リンドウとコスモスは咲き合う

 私にはとてもとても嫌いな女がいます。その女はいつも可愛こぶって、ワァワァ泣いたりキィキィ怒ったりして周りをコントロールします。それでも愛されているのが不思議なくらい、見た目以上に幼くて痛々しい女でした。

 其奴が近づくたび、虫唾が走るような思いになります。ほら、今だって、持てもしない量の本を持ってふらふらと歩きながら、隣のツバキさんに泣き言を言っているではないですか。

 私はちょうど近くのソファで休んでいました。シオンさんから許可をとってのことです。体力が無い私はこうしてときどき休まなくてはいけないのでした。

 あえて目を合わせようとしなかったのに、あの女がこちらを水色の目で見てきます。そして、はん、と鼻で笑い、顎をくいっとさせて私のそばを通っていきました。

 私は体を起こし、女の名前を呼びました。リンドウ。なんと忌々しい名前でしょう。花言葉は「誠実」です。シオンさんからいただいた、大切な名前です。

「……なに?」

「今の態度は何?」

「どーでもいいじゃん。病人は寝てたら?」

「その態度のことを言ってるのよ」

「あぁ、ほら、落ち着いてくださいコスモスさん。リンドウさん、謝りましょうね」

「は? あたしは謝らないし。別に何も言ってないじゃん!」

 ツバキさんが優しく謝罪を促しても、リンドウはつんとした顔を背けるだけです。何も分かっていない。彼なりの気遣いすらも察せない。

 だから、要らない女なのよ。

 私は立ち上がり、リンドウに近づいた。ふらついたリンドウが本をバタバタと落とします。それから、私は勢い良く手を挙げて──

「──やめたまえ、コスモス」

 その手はがっしりと掴まれ、動けなくなりました。ツバキさんが何度か瞬き、私の後ろにいた人を見つめていました。リンドウはきゅっと閉じた目を開くと、シオン、と言葉を漏らします。

「──ツバキ。拾ってやれ」

「は、はい。行きましょうか、リンドウさん」

「……ありがと」

 リンドウは不機嫌そうな顔のまま、ツバキさんと本を集めてまた歩き出しました。まだ私の腕は掴まれたままです。手がぷるぷると震えるばかりで少しも動きそうにありません、なんて怪力なんでしょう。

 私が振り向くと、シオンさんは小さく溜め息を吐きました。そして、座りたまえ、と元々私が寝ていたソファに着席を促しました。シオンさんは私の向かい側に座ります。

 シオンさんから発せられている雰囲気は、決して怒りの感情ではありませんでした。いや、怒りの感情なのかもしれませんが、それにしては冷めていて静かでした。優しいのか、厳しいのか。私はその感情を、よく向けられる気がしています。

 シオンさんは手を組むと、優しく鼓膜を震わせるような声で話し始めました。

「今のは、リンドウも悪かった。だが、君も悪かったんじゃないか」

「……ごめんなさい」

「謝らなくて良い。君の悪い癖だ」

「それは……ごめんなさ……はい……」

「リンドウはリンドウで成長している。君も成長するときだと、僕は思うよ」

 ぴりっ、と何かが心に張りつめたような感覚がしました。あまり動かない私の心の中に、何か辛いものが湧いたのです。私の眉が自然にぴくりと動きました。

「それは……どういうことですか?」

「昔のリンドウは君を見ただけで罵倒していただろう。それが多少反応しつつも無視する程度になったんだ。君にわざわざ喧嘩を売りに行くことも減った、違うか?」

 私はぐうの音も出ませんでした。確かにあの女が他の人たちに迷惑をかけているのは知っていたけれど、なら私自身にはどうかといえば、もう昔のように絡んでくることはありませんでした。とはいえ、通りすがるだけで舌打ちをされるようなことはあるのですが。

