第347話 海蝕隧道
宝石の丘への旅路では、ある意味で最も苦しめられたと言えるのが、糞尿の海が延々と続く『
この道程が昔と同じ道を辿っているならそろそろだろうと覚悟していたのだが、どういうわけかそのような環境に行き当たることもなく俺達は魔窟を進んでいた。『時空羅針盤』の示す方向へ歩き続けて樹海を抜けると、足首ほどの高さまで澄んだ水を湛えた浅瀬が広がる。『
潮風が漂い、緩やかな波の押し引きが足元をくすぐる浅瀬の先に、まるで誘うかのように大きな口を開けた洞窟が存在を主張している。打ち付ける波によって削られたのか、穴凹だらけの岩で構成される海蝕洞だ。
「あの糞地獄をもう一度、体験したいとは思わないが……。見当たらないとなれば、それはそれで順路が間違っているのではないかと不安になるな」
「さすがの魔窟の主も、あの汚泥にまみれた世界を魔窟の内に取り込みたくなかったのかしらね?」
冗談めかした仮説をミラが語るが、あながち的外れとも言えない。しかし、それを認めるということは別の可能性を肯定することにもなる。
考えまいとしていた恐るべき可能性。
あの『屎泥地獄』を知る何者かが、魔窟の主であるという可能性だ。
それが何を意味するのか、ミラはわかっていて発言しているのだろうか。
「魔窟の作りを論理的に解釈しようとしても無駄だな。ここまでの道のりも、かつての宝石の丘への順路とは異なる部分も多かった」
「そうね。そうだといいのだわ」
本当に、そうであってほしい。
願うような想いを抱きながら、俺は海蝕洞の奥へと足を踏み入れた。誰かの意思によって穴を穿たれたかのような
海蝕隧道の奥へと進んでいっても、依然として足元の水位は変わらず浅瀬が続いていた。
そこは不気味なほど静かで、俺達の足が立てる水音だけが反響して聞こえる。
隧道に入ってからしばらく、入口の光は届かなくなったが、隧道の天井岩に開いた穴や亀裂から差し込む光が適度な明かりとなって進む道を照らしていた。
ぱしゃぁあんっ……と、遠くで大きな水音が聞こえた。
全員が足を止めて、耳を澄ませる。音はそれきり聞こえてこない。だが、聞き間違いではないだろう。俺たち以外の何者かが立てた水音だ。
隧道には幾つも脇道が存在していた。探索していない脇道の奥に何かが潜んでいたとしても不思議はない。
俺は余計な音を立てないように、身振り手振りで一旦停止の指示を出して、風来の才媛に周囲を探らせる。
風来が探査を始めてすぐ、再び遠くでぱしゃぁああんと水音が響いた。その音に、弾かれたようにして風来が声を張り上げる。
「近いっ!! 反響に騙されるな!」
警戒の声が隧道に響いた瞬間、それはまるで流れる水のように滑らかな動きで迫ってきていた。
最初に見えたのは、残光を帯となす瑠璃色に光輝く瞳と暗がりに溶け込むような黒い顔面。
しなやかな四足獣の体は隧道の天井に迫る体高で、頭頂から背にかけて一筋の
……ゥウウーッフフフ、フウゥーッ──!!
ぞくりと、背筋に寒気が走るような笑い声を漏らして、口の端からは黒ずんだ油のような涎を垂らしながら、不気味な魔獣が俺達の後方で立ち止まり様子を窺っていた。
「……ぅうっ……。醜い狼さん、でしょうか? でもちょっと不気味な顔立ちしてるのです……」
「狼……ではないよ、あれ」
メグの率直な感想に対して、森の動物にも詳しいレリィは目の前の魔獣種を冷静に観察していた。
「あの顎は危ないかなぁ……」
発達した筋肉に包まれた顎周り。通常の生き物の摂理から外れた魔獣と言えど、素体の特徴はやはり出る。この魔獣の素体となった動物に俺は心当たりがあった。
「
魔窟に出現する魔獣の素体としてはかなり珍しい。あまり広範囲の地域に生息する動物でもないため、メグのように見たことがない者も多いだろう。俺も、野生の鬣狗は見たことがない。
そんな俺がこの魔獣を鬣狗だと断定できたのは、近縁の種族を知っていたからだ。宝石の丘への旅路で同行した獣人の中に
「こいつは成れの果てか、それともただの残滓か」
「……
寒気など感じるはずのないミラが、魔導人形の体をカタカタと震わせている。
冷たく輝く瑠璃色の双眸と、
攻撃衝動に支配されてただ暴れ回るような魔窟に住む有象無象の魔獣とは異なり、高い知性が窺え、能力の底が見えない不気味さを漂わせている。
見るものが見れば一目でわかる。とても強力な魔獣だ。
「まさか、超越種じゃないよな……?」
「さて、どうだろうね。それとわかるものもいれば、一当てしてみるまでわからないような超越種もいるが……」
明確な回答を避けた風来の才媛だったが、この魔窟へ入って以来、これまでになく緊張した様子の風来を見ては楽観的に考えられるはずもない。
ちゃぷんっ、と鬣狗魔獣の大きな前足が水面を揺らす。
一歩踏み出してきた鬣狗魔獣に対して、俺達はすぐさま戦闘態勢を取った。鉄砂の鎧と自動迎撃の呪詛を込めた魔蔵結晶による防衛術式。それと――。
(――組み成せ――)
『
ぱしゃぁんっ……と先ほどよりも大きな水音が響いた。
笑う巨獣が水飛沫を跳ね散らかしながら、流れるように水路の浅瀬を走りぬけてくる。
……フゥウーッ! フゥウフフ、フウゥ──ッ!!
