ダリアは枯れない
「で、話って何だ」
「アジサイ。お前に頼みたいことがある」
そう言うアザレアは眉を下げ、申し訳無さそうな顔をしている。
アザレアは空っぽのティーカップに紅茶を注ぎ入れる。それから角砂糖を三つも入れて、スプーンで掻き混ぜ始めた。それから俺の顔を見やり、あぁ、淹れ忘れてたな、と言って同様に注ぎ入れ、角砂糖を三つ溶かした。
「……そんなに要らないんだけど?」
「アジサイ。お前には糖分が足りてないと思うぜ、俺は」
「本題を話せ」
アザレアは肩を竦め、怖い怖い、と呟いた。俺がさぞかし怖い顔をしていたんだろう。
ふと、視線がアザレアの膝元に移る。彼の座る隣には、一冊の分厚い本が置かれていた。その瞬間、俺は此奴が何を頼みに来たのかが分かってしまった。
「……誰かの退去の促しか」
「おっと、俺はまだ何も言ってない。退去なんてそんな横暴なことはしないさ。『退院』のお勧めだよ」
思わず舌打ちをする。言葉のあやだ、そんなの。アザレアが人の良さそうな笑顔を浮かべているのがなお腹立たしい。
『The Library of Anemone』という物語からの退去。アネモネ図書館という精神病棟からの退院。これがアザレアが全司書に目標として掲げているものだ。過去を取り戻し、その上で新たな生への一歩を進める──そういえば聞こえは良いだろうか。
だが、アザレアのやり方は少々強引だ。記憶を思い出させることで発狂した司書もいる。これも良く言えば試練を与えて乗り越えさせている、といったところか。
「それで、今は俺が面倒を見てるけど……一番彼奴に近いのはお前だからさ。お前に頼みたいんだ、ダリアのこと」
「──ッ!」
息を呑む。ついにダリアにまで手を伸ばしてきたか。しかも、今のダリアに、だ。
アネモネという「救われない人間」と相対しているうちに、彼は狂い始めてしまった。今までの彼だったら有り得ないことだろう。彼奴が他人にそこまで入れ込むことは無いだろうから。
「救ってあげたい」などというエゴを勝手に抱えて、それを真っ向から否定されて凹んでる──それだけ言えば、ダリアが一方的に悪いようにも見える。だが、そう思わせるアネモネにも問題があるとは思えないだろうか?
「今のダリアは興味深い変化をしてると思わないか? 横暴に振舞ってきたのに、今じゃセンパイに受け入れられたいからといってアネモネに縋ってるんだ。そして何より──センパイを殺したくない、なんて言ってる」
アザレアの目が奥でぎらりと光る。口元には笑みが浮かんでいる。この笑みは意図していないものだろう。
「今こそが進化のタイミングだ! 社会不適合者が愛を知って、適合者として生きていく! 物語の終わりには相応しいじゃないか!」
「……駄目だ。全然駄目だ。今のダリアに、前を向いて歩く余力は無い」
「そこでお前に頼んでるんだよ。お前だってダリアが前を向いて歩けるように──普通の人間として生きていけるようにしたいはずだ。彼奴に発破をかけて、あの病んでる状態から目を覚まさせてほしい」
ク、と喉が鳴った。少しアネモネ図書館を離れてる隙に、ダリアが両腕を包帯でぐるぐる巻きにするほど病んでいることは聞いている。俺がいれば、そんなことにならなかったかもしれない──いや、そんな考えは傲慢だ。
アザレアの言うとおり、俺はダリアが成長することに期待している。今の生きがいと言っても良い。あの傍若無人だったダリアが、ここまで他人に動かされ、他人を思うようになるなんて。そして俺を変えようとするなんて。見ていて飽きない存在だ、彼奴は。
俺が答えに困っていると、アザレアが鼻を鳴らして笑った。背もたれに背を預け、足を組んで愉快そうに微笑む。相変わらずブラッディレッドの瞳はぎらついていた。
「──お前、さてはダリアを失うのが惜しいな?」
「……あ?」
「そういうことじゃないのか、俺の提案を呑んでくれないのは? お前だって最初はこの精神病棟を馬鹿にしてたじゃないか。だったらこんな精神病棟、壊しちまったほうが良い!」
