第310話 立ち止まってはいけない
「走れ、走れ、走れ!!」
「そこっ! 横穴がある!! 早く入って!」
大通路を駆け抜けようとした途端、アシナガの巨大な脚が樹洞を這いずり近づいてくる音がする。各々が大通路の脇にあった小さな横穴に飛び込んで、ゴリゴリと樹洞を削りながら押し寄せる『脚』をやり過ごしていた。
「あわわわっ! メグも入れてくださ――っあ。ぎゃぁあああ~っ!?」
逃げ遅れたメグがアシナガの脚にどつかれて、樹洞の奥へと姿を消す。
「世話の焼ける娘だわっ!!」
アシナガの脚の上を小柄なミラが素早く駆け抜け、メグの腰に体当たりをしてどうにか横穴へと転がり込む。アシナガの脚と樹洞の天井には僅かな隙間しかなく、小さな体のミラでなければ通り抜けられなかった。
「やれやれ。メグ君は無理をせず、手近な横穴へ早めに避難することをお勧めするよ。僕なんて真っ先に逃げ込んで――っ!?」
アシナガは一旦、樹洞の先へ脚を伸ばせるところまで伸ばすと、今度は取って引き返して脚を完全に引っ込める。その際に壁を引っかきながら戻すものだから、運悪く窪みの浅い横穴に身を隠していたムンディが、鉤爪に引っ掛けられ引きずり出されてしまった。
「ムンディ教授!?」
『脚』に引きずられていくムンディであったが、慌てず騒がず茶色い革表紙の魔導書『
(――異界座標、『逆転の渦』に接続開始――)
ムンディの周囲の空間が歪み、光路が捻じ曲げられていく。
『異界法則、
空間の歪みがさらに強くなり、ムンディの姿が人としてすら認識できないほどに捻じ曲がり渦を巻くと、ふっ、と歪みごとムンディの姿が掻き消えた。
すると先ほどムンディが隠れていた小さな横穴に歪みが生じ、瞬時にムンディの姿が出現する。
「おっ、とっとっ? はて、記憶が飛んだような気がするな。僕はまた何か失敗して戻ってきてしまったのかな?」
あっけらかんとした様子で無事な姿を見せるムンディ教授。
(――今のは、まさか空間転移か――?)
その理解に至ると背筋がぞわりと冷たくなる。
何でもないようにやって見せたが、この老術士は今とんでもない術式を行使したのだ。
通常、複雑な魔導回路を有する人や物を召喚術で呼び寄せようとしても、魔導回路に干渉が起きて物力召喚は失敗する。魔導回路を有したまま空間転移するには、空間そのものを持続的に繋げた『送還の門』を用意しなければならない。これは相当に難易度が高く、古代魔導技術の復元を可能とするような一級術士でもなければ実現できない業だ。
しかし、ムンディ教授の術式はまさしくこの『送還の門』を一時的に生み出して、己の体を空間転移させたに等しい。距離も持続時間も短いのだろうが、驚くべき魔導技術であることには違いない。
(……どこまで自在に扱えるのかわからないが、たぶん召喚術や送還術を封じる結界の張られた場所でも飛べるはずだ。なんだったら爆弾の一つでも任意の場所に飛ばせるなら、暗殺術としてこれほど有効な手段は他にない……)
ムンディ教授がその気になれば、たぶんできるのだ。さすがは準一級術士というべきか。一級術士になっていないのも社会的貢献が少ないだけで、すでにその実力は計り知れない高みにあるのだろう。
「ん? どうかしたのかい、クレストフ君。さあ、ここに長居は無用だろう。次の大通路へ通じる横穴を見つけなくては!」
無邪気な少年の姿で探検を楽しむムンディ教授に、俺は底知れない畏怖を感じるのだった。
「静かですね……。私達を狙うのは諦めてくれたのでしょうか?」
「うぅ~ん、ヨモサちゃん。それはないと思うわぁ。なんとなくだけど、張り詰めたような魔獣の気配があちこちから伝わってくるものぉ。たぶん『アシナガ』が網を張って待ち構えているのねぇ」
