第309話 アシナガ


 ――樹洞の大通路では、決して立ち止まってはいけない。走りぬけろ――

                 『冒険者組合調査員の忠告』より



 第五階層『糸網の樹洞』を奥深く進むと、樹木が密集して生い茂り、歪に捻じ曲がった林道が一本の洞窟のように形作られていた。

 所々に小さな横穴はあるものの樹洞は幅広く、主要な道は規則的な縦横網目状に繋がっていて方向さえ間違えなければ迷うことはなさそうだった。

「そこかしこに何か固いものが壁を擦ったような跡があるな」

「魔獣が体でも擦り付けたのかな? 獣って縄張り主張するのに臭いを残すことあるでしょ?」

「魔獣だからそんな習性はない、とは言い切れないか。むしろ元の素体となった獣の行動を基本にすることもあるくらいだしな」


 レリィは山奥の森で育ってきただけあって、超自然的な魔窟においても狩人としての経験でその場の情報を拾い上げている。自然界の常識が魔窟でも通用するかは怪しいが、参考意見としておくには悪くない。どうせ予想もつかないような異常事態など、起こってみなければわからないのだ。今はとりあえず経験的な予測に基づいて行動しておけばいい。

 何が起きても大丈夫なように備えをするのもいいが、全ての考えられうる事象に対して、事細かな対策など立ててはいられない。そういうときは単純にして過剰な防衛策を一つか二つ用意しておくに限る。それで大抵の事態は乗り越えられるだろう。


 明らかにそれまでと空気の変わった樹洞の深奥に踏み入るにあたって、俺は全員に自動防衛の術式を込めた魔蔵結晶を渡していた。ヨモサやメルヴィは防御に不安が残ったので、念のために二つ魔蔵結晶を渡してあった。不意討ちで魔獣に襲われても生き残れる可能性がこれで格段に上がる。

「随分りっぱな防衛術式が刻まれた魔導回路だけどぉ~。これ、一つでいくらの価値があるのかしら~?」

「これ……やっぱり高価なものなんですか?」

「製造原価で金貨十枚ってところだな」

「金貨十っ……!?」

 びっくりしたヨモサが魔蔵結晶を取り落としそうになる。慌てて大事そうに両手で包み込むと、ヨモサが財布として使っている小さな巾着袋の中へと移す。


 話を聞いていたメグはこそこそと服の裏ポケットの奥深くに魔蔵結晶をしまっていた。まあ本来、隠すように持っておくのが正解なのだが、メグがそういう行動を取るとどうしても後ろめたい様子に見えてしまう。

 ミラとムンディ、疑問を発した当のメルヴィは物珍しそうに魔蔵結晶を観察しているだけで驚きはないようだった。機能の高い魔導回路が高価なのは術士の常識だからだろう。

 そんな中でレリィは意外と冷静であったりする。もういい加減に俺との付き合いで慣れたのか、高価な魔蔵結晶も田舎土産のお守り程度に感じているのか、無造作に胸の谷間へと押し込んでいる。気のせいか、以前よりも胸の間にしまえる物が増えているように思えた。


「魔窟の攻略が終わっても残っていたら回収するからな」

「ええ~!? なぜです、どうしてですー!? 一度もらったからには、これはメグのです~」

「そうよ、クレストフの坊や。ちょっとケチ臭いんじゃないのかしら?」

「……そういうことなら、魔窟にいる間に研究をすませないといけないかな……」

「うぅ~ん、クレスお兄さんからの贈り物、メルヴィとしてはずぅっと持っていたいかなぁ~」

 一斉に術士連中から文句が噴出した。どいつもこいつもヨモサなどより、よほど強い執着であった。



「……糸網の樹洞は大きな道を進まずに、小さな横穴を潜り抜けるのが安全だとギルドの講習では言っていたな。それも絶対安全というわけでもない、とか曖昧な話だったが……」