「壊す? 阿呆臭いわ。そんなことしなくてもこの図書館は必要無くなる。
ダリアに発破をかける、か? やってやろうじゃねぇか。彼奴に最後のスパイスをかけてやる」
「そして美味しく召し上がるんだ。それがお前の望みだっただろ?」
そう言って、アザレアは俺に本を差し出した。本当に分厚い本だ、そこには三十年分の人生が描かれているのだろう。それを読めば、彼が忘却した記憶も手に取るように分かる。
奴が忘れたのは、自身が起こした連続殺人事件の記憶だ。今の奴にとって、この記憶は「どうやら自分がこれを起こしたらしい」というものでしかない。そこに彼が焦がれた快楽が詰まっている。もしもこの記憶を解放したのなら──再び殺人鬼として蘇り、殺人の快楽に酔いしれ、また破滅してしまうだろう。
俺はその本を握りしめると、ばっ、と立ち上がり、踵を返した。アザレアは座ったまま、そうだ、と口を開いた。
「お前もアネモネ図書館を離れる準備をしておいたら良いさ。そんなに寂しきゃ、一緒に逝っちまいな」
「……余計なお世話だ」
振り向くこと無く、ダリアの部屋へと一直線に向かう。もう片方の手で胸に手を当て、大きく深呼吸をした。いつもどおりやれば良いだけだ。いつもどおり、彼を焚き付けて調子に乗せてやるだけだ。
そう思って、ドアノブを握ったところで、ガチャリ、と音がした。ドアノブが回った音ではなかった。一度躊躇ったが、今度こそドアノブを回す。すると、中から乾いた笑い声が聞こえてきた。
薄暗い部屋の中、銀色の鎖がぎらんと光った──手錠だ。それは彼の真っ白な両手を拘束していた。いや、肌が白いのではない。包帯が白いのだ。彼は顔を起こすと、ひひ、と嗤った。
「久しぶり、アジサイ!」
「……ダリア」
電気を点ければ、その姿が顕になる。声色だけは元気だった。目の下には隈が刻まれ、笑みは窶れている。俺はそんなダリアを見て、きゅっ、と胸が痛くなるような感覚に襲われた。
嗚呼、なんだ、この痛みは。目を逸らして、元気か、と尋ねれば、ダリアは明るい声で答えた。
「元気だよ?」
「……どう見ても元気ちゃうやん。見てて痛々しいわ」
「あはっ! アジサイ、この手錠、外してくれない? もう何日もこんな感じなんだよね。アザレアがさァ、彼奴が過保護だからさァ。酷いと思わない?」
アザレアが手錠を掛けたのか──それも当然だ。机へと目線をやれば、もう錆びてしまったカッターナイフが置きっぱなしになっている。リストカットをしないよう試みたものなのだろう、アザレアとてダリアを適当に扱っているわけではなさそうだ。
俺はどうしたら良いか分からないまま、ダリアと向き合わないように椅子に座った。そうすると、ダリアが少し震える声で──それでも明るい声で、嗤った。
「……やめてよ、アジサイ。お前まで俺を哀れむの?」
はっ、として顔を上げる。ダリアは眉を下げ、困ったような顔をしていた。俺はすかさず笑顔を作って、はは、と声を出す。これではダリアと同じ、乾いた笑い声だと思いながら。
「はは、どしたん、誰に哀れまれとんの?」
「……アザレアもそう、アネモネもそう……俺がこんなになってるの、哀れんでるんだよ。他人事かよって感じだ。俺、そんなに可哀想?」
「可哀想やで? そないに自分のこと傷つけて、誰に縋っとるん? それじゃお前さんが嫌いなメンヘラどもと一緒やで?」
「そうかも」
ダリアはそう静かに言って、目線を手元へと落とした。ますます胸が痛む。
なんでそんなに素直なんだ。もっと怒れ、喚け、こんなに刺してるんだから、痛いと言え、動け、動け! こんなんじゃァ、痛いのは俺のほうじゃないか!苛立ちと何かが混ざった感情で、歯を食いしばる。
俺に何ができる? 考えろ、考えろ。停滞する此奴に何をしてやれる? どんな手段でも良い、アザレアに出し抜かれなければ。
思考の海に潜り、手段を探す。辺りは真っ暗だ。潜れば潜るほど、焦りが先走っていく。そして手を伸ばした先、こつん、とぶつかったのは。