「……違いません」

「リンドウから君への反応は変わったのに、君からリンドウへの反応は変わらない。もう少し彼女を受け入れたっていいんじゃないか?」

「それだけは絶対にできません。あんな我儘女、生きているだけで許せなくて、」

「君は少々リンドウに固執しすぎている。リンドウは確かに君のことが嫌いだが、君を四六時中恨んではいないよ」

 ぴりぴり。食事中に辛さなんて感じないのに、心の膜がべろりと剥がれていくような感覚に襲われます。手が震えます。無表情だったはずの顔が、徐々に崩れていきます。

「僕は君にもリンドウにも成長の余地があると思ってるんだ。だから、働きかけたいと思っている。どうかな、少し言いたいことは分かってもらえたかな?」

「……どこが、ですか」

「どうしたんだい?」

「あの女のどこが成長したって言うんですか」

 シオンさんは優しい言葉遣いをしてくれます。決してこちらを責めるような言い方はしません。それは分かっているのです。ブラッディレッドの瞳も、端正な笑みも、私を責めてなどいません。

 それでも、心の皮がべりべりと剥がれていって、何かが決壊しそうになったのは、なぜなのでしょうか。

「私は、あの女が成長したなんてとても思えません」

「それは……そうかもしれないけれど──」

「そうやって司書を虐めるのが趣味か、館長」

 私がまた口を出そうとしてしまったのを止めたのは、背後から歩いてきたアネモネさんでした。長く黒い前髪の下から、酷く冷たくて凍えそうな視線を感じます。

 シオンさんは振り向くと、小さく咳払いをして、そうじゃない、と返しました。

「僕はただ、コスモスがストレスを抱えると思って──」

「それで相手を怒らせて満足か?」

「怒っ……えっ、私が……怒ってるですって?」

 声が裏返りそうになりました。アネモネさんは私のほうを、まるでゴミでも見るかのような冷めた目で見つめていました。

「怒ってるだろ、あんた」

「……私には感情なんてありません。あっちゃいけないんです。そんなものは要らない……」

「機械でもないくせに痩せ我慢すんなよ。とにかく、話はここらへんにしておいたほうが良いんじゃねぇの」

 アネモネさんの言葉に、はじめて心が痛みを訴えていたのだと分かりました。べろり、剥がれた心臓からは、血がどくどくと流れ出しています。

 これが、感情? 私の知らないはずの、意思? だとしたらそんなもの、要らないのに──

 シオンさんはアネモネさんに一瞥すると、私に頭を下げて去っていきました。結果的に救われた形になったので、アネモネさんを追ったのですが、彼は振り返ると、また例の蔑みを向けてきました。

「助けたんじゃない。頭でも冷やしな」

 アネモネさんが去っていくのを、私は何も言えずに見ていました。凪いだ心はずきずきと痛むばかりです。

 そして、その場を後にしました。せっかく休まっていた体が、心のせいでぼろぼろです。自分を休めるためにと自室へ一人向かうのでした。

 何にも興味が無い私が唯一好きなもの。それは睡眠。睡眠は全てを停滞させ、時間だけを進める。とはいえ、時が狂って滞ったこのアネモネ図書館においては、いくら寝たって滞っていられます。シオンさんもそれを許してくださっています。

 バクバクと煩い心臓を黙らせるため、目を閉じて体を縮めます。今は煩くても、すぐに善くなるから、大丈夫。心臓がすやすやと寝息を立てるまで、私は布団に包まって、必死に目を瞑っていました。



 それは、私がシオンさんから叱られた数日後のことでした。

 私が休憩しようとソファに横になっていると、一冊の本を片手に持った男が近づいてきました。目鼻立ちが整い、ハイヒールを履いてるせいかより高く見える背丈に、赤茶の髪の毛。こちらを見つめる目はシオンさんと同じブラッディレッドに染まっています。

