第258話 青い魔性


 どれくらいの時間、薄暗い洞窟での死闘を繰り広げていたのだろう。

 いい加減それが幻の類だということは理解していた。現実世界での俺自身の体は、自動的に働く防衛術式によって守られているだろう。

 それでも異界法則によって作り出された幻の世界。ここでの死は、現実での精神の死に直結する恐れも考えられたので、迂闊に敗北することはできなかった。


(……状況は見えてきた。後はこの異界を崩すのに、何の術式を使うかだが……)

 この禁呪に対抗するには、こちらもそれを打ち破るだけの禁呪を使う必要がありそうだ。ただ、俺まで禁呪を発動したら、ソウラマリスの異界現出と合わせてどんな不都合を生じるかわからない。アリエルやムンディ教授がいる場所で安易に禁呪は使えない。それゆえに、術式の選定は慎重を要する。


(……とはいえ、そろそろ覚悟を決めないとまずいか。あまり時間が経ち過ぎると俺はともかく他の人間が犠牲になりかねない……)

 もう十度目を超える回数、打ち倒してきた四つの黒い影が再び復活し、俺に襲いかかろうとしていた。

 これ以上は、こっちも付き合いきれない。禁呪を使ってでもこの空間を抜け出そう。そう、覚悟を決めたとき、不意にどこからかくぐもったナタニアの声が聞こえてきた。


「本当に、どうにもならないなんて……絶対防御という表現が相応しいですね。だからこそ尊敬しています、先輩……。でも、そろそろ戻ってきてくれないと、私も何をしでかすかわかりませんよ?」

 おそらく現実世界で俺の防衛術式に手を焼いているナタニアの声だろう。アリエルとムンディ教授は近くにいないのだろうか。それとも、既にナタニアによって倒されてしまったのか。やはり今すぐにでも脱出を――。

 と、思ったら急に視界が明るくなった。薄暗闇に包まれた水晶の小路は消えて、見慣れた研究室の風景がぼんやりと戻ってくる。

 青い靄が晴れ、異界現出が解かれたのだ。


「アリエルとムンディ教授……まさか二人でソウラマリスを……予想外、ですね」

 目の前には苦笑するナタニアの顔がある。アリエル達が魔導書ソウラマリスを撃破したのだろうか。

 今が好機だ。


(――打ち砕け――)

 俺は即座に防衛術式を解除して、自らを封じていた水晶を砕き割る。

「――――はっ!?」

 突如として動き出した俺に動揺するナタニアに向かって、俺は手を伸ばした。俺はナタニアの襟首を左手で掴み、右の拳に魔力を込めて殴りつける。

堅牢剛拳けんろうごうけん!!』

 鋼玉コランダムの魔蔵結晶を握りしめて放つ拳打は、水晶より硬い結晶に拳を包み、魔力で底上げした破壊力でもって敵の防御を打ち砕く。

 ナタニアは咄嗟に杖棒ワンドを差し挟んで俺の拳を受けたようだが、直撃を防いだ程度で俺の拳打の威力は殺せない。

 杖棒は折れ、鳩尾みぞおちに拳がめり込み、掴んだ衣服の襟は引きちぎれてナタニアは部屋の壁までぶっ飛ばされる。


 盛大な破壊音を立てて壁に叩きつけられるナタニアであったが、意外なことにそれで気絶することもなく、小さく呻いただけでその場に立っていた。

「俺の一撃を受けてまだ立っていられるとは……防衛術式を用意していたか」

「……先輩とやりあうことがわかっていて、何の備えもしないわけ、ないですよ」

 衝撃で眼鏡が割れ飛び、顔を切ったのか一筋の血を垂らしながらもナタニアが不敵に笑っている。肩と腹、破れた衣服から覗く白い肌には、複雑な古代式魔導回路が彫りこまれており、強く青い光を放射していた。

「古代式魔導回路を体に刻んだのか。無茶をする……」

 ろくに解明されていない古代式魔導回路を体に直接刻むのは、副作用の危険性があるので普通の術士はやらない。見たところナタニアは全身に回路を刻んでいるようだ。異様なまでの魔力波動が彼女の全身から放射されている。いつ体が爆弾になって吹き飛んでもおかしくない状態だ。とても正気とは思えなかった。


