アヤメは何も恐れない
紅茶と緑茶が机の上に並んでいる。それぞれ脇にはケーキと饅頭が置いてある。二人はほぼ同時に手を伸ばして、各々の茶に合わせたおやつを口に運んだ。
◆
五輪目のスミレさんと、六輪目のヒマワリさんの消失。兄弟の消失には、肯定的な者もいれば否定的な者もいました。
新たな門出として祝福するシオン・アザレア兄弟。ほんの少し寂しがるツバキさん。どう反応していいか分からないヒナゲシさんやキキョウさん。大して興味を持たないダリアさんとアネモネさん。仕方が無いと割り切るハルジオンさん。そして、拒否反応を起こしたコスモスさんとリンドウさん。
私はその中でも肯定的で、小さな期待を抱く者でした。彼女はかつて、人間としての生を生きられずにアザミに回収された者です。そして、もう過去を思い出している。新しく人間として生きる資格なら持ち合わせているのです。
私が相談相手に選んだのはアザレアさんでした。スミレ・ヒマワリ姉弟がアネモネ図書館を去ったとき、その場に居合わせたのはアザレアさんでした。それに、アザレアは今も現世で生活をしています。人間としての生活を一番知っているだろうと思ったのです。
アザレアさんは口角を上げ、にこりと微笑んでいます。ケーキが美味しかったのでしょう。サザンカさんが言ってたとおりです、ショートケーキが好きみたいです。
「それで、話とは何かな」
「は、はい。その……また、生まれ変わる話なんですけど……」
「考えてくれたんだな。俺は歓迎するよ」
手を結び、アザレアさんが私の目をじっと見つめます。そうするとなんだか吸い込まれるような感覚がして、ちょっと怖くなって目を逸らしました。
「記憶は失うことになるが、ここで得た知識はきっと忘却されることは無いだろう。強くてニューゲーム、ってわけだ」
「つよくてにゅーげーむ……?」
「そこは分からなくていいさ。とにかく、貴女は人間のその上を行く人生経験を持つ。きっと幸せになれるよ」
「ちょっと待ちなさいよ!」
唐突に後ろから声をかけられて、思わずびくっと震えてしまいました。振り返らなくても分かります、リンドウさんの声です。
アザレアさんは、すっ、と視線をリンドウさんのほうにやると、人が良さそうな顔で微笑みました。
「どうしたのかな、リンドウさん」
「アヤメはアネモネ図書館を離れないんだから! スミレやヒマワリみたいにあたしたちを置いてったりしないし! そうだよね!」
「おっと……アヤメさんはどう思ってるのかな?」
「え、えっと……その……」
「だからもうお話はおしまい! アヤメ、行こ!」
「あ、えっ、すみません、失礼します!」
リンドウさんに引っ張られて私は立ち上がります。何を言っても聞いてくれなさそうです。アザレアさんに頭を下げて、私もついていきます。
そのままついていけば、リンドウさんは自分の部屋に私を入れました。そしてむすっとしたまま椅子に座って、私のことはベッドに座らせました。
えっと、と呟けば、リンドウさんは鼻を鳴らして私に話し始めました。
「アヤメまでいなくなっちゃうなんてやだよ。あたしの遊び相手がいなくなっちゃう!」
「え、えっと……それは……すみません……」
「アヤメも人間になりたいの? もうアネモネ図書館はどうでもいいの? ハルジオンやあたしと遊ぶのは?」
「どうでも良くはないです……」
私は言葉に困ってしまいます。確かに、他の人たちを置いていくことを考えていませんでした。
アネモネ図書館で出会った司書さんは、みんな大切な人です。その記憶を失うということは、司書さんたちと出会ったことも無くなってしまうということです。
リンドウさんは特に嫌でしょう。せっかくこの図書館に来て、のびのびと過ごせるようになったのですから。そんな場所が少しずつ無くなっていくのは辛いものがあるのでしょう。
「……その。私もリンドウさんのことは、大切です。ですから……その……」
「アヤメはなんで人間になりたいと思ったの?」
「それは……私が、 ずっとなりたかったからです」
私の言葉に、リンドウさんが黙り込みます。リンドウさんとて、私の望みをすぐさま否定するほど横暴ではないということでしょうか。
過去を思い出す前を振り返ります。私は自分の名前以外に何の記憶も無く、あるのは知識だけでした。そんな私が「アヤメ」になれたのは、司書さんたちのおかげでした。