「でも、横穴なんて途中で狭くなって通り抜けられないようなのまであるよ? 大きな道を通らないで進むのも不可能だし」

「まあそうなんだけどな。大きな樹洞を通るときは走り抜けろ、というのがギルド調査隊からの忠告だ。なんでも階層主の『アシナガ』に捕捉されて、攻撃を受けるらしい」

 第五階層『糸網の樹洞』の階層主ボス、『アシナガ』は魔窟誕生からこれまでに一度も討伐されていない強力な魔獣らしい。

 ギルド調査隊も断片的な情報しか得られておらず、とにかく相手にせずに逃げるのが得策だと言われている。


「その『アシナガ』って強いの? あたし達でも倒せないのかな? 急ぐなら最初に『アシナガ』を討伐してしまって、大きい道を通った方が早く先に進めそうだけど……。あ、また蜘蛛の巣が……! もう!」

 小さな横穴を進んでいたレリィが顔にかかった蜘蛛の巣を払いのける。窮屈な横穴を、胸と尻を擦りながらどうにか進んでいる状態だ。この階層はただでさえ広いうえ迷路のように複雑な道となっている。この進行速度では踏破するのに何日かかるかわからない。レリィの言うように階層主を倒してから、大きい道を進んだ方が早いかもしれない。


「『アシナガ』がどういった魔獣かわからないのが不安要素だが、後手に回るよりは迎え撃って討伐してしまった方が楽かもしれないな。無数にある細い横穴から正解を引き当てて進むよりは……」

「あぁ……クレス、ここダメだよ。行き止まり。戻って、戻ってー」

 先頭を進んでいたレリィが横穴の奥へと行きついて、袋小路であったことを確認する。全員で一列に進んできたが、こうなると一番後ろの人間から順番に戻ってもらわないと出ることができない。

 こんなところを魔獣に襲われでもしたら、それこそ絶体絶命の危機に陥ると思う。かなり危ういことをしているという感覚が強い。


「ああ~ん、胸がつかえて出られないわぁ~」

「メルヴィさん、そこお尻を引っ込めて、背をそらすように体を捻ればいけそうですよ」

「だめよぉ~。お尻はもう前にも後ろにも動かないわ~」

「……けっ! 無駄にデカい胸と尻して、淫乱な雌なのです。メグなんてどこも引っかからないのに……」

「あっはっは! 体が小さくて便利だと感じたのは今日が初めてだよ、僕は!」

「メルヴィ、遊んでないで早く戻りなさい。私が押してあげるから」

「あ! ミラおばさま、そんなぐいぐい押したら服が……! いやぁ~ん!」


 俺のいる位置からでは後方の状況がどうなっているのかわからないが、体の小さいミラやムンディ以外はなかなか苦労しているようだった。

「覚悟を決めて、アシナガ討伐の作戦に切り替えた方が良さそうだな……」

「そうしようよ……。あたしもこれ以上、蜘蛛の巣だらけになるの辛いし……」

 常に先頭を歩くレリィは、既に全身が蜘蛛の巣だらけであった。とりわけ長い八つ結いの髪に、白い糸が何本も絡みついていた。



 階層主『アシナガ』の討伐をすることに決めた俺達は、運搬人のヨモサ、近接戦闘の苦手なメルヴィ、ムンディの三人が細い横穴に隠れ、俺とレリィ、メグ、ミラの四人で大通路に陣取り、アシナガを迎え撃つことにした。

 敵を迎え撃つと決めた時点で、俺は『鉄砂の鎧』を身にまとい、『虎の観察眼』の術式も発動している。加えて身体強化系の補助術式も重ねがけして万全の態勢である。


「クレストフお兄様、完全体なのですねー」

「完全体とか言うな。怪物みたいだろうが」

「アシナガがどんな魔獣かもわからないで迎え撃つのだし、できることは全てやっておくといいのよ。私も幾つか仕込みをしておいたし」

「ねえクレス。迎え撃つっていうけど、ここで待っていれば来るの?」

 各々が緊張感もなくアシナガ迎撃の態勢を整えている。レリィはただこの場で待ち構えていることが不思議なようだったが、俺には確信があった。


「ギルドの情報が間違っていなければ、大通路でのんびりしているだけで来るはずだ。そうでなければ、第五階層における高ランク冒険者の死亡者数が突出して多くなることはない」

