第271話 当たり前の救済
第二階層への道を目指して進む途中、ふとレリィが足を止めて坑道の脇にあった板戸に目を向ける。
「クレス、この扉……」
「ん? そっちは第二階層への順路ではないぞ。小鬼の巣窟でも奥まった場所、たぶん『
俺達の目的はあくまでも底なしの洞窟・最下層へ到達し、『送還の門』を通って『異界の狭間』へと向かうことだ。その下調べでわざわざ脇道に外れる意味はない。だが、レリィはどうしてもその板戸の先が気になるのか、戸に耳を当てて向こうの音を探り始めた。
レリィと一緒にくっついてきた
無駄なこととも思ったが、もし板戸の向こうで小鬼の群れが待機していて、俺達が通った後で背後から襲い掛かる準備をしていたら厄介だ。先制して小鬼を駆逐しておいた方が、後が楽ということも考えられる。ここはレリィの判断に任せてみることにした。
「気になることがあるのか? その先に」
「うん。人の……泣き声が聞こえる!」
「泣き声?」
「叫んでいるみたい。他の冒険者が襲われているのかも……助けなきゃ!!」
「おい、待て! 俺達に関わりなさそうなら放っておけ!! わざわざ蜂の巣を突くような真似を――」
ばんっ、と板戸を蹴破り、ためらいもなくレリィは脇道へと突入していく。俺は一つ舌打ちをしてから、レリィの後に続いて慎重に脇道へと入っていく。
岩壁を大きく掘り抜いて作られた部屋では、既にレリィと小鬼達の戦闘が始まっていた。
魔導ランプの青い光とは違う、石炭から燃え立つ赤い炎が内部を照らし、争うレリィと小鬼の影を部屋の天井に映し出している。あまり換気がよくないのか、淀んだ空気と目に沁みるような煙の臭いが充満していた。
(……洞窟内で火を焚くとか馬鹿か!? こいつは間違いなく影小鬼の仕業だな……)
大部屋の中には武装した小鬼戦士が
また一匹、虫を叩き潰すかのように小鬼の頭頂部が水晶棍で殴られて、地面に血の華を咲かせている。一応、粗末な兜で頭を守っていたようだが、その兜ごと頭蓋を叩き割られている。
(……容赦がないのはどっちだよ……)
間断なくレリィへと飛び掛かっていく小鬼の群れに前進を阻まれながらも、レリィは大部屋のど真ん中で立ち回り、次々に小鬼を返り討ちにしていく。襲われているのはレリィの方だが、実際にはレリィによる一方的な小鬼の虐殺がその大部屋では繰り広げられていた。
その片隅で、もぞもぞと動く白いものが視界に入った。
「…………はぅっ。ぅっ!」
若い娘が仰向けに転がされ、小鬼達に囲まれていた。見たところ少女は足を折られており、抵抗する力も残されていないのか、時折小さな呻き声を上げるだけでほとんど動く気配がない。
『ゴギッ!!』『ゴギギャーッ!』
俺が大部屋の中の状況を把握した直後、俺達が突入してきた入口とは別の、大部屋に繋がる別の坑道から騒がしい小鬼の声が新たに聞こえてくる。
援軍か? と一瞬思ったのだが、そいつらは一人の少女を引きずりながら現れると、既に襲われていたもう一人の少女と合わせて、大部屋の端っこの方でなにやら勝手なことを始め出した。
「あうっ、うっ……助け、て! あぐぅっ!?」
地面に引き倒された少女が、数匹の小鬼に集られて髪を引っ張られたり、全身を棒で叩かれたりと
少女達を襲い興奮状態にある数匹の小鬼は、レリィが暴れているにも関わらず、そちらには見向きもしない。
こうした行為に走るのは元々の小鬼という生物が持つ本質、その行動原理に沿って動いているのだろう。有り余る嗜虐性の処理を、他の動物で済ませる。魔獣化してもこいつらの醜悪な本能はまるで変わっていないのだ。
「盛りのついた獣どもが……」
レリィに手は出さないと伝えていたが、この惨状を黙って見過ごすのは胸糞が悪すぎた。即座に『結晶弾』を連発して、少女達を襲っていた小鬼の頭を吹き飛ばす。声を上げる暇も与えられずに小鬼達は即死した。