 私が慌てて座り直すと、彼は、いいんだ、と穏やかな声で言い、向かい側に座りました。

「休んでいいって言われてるんだろう? じゃあ気にしなくて良い」

「でも、人と話す態度ではないので……」

「真面目だなァ。そういうところは良いと思うけど。俺は礼儀とか求めないからさ」

 アザレアさんはそう言って肩を竦めました。

 私としては背筋を伸ばし、膝は閉じて話を聞くのが当たり前なので、変えるつもりはありませんでした。むしろ、今まで無礼を働いていたことが恥ずかしくて仕方ありません。

 アザレアさんはこれ以上私の態度について語ることは無く、本題だけど、と前置きしてから話し始めました。

「シオンと話したとき。アネモネに、怒りを感じている、と指摘されていたな」

「……どうしてそのことを」

「ま、シオンから聞いたんだよ。それは良いんだ、大して重要なことじゃない」

 アザレアさんは一冊の本を私に見せました。その表紙には、「黒羽秋桜」と書かれていました。確かそれは、シオンさんが最初に持っていた本です。そこに私の情報が書かれているのだと、シオンさんから聞きました。

 私が何も言わずに瞬いていると、アザレアさんはその本を机の上に置いて、口角を横に引きました。

「リンドウさんと同じように『成長』したくはないか?」

「……成長……」

「今の貴女はリンドウさんに劣等感を覚えている。いや、ずっと前からそうだったのかもしれない。それが取り払われないと前を向いて歩くことはできないんだ」

「私は……良いんです、どうせ早く死にたいだけなので……私に価値なんて無いので」

 アザレアさんは私の言葉に、片眉を上げて笑みを潜めました。無表情になると彫刻のような顔が顕になって、美しいと感じます。

「貴女は『認められたい』んじゃないか?」

「認められたい……?」

「本当に死にたいなら、此岸と彼岸の間でなんか過ごす必要は無いんだよ。シオンの誘いを跳ね除けて死ぬことだってできるはずだ。

それでも今停滞しつつ生きているのは? それは、『生きてても良い』と認められたいからじゃないか?」

「そんな……私はただ、」

「リンドウさんはそれに反して認められつつある。そんな彼女が許せないんだ、貴女は」

 ずしりと重い一言が突き刺さりました。私の反論など意にも介さず、アザレアさんは不敵に笑います。私は黙り込むことしかできませんでした。

 アザレアさんは、ところで、と話を転換させます。私に見せた本の裏表紙を見せたのです。そこには、「黒羽竜胆」と書かれていました。私は思わずつんのめって話を聞きます。

「これは同時に、リンドウさんの本でもある。その意味を、貴女は知っているかな?」

「……なんであの女と……!」

「知らない。なるほど。やはり忘れているんだな、この図書館への入場料として」

 アザレアさんはそう言って本を開きました。私の目線からでは何が書いてあるか分かりません。しばし目を滑らせると、アザレアさんはパタンと本を閉じ、机の上に置きました。

「コスモスさんの成長の鍵はここにある。これを読めば、コスモスさんのレゾンデートルを理解することができるだろう」

「……レゾンデートル……存在理由……」

「コスモスさんがこのまま死んで良いわけが無い。貴女は特別な存在だ」

 アザレアさんの言葉には吐息がこもって、妖艶な響きを奏でています。彼はまるで詐欺師のようだと、私は思いました。それが分かっていながらも、アザレアさんが提供してくれる情報は甘美にも思えました。

 動かないはずの、死んだはずの好奇心が震え出します。

 成長の鍵。リンドウに、あの女に馬鹿にされないための、あの女を黙らせるための鍵。私の中にこんな敵愾心があったなんて、アザレアさんに引き出されるまで気がつきませんでした。これではまるで、リンドウのよう。なんて醜いんでしょう、この感情は。