確かに人でなしとしての生はとても楽しいものでした。しかし、私はときどき望んでしまうのです──もしもあんな虐げられた過去を捨てて、もう一度生きられるとしたら。
そんな話をすれば、リンドウさんは拳を握りしめて震えながら、そう、と言いました。
「……そう。アヤメは、幸せ者なんだね」
「えっ……」
「じゃあ良いもん。好きにしたら良いじゃん。あたしには関係無いし」
「あ、えっと、リンドウさん!」
リンドウさんはぷいっと顔を背けて立ち上がり、部屋を大股で出ていきます。私一人、リンドウさんの部屋に取り残されてしまいました。しばらく部屋で座っていましたが、リンドウさんが帰ってくることはありませんでした。
私も部屋を去ろうかと考えましたが、机の引き出しが開きっぱなしなのに気がつきました。中には一枚の栞が挟まっています。リンドウを押し花にしてラミネート加工したものでした。
それを見ているとふと、リンドウさんと遊んでいたときを思い出します。まだハルジオンさんと仲直りしていない頃の話でした。私はまだリンドウさんのペースに合わせられなくて、リンドウさんを不機嫌にさせてしまうことが多かったのです。
もちろん、そんな彼女と付き合うのを止めればいい、というのも一つの意見です。自分が怖くなるような、自分が不利益を被るような仲なんて築かないほうが良い。それが大人な関係というものです。
しかし、私はそうもいきませんでした。どうしてもリンドウさんと仲良くなりたいと思ったのです。私はまだ子供で、アザミさんがいなくなって、ハルジオンさんと関わらなくなると寂しかったのです。
そんなある日のことでした。私がちょうど、ヒナゲシさんの勧めで押し花を作っていたときでした。
アネモネ図書館にはたくさんの花が咲きます。季節も関係無く、ただ時間のみに制限されて開花しています。ヒナゲシさんが案内してくれて、アヤメの花をいくつか採ってくれました。私はそれで押し花を作って、栞にしようと思っていたのです。
重たい辞書を探していたとき、リンドウさんとばったり会いました。本の整理が終わった頃だったそうです。
──なに、重い本なんて持ってんの?
──ちょっと、押し花を作ろうと。
──押し花? なにそれ。
彼女は押し花を知りませんでした。押し花といえば、小学生でやったことがある人が多いんじゃないでしょうか。私が知らないのかと問えば、彼女はむすっとした顔をしました。
──してないし。小学校とか、行ってないもん。やったことも無いし。
私にはそのとき、なんとなく分かったのです。彼女は怒っているのではなく、寂しがっているのだと。彼女の不機嫌さは複雑です。私にはヒナゲシさんやシオンさん、キキョウさんのように、相手がいったい何を考えているのか当てることはとても難しいです。そして、リンドウさんにとっても難しいのでしょう。自分ですらどうやってその感情を解放していいか分からないのでしょう。
その助けになればと思って、私は彼女に、一緒に押し花を作ろうと持ちかけました。彼女は笑顔ではなかったものの、顔を煌めかせました。
──あたしもやる!
それからは、ヒナゲシさんに頼んで、リンドウの花を持ってきてもらいました。花をティッシュで挟んで、辞書で挟み、数日待ちます。リンドウさんは目を輝かせて、どうなるのかな、と言っていました。私にはこのあとどうなるのか分かっていましたが、リンドウさんからすれば、辞書の中のタイムカプセルのようなものだったのでしょう。それくらい楽しみにしていたのでした。
私も私で、数日寝かせているときはわくわくしました。リンドウさんが、まだかな、まだかな、と話しかけてくるとき、彼女の不機嫌さがどこかへと消えて、ごく普通の少女のようになったことに喜びを感じました。
数日経って辞書を退けてみると、ぺらぺらになったアヤメとリンドウが出てきました。それだけでも諸手を挙げて喜んでいたのに、ツバキさんはさらに楽しめるようにと、ラミネーターを用意してくれました。
──これを使うと、紙に押し花をくっつけて、栞を作ることができますよ。
リンドウさんは目を光らせてラミネーターに紙を通していきます。紙がつやつやにラミネートされたのを見て、リンドウさんは、わぁ、と声を上げました。そして、まだ温かい紙を手に取って、喜びを前面に出した笑顔を見せてくれました。
──本とか読まないけど、大切にするね! 押し花教えてくれてありがと、アヤメ!