鬣狗魔獣の巨躯が青い霧を残像のようにその場に置き捨てながら、瑠璃色に輝く瞳と白く発光する鋭い牙を剥きだして迫る。
(――世界座標『トルクメニスの地獄門』より召喚――)
『逆巻け、炎熱気流!!』
鬣狗魔獣が動き出すと同時にメルヴィが炎の攻勢術式を仕掛けた。周囲の空気が歪むほどの火勢で高熱の陽炎が真っ直ぐに伸び、鬣狗魔獣の表皮がちりちりと火の粉を噴いて炙られる。だが、鬣狗魔獣は突進の勢いを落とすことなく向かってきた。
「――ちょっとぉ! 全然、効いてな~い!?」
全く効果を及ぼさなかったことに驚きながら、メルヴィは慌てて俺の後ろへと隠れる。
(――世界座標、『聖者の蔵』より我が手元へ――)
『聖なる篝火をここに!』
迫りくる鬣狗魔獣を迎撃せんと、メグが聖霊教会の秘術で戦棍に聖火を灯し立ち向かっていく。
「地獄に落ちるのです!!」
聖職者にあるまじき暴言を吐きながら放った炎の一撃。だが、聖火は魔獣の表皮に当たった瞬間、青い霧に包まれて消失する。
「ふへぁっ!? 聖火を消されたですっ!? へぶっ――!!」
無力化された戦棍は鬣狗魔獣になんの痛撃を与えることもなく、逆に振り回した鼻先でメグは腹を突かれて隧道の壁に叩きつけられる。魔獣はメグに噛みつこうとしていたようだが、その牙は戦棍によって辛うじて弾かれていた。
鬣狗魔獣は吹き飛ばされたメグには見向きもせず、立ち止まることなく突撃してくる。
「動揺している暇はないかしら! 攻撃の手を緩めず、たたみかけるのだわっ!」
陣形に開いた穴を埋めるようにミラもまた術式を展開する。
(――世界座標、『傀儡の人形館』より召喚――)
『破壊の
軽銀を素材に精霊機関を核として宿し、斧や鎌で武装した小悪魔じみた造形をした魔導人形達だ。
十体の魔導人形が一斉に魔獣の全身各所を狙う。正体が不明な魔獣に対して、総当たりで弱点を探っていく策である。
「切り刻みなさい!!」
魔導人形達が鬣狗魔獣に攻撃を仕掛けた瞬間、魔獣の姿が透けたように薄くなり魔導人形達の攻撃が全てすり抜けてしまう。ただ一体、顔面に攻撃を仕掛けた魔導人形だけは鬣狗魔獣の顎に噛み砕かれて動かなくなった。
「――こいつ!? 普通の魔獣ではないわね! 格が違う。憑りついている幻想種が高位なのだわ!」
強力な魔獣が生まれる要因は二つ。
一つは、幻想種が憑依した者が元より強かった場合。もう一つは、憑依した幻想種の格が高かった場合。
そして二つの条件が揃った場合には、時として超越種と呼ばれるような規格外の化け物が生まれるのだ。この魔獣は超越種とまでは思わないが、それでもミラの魔導人形を一切寄せ付けないことからも驚異的な強さに感じる。
止まることのない鬣狗魔獣の突撃に緊張感が走る。決定的な攻撃を加えることができないまま、かなりの距離を詰められていた。
「炎がダメなら氷で封じるまでよね~!」
「──メルヴィ! 奴の動きを止めるぞ!」
メルヴィは無言で頷くと即座に術式発動の意識制御に入る。俺の術式が即時発動可能なことをわかっているからこそ余計な時間を省いてすぐさま次の行動へと移っている。
(――凍れる息吹に包みこみ、一時の休息を与えよ――)
『氷結封呪!!』
敵を凍り付かせる悪意の呪詛が、ちょうど鬣狗魔獣の向かってくる足元の水分を一瞬で凝結させた。
(――
『青き群晶!!』
メルヴィの術式発動と同時に、
中空に発現させた封呪の術式が鬣狗魔獣の足から上を結晶に包み込んだ。
そして鬣狗魔獣は、そのまま駆け抜けてきた。
――足元の氷も、上半身を包んだ結晶さえも置き去りにして。
「――どうなってやがる!?」
「クレスは下がって!!」