「いったい何故そこまでのことを……幻想種に唆されたのか?」

「確かにこの魔導回路はソウラマリスの知識を借りて刻み付けたものです。でも、望んだのは私自身です」

 ナタニアは焦点の合わない遠い目をしながら、おもむろに片手を上げて宙を撫でる仕草をした。

 いつの間にか、消え去っていたはずの青い靄が研究室内に漂っていた。

「仮宿を失ってしまったのですか。いいですよ。戻って来なさい、『孤独な海ソウラマリス』……私の元へ」

 青い靄がナタニアの全身に吸い込まれていく。彼女の身に刻まれた魔導回路へ浸透するように、濃度を増した靄が潜り込む。

「よせ、ナタニア!! 戻れなくなるぞ!!」

「いいんです、だって私はもうずっと前から――」


 ばんっ! と研究室の扉が開け放たれる。

 振り返るとそこには、武道場の制圧に向かっていたはずのレリィの姿があった。紅く染まった髪を振り乱し、鬼のような怒りの形相で立っている。

 白い胴着はあちこちに穴が開いて破れ、所々に赤い染みが目立つ。少なくない傷をレリィは負っていた。手にした水晶棍も先端が大きく欠け、激しい戦闘があったことを物語っている。

「……やっぱり君なんだね……」

 額から流れて固まった血で片目が塞がり息も上がった様子のレリィは、青い靄に包まれたナタニアを見て一旦呼吸を止め、長い溜め息を吐いた。


 ふらふらと歩いてくるレリィの尋常でない姿に不安を感じて制止する。

「待て、レリィ。不用意にナタニアへ近づくな」

「クレス、退いて」

 据わりきった目をしたレリィは俺の制止を振り切り、ナタニアの前へと出る。

「あたしにはもう、誰が悪いのかよくわからない。けど、ナタニアが元凶だって言うなら……」

「私が元凶だとしたら?」

 薄く笑みすら湛えて言葉を返すナタニアに、レリィは決然と言い放った。

「たとえ仲良くなった人でも、友達に……リスカにあんなことした人を、あたしは許せない」


 紅い髪がふわりと逆立ち、周囲の魔導因子を吸収し始める。俺の懐に入れてあった魔蔵結晶、特に比較的安物の虹色水晶オーラクリスタルが震えて砕け散った。レリィの魔導因子収奪能力に抗えず、砕けた水晶から蓄積してあった魔導因子が流れ出す。

(おいおい……俺の手札を奪ってくれるなよ……)

 レリィの能力は術士や魔獣に対して圧倒的な威力を発揮するが、一緒に戦う術士の俺にまで影響が出てしまう。彼女が本気で能力を使っている間は、俺も迂闊に手出しができない。止めるのが難しければ、ここはレリィの思うようにやらせてみるしかない。あるいは俺が戦うより、うまく事態を収拾できる可能性もある。

 青い靄を周囲に漂わせるナタニア。彼女が先ほど言いかけたことが俺の予想する内容だったなら、たぶんもう俺にはナタニアを救う方法がない。


 紅い髪が毛先の三分の一ほどまで深緑色に戻ると、レリィは翠に光る闘気を棚引かせ、予備動作なしで折れた水晶棍を振るいナタニアに打ちかかった。

「――いきなりですかっ!?」

 躊躇いのないレリィの攻撃に、ナタニアは余裕を失った様子で腰裏に隠し持っていた魔導剣を引き抜き、慌てて構える。

 洗練されたレリィの棍棒術に対して、拙さが明らかなナタニアの剣術。

 両者がぶつかり合い、レリィの水晶棍とナタニアの魔導剣が、青い火花を散らしてがっちりと鍔迫り合う。

「――――っ!? くっ……!! 押し切れない!?」

 驚愕の声を上げたのはレリィの方だった。


 一方のナタニアはまるで拍子抜けしたかのように呆けた表情で、しかし悠然とレリィの攻撃を受け止めている。

「あぁ……驚きました。私、殺されちゃうのかと思った。でも、この程度なんですね、騎士の力って」

 技術ではない、ただの腕力……いや魔力か。魔力による強化だけで騎士であるレリィと渡り合っている。だが、それもおかしい。並みの術士ではいくら魔力強化したところで到底、騎士の腕力に匹敵するはずもない。闘気で強化された攻撃を受けられるわけがないのだ。普通ならば――。


