第348話 呪水回廊

 薄ら寒い霧が漂う水路を、もう何時間も歩き続けていた。

 空間が歪められて同じ場所を何度も歩かされているかのような、そんな錯覚に陥りそうになる。


「ムンディ教授、この辺りの空間……歪められてはいませんか?」

「うん、ひどく歪んでいるね。それでも僕らは間違いなく先へと進んでいるよ」

「そうともクレストフ。君が不安になるのはわかるけどね。私の探査術でも同じ道を二度は通っていないと確信できる。その上で、一方向に進んでいるのは疑いようがないよ」

 ムンディ教授と風来の才媛が言う通り、『標石マイルストーン』も『時空羅針盤』も正常に動作し、それらが指し示す方向へと俺達は迷いなく進んでいた。

(……二人が確信をもって言い切ってくれなければ、さまよい歩いているのではないかと俺はどこまでも疑っていたろうな……)


 以前の旅では道案内である貴き石の精霊ジュエルスピリッツがいた。あれも道行きを曖昧にしか覚えていない奴だったが、その歩みに迷いはなく謎の安心感があった。

 今回は以前と比べて案内人が不在ゆえに、宝石の丘への道を思い出しながら慎重に進む手探りの旅となっている。さらには道中が魔窟と化すという障害までおまけに付いてきたことで不安も大きかった。

 とりわけこの辺りの歪曲空間は時の流れさえ歪めるほどで、半分異界のような領域である。そんな中を迷いなく進める仲間がいるというのは、なんとも心強いことだ。


 そして不安が払拭されれば、ここまで来たという事実こそが浮き彫りになる。

 ビーチェとはぐれたのは異界の狭間。ここよりもう少し進んだ座標にある領域だが、詰まるところ俺達は『もう少し』のところまで来ているのだ。歪曲する時空はその証左でもある。

「風来、どうなんだ? 俺達は目標の場所へ……ビーチェの元に近づいているのか?」

「うん? ははは、せっかちだね君は。焦ることはないよ、クレストフ。彼女が持つ番号座標の固有波動なら、この歪曲空間に入り込んだときから捕捉している」

「……は? なんだと! 捕捉したのか!? ビーチェを! なんで早く言わない!!」

「こらこら、落ち着きたまえクレストフ。捕捉したとはいっても断片的な信号を拾えたに過ぎない。信号は微弱、それも時空の歪みのせいで方角もはっきりしないのでね。性質たちの悪い幻想種の悪戯ということもありうる。まだ伝えられる段階じゃなかったんだよ」

 胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いで詰め寄る俺に、風来の才媛は飄々とした態度を崩さず視線を逸らす。ビーチェの存在確認。それがこの旅においてどれほど重要なことか、その意味を風来の才媛は本気で理解しているのか。


「侮るなよ。俺が曖昧な情報に一喜一憂して判断を誤るものか。今後そういう情報は逐一、俺に伝えろ。その場その場でやれることがあるかもしれん」

「ああ、わかった。悪かったよ。それより詰め寄り過ぎてだいぶ顔が近いんだが、私とキスでもしたいのかい?」

 おどける風来の才媛を見て、ゴルディアがやや渋い顔つきになる。近くでやり取りを見ていたレリィも何か慌てた様子で表情の百面相をしている。頭一つ高い位置から横目で俺の様子を窺う風来に対して、俺はしばらくきつい視線で睨みつけていたが不意に馬鹿馬鹿しくなって視線を切った。


「冗談をほざくな。お前の腕は買っているんだ。第一級の探索術士『風来の才媛』がビーチェの固有波動を断片でも捉えたというなら、それだけで十分な情報になるんだよ」

「信用が篤いようで嬉しい限りだね」

「それで、追跡子トレーサーは付けられないのか?」

「無茶を言わないでくれ。方角も距離も、座標が確定できない相手に追跡子トレーサーをくっつけることなんてできるわけないだろうに」

「ちっ……。ようやく掴めたかもしれない手掛かりが、こうも危ういとな……。絶対に見失うなよ。周囲の警戒なんかは他の奴に任せて、ビーチェの固有波動を追うのに集中してくれ」