アザレアに出し抜かれた証だった。
「──ダリア。お前さん、ヒナゲシを殺したいんやったっけ?」
「……なに、急に?」
「叶えたるよ、その夢。というか、今からそうしたくなる」
俺はそう言って、アザレアから受け取った本を開いた。すると、自然とページが捲られだし、パラパラと音を立てる。辺りの風景は一瞬にして変わって、そこはビルの屋上になっていた。
座り込んだダリアが、自分自身の後ろ姿を見ていた。過去の自分自身は、夜風に髪を靡かせ、不敵に笑っていた。
俺はそこに干渉することはできない。ただ眺めているだけだ。全てに絶望し、殺害の快楽に酔いしれた殺人鬼が迫ってくるのを止めることはできない。
「何見てるんですかァ?」
殺人鬼はそう言ってにやりと嫌な笑みを浮かべた。ダリアが光の無い黒い瞳を見開き、彼を見上げる。殺人鬼は、がっ、と彼の頬に手を当てて自分の顔を近づけると、奥で殺気立った目で言った。
「絶望したセンパイを殺せ。それが約束だったはずですよ?」
そこでビジョンが途絶え、霧となる。ダリアはぐたりとベッドに横になり、呆然と遠くを眺めていた。
さぁ、どうするんだ。そのまま俺に切りかかるのか。センパイ目掛けて走り出すのか。俺に見せてみろ。
そう思っていたのに、ダリアは予想と裏腹に、微動だにしなかった。
「……ダリア、お前、どうしたん、そんな虚ろな顔して」
「あはは……俺……分かんなくなっちゃった……」
「分かんない?」
「分かんない……分かんないよアジサイ……俺、どうしたいんだろう……」
ぼろり、大粒の涙がこぼれ出して、ベッドを濡らし始めた。彼の思考は今、動き出した。ぐるぐると、渦を巻いて、闇へと。
……心臓に槍が刺さったような心地だった。
自分の手を見つめる。この手でダリアを抱きしめたくなった。
──何も考えなくていい。
そう言いたくなった。
でも、それはできない。それでは、停滞を招いてしまう。ダリアのためになることをしなくてはならない。そのためには、鬼になる必要があって……
そんなことを考えているのを悟られないように、いつも王子様のように振舞っているように、俺はダリアに嘲笑した。
「アネモネと決着つけてきたらどうなん? 彼奴もヒナゲシの一部やんか。彼奴のこと殺してくればえぇやん。人生に絶望して拘泥してる馬鹿を殺すのが趣味なんやろ?」
「……俺は……俺は、センパイを……」
「ほら、殺したかったんやろ? 殺しに行こうや、ダリア。それがかつてのお前さんの望みやってんな?」
選択を狭めるため、あえて意図と逆のことを言う。彼が、違う、と言ったとき、その話法は正しかったと証明された。
ここでもう一度ダリアが人を殺せば、また死ぬ前に逆戻りだ。アネモネ図書館から出ることはできない。それはそれで良いかもしれない、と言えたのなら、彼は俺と対等になれたかもしれない。
いや、無理だったんだ。俺は元より、「キャラクター」で、ダリアが前に進む様が見たくて。だったら、笑顔で見送るしか無いのだから。
「俺、もう、誰も殺せないよ。俺を愛してくれたセンパイのことも、アジサイのことも……だって殺したらそこで終わりじゃん。一瞬の快楽と、持続する安心感だったら、俺は後者を選ぶよ」
「へぇ? 牙の抜けた答えやんなぁ。大の殺人鬼様が」
「アジサイ、それわざとやってるんでしょ」
ぴくり、とまぶたが震える。
ダリアは黒真珠の目でじっと俺のことを見つめていた。そこには不安定さは無く、突き刺すような意思があった、ように感じた。
「アジサイさ、俺がダメになったときは尻蹴っ飛ばしてくれるって言ってたでしょ? だからカンフル剤を打ってくれてんだよね」
「……ダリア」
「ありがと、アジサイ。俺、アネモネんとこ行って文句つけてくる。
……だって、俺は本来、こんなに弱くないから」
ダリアはそう言うと、すっ、と手錠のかけられていた手を差し出した。外してくれ、という意味らしい。俺は机をひっくり返して探し回り、一本の鍵を見つけた。小さな鍵だ。アザレアが「わざと」残していったのだろう。