それでひとまず少女達は解放されたが、二人とも力尽きたように地面に寝転がって動かない。激しく抵抗していた方の少女は泣きじゃくりながら地面に伏せていた。
足を折られた方の少女は仰向けのまま、泥にまみれた大きな胸を静かに上下させている。時折、引き攣ったように胸が震える。命に別状はないようだが、かなり手酷く痛めつけられたのは間違いなかった。
「このっ、こいつらっ! なんで、どうしてこんなことやってるの!? 許さない! 許さないからね!」
俺がレリィに視線を戻すと、彼女はぶつぶつと呟きながら小鬼を一匹一匹潰していた。念入りに、湧き出した害虫が二度と生き返らないように徹底的に圧殺する。そんな鬼気迫る表情のレリィを遠巻きに眺めながら、俺は大部屋での戦闘が終了するのを待った。
部屋の中は影小鬼の血と肉に塗れていたが、ほどなくしてそれらは灰となり、後には粗末な武具と小さな魔核結晶を残して蒸発するように消えた。その部屋の真ん中で、息を荒げたレリィは独り言のように、この惨状に対する問いを投げかけていた。
「なんなのこれ……。魔窟の冒険って……こんなことなの? まだ第一階層から、こんなのってないよ……」
ここ最近のレリィの浮かれようを見ていれば、魔窟というものの現実を知って嘆きたくなる気持ちもわかる。魔窟に初めて挑戦する冒険者なら、この惨状を見ればまさにレリィと同じ気持ちになっただろう。
それは小鬼に嬲られて横たわる二人の少女も同じに違いない。いや、レリィ以上に強く思っていることだろう。期待を裏切られた絶望と後悔に苛まれているはずだ。
「気は済んだか? 魔窟探索は遊びじゃない。危険を冒すから、『冒険』なんだ。そして俺達の目的は魔窟の冒険じゃない。寄り道などしないで、最下層を目指す。今日中に第三階層あたりまでは調査を進めるつもりでいるからな。行くぞ」
「ちょっと待ってよ。この子達はどうするの?」
「放っておけ。魔窟の中では、無関係の冒険者同士は関わりにならないのが鉄則だ」
「見捨てて行くの!?」
「助けても結果的に揉め事になることさえあるんだ。とにかく関わるな。俺達には先を急ぐ理由もある」
「でも……やっぱり見捨ててはいけないよ!」
思わず駆け寄ってレリィは少女らを抱き起こした。
先ほどこの場に連れて来られたばかりの少女は、泣きじゃくりながら呻いていたが深刻な怪我などはない様子でレリィも少しほっとした表情を見せる。だが、もう一人の少女の怪我の具合を見て顔をしかめていた。
遠目に見ても全身に生々しい打撲痕があり、両足の骨も完全に折られている。幸いにも頭を強く殴られた形跡はないし、出血は擦り傷や切り傷程度で深い裂傷はないから、直ちに死ぬようなことはないだろう。
(……まだ元気な方が、足の折れた方を連れていけば魔窟を脱出できる可能性はある。ここまでにいた小鬼はほとんど俺達が全滅させて来たから、生き残れる確率は高い。俺達が手を貸す必要はないんだがな……)
どうにもレリィは目の前の悲惨な状況に感情移入しすぎている。もう、この二人の少女が生きては帰れないと思い込んでいるようだ。
足の折られた少女だって、まだ両腕が残されている。しばらく休んで、体力を回復させてからなら這ってでも魔窟を脱出できるかもしれない。ここはまだ第一階層なのだから、レリィの心配は過剰に過ぎる。
死ぬか生きるかの確率で言ったらたぶん、五分五分くらいはあるだろう。一度、小鬼に捕まって終わるはずだった命を繋げたのだ。起死回生の幸運から与えられた生き残りの道としては、充分過ぎる希望である。
レリィは少女を膝の上に抱え上げながら、無言で俺に縋るような視線を向けてくる。
