第302話 第四階層『魔熊林道』
第三階層を抜けると花畑の中にぽつりぽつりと木が生えるようになり、やがて見通しの悪い林と一本の曲がりくねった獣道が続くようになる。
ここまでの道のりは非常に順調だった。階層主を倒しているため魔獣との遭遇率が極めて低くなっており、第三階層も小型の角兎が散発的に出現するぐらいで、大型魔獣と戦うことなく第四階層へ到達したのだ。
「この道を素直に進んでいっていいものか……」
「ギルドの情報では道を外れると迷って入口に戻される、っていうことだったよね」
「空間の歪みが発生しているなら、抗っても無駄だと思うわね。ここは愚直に道を進むしかないかしら」
ギルドの情報が当てにならない状況が出始めていることから、どういった些細なことでも疑い深くなってしまう。こういう時、ミラのように経験豊富な人間の助言は安心感がある。
「いやいやいやすごいね、ここは! さすが魔窟だよ! あの空もどこまで続いているんだろうね? 普通の植物が生育しているから、太陽の光も紛い物ではないだろう。空中の、ある領域から空間が歪んで、どこか別の座標の空に繋がっているのかもしれないなぁ! 林の奥も本当に空間歪みによる迷路になっているのかい? 調べる必要があるだろう?」
「いえ、まだこの辺りは階層も浅いし、先へ進むことを優先した方が……」
「第一階層から既に異変はあるんだ。ここでも、何かあるかもしれないよ。見逃してしまっては後から手遅れになるかもしれないし、やっぱり調べておく必要があると思うよ。そういうことだから、ちょっと調べてこよう!」
ムンディ教授はそう言いながら一人で林の奥へと入ってしまう。レリィが慌てて追いかけるが、魔窟に入ってからムンディは終始あの調子で動き回っている。
「……なんであのボケ爺を連れてきてしまったわけ?」
「あれで異界研究の第一人者だからな……。これから向かう異界の狭間での探索においては必須の人物だし……」
始めこそミラもムンディに小言を言っていたが、もはや何を言っても無駄と理解してからは俺に愚痴をこぼすようになってしまった。
「ムンディ教授! 危ないから戻ろう! ね?」
「レリィ君。危険は承知だとも。しかしだね、今ここでしか調査できないこともあるんだ。すまないが辺りの警戒を――」
がさり、と林の奥で音がした。藪が揺れて、草木の折れる音もする。
ムンディ教授を庇うようにレリィが前へ出て、水晶棍を前に突き出して構えた。
バキバキと音は激しくなり、周囲の木々の揺れが大きくなっていく。ついには近くの大木がへし折れて倒れこんでくる。そして木々の倒れた間から、毛むくじゃらの巨大な影が現れた。
「なんかデカいの……来たっ!!」
ゴフアァッー―!!
林の奥から咆哮と共に現れたのは、見上げるほどに巨大な体躯の熊だった。
「熊ぁーっ!?」
熊であることは間違いない。だがレリィが思わず大声を上げたのは、熊は熊でも魔獣化した熊で、その威容があまりにも化け物じみていたからだ。遠くから見ると背の高い木々と並んで、あまり背丈に違いがないくらいである。
「おぉおー!! これは立派な魔獣だー!!」
「ムンディ教授、逃げますからね!!」
魔窟へ潜ってから初めて大型の魔獣に遭遇したムンディは興奮してその場で飛び跳ねていたが、素早くレリィが捕まえて俺達の方へと戻ってきた。
「うおっ!? ちょっと待て。いきなりこっちに来るのか!?」
レリィ達がこちらへ戻ってくれば、当然のことながら魔獣もこちらへ向かってくる。
遠目でもはっきりとわかる。銅色の金属光沢をした毛並みからして、あれは魔獣化した
第一階層の影小鬼も魔獣なら、この
「クレス~! どうにかしてー!」
「クレストフ君! この魔獣は冒険者組合の魔獣情報によると赤銅熊の魔獣、通称『
「それ無理だから! 今どうでもいい情報だから!!」
俺が何か言う前にレリィがムンディ教授に突っ込みを入れている。あの二人はなんだかんだで仲がいい。今後、ムンディ教授の相手はレリィに任せよう。
「さてさて、どうやらここはメグの出番のようですねー!」
誰も何も言っていないのに、何故かここが活躍の場と考えた悪魔祓いのメグが前に出る。
いや、本当にどうして今出てきた? 幻想種相手ならともかく、相手は完全に肉弾戦向きの魔獣だぞ。それとも魔の付くものなら祓えるのだろうか。
ここへ来るまで第三階層の角兎はレリィが全て一撃で屠ってしまったため、メグの実力を見るのはこれが初めてだ。ここで使えないようなら早々に置いていく選択肢もある。
「レリィのやつは教授を抱えていて戦闘は難しいか……。ムンディ教授は放っておいても、まず死なないから助ける必要もないんだがな。まあいい、メグ。ここはお前の出番だ。悪魔祓いの力を見せてくれ」
「ふあぁっ!?」
俺の言葉に素っ頓狂な声を上げて背筋を伸ばすメグ。今さっき、自分の出番だとか言っていたよな? そこでどうして驚く?