手錠を外すと、ダリアは大きく伸びをした。包帯を剥がしていけば、赤い線が無数に引かれて痛々しい。そんな線を隠すように長袖に着替えると、ダリアは、行ってくるね、と言った──
「……いや、俺もついてくわ」
どうしてそんな言葉が口から出たか分からなかった。
ダリアがこちらに視線を向ける。少し黙ったあと、いいよ、と彼は口にした。
奇妙極まりない脈打つ情動が、俺を不安定にしている。ただ目の前でダリアの進化を見たいだけなのか? 自分に問いかけても、まだ返事は無かった。
◆
アネモネの部屋に入るには、主治医たるキキョウから許可を取る必要があった。キキョウはもちろん、ダリアに対して反対の意見を言った。
「あんたみたいな不安定な奴と、先輩みたいな不安定な奴を会わせるわけにはいかない」
「へぇ、さすが精神科医! 言うことが違いますねェ」
「……俺もついとるよ、キキョウ。いざとなったら俺が止める」
ダリアの皮肉に被せるようにして、さっき考えた理屈を付け足す。キキョウは盛大に溜め息を吐くと、扉を開けてくれた。
「アジサイ。先輩に手ェ出したら許さねぇからな」
「分かっとるよォ。外で待機していてくれてもえぇで?」
「そうさせてもらう」
キキョウが門番になったところで、ダリアはドアノブを捻る。見れば、生暖かい部屋の中で眠り姫のようにしてアネモネが眠っていた。顔は青白く、唇は紫色。目の下はいくら寝ても隈が消えない。布団から垂れた手は白く細くなっていた。
俺たちがやってきたのに気がつくと、アネモネは薄らと目を開き、ぎろり、とこちらを赤い目で睨みつけた。虹彩は狭く、昼間の猫のようだった。
「何の用だ」
「センパイ。アンタとの因縁を晴らしにきたんです」
「因縁? 馬鹿馬鹿しい。あんたが勝手に作ってるだけだろ、それ」
「何でもいい。僕はもうセンパイに惑わされない」
アネモネは首を傾げた。いったい何を言ってるんだ、とでも言いたげだ。
それもそうだろう、アネモネにとっては全ての司書がどうでも良いのだ。どんな相手が来たって変わらない、それが拘泥するということだ。自ら絶望に浸り、救いなど求めず、そのぬるま湯に浸っているということだ。
「僕はアンタを殺さない」
「何を言ってるんだ? 殺してくれて構わないよ、もうこんな生要らないからな。どうでも良いよ、そこは」
「僕にとっては大切なことなんです。絶望しきった人を殺さないってことは」
アネモネが目を細める。彫刻のような顔が鬱陶しげに歪んだ。
「それもまたどうでも良いな」
「そして、僕はアンタが救われることを願っている」
「……は?」
「……僕はアンタに拒絶されてる。だったらもう、それで良い。僕もアンタを拒絶する」
ダリアが言い切れば、アネモネが目を見開いた。機械を名乗るわりに、人間らしい表情だった。
アネモネは額に手を当てると、はは、と乾いた笑い声を上げた。白く細い手の向こう側から、真っ赤な目がダリアを射抜かんばかりに見つめていた。
「じゃあ、殺すか?」
「殺さないって言ったでしょう。救われることを『願っている』と言ったでしょう。
咲かない花に水をやる義理は無いッ! 僕は僕だ! 誰かのために生きるなんて、誰かを救済したいがために生きるなんて、僕の生き方じゃない!」
……ぞくり。背筋が震える。
ぎらつく黒い瞳の奥で生が、希望が、眩しい眩しい何かが煌めいた。それはきっと、記憶を失う前から持っていたものだ。ずっと欠点としてしか表現されてこなかった、他者への無関心さだ。
だが、今はどうだろうか。不幸の虜になっていたダリアは、その鎖を引きちぎった。彼の頭の中に、「絶望しきったセンパイを殺す」という選択肢はあったのに、それを拒絶したのだ!
体がうち震える。ぞくぞくする。嗚呼、この感覚こそ、ダリアに求めていたものだ。目覚しい進化、顕著な進歩! 過去に抱えた不適応な感情を解決していく様だ!