狭い横穴にヨモサとメルヴィがくっついて隠れていた。背の低いヨモサの頭にちょうどメルヴィの胸が乗っかっている。メルヴィは両腕を絡めるようにヨモサのことを後ろから抱きしめており、ヨモサはヨモサでされるがままになっていた。
「ここからどうするの? いつまでも横穴に隠れてはいられないよ?」
「少し待て。動くのは次の大通路に繋がる横穴を見つけてからだ」
鉄砂の鎧を解除して身を軽くした俺は、奥行きのない狭い横穴でレリィとくっつきながら様子を窺っていた。ひとまずの安全を確認してから探索の術式を行使する。
(――見通せ――)
『光路誘導!!』
「んん……っ。ここ狭いなぁ、もう……」
背後でレリィが身じろぎして、柔らかな胸が背中に押し付けられる。
「……おい、術式の集中が乱れるから邪魔するな」
「え? あぁ、ごめん。急に動くと驚くよね。でも、この穴狭くって……。向こうの穴に移ってもいいかな?」
「今は動くな。下手に刺激するとアシナガが再度、落ち着くまで移動する機会を失う」
「はいはーい。じっとしていればいいんでしょ。ふん!」
レリィの鼻息が首筋に吹きかかって、背筋にざわりとした感覚が走る。術式の集中を乱されかけるが、どうにか平常心を保って樹洞の探索を終えた。
「ここから大股で二百歩ほどのところに、隣の大通路に通じる横穴がある。全員で飛び出して向かうぞ。先頭は俺とレリィで行く。ミラとムンディ教授は最後尾で何かあったときの補助を頼む。……行くぞ!!」
全員が大きく頷いたのを見て、俺はレリィと共に樹洞の大通路へと飛び出した。
どういうわけかアシナガは俺達が大通路を歩いているのを素早く察知して『脚』を伸ばしてくる。今も俺達が動き出した途端に遠くから地響きが聞こえてきた。アシナガが早速動き出したようだ。
「くそがっ! 奴の感知能力はどうなっているんだ!? 急げっ!! 『脚』が来るぞ!」
ごりごりと樹洞を削りながら迫る『脚』の気配を背後に感じながら、隣の大通路へと繋がる横穴に飛び込んだ。俺とレリィに続いてヨモサとメグが転がり込み、少し遅れて息を荒げたメルヴィが、俺の胸に目掛けて飛び込んでくる。
「あは~んっ! もう、限界! お兄さーん!」
「こら、メルヴィ! 精一杯走ってきたのはわかるが、状況を考えろ! ミラとムンディは……!?」
べったりと抱き着いてくるメルヴィを引き剥がして元来た大通路を覗くと、ミラの魔導人形に抱えられたムンディが横穴に放り投げられてくる。続いてミラも駆け込んでくると、そのすぐ後ろをアシナガの太く長い『脚』が恐ろしい速度で通過していった。
「間一髪だったわよ。この爺が途中でコケるのだもの」
「いやはははっ! 白衣の裾に躓いてしまってね。しかし、もっと気を付けて運んでもらいたいな。横穴に放り込むことはないだろう?」
「あんた、次は絶対に助けてやらないのだから、覚悟しておきなさい」
苛立たし気にムンディへ言葉を投げかけるミラは、召喚した魔導人形に故障がないか念入りに調べていた。わずかな不具合でも、ぎりぎりの魔窟攻略をしている現状では命取りになりかねない。それだけ細心の注意が必要な状況だった。
「ん? 何だこれは……?」
「何かしら? クレストフの坊や。魔導人形の整備を手伝ってくれるのかしら?」
魔導人形の整備をしているミラの羽織ったボレロが、不意に妙な位置で引っ張られたように見えたのだ。細かく編まれたレースが、何かに引っかかったように――。
「こいつは――!? そうか、そういう絡繰りだったか。通りで俺の探査系の術式じゃ感知できなかったわけだ」