「ふっ……ふふふっ。そこまで期待されては仕方ありませんねー。メグ、ちょっと本気出しちゃいます」
くるくると
胸にかけた
祈祷儀式――それは聖霊教会の術士が好んで使用する術式行使の方法だ。術式の細かい構成を言語化することで、意識の制御を確実かつ安定に行える一方で、祈祷の時間が長く隙を見せやすいのが欠点だが――。
迫りくる赤銅魔熊に対して、俺はメグを信じて一旦離れることにした。任せるとは言ったが、隙あらば援護の術式を放てるように位置取りを考える。
「クレスさん! メグさん一人に任せてしまっていいのですか!?」
「いきなりあの魔獣はちょっと心配ね~。大丈夫かしらぁ?」
ヨモサとメルヴィはメグの心配をしているが、聖霊教会が本当に使える戦力としてメグを送ってきたのなら、この程度の魔獣一匹に苦戦するようでは困る。悪魔祓いとしての訓練を受けてきたと聞くし、経験浅くともその戦闘能力は期待していいはずだ。
特に何も文句の出ないミラは、なんだか微笑ましいものでも見るかのようにメグの初陣を見守っている。
(……メグが本当に
祈祷中のメグに赤銅魔熊が襲い掛かる。あの大きく強靭な手の平で叩き潰されれば、普通の人間など一瞬で肉塊になり果てるだろう。
『……主の御心を知らず、力に溺れし悪しき獣よ……』
メグは祈祷を続けながら振り下ろされる赤銅魔熊の腕を掻い潜り、瞬時に飛び上がって魔獣の頭上を取った。武闘術士としてみても素晴らしく軽快な動きだ。口先だけではない。
『……
祈祷を終えたメグが
赤銅魔熊は目前に飛び上がったメグに向かって牙を剥き、彼女を一飲みにできそうな大口で喰らいつく。その眉間に、メグの一撃が炸裂した。
――ずぅんっ!! と空気が震えて地面が揺れる。
激震が通り抜けた後、赤銅魔熊の巨躯が力なく地面へと崩れ落ちる。
見れば顔面が破裂していた。
ほどなくして、赤銅魔熊の体から黒い霧が立ち昇り、灰となって消滅していく。後には赤銅魔熊の立派な毛皮と、握り石程度の大きさをした橙色の中魔石が残された。この巨体にして中魔石というのは随分と小さな感じがするが、魔石の質はこれまでに倒してきたその魔獣よりも良質のものだった。
なんにせよ今回はメグの完全勝利だ。討伐の手際もよかった。
赤銅魔熊を倒したメグは戦棍をぶんぶんと振りまわしながら、俺達の元へ駆け寄ってくる。
「見ましたか! メグ一人でやりましたよ。やってやりました! どうです。褒めてくれていいんですよぉ。むふふん!」
胸を張るメグに、俺は素直な意見を言ってやる。
「大したものだな。聖霊教会が精鋭として送ってきた悪魔祓いのことだけはある。これなら戦力として十分に計算できるぞ。今の戦闘も無駄がなく素晴らしかった」
「……え? え? 本当です? メグすごかったですか?」
「すごかったです! メグさん! 格好良くて憧れました!」
照れ笑いを浮かべるメグを、ヨモサが興奮気味に称賛する。
「い、いや~! それほどでもないですー。いえ、あるです? あるかもですー!」
ヨモサの称賛に調子づいて、メグの体勢が胸を張り過ぎてどんどんと後ろへ反り返っていた。それ以上いくと地面に頭を打ち付けそうだ。
「んん~! メグちゃん、やるわぁ~。感心しちゃった。ご褒美あげちゃう!」
「へわわわぁっ!? な、何をするですか! メグにはそんな気はないのです! えっちい妹より、美人のお姉さまに可愛がられたいのです!」
メルヴィにご褒美のキスをされて、妙な性癖暴露までしているが、この反応を見るとメグはあまり褒められることに慣れていないのかもしれない。
「やーすごいね、メグってば。ありがとうね、助かったよ」
無事にムンディ教授を連れて戻ってきたレリィが、感謝を込めてメグの頭を撫でる。するとメグは耳から顔から首まで真っ赤に染めて、あたふたと縮こまる。
「レ、レリィお姉さま、そんなに褒めてくれるなんて……。メグ頑張ったかいがありましたです……」
何だろうか、この危うい反応は。というか、いつの間にレリィのことをお姉さまと呼ぶようになったのか。俺のことはたまに守銭奴と言いかけるのだが、この違いはなんなのか。