 私が目を逸らせば、アザレアさんは、クス、と笑って私の名前を呼びました。

「コスモスさん。その感情は醜くなんてないよ。だって元から、副人格と主人格は一つにならずに争いあってきたんだろう?」

「……副人格……主人格……?」

「しかしその反発こそが貴女を作った。それがこの本に詰まっている。

──読んでみたくはないか?」

 私に本が差し出されます。 そっと受け取れば、思ったより重くて驚きました。私の何が書かれているのだと言うのでしょう。そして、リンドウの何が書かれているのでしょう。

「さぁ、開くんだ。自身の価値を違えぬように」

 アザレアさんに言われ、誘われたとおり、一枚、一枚と紙を捲っていきます。そこに書いてあるのは、一人の少女の人生でした。

 暗い部屋の中、自分でガーゼを頬に当てています。キッチンには片付けられていない皿が溢れていて、床にはビールの缶が転がっていました。

 悪いことをすると殴られ、悪いことをしなくても怒鳴られる。泣けば蹴られ、泣かずとも張り倒される。そんな暴力まみれの日々が続きます。どこかへ逃げることも許されませんでした──友達も、先生もいなかったから。学校に行けばこの虐待がバレてしまいます。母は泣きながら少女に学校に行くなと言い、父はデパコスで不細工に飾った母を殴り倒しました。

 その少女は謝ることでしか自分を守れませんでした。しかし、徐々に心臓の皮が剥がれ始めていきます。自我の無い人形も、やがて反抗心というものを覚えます。反発して殴り合いになることも多々あったようです。

 けれども、男の力に勝つことはできませんでした。いつも押さえ込まれて暴力をふるわれておしまいです。だからあるときから、少女は抵抗することをやめるようになりました。

 真っ暗なクローゼットの中、体育座りをして息を殺していたのは、私であり竜胆でした。

 私であり、竜胆? 同じ姿をしているのに、どうしてそんなことを思ったのでしょうか。私よりも遥かに小さくて、目の色だって紫色で、それではまるで、私と竜胆が一人の存在だったようではありませんか。

 私が本から顔を起こせば、アザレアさんは優しい笑顔でこちらを見ていました。まるで女神のようだと思います。慈悲深くも冷たい目でした。

「どうかな、理解できたか?」

「……私は……元々何者だったのですか……?」

「貴女は黒羽竜胆の副人格さ。竜胆が貴女を生んだ。貴女はそもそも、竜胆と同体だったわけだ」

 頭にクエスチョンマークが広がっていきます。それは黒い靄になって脳を満たしていきます。薄ら寒くて、私は腕を掻き毟りました。

 あんな醜い汚物が私? しかも私は、主人格ではなくあの女に作られた作り物でしかない? では、何のために?

 だとしたら、私の存在意義は……? 嗚呼、そうだ、私の存在意義は──

「……嫌……嫌あああぁ……!」

 私の喉から震えるか弱い声が上がりました。アザレアさんは笑みを変えることがありません。まるで彫刻が私を見つめているかのようてした。

 頭の中がぐるぐるして、何も見通せなくなって、私は思わずそこから逃げ出しました。アザレアさんの視線が冷たく私の背中を撫でます。それで急かされるようにして足を動かしました。

 無我夢中になって逃げていたからでしょうか、私は前からやってくる人に気がつきませんでした。思いっきりぶつかって、本がばらばらと落ちていきます。尻餅をついていたのは、竜胆でした。

「ちょっ……何よ、前くらいちゃんと見なさいよッ!」

「……っ、竜胆……!」

「邪魔だから退いてよ」

「私は認めないッ!」

 竜胆が目を丸くします。それから歯を見せて私を威嚇し始めました。私はそんな彼女に馬乗りになって、胸倉を掴みます。

 許せない。認めない。私の細胞全てが竜胆を嫌悪しています。ふつふつと細胞全てが沸騰していきます。竜胆も私のことを嫌悪の目で睨みつけていました。

「離してよッ!」

「お前も何も知らないのね。本当のことを教えてあげる。私たち、同一人物なのよ」

「何馬鹿なこと言ってるの? そんな気持ち悪いこと言わないでよ!」

「そして私はお前から生まれた!」

 竜胆の首を絞めます。此奴が。此奴が私を生んだ。副人格として作り上げた。なぜか? それですらも今では理解できます。

 それは、あの暴行に耐えるためのサンドバッグを生み出すためです。

「お前は私を身代わりにした!」

「や、やだ、やめてよッ」

「絶対許さない……! 殺してやる!」

「だ、だれか、たす……ッ」

 竜胆の顔が青紫色に染まり始めていたときです。私は唐突に宙に投げ出されました──竜胆が私を払ったのではありまけん、私が何かに飛ばされたのです。そのまま背中から落ちて、反射的に咳き込みました。

