第316話 後悔の水底
極めて透明度の高い泉。全体を見渡せる程度のこぢんまりとした静かな泉だ。中心部の水深はかなりあるようだが、透明度が高いので奥深くの
天の慧眼で観察してみても、危険な生物が棲み処にしている様子はなかった。魚の一匹も見当たらないので、何か良くない成分でも含まれているのかと簡単に調べてみたが、有毒な物質は検出されなかった。
「なにやってるの?」
突然、泉の水を調べ始めた俺を不審に思ったのだろう。レリィは俺が召喚術で取り寄せた水質検査薬を摘まみ上げて、小瓶の中に入っている薬剤を底から覗き込んでいる。
「見てわかるだろ。水質調査だ。危険な魔獣は潜んでいないようだが、泉の水が有害なものである可能性も捨てきれないからな」
「うぅ~ん、まだかしらぁ~」
「メグもここいらで、水浴びをして体を清めたいです。もちろんクレストフお兄様は紳士なので、どっか行っててくれますぅ?」
メグの言い方は気に障るところがあるが、俺も別に恥じる女の水浴びを覗く趣味はない。水質調査もほぼ問題ないと結果が出た。
「ほら、水質も飲み水にしていいくらい問題ないと確認できたぞ。後は好きにしろ。はしゃぎすぎて体力を使い果たさないようにな」
「はぁ~い! それじゃあ、メルヴィが一番乗りねぇー!」
俺がまだ泉から離れる前に、隣を走り過ぎて泉へと飛び込んでいくメルヴィ。
メグも俺が泉から離れてすぐ、泉の浅いところで水浴びを始めた。俺はその様子を近くで見ていたわけではないが、水の跳ねる音に耳を澄ませばどういう状況かはわかる。
ミラやレリィもいることだし、俺が泉の方を警戒する必要はないだろう。ムンディ教授は泉から少し離れた木陰で本を読んでいる。あの人も紳士だな。だが、辺りの警戒をしている様子はない。
先ほども調べて何もなかったわけだし、心配する要素はないように感じた。ただ、泉の周りの森から魔獣が近づいてこないか、突如として魔獣が湧き出してこないか、そちらの警戒だけはしておいた方がいいだろう。
(……それにしても、この辺りの風景。どこかで見た覚えがあるような……)
先ほどレリィの故郷の話をしたこともあって、あの山林の中にあった田舎の村を想像したが、あの場所とは違う気がする。
ここはそもそも
だとすればこの森は、底なしの洞窟の周囲に広がっていた森林地帯が元になっていたりするのだろうか。底なしの洞窟周辺の山林が魔窟化の影響を受けていたのなら、位置座標の不連続性が生じていてもおかしくはない。
そう思いなおして周囲を見回せば、ふと泉の周りの風景に既視感を覚える。
周辺の樹木を慌てて観察するが、とりあえず危険な種類ではないようだ。
(……最悪、魔獣化した『
この魔窟の中では今のところ危険性を見せていない植物の類だが、明らかに地上の植物よりも生命力が高い印象を受ける。元から人を襲う植物であったなら、魔獣化してさらに凶悪になっている恐れはあった。
森の方を観察していると、不意に木々の合間を走り抜ける複数の小さな影が視界に入ってくる。そいつらは森の中から飛び出してくると、俺の前に灰色の毛玉となってコロコロと転がってきた。
「
毛の中に埋まりそうな短い手足をバタバタとさせながら、ノーム達が飛んだり跳ねたり、俺に向かって何かを伝えようとしている。そういえば魔窟に俺達を招き入れたのはこいつらだった。第二階層くらいまでは俺達について来ていたが、いつの間にかいなくなっていたのだ。
それがまた、俺の前へと現れて意味ありげな行動を起こしている。この場にいったい何があるというのか。
周囲の索敵は十分にした。それでもノームの不自然な行動に、心のどこかでまだ不安が拭えない。何かを見落としている気がする。こういうときの悪い予感は、無視すると後でひどい目に遭う。不安の芽は摘んでおかねばならない。
何だ? 何を? 何か、見落としている?