 これ以上、風来を責めても何も出てこないどころか、からかわれるだけなので俺も一旦、風来とは距離を取る。

 ゴルディアがまだ渋い顔をしたまま、レリィもなんだか不機嫌な様子で雰囲気が悪くなってしまった。そんな様子を見てメルヴィはニヤニヤと笑っている。相変わらずこの娘は面白がる状況がずれている気がした。


「あんた達……この不安定な時空のなかでよくやるわ。一瞬でも気を抜いていい場所じゃないのだけど?」

「そうだねぇ。ここの歪曲した空間は本当に興味深いよ。もはや半分は異界だからね。座標の差による時間経過のズレも大きい。皆、お互いの距離はなるべく近くにしておいた方がいいよ。はぐれたら一瞬で異界の狭間に飛ばされるかもしれないからね」

 ムンディ教授がまじめな様子で淡々と歪曲空間の恐ろしさを語ると、ぼけっと辺りを見回していたメグが「ひぇっ」と息を呑んで俺の外套の端を掴んでくる。

「や~ん、こわーい! レリィお姉さん、はぐれないようにメルヴィの手を握って~」

「え~……。そこまでするの? うう~ん、そこまで危険なんだよね? 仕方ないか……」

 ちらちらと俺やムンディ教授の顔色を見て、二人とも否定をしないことからレリィも割と冗談ではないと判断したようだ。渋々ながらメルヴィと手を繋いでやっていた。


「それにしても、いやーな雰囲気だわ。どこまでも歪んだ空間と深い霧が続いている。確かここを抜けた少し先に超越種がいたのよね……」

 唐突にミラが嫌な思い出を呟き始める。今ここであれのことを思い出したくはなかった。かつての旅で同行者の多くを殺した怪物の存在。

「そういえばいたな。もう少し先だが……さすがに魔窟といえど超越種を容易に生み出せはしないだろ? しないよな?」

 超越種が魔窟ダンジョンを生み出したり、魔窟に超越種が後からやってきてねぐらにするという話はあるが、魔窟が超越種を新たに生み出すという話は聞いたことがない。だがそれは聞いたことがないだけで、不可能であるという確証でもない。


 誰に尋ねるでもない俺の疑問に、ムンディ教授が律儀に答えてくれた。

「こればかりは魔窟の主ダンジョンマスターの気分次第かな。既に超越種並みの怪物どもを複数生み出している魔窟だからね、ここは」

「……もうそれ、魔窟の主って超越種か、それ以上の怪物確定だよね?」

 レリィが口にしたことは根拠のない予想だったが、ここまで大規模で凶悪な魔窟を創り出した主であれば、超越種であってもおかしくはない。というよりも、超越種でなければ無理ではないかとさえ思う。それが、いずれ相対するのが確実な敵だとするなら気が重くなる。なんとかビーチェだけ見つけて、連れ帰ることができないものか。

 そんな淡い希望を抱きながら濃い霧の漂う水路を進んでいると、急激に周囲の空気が冷え込んでいく感覚に襲われた。


「超越種ではないと思うけれど、妙な気配の奴がいるようだね」

 最初に気が付いたのは風来の才媛だった。ビーチェの探索のために広範囲の探査術式を使っていたからだろう。

 まだ何者かの姿さえ見えない時点で、近づいてきた脅威の存在を感じ取っていた。


 相変わらず足首までを浸す澄んだ水。水の流れによって岩が削られ、均された水路の地面。

 長々と続いていた狭い水路の途中、目の前に広がる開けた空間に一本の美しい刀剣が突き立っていた。


 銀色の刀身は曇り一つなく磨き上げられた鏡のようで、凪いだ湖面の如く平滑で澄んだ霊気を漂わせている。

 担い手はおらず、ただそこに突き立つ剣。


「……『霊剣水鏡れいけんみかがみ』……」

 元々は霊剣・妖刀の担い手六人組が宝石の丘への旅路に持ち込んだもので、『霊剣水鏡』はそのうちの一振りであったはず。

 旅の途中、超越種との戦いで担い手が死亡したことから、三本の妖刀は剣神教会の剣聖アズーによって回収され、霊剣のうち二本は俺が拾った後にビーチェへ預けられ、残り一本の霊剣は別の仲間へと渡された。