こう言ってはなんですが、ただの押し花と栞です。それだけでも、私と遊べたというだけで彼女は喜んでくれました。
私はそんな彼女のことを考えていなかったのでしょう。取り残された彼女が、遊び相手を失ってどう思うかなんて、私には余裕が無くて考えられませんでした。その結果、リンドウさんを傷つけてしまったのです。
そうやって考えていると、私はどうして良いか分からなくなってしまいました。頭はぐるぐる回るばかりで、心臓はバクバク高鳴るばかりです。
このままではいられないと、下駄を鳴らして歩いていきます。誰かに相談ができたら、と思っても、働いている司書たちの姿を見ると怖気付いてしまいます。できればリンドウさんにだけは会いたくないな、と思えば、さらに動きづらくなってしまいました。
図書館の中を彷徨いながら思考を放棄していると、ふと、声がかかりました。振り向けばそこには、黒髪に赤い目の魔女が立っていました。彼女は眉を顰め、不愉快そうな顔をしていました──もちろん、不愉快だということは無いのでしょう、彼女のことだから。
「アンタ、なにふらついてんだ?」
「アザミさん……」
「……ボクで良ければ話聞くけど?」
そう言ってアザミさんは鼻を鳴らしました。私のことを見上げる細い目は、冷たいようで優しかったのでした。
先の騒動以来、アザミさんとこうして相談事を話すのは初めてでした。まだアザミさんが幼い魔女だった頃は、同い年だからといってよく話していたのですが、彼女の姿がなぜか変わってしまっていてからは、ゆっくり話す機会というのは無かったものです。
アザミさんはアザミさんでした──紅茶を用意して、一杯限りの相談をしてくれるところも、角砂糖を三つ入れるところも、突き放すような口調でも話を聞いてくれるところも。
私はリンドウさんが寂しがっていることを話しました。それでもアザミさんは私の肩を持つのでした。
「ンなもん、リンドウにゃ関係無い話だろォ? なんでアンタが気にすんだ?」
「えっと……リンドウさんがせっかく喜んでくれたのに、それを反故にするのはどうかと……」
「アンタさァ。リンドウが怒ってんのは彼奴の問題だろォ? アンタが気にすることじゃないさね?」
「それは……そうですけど……」
アザミさんの言うとおりだ、正論なのは分かっている──そんな思いが伝わったのか、アザミさんは息を大きく吐き出し、足を組み直しました。
「アンタはリンドウのことが気になるわけさね。だが、アンタがリンドウのために幸せを諦めるのはまた違う。違うか?」
「違いません」
「だから、一番はアンタの願いを叶えることだ。それに際して、リンドウにどう接するべきかだが……」
そう勿体ぶって、一口紅茶を飲んで、アザミさんはこう言いました。
はっきり言って分からん、と。
「分からないんですか!?」
「分かんねぇよ。癇癪女の扱いなんか学んでこなかったからな」
「……リンドウさんを悪く言わないでください」
「わーってるよ。だが……アンタがここを離れる以上、もうここには戻ってこられないし、向こうでも会える保証なんざ無ェ。そんな状態で、アンタからしてやれることなんて無いんじゃねぇのォ?」
「そう……なんですかね……やっぱり、このまま喧嘩別れ……ですかね……」
アザミさんは顎に手を当てて目を細めました。それからまるで目が悪いみたいに丸眼鏡を掛け直して、また小さく息を吐き出しました。
「一つだけしてやれることがあるといえばある」
「あるんですか?」
「あぁ。彼奴を癇癪持ちの子供扱いしちゃァいけねェ。ちゃんと説明するんだ」
「説明……ですか」
そうだ、と言ってアザミさんが頷きます。彼女は手を大袈裟に動かしながら話を続けました。
「どうして自分はいなくなろうと思ってんのか。リンドウに対してどう思ってんのか。リンドウに何を望むのか。抑え込むんじゃなくて、ちゃんと説明してやるんだ。
もちろん、説明を聞いてもらえないかもしれねェ。だったら一回落ち着かせろ。冷えた頭に真実と本当の思いをぶち込んでやれ。
落ち着かせんのが難しかったらボクを連れて行け」
「えっと……良いんですか?」