(――そういえばこのノーム達は昔、山林の岩場や河原に生息していた種類だな……。洞窟の外、あの山林に何か特別なものがあったか? あの山、あの森で――)
直感の赴くままに俺はフラフラと泉の傍まで来た。
「わっ!? ちょっと、クレス!? なんで来ちゃうの!」
泉で泳いでいたレリィが非難の声を上げる。普段から肌の露出に頓着しないレリィだが、水に濡れた姿をじっくりと見られることは嫌がるようだ。だが、今の俺にはレリィなど眼中にない。
「あらぁ~ん? クレスお兄さんも一緒に水浴びしたいのかしらぁ? メルヴィは大歓迎よー!」
「な!? なんでクレスさん……。ドワーフの水浴びなんて見ても仕方ないでしょうに……」
「え? え? クレストフお兄様、そんな熱い視線でメグのことを見つめたら……」
水浴びをしていた他の少女達が騒がしい。それもどうでもいい。
――そうだ、水浴びをしていた少女。
森の中の泉で、あのときもこんなふうに――。
「……全員、泉から上がれ……」
震える声で、辛うじてそれだけの言葉を吐き出した。
「あなた達、すぐに泉から上がりなさい。上がるのよ」
俺の声音に本気を感じ取ったか、ミラが水浴びをしていた四人に強めの注意をする。
納得のいかない表情をしながらも泉から四人が出てくる。その代わりに俺は泉の
だが、俺にはここに何かがいるという確信があった。だからもう一度だけ、泉の中を索敵してみる。今度は『猫の暗視眼』の術式で視力を強化すると、泉の中に顔を突っ込んで仄暗い水底に向け目を見開いた。透明度が高いといっても、泉の底は薄暗く岩陰などの死角もある。見落としがないか探るのだ。
瞬きせず目を見開いてじっくり観察していると、何もいないはずの水中で陽炎のような水の揺らめきが視界の隅をよぎった。ほんのわずかな砂煙が水底で巻き起こる。そこには相変わらず何も見えないが、確かに何かが存在した。
俺は水中で開いていた目をさらに見開いて、それを見た。
水底に二つの白骨死体が横たわっていた。
「なんだろう、あれ? 人の死体? 白骨化した……」
「それだけじゃないわね……何かいるわ」
水の外からレリィの声が聞こえる。俺が視線を向けている方向に彼女も注意を向けたのだろう。くぐもって聞き取りにくいが、ミラも近くまで来て泉の中を覗いている。
「水中……何かいるようでいて見えない……ひょっとして、
ごぼり、と俺の口から空気が漏れる。息が苦しくなってきた。一度、水面上に顔を上げて空気を吸わねばならないのに、水底に揺れ動く白骨死体に目が釘付けになって動けない。
二つの白骨死体。
あの髑髏は何だ?
この髑髏は『誰』なのだ?
不意に記憶がよみがえり、髑髏に少女の面影が重なって見える。
“自己紹介しておくね。わたし、ネリル!”
“私はシアナです。あなたのお名前は?”
どことなく子供っぽさが抜け切れていない印象の少女達。ネリルとシアナ。
かつて底なしの洞窟に挑戦しに来た冒険者の少女達と、予期せぬ遭遇をした俺は少しばかり友好を深めた。二人はビーチェとも仲良くなり、打ち解けていた。
そのあとすぐ、二人は森の中の泉で――。
「がはっ……!!」
息が続かなくなり水面から顔を上げる。その水音に反応したのか、二つの白骨死体が立ち上がってこちらに向かい手招きを始めた。水棲粘菌が操っているのか、あるいは幻想種が憑依して動かしているのか。どちらにせよあれは明らかに俺を呼んでいる。
今度こそ、助けなければ――。
『
黒い鉄粉が無数の『腕』と化して、手招きする白骨死体へ殺到していく。
二体の白骨死体は手招きしながら、すぅっ、と移動して泉のもっと深いところへと潜っていく。これ以上、距離を離されれば見失ってしまう。
俺は迷わず泉へと飛び込み、逃げていく白骨死体を追った。水上でレリィ達の叫ぶ声が聞こえてくるが、取り合っている暇はない。あれは今、絶対に取り戻さなければいけないものなのだ。
水中にもぐって全力で泳ぎ出すと、すぐに体が酸素不足を訴えて苦しくなってくる。息が切れる前に、と俺は水中呼吸用の術式を封じた魔蔵結晶を外套に縫い付けた裏袋から探し出す。
(――陸でのたうつ魚のように――)
『
本来は陸上で呪詛をかけた相手の呼吸を止める呪術だが、副作用で水中では呼吸ができるようになる。呪詛の主効果より、副作用が有用とみなされた珍しい術式だ。他にも水中で呼吸ができる術式というのはあるが、水中活動だけを考えたときにはこの呪術が最も使い勝手がいい。
術式発動で途端に呼吸が楽になる。これでどこまでも追いかけられるようになった。
逃げていく白骨死体との距離を詰め、鉄血造形の腕を伸ばす。何本も作り出された黒い腕が白骨死体を絡め取り、なんとか動きを止めることに成功した。かなり強い力で引っ張られる感覚があるが、質量ではこちらも負けていない。
十秒弱の引き合いが行われた後、唐突に相手の抵抗が緩む。ぐん、と黒い腕で掴んでいた白骨死体が引き寄せられて、あっという間に俺の眼前まで迫った。
カタカタと二つの骸骨の顎が揺れ、聞こえるはずのない声が耳元で囁かれる。
“……アナタニハ……”
“……タスケラレナイ……”
急速に息が詰まる。『鰓呼吸の呪詛』は正しく機能しているはずなのに、胸が重く締め付けられて呼吸がままならない。気が付いた時には全身の動きが鈍くなっていた。
動揺しているのか? 俺が、この程度の揺さぶりで。
――違う。
何かが、俺の体の周囲を取り巻いていた。これは精神的なものでなく、もっと物理的な重み!
