第317話 束の間の休息をあなたに
気分がひどく落ち込んでいた。
一つ、胸につかえていた後悔は消え去った。だが、それは喪失感にも似た気怠い感覚を残して、俺の体と思考の働きを鈍らせていた。
なんだか頭がぼんやりとして、先のことが考えられない。
「……クレス。クレス? 大丈夫なの?」
「あ? ああ……問題はない」
「問題って……そうじゃなくて。どこを目指して進んでいるのか、って聞いたんだけど?」
「どこを?」
レリィに問われてから改めて考える。第四階層の『魔熊林道』と違ってわかりやすい道もない森のなか、俺はどこを目指して進んでいたのだろうか。
「本当に大丈夫なの? 先の風景を見通しながら進んでいたんじゃ……」
「すまん、何も考えていなかった」
「えぇ~っ!? もう、仕方ないなぁ。ちょっとー! 皆、止まって! 一回、集まって方針を決め直さないとダメみたい!」
まったく情けない話だが、森の中をあてもなくただ歩いていた。『首吊り樹海』の広がるかつての『永眠火山』で、山の中腹にある底なしの洞窟を目指して進むように何の疑問もなく。それでどうしてこの魔窟を抜けられると錯覚したのか。
俺達は既に魔窟化した『底なしの洞窟』の中にいる。ここはそんな魔窟の階層の一つだ。俺が昔に歩き回ったことのある『首吊り樹海』ではない。第一階層からそうだったが、俺が知る山道や洞窟の順路、などというものは存在しないのである。
(……どうにも頭が働いていない。体の調子も悪い気がする。よくないな……)
レリィに指摘されてようやく自分が本調子ではないことを悟る。左右を索敵しながら進んでいたミラとメルヴィ、後方の警戒に当たっていたメグがレリィの声で一ヶ所に集まってくる。ムンディとヨモサは俺達のすぐ後ろを歩いていたので、不思議そうな顔を浮かべながらすぐに追いついてきた。
「レリィさん、どうしました? 何か問題が?」
「順調に進んでいたように思ったけど、どうしたんだい?」
合流してきたヨモサとムンディに、レリィが後ろ頭を掻きながら場都合の悪そうな顔をする。
「あー、ごめん。皆が集まってから話すね」
「はい? 別に構いませんが……」
ちらりと俺の方を見るヨモサ。俺ではなく、レリィが説明をするといったのが不思議なのだろう。こういうときの指示、説明役は魔窟に入ってからほとんど俺の仕事だったからだ。
「あらぁ~ん、レリィお姉さん、クレスお兄さんもどうしたの? 迷子になっちゃったのかしら?」
「魔獣の気配は特にないようだけど。何故、止まるのかしら?」
「メグの方は、後方確認も万全です! 何か問題があったのです?」
三者三様の疑問を抱きながら全員が声の届く距離まで集合した。全員が集まったのを確認して、レリィが少しためらいながらも口を開く。
「えーっとね……。はっきり言うと、実は今まで目標もなく森をさまよっていました、あたし達」
「どういう意味なのです?」
「てっきりクレスが魔窟を探りながら進んでいるものと思っていたんだけど……」
「ふむ? そうではなかったんだね?」
「えぇ……。それじゃあ私達、無駄に歩き回っていたんですか?」
「うそーん……メルヴィ、もう歩けなーい!」
ヨモサが疲れた顔で溜息を吐き、メルヴィはその場に座り込んでしまった。
「元々、決まった道などないのだから、クレストフの坊やに道がわかるわけでもなし。それらしい方向に進んでみるしかないのよ。それでも、あんたの探索術式にはそれなりに比重を置いているのだから、しっかりなさいな」
「言い訳はできないな……。少し気が抜けていた」
「どうにも煮え切らない様子だわね……。ここへ来て気が抜けるとはどういう心境なのかしら」
とことこと背の低いミラが俺の顔を下から覗き込むように、ガラスの瞳で見上げてくる。魔導人形の感情がこもりにくい瞳で見つめられると、ひどく居心地が悪い。
