
「えっと……おれ、俺こそ、アザレア君と過ごすことにかまけて、今まで司書の人たちと喋ってこなかったから。今回も、結局アザレア君を庇うことばっかり言ってるし……一緒だよ、俺と」
「それは……言いようによればそうだろうけど……」
「俺は、アザレア君が傷つくようなことをさえしなければ良いと思ってるよ。アザレア君を守りたい、って思う気持ちに嘘は無いし。でも、過保護になっちゃうともしかしたら傷ついちゃうかもしれないから……匙加減が難しいんだよね」
俺はと胸を突かれる。靄が晴れて、目の前が見えるようだ。
過保護さは、人を傷つける。そしてそれは、匙加減で変えていくもの。庇護欲そのものは悪ではない。
俺は今までどうだっただろうか。自分の庇護欲に踊らされていたのではないだろうか。いや、自分の憎悪に踊らされていたのではないだろうか。憎悪に動かされて、庇護欲という観点で暴走していたのだ。感情と欲望に突き動かされていたのだ。理性という面で常に盲だったのだ……
だとすれば。変わらなくてはならないのは、そこなんじゃないか? もしも変わったとしたら、俺はもう一度歩み始められるのではないか?
サザンカさんは頬を掻き、恥ずかしそうに言う。
「キキョウさんが悩んでいること、別に変なことでも何でもなくて。だから、大丈夫だよ。アザレア君だって分かってるよ」
手元に出されていた紅茶に口をつけた。鼻腔に蜂蜜の香りが広がっていく。冷え切っていた心臓がトク、トク、と再び脈打ち始めたような気がした。
目の前はクリアだ。曇り一つ無い快晴だ。やるべきことは見つかった。
「ありがとうございます、サザンカさん。こんなおじさんのほうが説教されるなんて、恥ずかしいですね」
「せ、せせ、説教だなんて! そんなことしてませんよ! ただ心配してただけで……そ、それに、俺も話してて頭がすっきりした感じがするので! ほんと!」
「……もしここを出ることになっても……残った司書たちの面倒を見てやってください。力になってやってください。お願いします」
「わわわ、頭を下げないでー!」
慌てるサザンカさんの紅茶は少しも減っていない。俺のほうはもうあと一口といったところだ。彼女は紅茶が飲みたくて紅茶を出したのではなかったのだろう──いや、考えすぎだろうか。
一口飲み干して立ち上がり、サザンカさんに軽く会釈をする。彼女は首を縮めるように頭を下げた。
向かうところは一つだ。過去を閲覧して「変わってしまった」俺に、残された時間はもう少ないだろう。だとしたら、最期に先輩に会いたい。そして、伝えたい。
◆
コンコン、と優しくノックすれば、すぐに扉が開いた。扉の向こうから先輩が現れた途端、柑橘の香りがふわりと俺を包み込み、そのまま部屋の中へと引き込まれる。蜂蜜色の瞳を緩く細め、穏やかに微笑む姿は、やはり女神と呼ぶ以外に無いだろう。少なくとも、俺の目線からは。
先輩はすぐに俺が持っている物に気がついた。二冊の分厚い本だ。片方は俺の本で、もう片方には──先輩の名前が、「神崎慧」の文字が書かれている。
「あの……キキョウ? その本は?」
「この本は、俺たちの全てを記録していた本だ。これを通して、過去を閲覧できる」
「……えっと……キキョウ? どうしてそんなことを?」
ヒナゲシ──先輩は当惑している。この言葉を話すべきなのはアザレアであって、俺ではない。事実、俺はアザレアから二人分の本を貰ってきた。彼はへらりと笑っているだけで、俺に何か言うことは無かった。
先輩の目を正視する。彼の梔子色の瞳には、どこか引き込まれるような魅力がある。見つめているだけで顔が熱くなる。彼の目ならば何だって伝え、刷り込むことができるだろう。でも、その水晶体の向こうに俺の言葉が届くかどうかは分からない。
「俺は過去を閲覧した。そして、アネモネ図書館を出ることにした」
「……そうですか。寂しくなりますね」
「先輩。俺の後を追ってくれ」
先輩が目を大きく見開いた。心中のお誘いだ。今度ここで死ぬのは、俺のほうだ。
「この本には真実が載っている。たぶん、先輩は読むだけで悶え苦しむと思う。そして、俺が隣にいたらきっと先輩を庇って変わることを止めさせてしまうかもしれない。だから、読むなら一人で読むんだ。そして、それから周りの人を頼るんだ」