ミラが整備する魔導人形の体中に、肉眼ではほぼ視認できないほど極々細い透明な糸が絡みついていたのだ。糸は細くて弱く、柔らかなレースでもなければ抵抗なく引きちぎれてしまうようなものだ。
「何か見つけたのね? アシナガが、ああも正確にこちらの動きを察知できる理由を」
「ああ。魔力を帯びていない、肉眼では目を凝らさないと見えない糸が大通路に張り巡らされているんだ。おそらくこれに獲物が引っかかったら脚を伸ばすようにしているんだろう」
「……それで? 逆に利用できそうなの?」
「さて、どうしたものかな……。一度、大通路をあの太い脚が通過してしまえば糸は全て絡め取られてしまうにも関わらず、奴の脚が引き戻された後にもこの糸があるとすれば、おそらく奴は脚から糸を出している。もしくは脚にこの糸を生み出す粘液を付けている……か。種は割れたものの意外と隙がない」
まったくよくできた感知技能である。どうすればこの糸を掻い潜ることができるのか。
「幻惑系の呪詛で触覚を騙せないかしらぁ?」
「奴の足先だけごまかすのか? あいにくとそんな術式は……」
メルヴィに言われて手持ちの術式で使えそうなものを探すが、いい手段が思いつかない。しばらく樹洞の壁を見つめながら思案してみて、ふと俺はある考えに至った。
「いや、そうか。奴の感知能力がこれに頼り切っているのなら、騙すのは容易いな」
「さっきまで隙がないとか言ってたのに、もう騙す方法を見つけたのですかー? さすがクレストフお兄様は敏腕詐欺師なのですー」
「どうとでも言え。確かにこれから試す方法は詐欺みたいなものだからな」
メグの煽りを軽く流して、俺は普段あまり使うことのない
俺は次の大通路に顔を出すと、両手を伸ばして術式を発動させた。
(――覆いつくせ――)
『
白い滑石の魔蔵結晶から、真白い蝋を削り出したような粉が溢れ出して樹洞の壁をくまなく覆っていく。粉は半ば溶解しながら壁全面をきっちりと埋めつくした。本来よりも少し厚めに白い膜を樹洞に被せてやることで、樹洞の見た目はまさに雪景色と見紛うばかりである。
「よし、これでいい。ミラ。次の大通路で魔導人形を軽く走らせてくれ。一旦、奴の脚を誘う」
「いいのかしら? せっかく仕掛けたものが台無しにされるかもしれないけど」
「試すだけ試してみるさ。駄目なら別の手を考えればいい」
「気楽なものだわね。いいわ、やるわよ」
あまり気乗りしない様子でミラは魔導人形を一体、大通路へと飛び出させた。
魔導人形は大通路に飛び出した瞬間、つるりと床を滑って転倒する。
「ちょっとぉ!? 床に何を仕掛けたの!?」
ミラが珍しく甲高い声を上げて抗議する。
魔導人形は立ち上がろうとしているが、滑って転ぶばかりでうまく走ることができないでいる。
「……くっ! 制御できないじゃないのよ!」
必死にミラが魔導人形の制御を試みているが、思ったようには動かないようだ。そうこうしているうちに樹洞の奥からアシナガの脚が迫ってきた。
「あっ! あっあっ、まずいわこれ。ダメダメ、ダメだったら――」
ぞごごごっ!! と『脚』に押し潰されて粉々に砕け散る魔導人形。
「なんでよぉおおおおっ!? 壊されちゃったじゃないのよ! あの魔導人形も安くはないのよ!?」
「あー……すまん。これは想定していなかった。ちょっと走って、すぐに戻ってもらうつもりだったんだが……」
魔導人形の足裏に棘付きの靴でも履かせなければまともに歩けもしなさそうだ。次は『鉄血造形』の術式で棘付きの靴でも作ってやろう。
「まったくこれなら適当な小動物でも召喚して放った方がましだったわ……」