俺が興奮を隠すように口元を押さえていると、アネモネが一瞬こちらを見た。だがすぐに視線をダリアに移し、優しくも冷たい目で見つめた。
「……あんたに拒絶されることなんてどうでも良い。だがヒナゲシは? 彼奴のことは殺さないのか?」
「センパイは僕を受け入れてくれました。そして何より、生きようとしています。僕はあの人といると幸せになれるんです。だから、殺さない。
でもアンタはどうだ? その不幸で僕を絞め殺そうとした!」
しばらく沈黙してから、ククク、と喉を鳴らしてアネモネが笑い出した。ダリアが顔を顰める。俺ももちろんそちら側へと目を向けた。
アネモネは嗤っていた。俺がヒナゲシと話しているときに見たことがあるような、悪どい笑みだ。
「そうかそうか。あんたも僕を否定するんだな。ヒナゲシがしたように。
だが、僕もヒナゲシだぞ? 彼奴から生まれたのが……いや、むしろ彼奴の本性こそ僕だ。誰を否定したのか、分かってんだろうなァ?」
「もしもセンパイがそんなふうに落ちぶれてるんだとしたら……大切だからこそ、僕はこう言って尻を蹴っ飛ばしますね」
ダリアがちらりとこちらを見た。それから片眉を上げ、甘くも鋭さを込めた笑顔を浮かべた。きっと、バニラアイスに苦い苦いカラメルが入ったような味だ。あの笑顔を見るだけで、俺には分かった──統合しつつある。過去の彼と、今の彼が。
「『停滞してんじゃねェ。前を見ろ』ってなァ!」
アネモネは眉間に皺を寄せ、不快そうな顔へと戻った。それから布団を被り、背を向けて大きな溜め息を吐いた。そして、布団の擦れる音に混ざるような、くぐもった声で呟いた。
「……勝手にしろ」
ダリアは、あはっ、と明るく笑い、こちらへと振り向いた。傷だらけの両腕を後ろに隠し、窶れつつも元気の戻った笑顔だった。
「これでお望みどおり?」
「……最高だよ、お前」
「アジサイさ、ちょっと外出ない?」
唐突な誘いに、俺は少し狼狽えてしまう。なんとなく胸がざわついたからだ。どうせタバコを吸いに行く程度のことだろう──そう思ったし、そう言い聞かせた。
ダリアは足軽に先を行く。俺はそんな後ろ姿を、少し重たい足で追いかけた。
◆
外に出れば、雲一つ無い絶好の満月が浮かんでいた。ダリアは大きく伸びをすると、綺麗ですねェ、とうっとりと言った。
俺からすれば、月がどんな形をしていようとどうでも良い。だが確かに今日の月は綺麗だった。星々もはっきりと見えて、アネモネ図書館という場所がいかほどに夜空を楽しく過ごせる場所なのか知ることになる。
ダリアは胸元に差したガラムを一本取り出すと、ライターで火を点けて口に運んだ。ニコチンやタールの混じったタバコらしい臭いがこちらにも漂ってくる。ダリアは、副流煙は良くないよ、などと他人事を言うのだった。
「それで? どうしたん、外になんか出てきて」
「いやー、ね? 俺、満足しちゃったからさ。タバコでも吸って、終わりにしようかと」
「……終わりに、って、何を」
ドスの効いた声が出てしまった。肝と喉がびくびく震えていて、上手く調声できなかったのだ。ダリアは振り返り、薄く笑った。
言葉の続きを聞くのが怖かった。怖かった、のだ。なぜ? いや、なぜなのかは知っている。知っているくせに心に蓋をしているだけだ。心の井戸の中には黒いヘドロのような感情があるからだ。水位が上がってきているのを感じる。
ダリアは、あはっ、と明るく笑い、タバコを口から離した。彼はこちらを見ず、満月を眺めていた。
「セイシンビョウトウとやらのリハビリテーションだよ。俺はもう、変わったんだ」
「……お前さん、アネモネ図書館を出るつもりなん?」
「うん。もう未練無くなっちゃったんだよね。
俺じゃなくなっても、俺は俺として生きられる、って確信がある。殺人なんかしなくたって、俺は許されて生きられる、って」
喉がひくついて声が不安定になる。俺が言葉を見つけられずにいると、ダリアがこちらを向いた。
逆光の中、不敵に笑っている。黒い三白眼は奥底でぎらりと、生を灯して光る。体こそ細くて、腕こそ傷だらけだが、彼は正しく此岸にいるべき人間だった。
人を殺したくない。殺人鬼は愛を学び、プライドを学び、戴冠した。自らのフェチズムを抑えることができるようになった。
であれば、俺がしなくてはいけないのは、彼を此岸に送ることだ。
ダリアは再びタバコを口に咥えて、ダストグレーの煙を吐く。その煙は空へと真っ直ぐ上がっていった。