(――水棲粘菌――!? いつの間に……いや、白骨死体と一緒に引っ張られてきたのか!?)
こいつは最初、どれだけ探査系の術式を使っても探知できなかった。単純に姿が透明なだけでなく、自身の存在を隠ぺいする能力を持った水棲粘菌の魔獣なのかもしれない。
そして、あの喋る白骨死体……。聞こえてきた声は幻覚かもしれないが、俺の精神が狂ったわけではない。
目を凝らしてみれば髑髏からは薄っすらと赤い靄が漂っている。あれもまた魔窟で生まれた存在、幻想種が憑依しているのだろう。それが果たしてネリルとシアナの残留思念から生まれた亡霊なのか、確かなところはわからない。だが、奴が俺に対して呪詛による精神攻撃をしかけてきているのは間違いない。
わかっている。
魔獣化した水棲粘菌、骸骨に憑依した幻想種、それが同時に攻撃を仕掛けてきているのだ。
ただ、それがわかっていても、胸が張り裂けそうな感情に苛まれるのは防ぎようがないのだった。その感情が呪詛によるものであろうと、あるいは俺自身の感情であろうとも、真正面から受け止めて乗り越えなければならないからだ。
水中でもがく俺の両脇を誰かの腕が掴んだ。そして、強引に水上へと引っ張り上げる。『鰓呼吸の呪詛』がかかったままの喉を空気が通り、呼吸のできない胸の中に重たい空気が入り込んできた。
「……ぁあああああっ!!」
「クレス!! 落ち着いて!! あれはただの死体だから! 水棲粘菌が動かしているだけ! 釣られて追いかけたらダメ!!」
暴れる俺をレリィが押さえつけにかかる。
がっちりと抱きしめられて身動きは取れなくなるが、ぎりぎりと歯を食いしばり俺は必死に白骨化した二人に向けて手を伸ばす。助けなければいけない。今度こそ。それができなくて、どうしてビーチェが救えようか。
「クレストフの坊や! 呪詛にかかっているのだわ! 意識をしっかり持ちなさい!」
「クレストフ君!! 引き込まれてはいけない! これは幻想種のやり口だよ!」
どっちもわかっている。感情は散々に乱れているが、それでも俺は冷静だ。それより早く水に戻してくれ。今の俺は水中でしか呼吸ができないのだ。
説明したかったが『鰓呼吸の呪詛』がかかったままでは、言葉を発することもできない。このままではまずい。俺が混乱していると思っているレリィは、俺を水に戻したりはしないだろう。まだ鉄血造形の腕が白骨死体を捕えているのを確認した俺は、一度『鰓呼吸の呪詛』を解呪してレリィに声をかける。
「レリィ!! このまま陸まで引き上げてくれ!!」
「……!! わかった!!」
俺の指示を受け取ったレリィの動きに迷いはなかった。闘気を発しながら全力で泳ぎ、力任せに俺を陸へと引き上げていく。同時に俺が術式で捕らえたままの白骨死体と水棲粘菌も陸上へと引きずり出された。
「クレスお兄さん無事なのぉ~!?」
「何か出てきましたよ!?」
「うげげげっ! こんなデカい
メルヴィ達は泉から少し離れた場所で様子を窺っていた。泉で遊んでいたままの姿でそれぞれ武器だけ持っているのは滑稽だったが、今はその準備の早さと覚悟がありがたい。すぐにでも援護が必要だったからだ。陸に引っ張り上げた水棲粘菌を逃がさず、この場で滅ぼすには――。
「メルヴィ!! 水棲粘菌を凍らせろ!! 今すぐ!!」
「えぇ~!? もう、泉から出てきたと思ったら、いきなり無茶な命令だすんだからぁー! 巻き込まれないように注意してねぇ~!!」
俺とレリィが引っ張り上げた水棲粘菌は、とてつもなく巨大だった。泉の水嵩が目に見えて減るほどの大きさで、体の半ばはまだ泉の中にあるようだった。
(――凍れる息吹に包みこみ、一時の休息を与えよ――)