 『霊剣水鏡』を譲り受けた仲間も、その後すぐに聖霊教会の悪魔祓いエクソシストとの戦いで命を落としている。『霊剣水鏡』はそのまま行方不明になっていた。それが何故、今ここで俺達を待ち受けていたかのように存在するのか。

「風来。妙な気配というのはまさか、これか?」

「そうだね。充分に気を付けてくれ。『何か』が憑いているよ」


 『霊剣水鏡』を薄青い光が包み、足元から伝わり全身が底冷えするような霊気がその刀身から漏れ出してくる。


 ……口惜しい……呪わしい……。


 怨嗟の声がどこからともなく響いてくる。

「何の声だ?」

「霊剣が喋った、とか?」

 深く考えずにこぼしたレリィの発言は、状況だけ見たらそう思えるかもしれないが、霊剣が言葉を操るほどの知能を持ちうるかといえばそれは難しい。だが無関係かといえばそれも違うように思う。

 怨嗟の声に呼応するかのように『霊剣水鏡』がすぅっと地面から浮き上がり、冷たく光る切っ先をこちらへと向けて静止した。


 ……忌まわしき……仇敵め――!!


 ――ぼっ!! と盛大な水飛沫みずしぶきを巻き上げながら、霊剣が宙を飛翔して真っ直ぐにメグ目掛けて飛んでいく。

「ほわぁああっ!?」

 甲高い金属音が上がる。メグは間一髪で戦棍によって霊剣の切っ先を打ち払った。担い手なき『霊剣水鏡』は剣単独で空中を自在に飛翔し、霊気をまとった刃を振り回して執拗にメグを追いかけ始める。

 霊剣と戦棍の打ち合う音が連続で鳴り響く。レリィがすかさずメグの援護に割って入るが、『霊剣水鏡』はレリィの攻撃を軽くいなすとそちらには一切反撃することもなく、ただひたすらにメグだけを狙って斬りつけ続けた。明らかにメグだけを集中的に狙っている。

「なぁっ!? ななな!! なーんで私ばかり狙われるのですかぁー!?」

 突然メグだけが集中攻撃を受ける事態になったが、理由はすぐに氷解した。


 ……報いを受けよ……悪魔祓い――!!


 何者かの怨嗟の声は、明確に悪魔祓いに対する敵意を持っていたのだ。

「悪魔祓いに殺された人間が残した怨念ってところか? だが、人の残留思念にしては超常現象が過ぎる」

 いくら魔窟の影響を受けたところで、霊剣が明確な自我を持って特定の人間を襲うようになるのだろうか。それも人の残留思念などという薄弱な現象によって。

 ――違う、と俺は思った。これはもっと明確な敵意が働いているように感じる。だとしたら、霊剣を操る存在としてどんなものが考えられるだろうか。


(……いるのか、そこに? この怨嗟の声を漏らす存在が……)


 魔導因子そのものといっても過言ではない、魔力を帯びた霧が立ち込めるこの空間では、『天の慧眼』の術式で見えないものを見ることはできない。視界に映るものは全て霧に紛れてしまうだろう。

 それでも、何者かの正体を暴く足掛かりを作るだけならできるかもしれない。風来の協力があればあるいは捉えることも――。

「風来! 敵の正体を暴く! できるなら追跡子トレーサーなり、何か印をつけろ!」

「まずは敵を可視化しようということかい? そういうことなら……」


 俺は風来の返事を待たずに敵の正体を見破るための術式を、緑藍晶石ヌーマイトの魔蔵結晶で発動する。

(――搔き乱せ――)

『因子撹乱!!』

 空間に存在する魔導因子を、魔導因子の波によって搔き乱す幻想種対策の術式の一つ。目には見えない魔力の波動が空間を伝播し、不可視の存在を炙り出す。

 飛翔する『霊剣水鏡』に寄り添うように、透明な水の塊のようなものがチラついて見えた。確かにそこに何かがいる。


(――見えざるものにしるしを施せ――)

