第318話 第七階層『腐蝕の沼』

 朝靄のかかった森は不気味な静けさに包まれていた。不自然なほどに物音がしない天幕の中で、俺は目を覚ます。

 寝台の脇には緊張した面持ちのレリィが立っている。水晶棍を握りしめて、臨戦態勢を取っていた。寝台から身を起こした俺に気が付いたレリィは、「しーっ……」と、口元に人差し指を当てて、物音を立てないように注意してくる。

(……何が起きている? 魔獣と戦闘になっているのか?)

 だとしたら俺は戦闘中に寝こけていた間抜けなのだが、それにしては辺りが静かすぎる。天幕の中にはレリィ達全員が揃っていた。いずれも息を潜めるようにして縮こまっている。


「……やっと目を覚ましたわね。少しは疲れも取れたのかしら?」

 よちよちと四つん這いになってこちらへ近づいてきたミラが、声を潜めて俺の体調を確認してくる。言われて自分の今の状態に気を配ると、体の怠さはむしろ悪化している感じがした。

「本格的に風邪を引いたかもしれないな。頭がぼーっとする……」

「風邪ですって? 参ったわね。こんなときに……」

「今、どういう状況だ?」

 ほとほと困り果てた様子のミラに状況を尋ねる。いい加減、事態を正確に把握しておきたい。


「魔獣に囲まれてしまったんだよ。それもおびただしい数にね」

 落ち着いた声音でムンディ教授が答える。彼は小さな体で足の付かない椅子に座り、一人優雅に紅茶を飲んでいた。熱を持った俺の頭では状況が理解できない。

「とてもそうは見えないが……」

 天幕の外の様子を見ようと寝台から下りるが、足元がふらついてレリィに体を支えられる。

「本当に調子悪そうだね、クレス」

「さっきから言っているだろう。完全に風邪を引いているんだ、これは」

「う~ん……クレスが病気で寝込んでいるところ見たことがなかったから、本当なのかなって……」

 本当でないなら何だというのか。言い返したい気持ちも少しあったが、怠い体では反論するのも億劫だ。黙ってレリィに支えられながら、天幕の隙間から外の様子を窺った。


「こいつは……」

 思わず目を見開いて息を呑む。隙間から覗いただけでもわかる。天幕から少し距離を取った全周囲に、多種多様なゼリー状の生き物が無数に蠢いているのだ。この魔窟に入ってからは初めて見るが、粘菌スライムだ。どいつもこいつも一抱えはありそうな大きさのやつがごろごろといる。

 粘菌スライムの群れはまさに視界を埋め尽くすほどで、粘菌の上にまた粘菌が覆いかぶさりといった光景が目の前には広がっていた。

「ちょうど『魔獣除けの呪詛』の効果範囲ぎりぎりにまで迫っているわぁ~」

 珍しくメルヴィが険しい表情をしている。

「メグ見たのです! 粘菌が地面から湧き出してきて、辺り一面を覆いつくしたのです!」

「あれはどうにもなりませんでしたね。むしろ、『魔獣除けの呪詛』を使って拠点にこもっていたのが幸いだったかと。何の準備もなしにあの粘菌の群れに呑まれていたら……」

 メグとヨモサは青い顔して二人で寄り添っていた。


 俺は働きの鈍くなった頭で今の状況をどうにか理解した。メグは粘菌が地面から湧いてきたと言った。だとしたらこの周囲一帯はもう……。

「どうやらここは既に第六階層を抜けた先……。『第七階層・腐蝕の沼』だな……」

「いつの間にか次の階層に入り込んでいたってこと?」

 いつ魔獣除けの呪詛を破ってなだれ込んでくるとも知れない粘菌の群れを睨みながら、レリィは俺の言葉に耳を傾ける。

「ああ、そうとしか考えられない。ギルドの調査隊の情報でも、いつの間にか周囲を粘菌に囲まれていたという話だ。まさか地面に潜んでいて、湧き出してくるとは」

「なるほど。粘菌が地面から湧き出してくる。だから腐蝕の沼というわけかい?」

「あれらの粘菌は動物の肉から金属や木材まで何でも腐食するらしい。複数種類の粘菌がいて、それぞれ違ったものを分解する能力があることから、総合的には何でも腐食させる厄介な特性になっているんだ」

「はぁー……そういうことかい。まったく面倒なことだね。どうせならお互いを腐食し合って勝手に全滅してくれればいいものを」

 紅茶を飲み終えたムンディが、心底嫌そうな顔で溜息を吐く。普段なら魔窟に興味津々なムンディも、これほどの魔獣に歓迎されるのは遠慮願いたいところか。


「ミラ。魔獣除けの呪詛はあとどれくらい維持できる?」

「その気になれば一週間でも、一ヶ月でも維持できるわよ。状況がこれ以上、悪くならなければね」

「早めに対処しないとまずいと思うわぁ~。段々と増えているものぉ。あの粘菌達」

 状況の悪化。それだけが問題だった。

 メルヴィが言ったように外の粘菌達は時間が経つにつれて、うずたかく積み上がってきている。まさに『腐蝕の沼』というに相応しい光景だ。ぐずぐずしていれば粘菌の沼に埋没してしまうだろう。