顔を赤くして照れていたメグが、ヨモサ、メルヴィ、レリィによる褒め殺しから逃れるように、何故か避難先として俺のところへ来た。
「あ、あの……メグ、頑張ったです」
「うん? そうだな。頑張ったな」
「ええと……それでですね。メグ、お駄賃が欲しいです。クレストフお兄様……」
「…………」
上目遣いにもじもじと小遣いをねだる、幼さが残る修道女に『お兄様』などと呼ばれて複雑な感情が俺の中に芽生えた。少なくとも守銭奴と呼ばれるよりは気分がいい。断然いい。
「聖霊教会との契約は無償での人材派遣。だが、まあ個人的に良好な関係を築く意味では、働きに見合った報酬を出すのもやぶさかではない」
俺の言葉にメグの瞳がキラキラと輝く。金に目がくらんだ人間特有の、期待の眼差しである。
「今回の魔獣の討伐報酬は魔石の色と質からして、金貨五枚はいくだろう。上質な毛皮も手に入った。魔窟探索にかかる費用と、いざというときの保険の積立て……ちなみにこれはお前が怪我をしたときに無条件で治療する契約だが、それらを差し引いてお前の取り分は金貨三枚だ」
「金貨三枚!?」
報酬金額の金貨三枚を問答無用で手に握らされて愕然とするメグ。毛皮の利益を考えるとかなり少ない金額だが、やはり守銭奴と思われてしまっただろうか。しかし、現金ですぐに用意するとなると、これくらいが妥当だ。
「熊一匹で金貨三枚……。十匹狩ったら、どうなるです……?」
「金貨三十枚は現金払い。それだけ狩って毛皮が大量に出れば、後で毛皮の販売利益も取引の手間賃を抜いて渡せるな。実際には、一人で戦うわけではないから、報酬はもう少し細かく分配されるが」
「メ、メグは……メグは!! 許されるなら、クレストフお兄様に一生ついていくです!」
報酬の話をした途端にメグが俺へ縋り付いてくる。
「……急にどうした? 怪しいぞ」
「知っていますか。教会では実地訓練の扱いで、魔獣を倒しても銀貨一枚の報酬が限度なのです」
「小物狩りじゃないのか? さすがに大物を狩ったら、もっと報酬がでるだろう?」
「一律銀貨一枚なのです……! そういう規則なのです……!」
メグは声を震わせて、わなわなと手の上の金貨を確認しなおす。それが果たして幻ではないかと疑うように。
「孤児だったメグを今まで教会が養ってくれたという恩はあるです。でも、魔窟で稼げるならそんなのあっという間に元が取れると知ったのです。むしろ、これまで実地訓練とか言って数ヶ月、有名魔窟に潜らされたときの稼ぎで帳消しのはずなのです。……でも実際は、報酬は何も出なかったのです」
見事なまでの聖霊教会による搾取だった。メグがそういった境遇でも文句を言えない立場だというのはわかる。ましてや門外不出の秘儀を授けられる悪魔祓いが、俗世の冒険者として金銭を稼ぐなど教会が許すはずもない。だが、個人資産を保有する権利まで奪われているわけではないはずだ。
「そういうことなら、お前にこの金貨は渡せないな」
「ふへ?」
サッとメグの手から、先ほど渡した金貨三枚を取り上げる。途端にメグの表情がぐしゃぐしゃに崩れ、俺に向かってかなり本気の力で掴みかかってきた。
「あ、あああ、悪魔ぁー! 守銭奴ぉー!! メグの話を聞いていながらその所業ですかー!? メグのような教会の犬には、支払う金はないということですー!?」
「あー。悪い悪い、取り上げたのはそういうことじゃないから、落ち着け。このままお前に現金で報酬を渡しても、教会に戻ったら派遣先で得た代金は教会で管理するとか言って全部持っていかれそうだったから……」
「うっ……!? あ、ありうるです……というか、絶対にそうなるです……」
結局、メグの手に金は残らない。その事実を自覚した瞬間、メグは本気で泣き始めた。
「ひどいですー! あんまりですー! なんでメグの人生、奪われてばかりなのですかー! 家族も、家も、身分だって奪われて、もう何も残ってないのにお駄賃さえも取り上げられるのですかー!?」