(……まだまだ甘いな、レリィは。こんなことでは、この先の魔窟攻略が思いやられる……)
ここで魔窟の厳しさをはっきりと教えて先に進むべきか。
しかし、それによってレリィが集中力を欠くようでは問題だ。とりあえず、魔窟が厳しい場所だという認識はできたということで良しとするべきか。他の冒険者と関わりになるべきでない理由は、後で言い聞かせて納得させる方法もある。
少しだけ考えた俺は、少女を救うことに一切の躊躇がないレリィの姿勢を見て、大きく溜め息を吐いた。
「……お前にとっては初めての魔窟探索だ。変に苦手意識を持たれても困る。好きにしろ」
レリィの表情がぱっ、と華やかな笑顔に変わる。状況が最悪なのは変わらないだろうに、人助けがそんなに嬉しいことなのだろうか。見も知らぬ他人を助けることが……。
そう思って覗き込んだ少女の顔は、どこかで見た覚えのある顔だった。しばらく観察して思い出す。冒険者組合の本部で登録を断られていた少年少女達のうち二人だった。
(……魔窟に忍び込んでから、数時間のうちにこの状態かよ。あほか……何やってんだこいつらは……)
あまりにも愚かな行動とその結末に俺は呆れ果てるほかなかった。
結局、俺達は二人の少女を連れて魔窟の外へと出ることになった。足の折れた少女サラはレリィが肩に担ぎ上げ、もう一人の少女ネリダは泣きながらもレリィに手を引かれて歩いていた。
衣服がボロボロで少女二人は酷い格好だったが、何も着るものがないよりはましだろう。ただ、一番高価な魔導具の杖は小鬼によってどこかへ持ち去られてしまったようだ。外套も杖と同様になくなっていた。
召喚術で着るものを出してやることもできたが、そこまで親切にしてやる義理もない。自分たちがやらかした失敗の結果をよく理解させるためにも、俺は余計なことはしなかった。
帰り道の途中、徘徊する小鬼戦士の後ろ姿を見つけた。
『
俺はすかさず『結晶弾』を撃ち込み小鬼戦士の頭を吹き飛ばした。近くにも何匹か小鬼斥候がうろついていたので、そいつらもまとめて一掃する。
小鬼戦士が灰となり消え去った先には、少年が一人、倒れ込んでいた。
「クランツ!!」
途端にネリダが声を上げて、倒れ伏す少年へと駆け寄った。クランツと呼ばれた少年は全身に傷を負って気絶していた。あと少し小鬼戦士を倒すのが遅ければ、止めを刺されていたところだ。運のいい奴である。
「ぅ……うぅ? ネ、ネリダ……? 無事だったのか……?」
「無事……とは言えないけど、なんとか生きてる……サラもね」
意識が朦朧としているのか、クランツはふらつきながらネリダに助け起こされる。
「テッドは……テッドはどうなった……? あいつは小鬼弓兵に襲われて……」
「テッドは……あ……」
帰還の途中で、見つけてしまった。体に何本も矢を受けた状態でうつぶせに倒れ伏す少年を。
「テッド! テッドー!!」
ネリダが大声で呼びかけるがぴくりとも動かない。見るからに重症だ。
しかし、矢は刺さったままで出血も少ないことから、急所さえ外していれば生きている可能性はあった。
レリィがサラを一度、洞窟の岩壁にもたせかけてから、テッドの容態を確認する。ごく浅いが息はしているし、レリィの見立てではどうやら意識も薄っすらとあるようだった。
「まだ生きている……けど、矢傷が内臓に達していると思う、これ。体が動かせないのも、どこか神経を傷つけているのかも。すぐに治療しないと長くはもたないよ」
「治療って! 医療術士なんていないのにどうやって!?」
錯乱して喚き散らすネリダを無視して、レリィは意味ありげな目を俺に向けてくる。
言いたいことはわかる。俺ならば、この少年の傷を癒すことができるだろう、と。その視線の意味にようやく気が付いたらしいネリダが、はっとして俺に向き直る。