無形烙印むぎょうらくいん!!』

 すかさず風来の才媛が透明な敵に印をつける術式を放った。俺も初めて見る術式だった。見えなかった敵の姿が、じわじわと色濃く存在を主張するようになっていく。

「ひぃぇえええっ!? なんかいるです! なんかいるのですよ!? ……はっ!? こ、これはもしかして――精霊なのですかぁ!?」

 霊剣と打ち合いながら、姿を暴かれた謎の存在を間近で直視したメグは水の塊のようなものを見てその正体に思い至る。


水妖精ウンディーネか! しかし、この水妖精ウンディーネはまさか――」

 宝石の丘への旅路で共に同行した者達の中に、俺にとっては数少ない親友の一人が参加していた。そいつは水妖精を従えた精霊術士だった。彼は旅の途中で行方不明となったが、後から状況の考察をすると、それが聖霊教会の悪魔祓いエクソシストによる暗殺で命を落としていたことは想像できた。

 なればこそ、今まさに悪魔祓いのメグを執拗に狙い続けるこの水妖精は、精霊術士の友が契約していた精霊ではないのか。けれども、あの容赦ない悪魔祓いの四姉妹が討伐対象であろう水妖精を取り逃がしたとは思えない。

 だとしたらこれは精霊の残滓。怨念が魔窟の力によって再構成された『現象』なのだろう。


「それにしても、凄まじい荒ぶりようだ。どう決着をつけるか……」

 姿が見えるようになった段階で、レリィとゴルディアがメグの元へ加勢している。それでも、不規則な流体の動きで水妖精は逃げ回り、放たれた騎士の闘気も『霊剣水鏡』によって斬り散らされてしまっていた。メグも聖火を戦棍にまとわせて応戦しているが、水妖精の体に一撃すると炎はあっけなく消え去ってしまう。この様子では浄化の炎を使った術式は効果がないだろう。

 あと、俺が使える術式で効果がありそうなものは……。


 そこまで考えたところで、足元に一匹の地の精ノームが現れてぴょんぴょんと飛び跳ねながら何かを訴えかけてくる。

「お前が行くっていうのか?」

 小さな体を前後に揺らして肯定の意思を示すノーム。精霊自身がやる気を見せているのなら、ここは任せてみるべきか。

「よし、それなら行け! 地の精ノームよ! 水妖精ウンディーネの動きを封じろ!」

 それまで姿を見せていなかったもの、あちこちの岩陰やら地面の窪みから、丸い毛むくじゃらのノームが飛び出してくる。怒り狂った水妖精を鎮めるために、それらのノーム達が一斉に動き出した。

 数に任せた勢いで次々に水妖精へとノームが飛びかかり、毛玉を寄せ集めた大きな玉となって水妖精の動きを封じ込める。

「そのまま抑えていろよ。俺が水妖精を封じ込める!」


 天青石セレスタイトの魔蔵結晶を、ノームが押さえつけた水妖精に投げつけて封印の呪詛を発動する。

(――永久とわの休息を与えよ――)

『青き群晶!!』

 青く透き通る結晶群が爆発的に成長して、組み付いたノームごと水妖精を呑み込んで封じ込めた。

「ちょっと、クレス!? ノームまで一緒に封じ込めちゃうの!?」

「き、鬼畜なのですぅ……」

「案ずるな! ノームなら平気だ! それと、おいメグ! 聞こえているからな!」

 土への干渉力が強いノームは結晶からするりと抜け出して、水妖精だけが結晶に取り残されたまま、青い結晶は再び収縮して水妖精を小さな結晶塊に閉じ込めてしまう。


 怨嗟の声が聞こえなくなり、霧の薄くなった水路に静寂が訪れる。

 ぱしゃぁーんっ、と大きな水音が一つ静けさを取り戻した水路に響いた。水妖精の支配を解かれた『霊剣水鏡』が、浅い水溜まりへと落下して横たわる。


 静謐な霊気を湛えて、『霊剣水鏡』は水に沈んでいた。

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