 私は敵を探すような目で周りを見渡しました。すると、パタパタと複数の足音が迫ってきます。一人は黒い服の女性、二人は壮年男性でした。魔女は私に向けて拳を突き出します。ギギ、と音がするほどに私の体は何かに締め付けられ、動けなくなっていました。

「テメェら、何してやがる!」

 動けずに歯を食いしばっているうちに、男性の一人、キキョウさんが竜胆の手を取ります。もう一人、ヒナゲシさんは私のほうに近寄ってきました。

 ヒナゲシさんは笑みを浮かべていましたが、目の奥底は笑っていませんでした。でも、アザレアさんのときのような冷たさを感じないのはなぜでしょうか。

「とりあえず話し合いだ。先輩、コスモスを頼むよ」

「分かりましたよ。ほら、リンドウさん、ついて行きなさい」

「き、キキョウ……っ、あたし怖い……!」

 キキョウさんの腕に絡みつくようにして、竜胆が歩き始めます。ヒナゲシさんは私のことをひょいと持ち上げて抱っこします。ヒナゲシさんの体温を感じているうちに、私の思考は冴えていきました。確かに憎悪は色濃く残って心を重くしていますが、赤い霧はどこかへと消えていました。



 アザミさんとキキョウさん、ヒナゲシさんは、少し広い部屋に私たちを連れていきました。おそらく応接室なのでしょう。ソファに座って向かい合い、私の隣にはヒナゲシさんが、竜胆の隣にはキキョウさんが座っています。

 アザミさんは壁にもたれかかり、大きく溜め息を吐きました。それで、と話し始めたのもアザミさんでした。

「何があった?」

「あたし、知らない。此奴がいきなり掴みかかってきたの!」

「そう。コスモスはなぜ掴みかかったんだ?」

「そう、って……あたし殺されかけたんだよ!? 此奴の言い分なんて、」

「ボクは平等に話を聞きたい。黙ってなァ」

 アザミさんがそう言うと、竜胆は頬を膨らませて黙り込みました。彼女にとってアザミさんは姉も同然ですから、逆らえないのでしょう。

 私はいつもどおり閉口しました。落ち着いて考えてみれば、私が百パーセント悪いのです。私が取り乱したりしたから、私が存在するから──だったら、いっそ死んでしまったほうが──

「黙ってんじゃねぇぞ。コスモス、話せ」

 思考の悪いループにハマっていた私を引き上げるようにして、アザミさんは杖を鳴らしてそう言いました。はっ、と我に返り、まずは謝罪を述べました。

 アザミさんは額に手を当てると、謝罪は良い、と言って私に話を促しました。

「真実だけ話してくれりゃ良い。ぐだぐだ言い訳を言うな」

「言い訳……すみません……」

「アザミが言いたいのは、あんたの感じたままに話してほしいってことですよ」

 ヒナゲシさんにそう言われると、少しだけ収縮していた体が緩んだような気がします。やはりアザミさんは、言葉がキツいだけで優しい人なのだと実感しました。

「……記憶を、取り戻したんです」

「チッ……アザレアの奴か。記憶ってのは、アンタとリンドウが元は同一人物で、解離性同一性障害だったってことか?」

「かいりせーどーいつしょーがい? 何それ、あたし知らない」

「一人の体に二人がいることを言うんだ。記憶も性格も別々な二人がいる。リンドウさんとコスモスさんは、二人で一つだったんだ」

「な、何それ、意味分かんない……ッ」

「……私は竜胆の副人格として……ただ暴力を受ける身代わりとして生まれてきたんです……竜胆が生み出した、都合の良い人形。それが私なんです」

 話しているうちに怒りが再びのし上がってきます。これが感情。私が必要としなかったものです。では、なぜこんなに私は怒ってるのでしょう?

