ツバキは望み咲く

 自殺志願者を捌き終えて静かになった応接間には、冷たい糸が張り詰めていました。ソファに座るのはアザレアで、その向かいに座るのはヒナゲシでした。

 私はその糸に引っかからないようにと、できるだけ気配を消すように壁に寄りかかっていました。一方で、アジサイとシオンはあからさまに話に入りたがっているようで、エメラルドとルビーの目を光らせていました。

 先に口を開いたのはヒナゲシでした。アザレアは組んだ足に手を添え、艶やかに微笑んでいます。

「ダリアはどこへ行ったんですか?」

「彼奴なら『退院』したよ。もうここに戻ってくることは無い」

「彼の望みだったんですか? 無理矢理追い出したのでは?」

「……彼奴は自分の意思で逝ったんやで。アネモネとの確執を克服して、何の未練も無くなって、一歩を踏み出したんや」

 早速アジサイが口を挟みました。ヒナゲシは訝しむような顔でアジサイを見ましたが、小さく息を吐くと、分かりました、と言います。

「アジサイさんの意見なら納得です。彼はもう一度生きるに値する人間になったんですね」

「おやおや? 俺はあんまり信用されてないみたいだな。そもそも、今まで俺が無理矢理終わらせたことなんてあったか? 全部自主性に任せてるよ」

「現世に戻ったあと、幸せな生が確約されてるとは限らない博打を打ってるんですよ、彼らは。唆したんじゃないですか?」

「分かってくれないなァ。シオン、何か擁護してくれよ」

「……アザレアは積極的に過去を見せて回っている。少し強引なんじゃないかい」

「おっと、シオンにまでそう言われてしまうとはな」

 アザレアが首を竦めて笑いました。まるで道化師のようだと、私は思います。ケラケラ笑っているのに、目の奥が笑っていないのですから。

 シオンは腕を組み、壁に背を預けると、アザレアにこう尋ねました。

「他に現世に帰らなくてはいけない人は何人いるんだ?」

「シオンとカトレアさんにはとりあえず元の世界に帰ってもらわないとな。あとはヒナゲシとキキョウ、ハルジオン。ここ三人は正規の司書だからな。

そして最後は、物語を終わらせる役目を果たすために俺が残り、アネモネ図書館での治療対象である三人──アジサイ、アザミ、それにツバキだ」

 びくり、背中が震えます。突然私の名前が出てきたからでした。気配を消していた私のほうに、アザレアは端正な微笑みを向けてきます。

「ツバキ。お前は『次の世界』が幸せに進んでいることを知ってるんじゃないのか?」

「──っ、それは……」

「……知っていたんですか、ツバキさん」

 ヒナゲシの視線がひやり、冷たくなりました。嗚呼、これは彼が嘘を嫌う視線だ。ここで嘘を吐いてしまえば、すぐに見破られてしまうでしょう。そういうところがシオンに似ています。

 アジサイですらも驚きの表情を浮かべているし、シオンも目を見開いてこちらを見ています。視線の逃げ場を失い、私は斜め下に視線を追いやられました。

「……はい、知っています」

「俺とツバキはちゃんとその後の人生が幸せになってる様を見届けてるよ。いや、ミカンも、と言ったほうが良いかな」

「どうしてそんなに大切なことを隠していたんですか?」

 ヒナゲシの質問はおよそ質問ではありませんでした。ここで言う「どうして」は疑問詞ではないからです。私は彼の中に冷ややかな怒りのような感情を読み取りました。

 私が答える代わりに、アザレアが口を開きます。まったく、口数の減らない男です。

「俺たち医者が見たいのは、『幸せになれるかは分からない』という状況での前進だ。キキョウがいたなら賛同してくれただろうな」

「……幸せに精神病棟を出たところで、それからどうするかは本人次第、ってことだよ、ヒナゲシ」

「……シオンが言うなら信じますよ」

「さっきから俺のことは信頼してくれないんだな? ダリアを送ったのはアジサイだって言うのに」

「どうせ唆したんでしょう、アジサイのことを」

 アザレアは不貞腐れるような顔をしてみせますが、私からすればそれもまた嘘の顔です。彼の考えていることは結局読み取れないのです。

 シオンは切れ長の目をさらに細くして、アザレアへと向けました。アザレアはそちらに目をやると、片方の口角を上げて笑います。二人の間で、何か分からないやりとりが行われたのは確かでした。