レリィとゴルディア、二人の騎士が闘気を全開にして鬣狗魔獣へと挑む。大上段から振りかぶった金色の闘気の剣が、真っ直ぐに突き放った翠色の闘気の棍が、希薄になった鬣狗魔獣の体を何の抵抗もなくすり抜けていった。ゴルディアは大剣を振りかぶった勢いのままその場に踏み止まり、勢い余ったレリィは体勢を崩して魔獣の遥か後方へと体を投げ出してしまう。
「嘘でしょっ!? すり抜けたの!?」
「ぬぅっ!? 抜かれただと!?」
防御の要たる騎士二人が抜かれて、鬣狗魔獣が牙を剥きだしにしながら俺を目指して突撃してくる。狙いは最初から俺一人だったか。
メルヴィの炎熱術式は通用しない。メグの聖火による一撃も打ち消されてしまう。
物理攻撃は霧を裂くようにすり抜ける。凍らせて動きを止めようにも、一部が凍り付いたところで本体とは無縁の如く切り離されて足止めにならない。それで体力が削られた様子もない。
(――ここまでの戦闘で攻撃が無効化されていないのは、頭か――!?)
焦げ茶色の魔力光を放つ褐石断頭斧を振り上げ、鬣狗魔獣の突撃に合わせて脳天へと振り下ろす。魔獣は顎を上に向けて振り下ろされた大斧に食らいつく。褐色の閃光が迸り、衝撃波が魔獣を襲う。だが、鬣狗魔獣の
「ぅぐ――っ!!」
強靭な顎に噛みつかれて、鉄砂の鎧ごと腕を食いちぎられそうになる。即時、防衛術式による衝撃波が連続して発動し、鬣狗魔獣に強烈な反撃を与えた。それでも、鬣狗魔獣は食いついたまま離れない。顎に加わる力は増すばかりだ。
「二重の防衛術式を――食い破ってくるのか!?」
あまりの痛みに涙が滲み、最悪は腕を食いちぎられることも覚悟したところで、間一髪レリィが放った闘気弾が魔獣の顎関節を直撃して牙が外れる。
(――世界座標『
『
風来の才媛が爪に刻まれた魔導回路で召喚術を発動し、鬣狗魔獣の全身を捉えるように鋭い気流を発生させて吹き飛ばす。あらゆる攻撃を無効化してきた鬣狗魔獣だが、面攻撃による圧力には押し戻された。
こちらの攻撃が全く通用しないわけではない。これまでの攻防でもおおよその特性はわかった。
「クレストフ君! 腕を戻すかい?」
「ムンディ教授……いえ、ここで巻き戻しはまずい。このまま倒し切ります」
ムンディ教授の時間逆行の術式なら俺の体はすぐ万全に戻る。だが、この短い攻防で得られた知見ごと巻き戻されてしまうのはよくない。腕を守っていた鉄砂の鎧、その砂鉄から滲みだすように血が滴る。幾らかは砂鉄に吸われているはずの血が、こうして垂れ落ちてくるのは相当な傷を負った証拠だ。
あまり長く放置していい傷ではない。それでも、今は一瞬たりとて攻撃の手を緩めるわけにいかない。ムンディ教授と会話をしながらも、俺は立て続けに攻勢術式を放っていた。痛みをこらえながら、右手人差し指にはめた
「全員、敵の顎を狙え!! それ以外の場所は攻撃を無効化される!」
実体は牙と顎周りにしか存在しない。あるいはそれ以外の場所は実体と非実体を切り替えられる。そんな能力なのだろう。
俺の指示に、風来の才媛が即座に動いた。
(――世界座標『
『
身体周りを風が渦巻き防護する術式がゴルディアに付加される。
「ゴルディア! あれを抑えてくれ!」
「任された!!」
俺が言いたかったことを風来の才媛が指示してくれる。ゴルディアも気合の入った声で応じた。そうと決まれば俺がやることも自動的に決まってくる。
(――組み成せ――)
『金剛杖!!』
(──震えろ──)
『高振動属性付与!!』
指の間に挟める程度の小さな銀色の板。人工精製した超高純度金属
「ぬぅううぉおおおおっ!!」
金色の闘気をこの時に集中して爆発させたゴルディアが真っ向から鬣狗魔獣へと突っ込み、大きく開いた顎へ大剣を振るいがっちりと噛み合う。鬣狗魔獣も俺を狙うより、ゴルディアの攻撃をしのぐことに精一杯の状況になる。それでも一流騎士の本気でも押し切れず拮抗していた。