「ふ……ふふふっ……」

 ナタニアは全身を真っ青に染め上げて、双眸には暗い紫紺の光を灯した異形の様相となる。

 青く染まった身体には、皮膚と同じ色をした青い靄がまとわりつき、古代式魔導回路の紋様が薄っすらと光輝いている。モリンに憑いていた黒い靄とは一線を画す、強烈な禍々しさを放つ青い靄。そして、尋常ならざる魔力の波動が放たれていた。


 とうとうやってしまった。踏み越えてはならない境界を踏み越えてしまったのだ。

 人外の領域、完全なる魔人へとナタニアは変貌していた。

 ナタニアから噴き出す魔力の波動は、魔導因子としてレリィの髪に吸収されている。全回復とは言えないまでもレリィの髪は闘気を帯びて翡翠色に輝いており、騎士としての能力は確かに発揮されているはずだ。その闘気を帯びたレリィの腕力でも、ナタニアとの鍔迫り合いで押し切ることができないでいた。

「ど……どうなっているの、これ……!?」

 レリィも困惑していた。いまだかつて自分の攻撃を真正面から受け止められる人間になど遭ったことがなかった。しかもそれが、細身の女術士となれば理解できないのも頷ける。けれど彼女はもう人間ではない。魔人になったのだ。


 ナタニアの持つ魔導剣が青い光を放ち、衝撃波で鍔迫り合いをしていたレリィを吹っ飛ばす。シュナイドが扱っていた魔導剣の衝撃波よりも数段は上の威力で、離れていた俺にも圧迫するような強い余波が伝わってきた。

氷弾イーツェ・ブレット

 ナタニアは人差し指をレリィに向けて、無造作に呪詛を放つ。人の身体より大きな氷の塊が十発近く砲弾のように撃ち出される。レリィは研究室の机にもたれるようにして倒れたままだ。

(――壁となれ――)

『白の群晶!!』

 無防備なレリィを守るように出現する水晶の壁。氷弾は壁にぶち当たり、けたたましい音を立てて砕け散った。だが、砕けた氷が再度、空中へと浮き上がる。

(……術式を放った後も、まだ制御下にあるのか……!?)


「先輩、それは前にも見ましたよ。対策可能です」

 ナタニアが軽く指を振って指揮を執るような仕草をすると、細かい氷の破片が水晶の壁を乗り越えて降り注ぐ。

「レリィ!!」

 俺が声をかけた瞬間に、水晶の陰からレリィが転がりだしてきて辛うじて氷の破片の雨を回避した。

「ありがと、クレス。一瞬だけど守ってくれて助かった……」

「ああ、気を抜くなよ。あれはもう、普通の人間じゃない。魔人だ」

「でも、ちょっと強すぎない? 今日戦ってきた魔獣とは比べ物にならないんだけど」

 レリィのぼやきに魔人化したナタニアが不機嫌そうな顔になる。

「失礼ですよ、レリィさん。私を数だけ揃えた半端ものの魔獣と一緒にしないでください。あれらの魔獣は低級の邪妖精を強制憑依させて作り出した魔獣です。一部、時間をかけて創った魔獣には私の魔導兵装を貸し与えましたけど、あれだってソウラマリスに比べたら下級の幻想種が憑いただけの雑兵です」

「取り憑いている幻想種の格が違うわけか」

「はい。それに、私とソウラマリスは相性がいいんです。長い時間をかけて、友誼を深めて来ましたから……」


 ナタニアが魔導剣の切っ先を俺に向ける。衝撃波を飛ばすつもりか。考えるよりも早く、防衛用の術式を展開させる。

(――組み成せ――)

鉄血造形てっけつぞうけい!!』

 赤鉄鉱ヘマタイトの魔蔵結晶を発動させると、瞬時に大量の鉄粉が召喚されて俺とレリィの周囲に壁を作る。俺がレリィに目配せすると、レリィは小さく頷いて身構えた。


氷結ジェリードゥ

 ナタニアが氷結の呪詛を撃つと部屋全体に霜を下ろす冷気が広がり、鉄粉で作られた壁を凍り付かせる。凍り付いた鉄の壁へ、ナタニアは即座に追撃の衝撃波を放って打ち砕く。だが、壁の向こうには既に俺とレリィの姿はなく、ナタニアの左右から攻撃を仕掛けるところだった。