「ヒナゲシ。アザレアはあえてこんなふうに振舞っているんだ。決まった幸せな未来に一歩歩ませるために、暴露療法をしているんだ」

「確かに有効な手法ではあるけど……」

「それに、君もいつかここを出なくてはならない。君の治療もあと少しで終わるんだ。ここで永遠に停滞した生を送るのは君の信条に反する、違うか?」

「……違わない」

 いつもの語り口調でヒナゲシを納得させ、シオンは胸を撫で下ろしたようでした。

 私にはかける言葉が見つかりませんでした。確かに暴露療法は辛いものがありますが、効くには効きます。しかし、段階を踏むべきところをいきなり最大限の負荷をかけてしまうところは良くないでしょう。

 とはいえ、私は知っています、逝ってしまった彼らが幸せに生きていることを──

 シオンは、一度解散にしよう、と提案しました。ヒナゲシもアザレアも異論は無く、アジサイは発言しませんでした。私もむろん何も言いませんでした。

「今後、アザレアはできるだけ本人の意思を尊重して過去を開示すること。インフォームド・コンセントだ。

ヒナゲシはヒナゲシで──いや、全員が、自分の過去と向き合う覚悟をしておくんだ。過去と向き合い、未練が無くなったとき……君たちの物語は終わり、新たな物語が始まるだろう」

 アザレアは、はいはい、と軽く答えて立ち上がる。真っ先に部屋を出ていったのはアジサイでした。私もその後を追おうとしたのですが、アザレアに止められてしまいました。シオンとヒナゲシはこちらを心配そうに見たあと、部屋を出ていきます。

 今度は私を向かいに座らせ、アザレアが薄く笑いました。そうするとまるで人形のように変わらない顔だなと感じます。その真の意図は何なのか──いくつもの緊張で張りつめたピアノ線に阻まれて、近づくことすらできません。

「ツバキ。お前、ここを出ていきたいんだろう?」

「……なんで急に?」

「物語の行く末が変わるのを見ただろう。登場人物はなべて幸せな世界に行った、違うか?」

「……違いませんでした」

 シオンと話し方が同じだ、と思いました。でも私は知っています、彼が詐欺師めいた話をする人だと。それはシオンも同じなのですが……

 ですから、私も張り詰めた緊張の糸の前で、自らの意図を見抜かれないようにしていたのですが、彼はその隙間を縫って手を出してきました。

「それを見て、羨んだりしたことは無いのか?」

 そして、その手は私の心臓を容赦無く握りしめました。どくどく、心拍数が上がるのをアザレアには気づかれているはずです。

 それでも私は、苦し紛れに声を絞り出しました。

「……私は司書、皆さんの成長を見届けるのが仕事です」

「アジサイみたいなことを言うんだな。幸せになりたいというところは否定しないみたいだし」

「私にとっては、ここで司書たちが離れていくのを見届けるのが義務だと思っているので」

「──何か勘違いしてないか?」

 アザレアはそう言って、一冊の本を取り出した。さほど分厚くなく、短い物語でした。そこには、「【判読不明】椿」と書かれていました。つまりは、私の物語だということです。

 それがあるということは、私もアジサイやアザミのように、治療対象であったということでした。

「お前も逝くんだよ。ここで治療対象じゃないのは、俺とサザンカさんだけだからな」

「……まさか、ミカンが私をここに呼んだのは──!」

「そうだな。お前も過去を克服して幸せを勝ち取るために努力しなければならないってことさ」

 アザレアは本を小脇に抱えると、話はここまでだ、と言って立ち上がります。まだ何かを言おうとしたのだけれど、何も返す言葉がありませんでした。

 それでも、ぶんぶんと頭を振ってアザレアの考えを散らします。私はあくまで、司書。司書たちの成長を見届けるのが仕事なのですから。

 私は再びレファレンスの作業に戻りました。きっと他の司書は自殺志願者と話しているのでしょう。本という人間の物語は無限に増え続けます。私はこの仕事が好きです。私はそもそも、物語から生まれた「キャラクター」なのですから。