 竜胆は何度か瞬くと、下を向いてしまいました。あの女もあの女で何かに気がついたのでしょう。それからキキョウさんの手を掴み、竜胆は揺れた声で言いました。

「……あたしが、コスモスと姉妹じゃなくて……同一人物ってこと……?」

「そうよ。お前は私を生んだの。元は一人の人間だったのよ。そしてお前はのうのうと生きていた……ッ!」

「あ、あたし悪くないもん! 勝手に生まれたんでしょ!?」

「……どちらのせいでもない、解離性同一性障害というのはそういうものだ。リンドウさんが望んで作ったものじゃないんだ」

 キキョウさんはそう言って前につんのめった竜胆を押さえました。彼は難しそうな顔をしています。元々精神科医でしたから、医者らしい顔をしているとも言えます。

「どちらの人格も、自分を守るために必要だから存在するんだ」

「自分を守るために……?」

「これは俺の分析なんだけど、」

 そう前置きをしてから、キキョウさんは真剣な顔でこちらを見つめました。

「身体を守るために生まれたのがコスモスさんで、心を守るために生まれたのがリンドウさんなんじゃないかと、俺は思う」

「……何それ、あたしがまるで彼奴と同じで『作られた存在』みたいな、」

「そうなんだよ。主人格であるとて、元からいた人格とは限らない。コスモスさんが生まれることで、元々の性格が半分に別れたんだ。そして、強調されるところは強調されたんだ」

 竜胆が目を見開き、口元を歪めました。それから私を見て、もう一度キキョウさんを見ます。その目には明らかに困惑の色が浮かんでいました。

「つまり、あんたたちは元より補い合って生きてきた、ということですよ。互いを守るために生まれてきた、そんな姉妹なんです」

「……私が……竜胆と、補い合って……ですか」

「そうですよ。僕には分かります、片割れを許せない気持ちが。どうしても嫌いなんです。でも、愛せないのなら、あんたたちは自分を憎むことになるんです」

 ヒナゲシさんは穏やかで甘い声でそう言いましたから、その声に不思議と聞き入ってしまうのでした。シオンさんと話しているときと似たような感覚を味わいます。

 それは竜胆も同じのようで、ヒナゲシさんの話を食い入るように聞いていました。

「何も、一つになる必要は無いと思うんです。二人で一緒に生きていく、という決断さえできれば。どちらがどちらを統合するとか、そういうのはまだ考えなくていいと思うんです」

「……でも、コスモスはあたしのことすぐ怒るし、虐めてくるし、あたし嫌い」

「おそらくですが……コスモスさんは、リンドウさんにとって『自己否定』もしくは『自己内省』の役割を担っているのではないでしょうか?」

 ヒナゲシさんの話が上手く呑み込めず、竜胆とともに黙り込んでいると、小さく息を吐いてアザミさんが介入してきました。

「リンドウは『自分は悪くない』という肯定感。コスモスは『自分にも悪いところがあるかもしれない』という批判的視点を持っているんだよ。そのどちらかが欠ければ、人間として生きていけなくなる。そこのヒナゲシのようにな」

「……僕は、アネモネに憎まれています。今のリンドウさんと同じ立場です。でも、彼は確かに僕の中にいた『自己否定』の人格です。彼がいないと、僕は独善で暴走してしまいます」

「……じゃあ秋桜の存在は、必要ってこと?」

「そういうことだ」

 アザミにそう言われ、竜胆は私のほうを訝しむような顔で見つめました。極めて奇妙だ、と言いたげです。

 私の存在意義は何か。それは、竜胆のストッパー、ということでしょう。だとしたら、私自身には何があるのでしょうか。いや、私自身なんて、本当はどうでも良いはずです。だって死んだって良いんですから。