「アンタがちゃんと説明するってことなら連れてけ。一応、彼奴の姉だからな、ボクは」
そう言ってアザミさんは指に黒い髪を絡めます。それから、ふっ、と息を吹きかけてそれを解きました。
「……アザミさんが昔できなかったことですね」
「あ? 言うようになったじゃねぇか」
「私も、ちゃんと話せば何か上手くいくのでしょうか?」
「対話は大切さね。この図書館が大切にするところでもある。自殺志願者が辛さやキツさを口にして、すっきりしたところで真実や説明をぶち込むのがここのやり方さね」
私はこくこくと頷いて、紅茶に口をつけました。アザミさんの話を聞くばっかりですっかり冷めていましたが、彼女の淹れる紅茶は甘くて優しい味がしました。
アザミさんは紅茶のカップをひょいとつまみ上げると、中身をこちらに見せました。もう赤甘い液体は無くて、ティーカップの中は空になっていました。
「話は終わりだ。どうする、アヤメ」
「アザミさんの言うとおりだと思います。リンドウさんと話してみます。なので……ついてきてください。お願いします」
「構わねェよ。そんじゃ、仕事終わったらまた集合な」
そう言ってアザミさんはティーセットを片手にどこかへと歩き去っていってしまいました。
私は一人、ほんの少し残った紅茶の水面を眺めます。玉虫色の瞳に光を宿して、ほんの少しきりっとした顔をしているように見えました。
◆
仕事が終わって、リンドウさんが部屋に戻ってくるところを、私とアザミさんで待ち構えていました。しばらくするとリンドウさんがむっとした顔で歩いてきました。リンドウさんは水色のつり目を一瞬爛々と輝かせてアザミさんを見ましたが、隣にいるのが私だと気がつくと、またむっとした表情に戻ってしまいました。
アザミさんはハイヒールを鳴らして近づいていくと、リンドウ、と静かに呼びかけました。
「アヤメとボクから話がある。部屋に入れてくれないか」
「……良いけど」
「そうか。ほら、アヤメ、行くぞ」
「は、はいっ」
二人でリンドウさんの後を追えば、自分はベッドに座って、私たちを椅子に座らせました。そっぽを向いたまま、それで、と尋ねます。
「話って何?」
「アヤメがこの図書館を出ることになった」
「え、えっと……アザレアさんとの話、聞いていたと思います。私、アネモネ図書館を離れたくて」
「ふん。好きにしたら? もう私のことなんてどうでも良いんでしょ」
「リンドウ、その言い方は違う。本当のとこは、『どうでも良いなんて思ってほしくない』だろォ?」
アザミさんにそう言われると、リンドウさんは唇をへの字にして眉を寄せました。
「……別に? あたしは良いし。どうせアヤメは幸せになれるんでしょ?」
「幸せになれるかどうかはまだ分かってねェな。だが幸せになるチャンスはあるんじゃねェの」
「良いよね、アヤメは」
リンドウさんはそう言って口を尖らさせました。私にも、妬みや嫉みが込められていることは分かりました。
確かに、私の問題はもう解決しています。ただ過去を忘却していて、それと向き合わねばならなかっただけでした。意外と私は強いもので、アザミさんから告げられた過去についてもくよくよ悩むことはありませんでした。もちろん、ハルジオンさんやアザミさんの助けがあってのことですが。
リンドウさんは足をばたばたさせて抗議の意を示しました。
「っていうか、お説教しに来たの? だったら帰ってよ!」
「え、えっと、違います。お話に来たんです」
「何よ、あたしのことを説き伏せようって言うの!?」
「そうでもなくて。ちゃんと私の気持ちをお話しないといけないと思ったんです」
私の言葉にリンドウさんが黙り込みます。アザミさんがこちらに目配せをして、自分は──どこから取り出したのか分からない──紅茶を悠々と飲み始めました。
言葉に嘘をついてはいけません。嘘を見抜く目を持っているアザミさんと、そうでもなくても嘘くらい分かるリンドウさんを前にしているのですから。アザレアさんに伝えるはずだった思いを、しっかり言語化しないといけません。
「私は、人間としてやり直したいと思っています。
確かに私の人生は地獄そのものでした。人間として扱われることも無く、ただの道具として扱われてきました」