 川のせせらぎ、桜吹雪の散る音、穏やかな太陽。隣には、私と同い年で背丈も同じほどの青年でした。

「椿ちゃん。今日も桜は綺麗だねぇ」

 私に話しかけてくるこの人が誰なのかは分かりません。ただ一つ言えるのは、かつて私を愛していたあの「キャラクター」を思い出せることです。

 私はそこで談笑していました。桜が散るのが雪模様みたいだ、と言えば、あの人はクスクスと笑い、良い比喩だね、と言いました。

 比喩に詳しいのは、私が本をたくさん読んでいたからかもしれません。それとも、私がある作家のもとで生きていたから……?

 そんな疑問を抱いたとき、顔の見えないあの人の姿が霞んで、朝日に呑み込まれていきました。



 不思議な夢を見た、と一人本を片付けながら思っていたときのことでした。突然通知が来て、慌ててスマートフォンを取り出します。するとそこにはハルジオンが待機していました。

 ハルジオンからは、クロッカスだった頃の面影は見られません。仕事をサボることも無く、至極真面目そうな顔をしてこちらに話しかけてくるようになりました。

「ツバキ。まだノルマに達してません。本日整理するのは、」

「あぁ、うん、分かってますよ。ありがとうございます」

「何か考え事でも?」

 いきなり踏み込まれて、私は心臓がびくりと跳ねたことを隠すように本棚に向き合いました。

 特に何もありませんよ、と言えば代わりにハルジオンが口を開きます。

「行く先が必ず幸せになるって、本当なんですか」

「……聞いていたんですか」

「ヒナゲシが同行を許してくれました」

「ははは……ヒナゲシには敵いませんね」

 だが、アザレアやハルジオンの見解は間違っています。記憶を消してもう一度やり直すということは、つまり、悪い世界にも良い世界にも染められうるということです。

 だから私は、断言を避けることにした──嗚呼、いつも断言できていませんね。

「私には確かに司書たちの生活が分かりますが、幸せになるかは分かりません」

「……私は検索ベースですから、アネモネ図書館を離れる気は無いんですけど……アヤメは幸せになれましたか?

私は本を検索することはできるけど、閲覧することはできないんです」

 アヤメ。懐かしい名前だでした。彼女がいなくなってどれだけ経ったでしょうか。ハルジオンにとっては唯一の友達だったアヤメの未来を案じているのでしょう。

「……幸せになったんじゃないでしょうか」

「そうですか、なら良いんです」

 続けてハルジオンはボソリとこんなことを呟きました。

「……私にも幸せな世界があるのかな」

 ハルジオンは至って無感情な顔でした。

 それを聞いて、私は罪悪感できゅっと食道を絞られたような感覚に襲われました。冷や汗がだらだらと流れます。

 ハルジオンにも未来は、あります。でも、ハルジオンは自らを図書館の中枢にしているのは確かだ。私もそうじゃなかったか?

 だとすれば、私にできることはただ一つ──まだ救われないでいることだ。司書としての仕事をこなすことだ。

 本を抱え、整理を続ける。無心になって。幸せも不幸と感じないようにと、心に蓋をして。

 気がつけば、ハルジオンは端末からいなくなっていました。



「椿ちゃん、こっちへおいで」

 またあの人の声です。私が元から「組まされていた」人とは似ていませんし、姿形も大きく違います。

 木に寄りかかって座り、彼は楽しそうに物語の構成を語ってくれます。それを聞いているだけで、私は幸せでした。

 元来、私は本や物語が好きなのです。ヒトが作る物語というものが好きなのです。

 もしもこの人のそばにいられたならば、私は幸せに、──?



