第259話 彼女の苦しみ


 浄化の炎に包まれて、焼け焦げたナタニアは膝から崩れ落ちた。それをアリエルが正面から抱きかかえるようにして受け止める。

「ナタニア……!? どうして……私は何ともないのに!」

「……祓霊浄火ふつれいじょうかは幻想種のみを焼き滅ぼす呪術だからな」

 祓霊浄火ふつれいじょうかは幻想種のみを焼き滅ぼす。普通の人間に対しては保有する魔導因子を喪失させるとか、魔導回路を焼き切る効果がある。それも俺の改良版術式では、一時的な魔導因子喪失のみの影響しか出ないようになっており基本的には無害だ。


 しかし、幻想種と融合して魔人と化したナタニアの身体には、甚大な影響を及ぼしていた。幻想種に浅く憑依されていただけのモリンとは違う。細胞レベルでの融合が既に起こっていたのだろう。浄化の炎が鎮火したあとに残されたナタニアは、青々としていた髪からは色素が抜け落ち、体の肉や脂肪がごっそりと失われて痩せこけ、皮膚のあちこちに黒い斑点が浮かび上がっていた。


「あ……アリ、エル……」

 まだ意識が残っている様子のナタニアが、焦点の合わない視線を宙にさまよわせながら自らを抱き留めるアリエルに語りかける。紫紺に輝いていた瞳も今は光を失い、灰色に色あせていた。

「ごめん、なさい……。私、あなたが羨ましかった……。私も、先輩に、認めてもらいたくて……」

「馬鹿っ……馬鹿ですか、あなたはっ……。私など羨むことはなかったのです! ましてや、女タラシに認めてほしいなどそんな理由で……!」

「……先輩は、特別な人だったから……。研究室の皆が目指した場所……目的地まで辿り着いた……たった一人だから……」

 慈悲を求めるように力なく手を伸ばす。だが、何もつかめずに落とした手をアリエルが必死に拾い上げる。もはやナタニアは自分の力で、自分の身体を支えることもままならない。


「ナタニア、お前には失望した」

 弱ったナタニアにはひどく残酷で辛辣な言葉を俺は放った。アリエルが非難の眼差まなざしで睨んでいる。だが、俺は言葉を止めない。伝えられるとしたら、この時を置いて他にないだろうから。

「……どうして、ここまでのことをやってのける覚悟がありながら、挑戦しなかった。……俺は再び、宝石の丘への道を辿る。お前が連れて行ってほしいと言えば、お前のその覚悟を見ていたなら、あるいは旅路を共にしていたかもしれない」

 ナタニアの表情が一瞬だけ強張り、そして崩れるように弛緩した。


「……あ、あはっ……。ひどい、ですよ、先輩。今になって、そんなこと言われたって……。先輩と会ったときには……後戻りできないところに、いたんですから……。でも、嬉しい、かな。先輩に認めてもらえる可能性が、私にもあったんですね……」

 頬を涙が伝いナタニアは静かに瞼を閉じた。アリエルの腕の中で、がっくりと力を失って倒れ込む。

「ナタニア……うぅっ……ナタニアぁ……。あなたまで、あなたまで私から離れていくのですか……」

 アリエルはただ子供のように泣きじゃくり、やるせない想いを抱えたまま俺とレリィは立ち尽くしていた。


 教室の隅では、床に倒れていたブリジットとガストロが呻き声を上げて起き出してくる。どうもアリエルと一緒に研究室へ乗り込んだ際、真っ先にナタニアによって倒されていたらしい。今の今まで孤独な海に精神を呑まれていたのか、二人とも顔色がひどく悪かった。




「ムンディ教授が、死んだ!?」

 長い時間、泣き続けたアリエルがぐずりながら伝えた話は、俺にとってあまりにも苦々しく手痛い知らせだった。

 にわかには信じがたい話だった。大急ぎで確認のため、俺はレリィを伴って中央図書館へと向かう。アリエルは倒れ伏したナタニアを抱いたまま床に座り込み、その場から動くことはなかった。

 ひとまずアリエルのことはブリジットとガストロに任せることにした。二人ともナタニアの変わり果てた姿を見て衝撃を受けていたようだし、わざわざ身近な人間の不幸をこれ以上、目の当たりにする必要性もないだろう。


 中央図書館に到着した俺は我が目を疑った。

 何度も図書館内を捜索し、『天の慧眼』の術式で念入りに調べる。しかし、いくら調べても結果は変わらなかった。


 ――そこにムンディ教授の遺体はなかった。


「アリエルのやつ、錯乱してありもしないことを口走ったのか?」

「けど、争った跡はあるよ。あっ、これ! 白衣の切れっ端、ムンディ教授のじゃないかな!?」

「そのようだが……だとしたら、ムンディ教授はどこへ消えた……?」

 怪我をしていて、瀕死の重傷のままどこかへ移動したなら血痕が残っていてもよさそうなものだが、図書館内にはアリエルの話していたような大量出血の痕跡は見当たらなかった。彼女の話だと相当な出血で手の施しようがなかったということだが。


 中央図書館ではそれ以上の手掛かりが得られず、俺とレリィはひとまず図書館の外へと出た。

 アリエルにもう少し詳しい話を聞こうと戻る途中、日の落ちた夕闇の下に見覚えのある小さな白い影が佇んでいた。

「やあ、クレストフ君。もしかして僕を探していたのかな?」

 ナタニアとの戦いの最中に別れてからの再会。

 全く無事な姿のムンディ教授が、まっさらな白衣に身を包んで立っていた。

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