「クレストフお兄様、ひょっとして具合が悪いのではないですか?」
体をぽんぽんとあちこち触りながら、メグが俺の体調を心配そうに調べ始める。
「メグは医療術士ではありませんが、こう見えても教会のお勤めで大勢の人の怪我や病気を見てきたのです。少し、調べてみるのですよ」
手の平を胸や腹に当てながら何か簡単な術式を発動したり、脈を取りながら微弱な魔導因子の波を流してくる。特に俺の防衛術式が発動しないことから、体に悪影響をあたえるようなものではないのだろう。
「もしかしてクレス……本当に体の調子が悪いの?」
「どうだろうな。言われてみれば少し怠い感じはしていたが」
「それならそうと、ちゃんと言ってよ? 君は平気そうな顔で無理するんだもの。あたしもクレスが無茶しないように気を付けてはいるけど、体調悪いのを隠されたらさすがにわからないから」
「わかった、わかった……。だから、そう怒った顔で詰め寄るな」
いつから俺はレリィに体調管理されるようになっていたのだろうか。そんな素振りは見せたことがないように思うのだが。ともあれ、彼女が本気で心配しているのは伝わったので素直に頷いておいた。
「……血圧は随分と低めなのですが、少し脈拍が早いのです。微熱もあるようなのですが、クレスお兄さま自覚あるのです?」
「体の怠さはそれかもしれないな。自然回復の術式でもかけておくか……」
「あんまり治癒術式に頼り切るのもよくないのです。この程度であれば普通に休むのが最善なのですよー」
懐から治癒用の魔蔵結晶を取り出そうとした俺の手を、がっしりと掴んで押し戻すメグ。そんな様子を見ていたムンディ教授が一つの提案をした。
「ここは無理せず休もうじゃないか。魔窟の中は通常の時間の流れとは異なる領域だ。気付いていたかな、この階層はやけに昼の時間が長い。僕らもだいぶ長時間、森を歩き続けているよ」
「あー! 私も賛成だわー……。足が棒になっちゃって、歩くの辛いものぉ~」
「実は、私もだいぶ疲れました……」
ムンディの提案に我先にとメルヴィが乗っかり、釣られてヨモサも疲労感を白状する。皆、我慢してここまで付いて来てくれていたのかもしれない。
「まあ、そういうことなら休むのがいいかもしれないわね。私は魔導人形の体だから疲労感はあまりないのだけど。睡眠不足になるのはよくないわ」
「決まりだね。じゃあ、あたしこの辺りの地面を少し
「それなら俺が召喚術で……」
「クレストフの坊やは休んでいなさい。それくらい私が用意するのだわ」
「いや、別に魔蔵結晶を使うだけだから、俺自身は魔導因子の消耗もないんだが」
「それでも、休んでいなさい」
珍しく強めの口調で言い含められてしまった。ここまで言われてしまっては俺が動くわけにはいかない。本当は野営地の整地も、俺が得意とする土石系統の術式でやるのが効率もいいのだが、今回はレリィが張り切って邪魔な木を引っこ抜き、地面を叩いて平らにしていた。あの様子ならまあ、さほど時間もかからずに済むだろう。
間もなくして、平らに均された地面に野営用の
ミラの趣味なのか、レース編みの刺繍がふんだんに使われた天幕は森の中では非常に違和感がある。一応、緑色を基調とした配色の天幕なので、細かい網の目をしたレースも相まって、森の中に溶け込むには悪くないつくりにはなっている。
「周囲にはかなりきつい『魔獣除けの呪詛』も撒いておいたから、よほど強力で好戦的な魔獣でもない限り近づいてはこないでしょう。ここなら、ゆっくり休めるのだわ」
天幕を召喚したミラは早々に中へと入りこむ。俺達も後に続いて中に入ってみると、内装は家具や寝具まで驚くほど整っていた。どこか貴族の屋敷にでも迷い込んだのではないかと思うほどである。
「うはーんっ! ふっかふかの寝台だわ~!」
束の間の休息。だが、これだけしっかりとした拠点で休めるのならば、体力も精神力も普段の野営より効率的に回復できるだろう。