「どうして……どうして、そんなことを? 何があんたを変えたっていうんですか? いや、あんたはもともとこの精神病棟からの退院を擁護していましたっけ、」
「違う。俺はむしろ、先輩を寂しくさせるアザレアとシオンを信用していなかったさ。けど、今はこうして彼奴らと同じ提案をしている」
片方の本を手に持って、先輩に手渡した。先輩はそれをそっと受け取り、タイトルを見下ろした。すぐに開く様子は無い。俺が、一人で読むんだ、と言ったからだろう。
先輩の目に、自分の顔が映る。死体になったときから、ずっと時が止まっている。老いることも無い。だから気がつかなかった──ずっとずっと年が経っていて、その間もあの男が幸せに生きているだなんて。そしてそれに気がついた先輩はきっと絶望するだろう。その絶望はきっと凄まじいものだ。独りでは耐えきれず、引きこもってしまうかもしれない。そのときに隣にいるべきなのかもしれないけれど、シオンが言っていたことを信じるのだとしたら。先輩は、そこから前へと歩むことができるかもしれない──俺にはそんな希望があるのだった。
「先輩。大丈夫だ。俺が必死に守ろうとしなくても、先輩なら前へ進むことができる。過去を克服できるって、アネモネと決着がつけられるって、信じてる」
「……まさか、あんたに先に逝かれるなんて、思ってもみませんでしたよ。せっかく二人になれたのに、また独りになろうとするなんて……」
「俺もそう思う。でも、俺は、」
体を起こす。先輩の体を抱き寄せ、肩に顔を埋めた。彼の腕は柔らかく俺を包み込む。ずっとこうしていたい。永遠に、永遠に。時が経つのも忘れて、永遠にこうしていたい。でも、いつか俺たちはここを出なくてはならない。そのとき、竜宮城にいた俺たちは目を覚まし、辺りがすっかり変わってしまったことに絶望するのだろう。自分が変わっていないことに絶望するのだろう。
だから、独りに逝くのだ。俺が変わるために。
「俺は、変わりたいんだ。先輩も、そう思ってくれると嬉しい」
俺がそう言って体を離した瞬間、ふわり、体が浮くような感覚に襲われた。手先から金色の泡になり始めて、少しずつ消えていくのだ。先輩がぎょっとした顔で俺の手をとる。しかし、その手もすぐに無くなってしまう。俺は、成仏するのはこういう気持ちなのか、と思いながら、それを見つめていた。
消えることが怖くはなかった。不思議とそれを受け入れられた。それより、先輩が息を詰まらせてこちらを見ているほうが俺には苦しかった。
嗚呼、先輩もそんな顔をするんだ。俺がいなくなると知って、寂しがったりできるのか。
最期に言い残したことは無いか、と消えていく思考回路で考えていたけれど、何度考えても、俺にはこの言葉しか思い浮かばなかった。
「寂しがらないで。先輩は先輩で、前に進んでくれ」
体が消えて、きらきらり、金色の粒子になる。
さようなら、先輩。心から愛していました。貴方の人生に、幸あれ。
◆
「誠兄さん! こっちこっち!」
一瞬違うことを考えていた。気がつけば、俺は一人の女性に手を引かれていた。そうだ、今日は「妹」との水族館デートだった。そんなときに考え事だなんて、良くないことだな、と思った。
振り向く彼女はターコイズブルーの瞳を煌めかせている。アクアリウムの水色に当てられて、まるで朝日の差す水面みたいだ。やはり妹は可愛い。つい兄バカが出てしまうのも仕方無いか、と自分に言い聞かせる。
彼女は俺の義理の妹だった。血が繋がってるわけでも、孤児だったわけでもない。遊んでくれる兄が欲しかった彼女と、妹が欲しかった俺の願いが重なっただけだ。彼女にはときどき優のことを重ねて見てしまう節もあるけれど──次第に思い出は明るく色付けされ、見ても苦しくない絵画になるだろう。
苦しみの先にはきっと幸せがある。今ならそう思えるし、あの日唯一の家族を失った俺にそう言ってあげられる。
振り向けば、柑橘の香りがふわりと俺のことを包み込んだ。
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