「……アヤメも大変だったんだ」
「でも、今の私は自分のことを大変だと思ってはいません。もしも機会があるならば、同じ状況だったとしても跳ね除けたい。私の人生を歩みたい。今まで話を聞いてくださった司書さんたちとの会話を忘れないで、一歩前に進みたいんです。
神楽坂菖蒲として、もう一度生きてみたいんです」
これが素直な気持ちでした。これ以上に上手に言うことはできなかったでしょう。少しも説得になっていないし、リンドウさんを満足させるものでもなかったでしょう。
それでもリンドウさんは真摯な顔つきで聞いていてくれました。勘違いされることが多いけれど、リンドウさんはとても誠実で、真面目な人です。私はなんとなくそれを察していましたが、今になってひしひしと感じます。
リンドウさんはぎゅっと膝の上で拳を握って、顔を少し俯かせて言葉を返しました。
「……アヤメは強いよね」
「そう……ですか?」
「いいじゃん、どこへでも行っちゃえば。アヤメならできるよ」
「……あえてその本心は明かさないが。リンドウの言うとおりだとは思うぜ? アヤメは強い。だからこんな選択ができるんだ。
だが、それはアンタが頑張ったからだ。別に他の奴らが頑張ってないとか言いたいんじゃァねェ」
アザミさんがそう言って頬杖をつきます。リンドウさんに一瞬目をやったあと、片眉を上げて私のことを見つめました。
「アヤメにとって、ここは居場所だった。安全基地が作られたら、ここから巣立つ準備が出来たってことだ。そこまで信じて頼ったのはアンタの力だよ。人を頼るってのは非常に苦しいもんだからな」
「信じる力……ですか……」
「そうだ。次は自分の未来を信じろ。そしてリンドウは……そんなアヤメを信じろ」
リンドウさんが顔を上げます。そして、きっ、と鋭い目をしたかと思うと、私のことを、じっ、と見つめました。
薄い白の花弁に、ぎらりとした羨望が色をつけました。
「……行きなよ、アヤメ。あたし、止めないから」
「……ありがとうございます……!」
「でも、アネモネ図書館を離れることを良いと思ってるわけじゃないから。アヤメが行きたいって言うなら行けば良いと思ってるだけだから」
「それでも嬉しいです、本当にありがとうございます」
私が頭を下げれば、リンドウさんは申し訳無さそうに手を振りました。
リンドウさんと和解できたおかげで、私の中の蟠りは無くなったようなものです。それに、リンドウさんと話すうちに、自分の本当の気持ちに気がつきました。
私はもう一度、神楽坂菖蒲になりたい。苦しい環境を跳ね飛ばして生きてみたい。
この気持ちをアザレアさんに伝えましょう。そして前に進むのです。私はこのアネモネ図書館を卒業するのです。
私は顔を上げて、リンドウさんとアザミさんを見据えました。
「……では、私、行ってきます」
二人とも何も言いませんでした。私は部屋を出て、一歩一歩を踏みしめながらアザレアさんの元へ向かいます。進むにつれてだんだんと部屋が冷たくなっていって、人の声も息遣いも聞こえなくなっていきました。そうすると途端に寂しくなって振り返るのですが、あるのは本棚だけでした。
再度前を向いて、ゆっくりと、ゆっくりと歩みを進めます。自分の意志を確かめるように。
そしてその先に、アザレアさんは座っていました。まるでここが図書館の終わりだとでも言いたげでした。机に並べられた紅茶は二セットで、アザレアさんのほうにはたくさんの角砂糖が詰められた瓶が置いてありました。
「おかえり、アヤメさん。さて、決意はできたかな」
「はい。お待ちいただいてありがとうございます」
「待ってたんじゃないよ。貴女が来るのが分かってただけさ」
そう言ってアザレアさんは紅茶をカップに注ぎました。渡された紅茶はかなり甘くて思わず渋い顔になってしまいました。アザレアさんはクスクスと笑い、悪いね、と言いました。
「だけど、緊張は解けた」
「……ありがとうございます」
「貴女が人間としてやり直す決断を歓迎するのは変わらないよ。ただ……一つだけ、やり残したことがあるんじゃないか?」
「やり残したこと……?」