「レリィ、同時に仕掛けるぞ!! いいか、同時だ! そっちは上から叩き込め!」
「わかった! これで決めよう!!」
レリィも俺の身を案じるような無駄はしない。ムンディ教授による回復の術式を断ったことから、戦闘継続が最善の選択であると皆が理解しているのである。
意思統一をした後は、合図もなしに俺とレリィは同時に飛び出した。最速の判断にして最速の行動こそが、俺達二人にとって最も攻撃を合わせやすい。
滑りやすい水場の地面に足裏を食い込ませるように叩き付けて走るレリィ。それとは対照的に、足を擦って滑るように俺は低姿勢で鬣狗魔獣の懐へ飛び込んだ。
レリィが軽く跳躍した。俺は鬣狗魔獣の顎下に潜り込み、即座に振動する金剛杖を突き上げる。これに合わせてレリィが翠色の闘気を全力で込めた真鉄杖を魔獣の頭上から振り下ろす。
振動する金剛杖と闘気に包まれた真鉄杖が鬣狗魔獣の牙を挟み込み、粉々に打ち砕いた。
フウゥォォォオオオ──ッ!!
魔獣の断末魔の叫びが海蝕隧道に響き渡る。
瑠璃色の両目から光が失われ、顎先から黒い灰となって燃え尽きていく。
砕け折れた大きな牙が複数本その場に落ちて水音を立てた。驚異的な硬度と靭性を持った牙だ。
魔核結晶は落ちなかった。
「魔石、落とさなかったね」
「魔核結晶を落とさない魔獣。そうか……。やっぱり、こいつはブチだったのか……」
俺の独り言にレリィは首を傾げた。その一方で、言葉の意味を理解したミラが憐れむような表情と、感情のないガラス玉の瞳で、魔獣が落とした大きな牙をそっと抱え上げる。
「これは拾っていきましょう。渡すべき相手もいないけれど、持つべき者がいるとすれば、それはあなたなのだわ。クレストフの坊や」
「そうだな……。いや、一人いたな。俺も知っている関係者が。魔獣化した者の遺骸を、仲間の形見として受け取るかはわからんが。後で聞いてみよう」
ミラが拾い上げた鬣狗魔獣の牙を俺は送還術で自身の工房の保管庫へと飛ばした。
「……後始末はいいけど、早くクレストフ君の腕は治した方がいいんじゃないかい? どうするね。今ここであったことは、あとで教えることが可能だ。時間を巻き戻して体を回復させても、記憶の欠落はさほど問題にならないと思うよ」
「それでも、遠慮しておきます。この戦いの記憶は忘れないでおきたい。それに、これくらいの傷なら自分でも治せますから」
俺はムンディ教授の申し出を丁重に断り、自分の治癒術式で腕の治療にかかる。鉄砂の鎧を解くと、ぐしゃぐしゃに潰れた右腕が露わになる。肉が裂け、骨は砕けていた。そんな大怪我を目の当たりにして、レリィが辛そうに表情を歪めている。相変わらず責任感の強い奴だ。騎士である自分が守り切れなかったと反省しているに違いない。
(――傷を癒せ――)
『癒着再生……』
腕は少し時間をかけたものの、ほとんど傷跡が残らないほどに再生した。新しくなった皮膚が白っぽくなっているくらいだ。それもじきに周囲の皮膚と馴染むだろう。
「もう大丈夫?」
「ああ、問題ない。腕は動く」
「そっか。それならいいよ」
レリィの言葉には体の心配だけではない含みも感じられたが、俺は敢えて腕の調子だけを答えた。それこそ、俺は平気だと示す何よりの言葉だと思って。
傷の回復が完了した頃合いで、ちゃぷん、と隧道に水音が一つ響く。
「メ、メグも回復してほしいのです……。肋骨、折れているのですよ、これ……」
戦闘開始すぐに脱落したメグが、青い顔をして歩いてきたのだった。
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