こいつの人生に何があったかは知らない。孤児といっても最初からそうである場合もあれば、事情があって後から孤児になることもある。そんな人生の中でメグは奪われてばかりだったのだろう。過酷な訓練に耐えても褒めてくれる人間もおらず、当たり前のように使い潰される。
使命感を抱いて悪魔祓いとして戦う者もいるだろう。だが、メグのように本意ではなく、生きるために仕事をするものもいる。それでさえ、最低限度の暮らししかできないというのに。
「俺はな、いい仕事には正当な対価があってしかるべきだと思っている。それをろくな仕事もしていない奴らが掠め取るのは許せない。だから、今回の旅では強欲な錬金術士クレストフ・フォン・ベルヌウェレは聖霊教会に対して一切の報酬を支払わない。これは謝罪の受取りだからだ。教会にはそう言って、報酬は銅貨一枚ももらっていないと報告すればいい。しかし、俺が個人的にメグと契約を交わした分の報酬は、魔導技術連盟の管理する銀行でメグの名義の口座を作って渡す。これは個人的な取引であって、聖霊教会の仕事とは無関係だ。これでいいだろう?」
「……? あの、言っていることの意味がよくわからないのです。メグでも銀行の口座って作れるですか? それって、後からバレて教会の偉い人に怒られたりしませんです?」
「身分保証が必要なら、俺が保証人になろう。まあ、俺が紹介する時点でまず不要だろうが。それと教会で文句を付けられたら俺に言えばいい。俺が個人的に交わした契約にケチをつけるのかってな。不当な扱いを受けたなら、連盟に来い。実を言えば、他組織からの引き抜きなんて、教会も連盟もお互いによくやっているんだ。なんなら新しい名前と身分まで用意できるぞ」
「一生ついていくです」
即決だった。
教会からの破門も恐れずといった様子である。
「それじゃあ、お前の報酬はその都度、記録を取って銀行口座に貯めておいてやる。街に戻ったときに手続きをしてやるよ」
「お願いするです! あ、あと、さっきの金貨三枚だけはやっぱり現金で欲しいのです!」
「ん? 大丈夫なのか?」
「すぐに教会へ戻ることはないので問題ないですー。魔窟での初仕事で稼いだお金、実感として持っておきたいのですよー」
「まあ、そういうことなら……」
俺は一度しまった金貨を三枚、メグに渡してやる。メグはこれまでの不遜な笑みとは違う、純粋に喜びを噛みしめた笑顔を浮かべていた。
「なかなか面倒見がいいわね。そうやって、女の子を手懐けてきたのかしら」
それまでずっと黙っていたミラが一言、皮肉交じりにからかってくる。
「俺はただ、いい仕事に正当な対価を、と考えただけだ。それだけだ」
「そーそー。クレスにとっては、それだけのことだよねー」
不意にレリィが棘のある口調で絡んでくる。口調がきついだけで言っていることは大したことではないのだが。
「なんで怒っているんだ?」
「別にー? お金の相談に関して、あたしはそこまで親身にしてもらった記憶ないなーって」
そんなことはないだろうと思ったが、レリィと出会って間もない頃は世間知らずの田舎娘をどう安くこき使おうかと考えていたような気もする。今も正当な報酬は支払っているが、専属契約などレリィに不利な契約はそのままだ。なお、契約の見直しをする気はない。
「金が足りてないのか?」
「そういうことじゃないし!」
金の問題ではなかったらしい。
「あ~、やっぱりこういうところはクレスお兄さんまだまだダメねぇ~」
メルヴィにまでダメ出しをされてしまった。この手の流れはよくない。一方的に俺が悪者扱いされる流れだ。
「無駄話はここまでだ! 行くぞ!」
「あー、逃げた」
「逃げたわね」
「逃げるのぉ~ん?」
「え? 逃げたって、何の話をしているんですか皆さん」
「まあ、逃げるが勝ちだね、ここは」
「逃がさないです。一生ついていくです」
こうして俺達は新しい仲間を迎えて、魔窟の攻略を本格的に進める体制が整った。
レリィと二人で攻略していた旅路の下準備は終わり。もう、俺達は始めているのだ。
宝石の丘への道を辿る旅路。異界の狭間への挑戦を。
地獄への旅路を。
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