ぶつくさというミラの指摘が実は的を射ていたのだが、俺は考えつかなかったとは思わせない無表情でやり過ごした。
(……本当に、そうすればよかったかもしれないな……)
今からでも方針を切り替えようかと思ったが、それはそれで失敗を認めるようになってしまい悔しい。やはりミラには二体目の魔導人形を使ってもらうとしよう。『次の大通路』で、ということになるが。
アシナガが脚を引き戻していき、その先端の鉤爪に魔導人形の残骸が引っかかっている。
「はぁ~……無駄な犠牲だったわね」
「そうでもないさ。たぶんこれで、この大通路は安全なはずだ」
俺は確信して大通路へと足を踏み出す。まだ、アシナガの脚先が見えているにも関わらずだ。
「クレスっ!? あー、あー! 危ないよ!!」
俺の突然の行動にレリィが慌てふためく。他の面々も少なからず驚いているようだ。
これだけ俺が堂々と大通路を歩いているのに、アシナガが全く反応しないことに。
アシナガが脚を戻す過程で大通路へ侵入すると、すぐさま取って引き返して襲ってくるのは既に何度も確認した行動だった。それが、今は完全に真逆のことが起きている。
「ふへー……? 何故です? どうしてですー? クレストフお兄様はいったい何の呪詛を使ったのですか、これー」
「ほほう……。この壁を覆った白い粉に秘密があるのかな?」
「これは滑石の粉じゃないですか? 足元も滑りやすくなっていますし。私の実家でもよく、潤滑剤として使っていましたよ」
「へぇ~? ヨモサちゃん、物知りね~。うーん、それでもまだちょっとわからないわぁ。これにどんな効果があったのかしらぁ?」
危険がないと見た他の連中が大通路へと顔を出してくる。
意外にも普段から肝が太いレリィが一番おっかなびっくりの様子で辺りを警戒していた。アシナガが襲ってこないのが不思議でならないらしい。
「ねぇ、どういうこと? 説明してよ、クレス。いくら大丈夫だって言われても、安心できないから……」
意地悪く説明を拒む理由もない。珍しく気弱な様子のレリィにわかりやすく説明してやる。
「アシナガはあの長い脚から目に見えないほど細かい蜘蛛糸を出して、大通路の壁にくっつけているんだ。俺達が気付いていないだけで、大通路を通ると奴の糸が引きちぎられることになる。おそらくはその微妙な糸のちぎれを感知して、獲物の存在を知るんだろう。……逆を言えば、その糸が機能しなければアシナガは獲物を捕捉することができない。樹洞の壁を覆った滑石の粉は滑りやすく、アシナガの蜘蛛糸が壁にくっつくのを阻害する効果がある。剥がれた糸はアシナガの脚に引っ張られて、ほとんど抵抗もなく地面を滑っていくだけだ。そんな状態になっているとは知らないアシナガは間抜けにも獲物が網にかかるのを待っている。今この大通路はアシナガの感知能力から完全に逃れているのにな」
「ふーん……よくわかんないけど、アシナガをうまく騙しているんだね」
レリィから返ってきたのは簡潔な感想。丁寧に説明して損した。
「とにかく、この要領で次も進むぞ。……ミラ。魔導人形はすぐに回収できるように大通路の奥まで歩かせず、避難できる横穴近くをうろつかせろ。そうすればアシナガに破壊されることもないだろう」
「……わかっているわよ。仕方ないわね。囮役は引き受けるから、その珍奇な術式できちんと壁を覆うのよ」
「珍奇とか言うな」
階層主『アシナガ』の攻略法を見つけた俺達は、堅実に第五階層『糸網の樹洞』を踏破していくのだった。
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