 第五階層に至る冒険者自体が少ないにも関わらず、この階層における高ランク冒険者の死亡者数は他階層に比べて一桁多いのが事実だ。

 それは詰まるところ、『アシナガ』が好戦的な魔獣であることの証だ。


 ほどなくして、遠くから重量のある何かが地を這いずるような低い地響きの音が伝わってくる。

「来たか」

「……なんだろ。おかしくない? 獣の足音って感じでもないんだけど」

「蜘蛛だからではないのです?」

「ううん、違う。巨大な蜘蛛の魔獣とも戦ったことがあるけど、こんな音で近づいてはこなかったよ」

「確かに妙な感じはするかしら。斥候を出しておくわ」

「それなら、これも持っていってくれ」

 ミラが魔導人形を一体、斥候として大通路の先へと走らせる。俺は魔導人形の手に『虎の観察眼』の術式を発動した虎目石の魔蔵結晶を渡しておいた。これで大通路の先から何が迫っているのか俺の目にも映る。


 大きなものが這いずるような低重音の地鳴り。俺はどこかでこれと似た音を聞いたことがある。

 ふと脳裏を過ぎったのは巨大な蛇の精霊、『宝玉の大蛇グローツラング』が地下洞窟を進む威容。

(……馬鹿な。階層主とはいえ、あれほどの存在がおいそれといてたまるものか……)

 嫌な想像を振り払うようにして俺は『虎の観察眼』の術式に意識を集中した。まもなくミラの魔導人形が迫りくる『アシナガ』と接触するはずだ。魔導人形は片手に虎目石の魔蔵結晶、もう片手に魔導ランプを掲げている。

 送られてくる映像は薄暗い樹洞の様子ばかりで代り映えしないが――突如、目の前が真っ暗になって映像が途切れた。


「……!? ミラ、映像が途切れたぞ!?」

「こっちも、魔導人形の制御が切れたわ。クレストフの坊や、何か見えたかしら?」

「いや……何も……」

「本当に? 映像の途切れる瞬間、何も見えなかったの?」

「真っ暗な闇が樹洞の先を塗りつぶしていて……。いや、そうか! 樹洞の先を全て塞ぐような大きさの――」

 そこまでの考えに至って俺は咄嗟に左右を見回した。大通路は前にも後ろにも続いているが、横道はあまりない。だいぶ後方にヨモサ達が隠れた小さな横穴があるだけだ。

「まずいな。一旦、後ろへ下がれ! 横穴がある場所まで戻るんだ!」

「そんなまずいの!? あたしが殿しんがりをやろうか!?」

「レリィはメグとミラを守りながら先に下がれ! 俺が防壁を築く!!」

 言うが早いか、俺は一人で前に出て水晶群晶クラスターの魔蔵結晶を地面に埋め込むと防衛術式を行使する。


(――世界座標『宝石の丘ジュエルズヒルズ』の『水晶渓谷』に指定完了――)

『壁をなせ!! 白の群晶!!』

 黄色い光の粒と共に召喚された分厚い水晶の壁が、樹洞の先を埋め尽くすように出現した。

 これだけ分厚ければ何が来ても時間稼ぎにはなるだろう。

 防壁が完成したのを見届けて、俺も踵を返すと既に撤退したレリィの後を追う。


 ――ぎぎぎぃんっ!! と、歯が浮くような音が後方で鳴り響く。

 ついに現れた『アシナガ』が水晶の壁と激突したか。振り返って様子を見れば、目の前には砕かれて散乱した水晶。そして、紫色の剛毛に覆われた毒々しい黒紫色の鉤爪二本が迫っていた。

 振り返った俺の肩を鉤爪が捉え、樹洞の幅いっぱいの太さの蜘蛛脚がこちらを押し潰さんとして圧力をかけてくる。


「……ぐっ!! ぅおおおおおおっ!?」

 本体の見えない蜘蛛の脚が一本、尋常ではない圧力で俺の体を押し込んでくる。防衛術式は全て正常に発動している。今も、鉤爪が食い込もうとするたびに『鉄砂の鎧』と自動防衛の術式による衝撃波が『脚』を弾こうと反発しているが、全く怯む様子がなかった。

(――この圧力!! 『宝玉の大蛇グローツラング』と同等か、あるいはそれ以上か!?)