 長居は無用だった。


「まずは奴らの数を減らして、道を作らないとな」

「そんなふらついた状態で大丈夫なの? 戦うんだったら、あたしが前に出るよ!」

「いや、たぶんこの状況を効率よく抜け出すには俺の術式が一番のはずだ」

「あら? 私だって一級術士なのだから、何とかしろと言われればできるわよ?」

「はいはーい! メルヴィもただ多いだけの魔獣を蹂躙するならぁ、大得意かも! 全部まとめて焼き払うなり、氷漬けにして足場にしちゃえばいいものぉ!」

 レリィに限らず、ミラもメルヴィも、この状況に絶望はしていない。たぶん、体調不良の俺が無理をしなくてもこの場を脱する方法はあるだろう。


「それでも、無理を押してでも俺がやった方がいい。取りこぼしだけは任せる」

 懐から複数の黄水晶シトリンの魔蔵結晶を取り出す。レリィに支えられながら俺は天幕の外へと出た。

「このまま進むつもりなら天幕は片づけるわよ?」

「ああ、いつでも動き出せるように準備しておいてくれ」

 拠点としていた天幕をミラが送還術で元の場所に返すのを待ってから、俺は関節の痛む体を無理やりに動かして、術式発動の意思を込めた魔蔵結晶を外で蠢く粘菌の群れに向かって投げ放つ。


(――世界座標、『腐海の湖』に指定完了――)

『服従を誓うもの、我が呼びかけに参じよ――巨群粘菌ヒュージスライム!』

 投げ放たれた黄水晶の魔蔵結晶が、限界までその力を発揮して召喚できる限りの巨群粘菌を、腐蝕の沼たる粘菌達の真上に出現させた。

 この場にいる粘菌魔獣のどれよりも巨大な個体である巨群粘菌は、出現と同時に次々と粘菌魔獣を捕食し始めた。普通の粘菌が、魔獣化した粘菌に敵わないかといえばそうではない。種族そのものが強力な種類であれば、例え相手が魔獣であろうとも敵ではないのだ。

 巨群粘菌は粘菌のなかでも最大種であり、とにかくその巨体でもって何でも呑み込んでしまう。特に、他種類の粘菌を捕食する性質も持ち合わせており、大抵の粘菌の毒素に耐性を持つほか、他の粘菌類の細胞膜を溶かして食い荒らす能力を有している。

「存分に食らい尽くせ!!」


 蹂躙が始まった。

 巨群粘菌は他の粘菌を食えば食うほど巨大化していき、他の粘菌を取り込む速度も飛躍的に増していく。巨群粘菌が通り過ぎた後は綺麗に粘菌が消えて、一本の道が出来上がっていた。

「走り抜けるぞ!」

 威勢よく全員に声をかけたものの全身が怠い俺は、身体強化の術式を使ってさえ遅れがちだった。

「クレス! このまま行けるの!?」

「行くしかない! レリィは俺に構わず、周囲の警戒へ気を使え! 地面からまた粘菌が湧き出しているぞ!」

 走りながら大声を出したせいか、ごふっ、と重苦しい咳が飛び出す。俺の様子をしばらく気にかけていたレリィだったが、巨群粘菌が切り開いた道が後ろから徐々に新たな粘菌で埋め尽くされていくのを見て、周囲の警戒へと意識を戻した。


 次々と横手から飛びかかってくる粘菌魔獣を水晶棍で殴り払いながら粘菌の海に浮き上がった一本の道を走り抜けるレリィ。

 翠色の闘気を棚引かせながら、前へ、後ろへと全員を粘菌から守るように動き回っている。驚異的な運動量で俺が動けない分を補っているのだ。レリィにはかなりの負担をかけるが、ここは踏ん張ってもらうしかない。

(……くそ。真っ直ぐ走るのさえ難しい。胸も関節も痛みが激しい。息も切れ切れで、気を抜いたら全身がバラバラになりそうだ……)

 今の俺の体調では、ただ走るだけで精一杯だ。魔獣の迎撃も全て他に任せるしかない。


 ふと横を見ると、走る速度を落としながら何やら杖に意識を集中しているメルヴィが目に入ってくる。普段のふざけた様子は一切なく、本気の表情だ。

(――世界座標『大寒地獄』より召喚――)

『命よ凍れ! 白魔の息吹!』

 術式発動の楔の名キーネームをメルヴィが口にした瞬間、かつて宝石の丘への旅路で通過した大寒地獄の凍える冷気が辺りに吹き流れ、押し寄せてくる粘菌魔獣の波を一瞬にして氷の壁へと変貌させた。

 凍りついた粘菌魔獣の壁に挟まれる道を駆け抜けると、壁の上から真っ赤な色の粘菌が高々と跳躍しながら何匹も降ってくる。あれは魔獣化した鉄血粘菌ブラッディスライムだ。メルヴィの術式の効果は周囲へ広範囲に影響を及ぼしたはずだが、こいつは寒さに耐性があるのか凍てつく冷気にも怯まず襲いかかってくる。


 赤黒く禍々しい色をした鉄血粘菌が、メルヴィを狙って集中攻撃をかけようと殺到したところに、メグがすかさず飛び込んで防衛に回る。

(――世界座標、『聖者の蔵』より我が手元へ――)

『聖なる篝火をここに!』

 メグの持つ戦棍メイスを鮮やかな赤い炎が包み込み、殴り飛ばした鉄血粘菌を容赦なく燃え上がらせる。ただの炎ではない。あらゆる物理現象に対して強い耐性を持つはずの魔獣を、触れただけでこうも簡単に燃え上がらせるのは、明らかに魔性のものを滅ぼすために生み出された聖霊教会の秘儀に違いない。

(……メグのやつ、意外と聖霊教会では目をかけられていたのかもな……)

 待遇は酷かったようだが、才能を見出されでもしていなければ、こうも希少な術式の数々を教え込まれてはいなかっただろう。

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