そう、と言うと、アザレア様はポケットからスマートフォンを取り出しました。画面には黒と白のツートンカラーの髪をした少女が映し出されていました。
思わず、あ、と声が出ました。画面の向こうの少女はじっとこちらを見据えると、小さく息を吐きました。
「ほら、ハルジオンには伝えてないだろう?」
「……はい。伝えませんでした」
「伝える義務はありませんので、お気になさらず」
「……ハルジオンさんはきっと、私のことなんか気にしないんじゃないかな、って思って……」
クロッカスだった頃の彼女は、私にとって切っても切れない親友でした。しかし、今は違います。友達になろうと試してはいるけれど、やっぱり検索デバイスとその使用者という関係からは抜け出せなかったのです。
ハルジオンさんは表情を変えないまま、行ってらっしゃい、と言いました。
「私のことはお気になさらず。良くも悪くも、切れるときは切れるものが縁というものですから」
「で、でも……私は、この縁を忘れないで……あなたを、待ちます!」
口から飛び出した言葉に、私ですら驚きました。アザレアさんは何も言わずにハルジオンさんを見せてくれています。ハルジオンさんはというと、私の言葉に少し驚いたようで、黄色と紫の目を見開きました。
「いつかハルジオンさんも、私と同じ世界に来てください。そして同じように人間として生きましょう。そうできたら、いつか会いに行きます」
「……ここでの記憶は消えてしまうんですよ?」
「でも、縁までは切れないと思います。そうですよね、アザレアさん」
アザレアは、うーん、と唸りながら顎に手を当てます。そして斜め上を見ると、そうかもしれないな、と独り言のように呟きました。
「どこかでは会えるかもしれない。その出会いが良いものになるか、悪いものになるかは神のみぞ知る。そもそも会えないかもしれない。記憶が無いってことはそういうことだよ」
「私は信じます。ハルジオンさんとなら、また会えるって」
ハルジオンさんは黙り込み、少し口角を上げて、目を細めると、溜め息を吐きました。
「……私は一検索デバイスですから、人間にはなりませんよ。でも……その気持ちだけは、ありがたくいただいておきます。
私と仲良くしてくれてありがとう、アヤメ」
その言葉の最後に笑みを乗せて、画面の電源は切れました。アザレアさんはスマートフォンをポケットにしまうと、さて、と言って一冊の本を私に手渡しました。
そこには「神楽坂菖蒲」と書いてありました。最後には「つづく」の文字が書いてあります。今だったら、自分について何が書かれていたかも読むことができるようです。
文字をなぞる指が、金色に光り始めました。消えていくことに恐怖は感じません。むしろ、ほんのりと体が温かくなって、優しささえ感じました。
私のアヤメとしての最期を、アザレアさんはとても穏やかな顔で看取ってくれています。私のアヤメとしての誕生は確か、シオンさんが見ていてくれたような。だからこそ、二人の顔つきが重なって見えた気がしました。
私は頭を下げて、ありがとうございました、と言い残しました。その返答を聞く前に、私は終わり、次の人生が始まったのでした。
◆
「菖蒲ちゃん、こっちこっち!」
「菖蒲ちゃんもご飯食べよー」
四限目の体育のせいで、少し頭がぼーっとしていたようです。呼びかけられて、屋上へと一歩足を踏み出しました。
今、私は、幸せです。
六人もの友達がいて、それぞれみんなが楽しい人で。自分の出自を──もちろん、「何でも屋」の次期当主であること──隠している限りは、こうやって友達と仲良く話せます。それに、彼らはきっと、それを知っても動じないのでしょう。
「今行きます!」
祖母が作ってくれた重箱を持っていけば、彼らは驚いてこちらを見ます。
「これ、一人じゃ食べきれなくて。皆さんにも協力してもらっていいですか?」
「まぁ、運動部の奴らが多いからな。何とかなるだろ」
「それじゃあ、全員揃ったし、食べよっか!」
重なる六つの声に、心が温かくなったようでした。
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