「……なら私自身には価値なんて無いんですね」

「そんなこたァねェよ、何早とちりしてんだ」

「アザミ……?」

 アザミはくいっと伊達眼鏡を上げると、目を見開き、真っ赤な目で私を射抜きました。その圧力に、私は思わず動けなくなってしまいます。

「リンドウだってコスモス、アンタにとっては身代わりなんだ。自己否定で死んでしまわないためのストッパー。アンタの理論で言うと、価値が無いのはどっちもだぜ?」

「なら一緒に死んでしまえば、」

「ねぇ、コスモスさん。もうその『死んでしまおう』という裏にある感情に、気がついても良いんじゃないですか?」

 ヒナゲシさんの言葉が、動けなくなった私の胸を貫きます。しかし痛みは無く、じわりと熱が体中に回っていくようでした。

 要らないと捨てた感情たちの中に、本当の思いがあるのです。怒りや悲しみと一緒にごちゃごちゃになっていたのは、それは──

── 「生きてても良い」と認められたいからじゃないか?

 アザレアさんがかけた言葉が、今になって分かったような気がしました。私はずっとずっと、謝ることで許されたかったのです。

「……私は……生きていて良い存在になりたい、です……」

「それが、あんたの意思なんですね?」

「きっと、そうです。意思を持つなんて、愚かしく烏滸がましいことですけど……」

「だとしたら。リンドウさん、あんたはどうしますか? コスモスさんという存在を、認めますか?」

 どうだ、とキキョウさんに言われ、竜胆は口を噤みます。逆の立場でも、私は黙り込むことでしょう。大嫌いな人を自分の一部だと認めるなんて、寒気がするほど嫌ですから。

 すると、ヒナゲシさんが助け舟を出しました──蜂蜜色の目を細め、優しく微笑みながら。

「僕は思うのです。二人が手を取り合って生きられるようになったら……それは『成長』なんだと思います。そして自立できるのだと思います。

嫌いな自分も、自分です。そんな自分がいるから、より良い人になれる。

……僕に言えたことではありませんがね」

 コホン、と咳払いをして、ヒナゲシさんは、違うか? と付け足しました。それはシオンさんの口癖でした。

 私たち二人が黙り込んだところで、アザミが口を出します。頭を掻きながら、目を逸らし、気まずそうな顔をしています。

「……二人は過去を思い出した。だから、アネモネ図書館を出ていかなくてはならない」

「えっ……あたしそんなの聞いてない……」

「言い方が悪いな。アネモネ図書館の役目はここまでだ。あとはアンタたちが彼岸に行くか、もう一度チャンスを得て此岸に戻るか……だ」

 アザレアの野郎、とアザミさんは小さく呟きました。

 唐突な言葉でしたが、私は不思議と驚きませんでした。今までの話を聞いて、私の本当の幸に気がついたからです。

 生きていて良いと、認められること。これからも生きていくこと。

 もしも、竜胆が私を認めてくれたなら、私も竜胆を認めましょう。嫌いで嫌いで仕方無くて、憎くて惨めで仕方が無い馬鹿な女だとしても、私には彼女が必要なのです、残念ながら。

「竜胆。私は現世に戻るわ。だからお前もついてきなさい」

「……やだ。現実に戻ったって居場所なんか無いじゃん」

「私がお前を認めるって言ってるのよ。お前が主人格として醜く振る舞うのを認めるって。私一人じゃ戻れないんだから」

「やだやだッ! あたしはここじゃないと生きられないもん!」

「竜胆……ッ」

「怒ることではありませんよ、コスモスさん。リンドウさんは怖いんですよ」

 ヒナゲシさんの言葉に、竜胆はぴくりと眉を動かしました。それから竜胆は少し低い声で、どういうことよ、と訊きました。

「リンドウさんは、アネモネ図書館でようやく安心できる場所を見つけた。そこから離れるのが怖いんです」

「……怖くなんか、ないし。どうせもう友達も誰もいないし。あたしには居場所なんて無いんだから……」

「それを作るのが、探すのが、お二人の仕事ですよ。二人で手を取り合って、一緒に生きていく術を探すんです。ここで諦めてしまうのも一つですけど……もう一度、やり直してみませんか?」