 いくら階層主とはいえ、この脚の強度は異常である。

 そう、『脚』だ。これで脚一本なのだ。

 どこから伸びてきているのか全容がわからないほどに太く長い脚。これが蜘蛛の脚の一本だとすれば、姿の見えない『アシナガ』の本体とはいかなる大きさの怪物なのか。

「こんな超越種並みの化け物が巣くっているなんて! ギルドの情報は色々と説明不足だろう、これは!?」

 樹洞の地面を削りながらも踏ん張り、アシナガの脚をどうにか受け止めているが行き止まりにでも追い込まれれば圧殺されかねない勢いだ。

 何か反撃の手立てを考えなければ。そう思って術式の準備に入ろうとしたところ、突然アシナガの脚が大きく振動して動きが止まる。すると今度は鉤爪が俺の肩を引き寄せて、脚が後退を始めた。

「くそっ! 今度はなんだ!? 俺を引きずり込むつもりか!?」


 樹洞の大通路を引きずられるようにして戻された俺は、途中で横穴に潜むヨモサと目が合う。

「あっ!? レ、レリィさん!! クレスさんがっ! 引きずられています!」

「大丈夫! 今、止める!!」

 咄嗟に叫んだヨモサの声に、どこか近くにいたらしいレリィが反応する。

 どぉんっ!! とアシナガの脚に大きな衝撃が走る。先ほどの振動もレリィによる攻撃だったのだろうか。大きく揺れたことで鉤爪が俺の肩から外れ、アシナガの脚はそのまま樹洞の奥へと引っ込んでいく。

「クレス無事!?」

「あぁ……どうにかな。助かったぞ」

 地面に引き倒されていた俺はゆっくりと立ち上がり、辺りの様子を確認する。


 レリィは既に八つ結いの髪留めを全て外して、闘気の封印を解いた状態にあった。翠色の闘気が棚引き、手にした水晶棍が鮮やかに輝いている。まさに全力でもってアシナガの脚を殴りつけたのだろう。それでもアシナガを怯ませて脚を引っ込めさせるぐらいの痛手しか与えていなかったようだが。

「レリィの本気でも怯ませるのがやっとか……こいつは、まずいかもしれないな」

「どうするの? 脚の引っ込んだ先に本体がいるなら、そこを叩きに行く?」

「随分と好戦的だなお前は……。『アシナガ』とは戦わない。この第五階層だけは逃げの一手だ。長期戦になるかもしれないから、闘気は四分の一まで絞っておけ」


「おや? 珍しく弱気なのだね、クレストフ君」

 樹洞の横穴に小さく身を隠したムンディ教授が声をかけてくる。子供の体だから辛うじて入れる穴にすっぽりと収まった様子は、どこか微笑ましい。

「今の馬鹿げた蜘蛛脚を見ていなかったのかしら? あれはたぶん、超越種並みの力を持った魔獣だわね。戦わないで済むなら、その方がいいのよ」

 ムンディとは向かい合わせの小さな横穴に、しゃがみ込んで隠れているミラがいた。こちらもまた微笑ましい光景ではあるが、今はすぐにでもここを離れなくてはいけない。二人とも穴からは出てきてもらうとしよう。


「全員いるか? ここからは全速力で大通路を駆け抜ける。そして、隣の大通路に繋がる横穴を探し出して、アシナガの攻撃をやり過ごすんだ」

 第五階層の構造はここまでの道のりでおおよそ見当がついていた。

 縦に延びる大通路と無数の横穴。放射状に広がった縦横網目状の樹洞そのものが蜘蛛の巣だったのだ。

 この場所は、第五階層『糸網の樹洞』の階層主『アシナガ』の領域。

 中心から放射方向に延びる広い樹洞がアシナガの『脚』の通り道で、小さな横穴こそが冒険者の進むべき正規の通り道であった。

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