 寝覚めが悪いのがバレていたのか、ばったり会ったアジサイとミカンに声をかけられました。目の下の隈くらい、今は亡きダリアの部屋からコンシーラーでも借りてこれば良かったのですが。

「元気無いね、ツバキ」

 ミカンはそう言って眉をハの字にしました。アジサイは壁に寄りかかって鼻で笑うと、じろりと緑の目でこちらを見つめます。

「何だ? 悩み事か?」

「……お気になさらず」

「気にするよ。最近寝れてないの?」

「私は大丈夫ですから──」

 何かを言おうとして、手に持った本を落としてしまう。慌てて拾い上げて埃を取っていると、ミカンは一言、図星だね、と言いました。

「アタシが『キャラクター』の心配をするのは当たり前だよ。同時に、アジサイだって同僚なんだから心配してくれてるんだよ」

「心配なんかしてないわ。からかいに来ただけだ」

「……そんなに酷い顔してますか、私」

 ミカンはこくんと頷きました。それから、私を椅子に座らせて、その向かい側に着席しました。アジサイは相変わらず壁に寄りかかっています。

 私はミカンに何かを隠すことはできません。ミカンは私を産んでくれた「作者」だからです。というよりは、隠しても無駄だと言ったほうが良いでしょうか。

 私をここまで憔悴させた理由、それは──度々見る夢でした。相手こそ違えど、私が他の「キャラクター」と話している夢です。それはもう、仲睦まじく。そしてその正体に、私は気がつきつつあります。

「……まさか、それがツバキの望む未来ってこと?」

「そうだと思います。でも……私は監視役ですから。その未来に行くことはできません」

「なに馬鹿なこと言ってんだか。逝きゃ良いじゃねぇか、そんなもん」

 アジサイが口を挟みます。腕を組んでそっぽを向いているようでした。すると、ミカンもそれに同調しました。

「うん、いいよ。アネモネ図書館から退院しても」

「しかし……私が幸せになって良いのでしょうか? 皆を騙し続け、運営側に徹していた私が……」

「ほんとお前馬鹿だな。過去の幸せにしがみついてるから一歩も前に進んでねぇんだよ。お前はいつだって過去のことしか考えてない」

「──ッ! そんなことは……!」

 アジサイは嘲笑うようにそう言いました。私は何も返せず、口ごもってしまいました。

 確かに、司書たちのことを思って残っているつもりでした。それでも、私には忘れられない過去があるのは確かでした。

 夢の中でも、あの幸せな日々を回想します。それが崩れていき、司書たちを診ることになったのも覚えています。私はあのときから時間が止まってしまったように感じていました。