「あなたなら……テッドを助けられるって言うの?」
その問いに答えたくはなかった。その後の展開が目に見えているから。
確かに今この場で治療を施せばテッドは助かる。だが、果たして俺達にそこまでやる義理があるだろうか。既に親切で関わる度合いを超えている。俺はレリィの視線を逆に睨み返すようにしながら口を開く。
「おい、これ以上の手助けをまだするのか?」
「……だって、こうして目の前で苦しんでいるし、助けを求めているなら見て見ぬふりはできないよ!」
「お願い! 助けられるなら、テッドを助けて!」
ネリダも懇願するようにテッドの助命を求めてくる。だが、さすがにこれ以上の他者への同情はお人好しが過ぎる。
「俺達には時間がないと、こいつらのことは放っておくと、お前も最初は同意しただろ。偶然、目の前に居合わせたから小鬼を殺すついでに助けただけで、わざわざこいつら全員の面倒を見る必要もない」
「そうだけど、彼だって帰る途中で見つけられた。助ける余裕もあるはずだよ。旅の仲間だってまだ集まってないんだから、ここで急いでも大差ないでしょ。どうせ魔獣を倒しても、一定期間で階層主も含めて復活するんだし、一気に踏破できる機会を狙う方が効率もいいはず。それなら今のあたし達には十分な時間がある……。違う!?」
「それはそうだが……」
俺は素直に驚いていた。まさかレリィの口から効率などという言葉が出てくるとは。しかも、言っていることは大きく間違っていない。
俺達が先行して魔窟に潜っているのは、仲間が集まった時に素早く魔窟を踏破するための下準備に過ぎない。少なくとも第十階層まではギルドの情報で魔窟の状況は知れているのだ。
今回、第一階層でギルドの情報の整合性はしっかりと取れた。信用に足る情報だった。だとすれば、第十階層までの情報もそれなりに信用できるだろう。
実際、無理して二人で先に進む必要はない。おそらく、第一級の術士と一流の騎士が集まる今回の旅の仲間達なら、全員でかかれば魔窟の踏破は難しくないはずだ。俺達が先行して調べたところで、攻略速度としては誤差程度かもしれない。
そんな状況で俺がテッド少年の治癒を渋っているのは、単純に手間と費用の問題だ。
この調子で人助けをしながら魔窟探検などしていたら、他人の為にどれだけ労力を割かれるかわかったものではない。だが――
「倒れた子供一人も助けられなくて、ビーチェちゃんを助けられるの!? そんなに余裕がないって言うなら、この先だって誰も助けられないじゃない!!」
珍しく声を荒げるレリィの剣幕に押されて、俺は逆に冷静になっていった。
そう、冷静になれた。彼女の指摘通り俺には余裕がなかったのだ。
みっともなくも焦って、すぐにはできないことと、今できることの判断もできていなかった。レリィの甘さを指摘する俺自身もまた、同じ程度には迂闊だった。
「……だからと言って、無条件に目に付いた奴を助けるというのは話が別だ」
「…………。わかった、もういいよ」
諦めたように言葉少なに呟くと、レリィはサラを担ぎ上げたあと、テッドの身体も担ぎ上げて運ぼうとする。結局、レリィは諦めきれないということか。助けると決めたら譲らないその性根には、どこか共感できる部分もある気がする。
俺も、レリィも、誰かを助けたいという想いに違いはないのかもしれない。
俺は、サラに加えてテッドまで担ぎ上げようとしているレリィの尻を軽く叩いて止める。
「うひゃぁっ!? な、なにするの!! この状況でふざけるなら怒るよ!」
「このままそいつを運び出したら、確実に死ぬぞ。一旦、下ろせ」
テッドの傷は深い。治療もせずに魔窟の外まで運んでいたら、帰還前に死ぬのは目に見えている。治療をするなら今しかない。