 竜胆は目を細め、口を横に引きます。壁にもたれたままのアザミが口を開きました。

「もちろん、ここでの記憶は全て無かったことになる。もう一度上手くやれるかはアンタら次第だ。だが……ここで死んでしまうには勿体無いと、ボクは思うよ」

「アザミ……」

「リンドウ。今はコスモスのこと、どう思う?」

「……すげー嫌いだしすげー嫌だけど……あたしが悪いわけじゃないけど……でも、元のあたしから生まれた、必要な存在なんだよね」

「良い理解力だ。どうだ、上手くやっていけそうじゃないか?」

 アザミの励ますような言葉に、ほんの少しだけ竜胆の体から力が抜けたようでした。彼女は大きく溜め息を吐くと、私のほうを見つめました。そこには嫌悪も憎悪もこもっていたけれど、それともう一つ、冷たくも温かい何かの感情がこもっているようで、目の奥を光らせていました。

「……あたしは……あんたのこと大嫌いだし、死んでほしいと思ってたけど……今は大嫌いで済んでる。死なないでも良いけど……あたしの邪魔はしないでね」

「こちらの台詞よ。私が生きる邪魔はしないでちょうだい」

「『認め合って』生きていけなくなったときは、殺してやるから」

「私もよ。そのときはきっとお前を殺すわ」

 殺伐とした言葉の応酬。されど、不思議と気持ちは冴えきっていました。互いを侵犯しなければ、一緒に生きていくことも可能だということです。

 それは、互いを認め合っているとはいえないでしようか? それは、共生とはいえないでしょうか?

 私がそんなことを考えていると、ふと、足先が温かくなっていることに気がつきました。ぷくぷくと泡のような光が出て、私の足が消え始めていました。それは竜胆も同じでした。

 キキョウさんやヒナゲシさんは驚いた顔で私たちを見つめます。アザミさんだけが一人、複雑そうな顔をしていました。

 竜胆はアザミのほうを見て、にっ、と歯を見せました。

「今までありがとう、アザミお姉ちゃん」

「……良い人生を。もう二度と、ここには戻ってこないように」

 先に消えたのは竜胆でした。私は消えゆく意識の中、不思議なビジョンを見ました。そこでは、顔の見えない男が、私と歓談していました。そんな彼女のことを、竜胆は遠くから眺めていました。

 だから分かりました。私たちの関係は変わらないけれど、きっと良いところへ連れて行ってもらえるのだろうと。

 そして意識が消えたとき、私は隣にもう一人の温もりを感じました。



「やぁ、竜胆。秋桜は元気にしてるかい?」

「あたし知らなーい。ま、この感じだと元気にしてるんじゃない?」

 相変わらず顔が見えない男が、竜胆と一緒に一冊のノートを眺めていました。そこに書かれていたのは、「交換日記」。名前の欄には、黒羽竜胆と黒羽秋桜の名前が書いてありました。

 勝手にあたしの服を着るな。量を食べるな。部屋の配置を変えるな。そんな文句が飛び交う日記ではありましたが、その中には日々の楽しかったことも綴られていました。

「うんうん。秋桜も元気そうだね。秋桜用に食べやすいゼリーを作っておかないとね」

「あたしも食べたい」

 今の私は表に出ていないけれど、竜胆の後ろで大切な人を見ています。ときどきは交代して、そのときは竜胆が我慢をする番です。

 上手くやっていけるかは分からないけれど、きっと昔より良いのでしょう。そう伝えたい相手は、誰だったかしら?

 そんな疑問も、新しく幸せな日常が塗り潰していくのでした。

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