メルヴィが凍てつく悪意の呪詛を水棲粘菌に向けて吐きかける。
『氷結封呪!!』
ぎちぃ、と空気が軋むような音を鳴らして水棲粘菌の体を形成する水分が凝結した。泉に浸かった部分まではさすがに凍っていないが、陸上部分は芯まで凍り付いている。
「これが精一杯よぉ!」
「十分だ!!」
ひとまずこれで水棲粘菌は逃げられなくなった。
俺は鉄の腕を力いっぱい引っ張って、水棲粘菌と白骨死体を力ずくで引き剥がした。ガタガタと震えるように白骨死体が暴れているが、俺はそれを鉄血造形で生み出した何本もの鉄の槍で地面に縫い付けた。憑依した幻想種はよほど深く白骨死体と融合していたのか、赤い靄は骨に纏わりついて離れる気配がない。
骸骨が俺に助けを求めるように手を伸ばしてくる。いいとも、救ってやる。幻想種に操られているにしても、亡霊として残留思念のままに助けを求めているにしても、どちらでも構わない。
「メグ……頼む。浄化を……!! 二度と迷い出ることのないように!!」
「……わかりましたのです。弔いを行うのです。このお二人の遺体が弄ばれないように。そして、魂が現世に囚われ苦しまないように……!!」
メグがその場に膝を着き、意識を集中して天へと祈りを捧げる。
『……異界座標、煉獄より我は喚びこむ。あらゆる亡者を灰と化すもの。主の慈悲深き光の下で、魔に憑かれし、さまよえる魂に安息を……!!』
以前に聞いた祈りの言葉とは違う、優しくもどこか力強い
『煉獄浄火!!』
強烈な閃光を伴う火柱が立ち昇り、二つの遺骸を瞬時に焼いて灰と化す。纏わりついていた赤い靄も一瞬で消滅した。
「これでいい……。これで、救われた……」
この泉に着いてから重くのしかかっていた胸のつかえが、溶けるように消え去っていく。浄化の完了した二つの遺骸を見送って、俺は残された仕事に意識を戻した。
「後はお前だけだな」
巨体の半分を凍り付かせたままの巨大な水棲粘菌。凍り付いた半身を泉に引っ張り戻そうと、残り半分の体も陸に上がってきていた。
こいつも別に悪意があったわけではなく、ただ肉食の水棲生物として当たり前の捕食活動をしていただけだ。それを恨みに思うのは人の勝手だろう。それでも――。
「決着は、つけさせてもらう」
陸に引きずり出されたこいつに最も効果的であろう術式を選び、俺は
(――搾り出せ――)
『空の水源!!』
術式発動後は指定範囲を動かせず、脱水の効率が良いとも言えない術式なので、出力最大で術式を使うと魔蔵結晶にかかる負担は大きい。西瓜電気石の結晶は次第にひび割れて、砕け散り、崩壊していく。同時に水棲粘菌からは恐るべき勢いで水分が絞り出され、辺りに雨となって撒き散らされた。水分を絞りつくされた水棲粘菌は、その巨体を見る見るうちに縮めて、乾いた一個の木片のような姿に様変わりしていく。
「もういいだろう。燃えてなくなれ」
右手中指に嵌めた
火の粉が泉の上を舞い踊り、空へ昇って消えていった。
水棲粘菌の魔獣が燃え尽きた後には、緑色に透き通った拳大の大魔石が残される。
水に濡れて美しく光り、どこかもの悲しい輝きを放つ魔石を拾い上げて、ぐっと握りしめた。
「……一つだけ、取り戻したぞ。ビーチェ、お前も必ず……」
形ある何かが俺の手元に戻ってきたわけじゃない。
だが、そうであったとしても俺は大切な想いを一つ、確実に取り戻したのである。それはこの魔窟に潜って、初めて手にした実感だった。
髪から滴り落ち、視界をぼやかす水を拭って、俺は手にした緑色の宝石を胸元へと大事にしまうのだった。
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