「さっ、クレスお兄さん。こっちこっち」
ぽんぽんと寝台を叩いて、寝そべりながらメルヴィが俺を誘う。胸元を緩めて衣服を着崩し、太腿にかかったスカートのスリットをチラチラとめくるのがわざとらしい。寝台は確かに一つしかないが……。
「慌てなくとも寝台は人数分出せるわよ。それにメルヴィが一緒では坊やの体も休まらないでしょうが」
「あぁ~ん! もう、ミラおばさまったら、ひどい~」
不満そうなメルヴィをよそに、ミラが次々と寝台を召喚術で呼び出す。どれもこれも薄紫のカーテンがかかった天蓋付きの寝台である。
「なんで全部、天蓋付きの寝台なんだ?」
「あら? 気に入らないの? たまに開く魔女集会のお泊りでは評判が良いのだけど」
「それ、なんて
うっかり口を滑らせそうになったメグの口をムンディ教授が小さな手で塞いだ。魔女が集会を開いたからといって、それを邪な儀式と直結させてしまうのは無理解が過ぎるのである。そして、迂闊にそんなことを口にすれば、発言を逆手にとって遊び心を出した魔女達から本当に呪われてしまう。
その洒落にならない恐ろしさをムンディ教授はよく理解しているのだろう。過去にどんな目にあったのか想像もしたくないが。
「でもこんな立派な寝台で寝るの、なんだかお姫様にでもなったみたいだね」
「ちょっとドキドキしますよね……」
天蓋付きの寝台には憧れがあるのか、レリィとヨモサには好評なようであった。実のところ、普通の寝台とさほど価格的には変わらないので、手に入れること自体は難しくもなんともない。別にお姫様でなくとも、防虫用のカーテンとして取り付けることは一般にあるのだ。
ただ、ミラが召喚した寝台は作りを見ても高級品であるのは間違いないようだった。
「まあ、なんでもいい。ゆっくりと体を休められるのなら、それで……」
俺は空いた寝台の一つへ仰向けになって横たわると、目を閉じて深呼吸した。やはり疲れが溜まっていたのか、体を横たえると途端に力が抜けて、半開きの口から自然と空気が漏れる。
すぐに睡魔が襲ってきて、俺の意識は
周囲の声が段々と遠ざかっていく。
「クレス、寝ちゃった……」
「とてもお疲れのようですね」
「それじゃあ、メルヴィはクレスお兄さんに添い寝してあげるわっ!」
「いい加減になさい、メルヴィ。この様子を見ると不調の原因は単純に疲労だわね」
「熱が出ていたのは大丈夫でしょうか? クレストフお兄様……」
「体の抵抗力が弱るほどの疲労ともなれば、熱も出るでしょう。そう、深刻になることはないわ。しっかり休めば回復するはずよ」
「クレストフ君にも、かなりの負担がかかっていたのだろうね。僕らが支えてあげないと」
「散々、魔窟をふらつき回って迷惑かけていた爺が言うんじゃないわよ」
「おや、そうだったかい? 僕はてっきり口うるさい婆さんにこき使われて、疲れ切ってしまったのではないかと思ったのだけど……」
「ムンディ、あんたいい度胸ね。一人だけ、外で周囲の見張りでもしているといいわ」
「あぁ、もぅ~……。しょうがないお爺ちゃまとお婆ちゃまねぇ~。あまり騒ぐとクレスお兄さんが起きちゃうわ~」
「メルヴィが気を使ってる……あたしちょっと驚いたかも」
「クレスお兄さんがぐっすり寝ていれば~……その間に色々できるでしょぉ?」
「前言撤回するね、メルヴィはちょっとこっち来なさい。あなたは変なことしないように、あたしが見張っているから」
「じゃあ、レリィお姉さんと一緒に寝られるのね! メルヴィとしてはそれも悪くないかなー……」
「……メルヴィにはミラと一緒に寝てもらおうかな。監視も含めて」
他愛ない会話が脳裏を流れていき、やがてそれも聞こえなくなり、意識は闇へと沈んでいった。
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