 ミカンは真摯な目でこちらを見つめると、ツバキ、と私の名を呼びました。

「アタシが言ったこと、覚えてる?」

「言ったこと……ですか……?」

「アンタにも幸せになる権利はある。アンタだって知ってるんでしょう、別の世界で生きるという選択肢を」

 それは昔言われたことと一言一句同じでした。そうだ、私はあのときから。あのときから、不思議な夢を見るようになったのです。

 ……私はただ、私を待ってくれている別の世界の彼に会いに行きたいだけなのです。

 母親らしく、父親らしく司書を診るという仮面の向こうにあったのは、醜く人臭いエゴでした。私のささやかな願いでした。

 顔が熱くなっていきます。私の目はきっと今潤んでいることでしょう。ミカンもアジサイも顔色が少し変わったから、それくらいは分かります。

「……ツバキ。覚悟は決まった?」

「……すみません、まだです。まだ、もう少しだけ考えさせてください……」

「ハッ、臆病者だな。そんなに新しい世界に向かうのが怖いのか?」

「違います。アジサイになら分かるでしょう、私の気持ちが……」

 私がついそんなことを口走れば、アジサイの目つきがぎろりと厳しくなりました。ペリドットの目はきつく光り、私を黙らそうと突き刺します。一瞬怯んでしまうほどでした。

「──煩い。さっさと救われて俺の仕事を楽にしろよ」

 アジサイは吐き捨てるように言うと、部屋を出ていってしまいました。取り残されたのはミカンと私だけになってしまいました。

 ミカンは小さく溜め息を吐くと、眉を下げて笑いました。アジサイがごめんね、と言って、身を縮めていた私の緊張を解こうとします。

「アジサイ、最近荒れてるべ? たぶん、ダリアに先に逝かれたのに傷ついてるんだと思う」

「アジサイが……」

「彼は司書たちを見送るって決めたらしいから。自分みたいになってほしくないんじゃないかとアタシは思う」

 そういえば、と行き当たった先、なぜ気がつかなかったのかと後悔する。ミカンの言うとおりだ、アジサイはダリアを見送ったのです。そのあとどうしたのかは──私たちが分かるはずもありません。

 司書として最後まで見送るだなんて、いったいどれくらいかかるのだろう。ヒマワリが逝ってからあと、長い時間が経ちました。あと何度別れを見ることになるのだろう。それでも司書を見送ると考えたのは、アジサイの強すぎる責任感ゆえでしょう。

 ミカンは言います──私にしか彼の責任感を楽にしてやれないと。

「管理者が自分の人生を生きても良いんだって、証明してみせてよ。別に今すぐじゃなくて良いけれど。アザミもアジサイと同じスタンスだろうし、シオンは館長代理だし……」

「……少し、考えさせてください」

 私は結局さきほどと同じ回答をしました。そして席を立ちます。ミカンは頷き、同じように席を離れました。

 私にはもう一人、話を聞きに行きたい人がいたのです。私が最初からずっと見守っていた存在です。もちろん、彼が何を言うかなんて分かりきっていることなのですが。

 自分の気持ちを整理するためにも、私は図書館へと戻っていきました。そして、自分の本を探しに行きました。アザレアのことです、もう私でも読めるようにしているのでしょう。彼は私に狙いを定めていましたから。

 親しみあるインクの香りがします。私は最初、そこから生まれてきました。だから本の集まりはとても心地の良い場所でした。その静かな空間で、もう一度過去に向き合ってみたくなったのです。

 不思議な予感がしていました──私が自分の短い人生を読み終わったとき、きっと彼は姿を現すのでしょう。



「どうだい、椿ちゃん。こっちに来る気になったかい?」

 川のせせらぎが聞こえます。冷たい風が私の手を冷やしますが、そんな私の手を彼が包んでくれています。目線を上げれば、桃色のツバキの花が緑の中でぽつぽつと咲いていました。

 それが夢だと分かっていました。私の隣に座っている人は、私が見た過去とは違う人物ですから。

「そちらに逝けば、私は幸せになれますか?」

「あたしができることなら何だってするさ」

「もう別れることはありませんか?」

「そりゃ分からないけれど……あたしゃ椿ちゃんに添い遂げる自信があるよ」

「私は……幸せになっても良いですか?」

 顔の見えない青年が、私に微笑んだような気がしました。

 答えを聞くより先に、夢から覚めました。ソファをベッドにして眠っていたようです。机の上には私の名前が書かれた本と、湯気の立つティーカップが置いてありました。

 体を起こせば、そこには丁子色の髪をした青年が座っていました。赤い目はとても穏やかでした。隠れた片目もまた、笑みを浮かべています。彫刻のような顔で微笑み、私の名前を呼びました。

「ツバキ。意志は決まったかい?」

「シオン……ふふ、寝てしまってたみたいですね、私」

 シオンは私の言葉には答えませんでした。白く節だった手を組み、私の答えを待っているようです。その手がほんの少し震えていたように見えたのは、気のせいでしょうか。

「決めかねているので、あなたに相談したかったところなのです」

「そうか。自分の過去は見た?」

「見ましたよ。短い生ながら楽しそうに生きていましたね」

「……君は何者なんだい?」

 紅茶を一飲みしてから、小さく息を吐きます。シオンは私の正体が「キャラクター」であることしか知りません。どんな「キャラクター」であったかなんて、話したこともありません。