「おい、ネリダとか言ったか。あと、クランツも。お前たちに選択肢を与えてやる」
「選択肢……?」
「ああ、お前達の友人を救うか否か。そのために対価を支払う覚悟があるなら、契約の下にそいつの傷を癒してやる」
「クレス! こんな時にお金取るの!?」
「黙っていろ、レリィ。お前にこいつは救えない。それでも俺に助けを乞うなら、俺のやり方に従ってもらう。その場合、対価をもって取引するのが最大限の譲歩だ」
俺の言葉に「ぅぐっ」と声を詰まらせるレリィ。彼女には、傷ついたテッドを魔窟の外に運び出すことはできても、傷を癒して彼の命を救うことはできない。
「契約するわっ! それで、いくら払えばいいの!?」
「治療代金は金貨二十枚だ」
「金貨二十っ……!? た、高いわ!」
威勢よく契約すると言ったネリダだったが、金額を聞いて躊躇する。半人前の少年少女達が一朝一夕で返済できる金額ではない。
「高い、か。命の対価としては破格の安さだと思うけどな。どうする?」
ネリダが迷っている間にもテッドの状態はどんどんと悪くなっていく。今ここで決断しない限り、助かるものも助からない。
「……わかった。それでいい。俺が契約するから、テッドを助けてくれ……」
決断できないネリダに代わって、クランツが契約を申し出てくる。
「お前が代表でいいんだな?」
「ああ……俺が、皆を巻き込んだようなものだから、俺が責任を取って……」
「クランツ、何言ってんのよ! 責任なら全員にあるんだから……。私も、契約するわ」
契約の重みを感じながらも、ネリダはテッドを助けることを選択した。
「よし、いいだろう。今ここで意志の確認が取れるお前達二人に契約をしてもらう。すぐに支払えとは言わない。返済期限は五年待ってやる。多少の利子はつくが普通に働いて節約しながら金を貯めれば、返せる額のはずだ」
言いながらも俺は急ぎ、契約用の
(――世界座標『結晶工房・素材倉庫』に指定完了――)
『彼方より此方へ。契約の基板、銀の薄板、来たれ』
黄色い光の粒が舞い踊り、俺の手の中に一枚の金属板が出現した。そこに続けて、契約の書を作成するための転写術式を施す。
金銭の返済契約書に用いる呪詛を銀板に転写するため、
(――刻み写せ――)
意識を集中して、転写内容に細かい修正を加えながら、銀板へと魔導回路を刻み込む。
『返さぬものには降りかかれ――金喰い虫の呪詛!!』
銀板にずらずらと契約の文章が浮かび上がり、その背景には複雑な魔導回路が刻み込まれる。これで金銭返済用の
「この契約書に血判を」
差し出された銀の契約書にクランツとネリダが恐れをなしたように一歩退く。
「こ、この契約は、破るとどうなるんだ……?」
「五年以内に返済が完了しないと、この契約書から呪詛が発動する。血判を押した者に降りかかる呪詛は、契約を果たすまで断続的に全身を針で突かれたような痛みで苛まれることになる。呪詛の効果は契約書を支配する権利者の手に委ねられ、呪詛が発動してからは権利者の意思一つで、痛みを増したり、逆に取り除いたりできるようになる。基本的には契約内容が達成されない限り、呪詛が解かれることはない。時効による呪詛の自然消滅は発動から十五年後。期限切れを狙うのは愚かな選択になるからな。きっちりと期限を守って返済するのが賢いぞ」
クランツとネリダがお互いに顔を合わせて、本当に契約してしまってよいものか迷っている。
「契約を守りさえすれば何も問題ない。契約にない利子の増加や増額請求を権利者が行った場合には、呪詛は権利者に対して降りかかる。その場合は契約内容を正しく履行するまで、針の痛みに襲われることになる。実に公正な契約書だろう?」
契約内容を詳しく説明して、まずは俺が浅く傷つけた親指に血を湿らせてから、契約書の権利者の位置に血判を押した。