俺が話さなかったので、ダリアが不意に口を開いた。
「アジサイもおいでよ、こっち。もう未練、無いんでしょ」
どくり。心臓が強く血液を押し出して、その音でさえ自覚できてしまった。
繋ぐように、俺は、と口を開く。俺は、俺は。俺は、確かに未練なんてもう無い。進化し続ける人間たちを見て、それを支えることで自分の存在意義を見出していた。
何より、俺はダリアと出会った。初めての対等な友人だ。俺たちは落ちぶれたとき、お互いがお互いのことを引き上げると約束した仲だ。
……でも、駄目なんだ。
俺がそう言うと、ダリアは、そうですか、と淡白に言って、タバコを灰皿に押しつけた。
「ま、でも現世に戻ったところでアジサイと出会えるか分からないけどね。センパイとすら出会えるか分かんないし」
「……せやんな」
「アジサイと一緒に現世に行けば、ちょっとでも可能性があるかと思ってたんだけど、ダメなら仕方無いね」
「──俺にはまだ、やることがある」
そう、俺にはまだやるべきことがある。アネモネ図書館の患者ではなく、運営側の俺は、まだこの退院手続きを進めなくてはならない。少なくなってきたとはいえ、退院すべき司書はまだ残っている。
こんなことを言えば、ダリアは、なるほどねェ、と軽く淡白にそう返した。
「アジサイはなんだかんだアネモネ図書館に愛着とかあるんだね」
「……無いさ。ただ、責任があんねん」
「えらいねェ、アジサイは。
アジサイもさ、もし現世に帰ることがあったら……その先で俺を探してほしいな。きっとアジサイは俺の助けになるから」
そう言うと、ダリアの体が金色の泡に包まれ始めた。ぷくぷく、パチパチ。弾けるようにして光が広がっている。これは知っている、未練が無くなり、過去を閲覧した者の末路なのだと。
「あはっ、消えちゃうんだ、俺? このまま死ぬわけじゃないけど、まぁ、このまま死んじゃっても良いかな」
「……ダリア」
「じゃあね、アジサイ。アンタとヤり合うの、超興奮したよ。それと……落ちぶれてた俺を元気づけてくれてありがとね。
……センパイに、よろしく伝えといて」
「──ッ、ダリア!」
心の井戸が氾濫する。黒くヘドロのような液体が溢れ出す。そのまま言葉を放とうとしたところで、ダリアは指の先から頭の先まで金の粒子になって消えてしまった。
手を伸ばしても、そこには誰もいない。あるのは沈黙だけだ。
涼しい夜風に、綺麗な満月。満遍なくダイヤモンドを散らした夜空。その綺麗な世界が、かえって俺を孤独にさせていた。
俺が途方に暮れていると、後ろから拍手が聞こえてきた。草を踏みしめる音は軽く、拍手の音は乾いている。俺が振り向けば、そこに立っていたのはアザレアだった。
「おめでとう、アジサイ! お前の親友は再び人生という旅路に出た。感謝するよ。さて、お前はこれからどうする?」
「……俺にはまだやるべきことがある」
「追わなくて良かったのか? それでも俺は一向に構わないんだけど──」
「煩い。黙れ。俺はもう戻る」
アザレアと逆方向に大股で歩き出した。彼が俺を追ってくることは無かった。振り向かなくても、あの左右均等な顔をほんの少し笑みに歪めているだけだというのは分かっている。
歩けば歩くほど、あまりに綺麗な花畑に迷い込んで、どろどろのヘドロ塗れの俺は寂しくなった。苦しくなった。辛くなった。頽れた。喉が締まった。
花畑が膝をついた俺と、俺の泣き声を隠し、静かにそよぐ。夜が更ける。朝が来ればまた、人がやってくる。せめてそれまでは。それまでは、この醜い感情を隠しておきたかった。
◆
「昴くんは皆のブレーンやから」
「あはっ、とんでもないです!」
隣で背の高いスーツの男が肩を叩く。同じ刑事の、同じチームのチーフだ。すると、後ろから男女の声が聞こえてくる。口を揃え、敬礼する。
「おはようございます」
「おはようございます、今日も労働頑張りましょうね!」
「昴くんはえらいなぁ……」
にこり、バニラの笑みで答える。笑顔と謙虚さは生きていく上で必要不可欠だ。
相手が何を考えているか、人間が何を考えているかは分からない。このチームに属するまでは、知りたいとも思わなかった。けれどもこのチームが僕を変えてくれた。
もうこれ以上誰も殺さない。このチームを、守るために。たとえこの手が血で汚れていたとしても──
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