 私は私の過去を振り返るためにも、話を始めました。

「私は元々誰かとの交流のために作られた『キャラクター』でした。私は思います──それって、お見合いみたいじゃありませんか?」

「違わない」

「私と彼は仲睦まじく過ごしました。日々を楽しく過ごしていました。けれど……結婚には至らなかったんです。もちろん比喩ですよ?」

 私は思わず失笑します。笑うところではなかったのに。自虐だからこそ、笑うしか無かったのかもしれません。過去を笑い飛ばせるほど強くはないのだけれど、過去を思って泣くほど有情でもありませんでした。

「お見合いは破談、私と彼はお別れをしました。それから、私はこの図書館に監視役としてやってきたのです。最初はそう、他でもないあなたを見守るために」

「……君はずっと、過去を抱えて生きてきたのか」

「はい、ずっと。アネモネ図書館に記憶を捧げてなんていません。なので、アザレアの言うとおりです。もう過去を克服して前に進まなくてはいけない段階でした。ずっと、ずっと前からね」

 シオンは紅茶を啜ると、ティーカップをソーサーに静かに置いて、水面を見つめていました。相手をじっと見つめ、自分の論理展開に持っていく彼にしては珍しい動作であるように思えます。

「君は。君は、もう意志を決めたのかい」

 再び同じ問いが投げかけられます。私は意志を決めたのか。アジサイと同じようにここに残るのか、呼びかけられているほうへと逝くのか。全てを忘れて、自分のための生を歩むのか。

 私は顔を上げ、シオンに問いかけました。

「シオンは。私は幸せになっていいと思いますか?」

「愚問だ。人はなべて幸せになる権利がある。自分の人生を生きる権利があるんだよ。誰かがそれを許さないのなら、オレが許そう」

「そう言ってくれると思っていました」

 シオンは顔を起こし、私を正視しました。薄く浮かべた笑み、細められた仄かに光る赤い瞳。アザレアとは違う、正気で静かな漣のような視線。

 私はこんな彼に惹かれて、彼に従っていたのかもしれません。

「館長代理が許してくれるのなら、逝きましょう。私だって、幸せになって良いんですよね。このあとをあなたたちに任せても良いんですよね」

「任せてくれたまえ。この図書館は、自分の人生を生きられなかった人へ向けて建てられたのだから」

「それでは。私をどうか、現世うつしよへ送ってください」

 シオンは震えていた手を解いて、私の本の上に置きました。すると、私の体が金の泡になってぷかぷかと浮かび始めました。仄かに心が温かくて、まるで春が来たみたいです。だとしたら、私はもう、落ちなくてはいけません。私の幕は、下ろされなければいけません。

 私はただ、彼を見据えていました。彼がほんの少しだけ美しい笑みを歪めたのを、見ていました。

「……どうか、幸せな生を。天ノ河、椿──」

 はい、と答えたときには、もう私の幕は下りていました。



「やぁ、椿ちゃん」

 嗚呼、待ちわびました、私の主様あるじさま。ずっとここで待っていたのですよ。

 私が立ち上がれば、彼は私の元へ寄ってきて私の体を大切そうに抱きしめました。冷えた体が温まります。とくとくと、心臓の音が聞こえます。

「椿ちゃんはいつも冬みたいに冷たいね」

「あなたが温めてくだされば良いのです」

 上手いこと言うね、と言う彼に、私は、クス、と笑ってしまいます。上手かったでしょうか? でも、彼が喜んでくれるのなら良かった。

 私たちは若い恋人がそうするように、手を繋ぎます。もう若くはないけれど、互いの熱を求め合わない理由なんて無いでしょう? 恋を育まないではいられないでしょう?

 いつか別れる仲だとしても、そんな危うい関係だと分かっていても、今度は自分の意思で彼といることを決めたのです。それはとても幸せなことだとは思いませんか?

 ……あれ、でも、どうしてもう一度こんなに期待できるのかしら?

「さぁ、椿ちゃん。行こうか」

 胸が高鳴っているのだって、足取りが軽いのだって、きっと期待しているからです。恐れていても足を進められるのは、期待しているからです。誰かが背中を押してくれたような、そんな気がしたのですが、誰だったのでしょうか?

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