それを見て、クランツとネリダは揃って血判を押す。
ちなみにこの契約書には、テッドに対して治療行為を行った対価として金貨二十枚を支払うことが明記されている。ただし、治療の結果については何も明記されていないので、治療後にテッドが死んだり、後遺症が残ったりしても俺には何の責任も発生しない。治療行為自体に対価が発生するだけだ。
明らかに俺にとって有利な契約書であるが、クランツとネリダにこの契約を交わす以外の選択肢はなかった。
「よし、これで呪術契約は完了した。この場ですぐに治癒を行うとしよう」
まずは矢傷を受けた体の痛みを取り去り、テッドの体力を回復させる。治癒系の術式を刻んだ水晶の魔導回路を取り出して意識を集中した。
(――痛みを取り去れ――)
『活力の霊水!』
水晶が淡く光り輝き、薄っすらと光を帯びた液体がテッドの体へと注がれていく。
やや粘性を持った魔力を含む霊水がテッドの体を満遍なく包み込んだのを確認したあと、テッドの体に刺さった矢を慎重に引き抜いていく。雑な返しのついた
矢を引き抜いたときに出血があったが、霊水に包まれて流血はわずかな量に押し止められる。
次に懐から新しい結晶、
きめ細かい結晶の筋が光を乱反射し、氷の彫刻が如き美しさを見せる水晶が俺の術式発動の意思に従って白く光り輝く。これは以前までの治癒系術式を改良した新型の魔蔵結晶である。
(――傷を癒せ――)
『癒着再生!』
潤沢な魔導因子を内蔵した
「これで大丈夫だろう」
「え?」
ふぅ、と俺が一息つくと、それまで心配そうに見守っていたネリダが間抜けな声を上げた。
「ちょ、ちょっと! 今の何? それだけ? そんな簡単に治療しておいて、金貨二十枚も取るの!?」
「簡単な術式なわけないだろ。面倒くさい治癒術で、瀕死の重傷から回復したんだ。安いくらいだぞ」
「で、でもこんなあっさり治せるなら……」
「ネリダ、よすんだ。テッドが助かったなら、俺は文句なんてない……」
傷が回復して、安らかな顔で静かに寝息を立てるテッドに寄り添いながら、クランツは文句を口にするネリダを止めた。ネリダもまたテッドが命を取り留めたことに納得すると、静かに口を噤んだ。
「クレス……あのさ」
「なんだ? お前も文句はないだろう、これで」
「……できればこっちの子も癒してあげて欲しいかなって」
気まずそうな顔をしながらも、レリィは足を折られたサラを指差した。クランツとネリダも申し訳なさそうな顔をしながらも、何か期待しているような目を向けてくる。
「金貨十枚追加になるぞ。このまま家に帰って、骨折部分にはあて木でもして自然回復させれば、大して金もかからないだろう。手酷く痛めつけられたとは言え、療養すれば治る怪我だ」
俺の返答にクランツはがっくりと肩を落とし、ネリダも目を伏せて諦めた様子だった。だが、どういうわけかレリィだけはしつこく食い下がってきた。
「ここはあたしが支払うから、お願い!」
「お前、何を言って……」
まったくそんな義理もないだろうに、治療費を請け負うと言い出したレリィに俺ばかりかクランツとネリダも驚いていた。
「これはあたしのわがまま。偽善だと思っていいから。今回限りでもいい……今回だけ……」
義理や同情とは別に、レリィ自身の気持ちの整理に必要なこと、ということなのだろう。
「今月のお前の給料から引いておくからな」
今回だけ、というレリィの言葉を信じて、俺はサラの両足と全身打撲の怪我、ついでに色々と痛んだ体の内部まで治療しておいてやった。レリィの勉強代だと思えば安いものだ。
そういうことにしておいた。
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