「元気ですね、レリィさん。私から魔力を吸収しますか……厄介です」

 魔導剣を一振りすると青い光の軌跡がそのまま斬撃となって飛び、剣の間合いの外にいたレリィを斬りつける。すかさず水晶棍で迎撃するが、大きく後ろに弾かれてレリィの足はそれで止まってしまう。

 だが、その隙に俺の方はナタニアとの間合いを詰めていた。

堅牢剛拳けんろうごうけん!!』

 鋼玉コランダムに覆われた右の拳打をナタニアに打ちこむ。ナタニアは左の手の平で俺の拳を受け止め、そのまま掴み取った。物凄い握力と腕力で、俺が拳を引こうとしても全く動かない。何より、拳打を受けたときの彼女の手が、まるで鉛の壁にでも打ち込んだようにずっしりと重かった。先ほどまで有効だった攻撃が通じなくなっている。


「同じ手で殴りかかってくるなんて、先輩らしくないですよ?」

 ナタニアは余裕の笑みを浮かべて、俺の右腕をねじり上げるように力を込めてくる。確かに、同じ手はもう食わないだろう。当然、俺もそんなことはわかっている。

鉄血造形てっけつぞうけい!!』

 左腕に黒い鉄粉が絡みつき鋼の刃を形作る。素早く手刀を振り抜き、ナタニアの身体を袈裟懸けに切り裂く。単なる鉄の刃ではない、魔力を込めた一撃だ。

「あぅっ――!?」

 魔導剣で防ぐこともできないまま俺の一撃をまともに受けたナタニアは、掴んでいた俺の右手を離し、よろめきながら後退あとずさった。


(――魔人化しても剣は素人。反応速度もそこまで早くはない。つけ入る弱みはあるな――)

 だが、あれだけ力を込めた一撃を加えたにも関わらずナタニアの傷は浅く、斬撃は彼女の衣服と皮膚を浅く切り裂いた程度に過ぎなかった。露わになる真っ青な肌の上半身と、全身に広がる古代式魔導回路の紋様。

 胸元には女性らしい膨らみが二つと、お腹には臍が一つ見えている。しかし、それも細部を観察すれば乳首は消失して、臍の穴も埋まりかけていた。魔人となったことで失われた人間性。この世界に生きるものが子孫を残すために必要とした機能。それが無用の長物として切り捨てられているのだ。


「――あぁ、安心した」

 心からほっとした口調でナタニアが喋っている。今しがた俺から攻撃を受けたにも関わらず、まるで愛しい恋人でも見るような恍惚とした表情で、身に刻まれた真新しい傷を撫でている。体勢を立て直して攻撃を仕掛けようとしていたレリィが、不穏な気配を感じ取ったか大きく距離をあけて退く。

「先輩はこうでなくてはいけません。私を傷つけられるのは、先輩だけです……」

 ナタニアの双眸が妖しく輝き、紫紺色の光を放つ。

 ざわり、と背筋に悪寒が走る。

 決定的に、人間とは違う何かへとナタニアが変貌してしまったことを嫌でも認識させられる。だと言うのに、こいつは……。

「自我はまだあるようだな、ナタニア。俺を先輩と呼ぶとは……」

「当然です。『孤独な海ソウラマリス』は別に私を支配して何かしたいわけじゃないですから。私の行動を決めるのは私自身、魔人になっても自我を失うなんてことありません」


 彼女は言い切ったが、魔人が自我を保ち続けられる保証はどこにもない。

 自我を失えばどうなるか?

 自我を失った魔人は、理性のない魔獣として暴走を始めるか、あるいは特定概念の志向性だけ持った超越種に変わり果てる。いずれにしろ人間に害をなす存在として世界を彷徨さまようことになるだろう。

「――そのうえで何を望む、ナタニア。魔人となって何を為そうとする?」

 この質問は大きな意味を持つ。ナタニアが今後、どのような存在となって世界に在ろうとするのか。その返答次第では俺も覚悟を決める。彼女がまだ人として在ろうとするならば――。


「別に何も? 後のことなんて、考えていませんでしたから」

 彼女の返答は淡白なもので、そこには何の考えもないようだった。

「でも、そうですね。強いて言うなら、皆に私の存在を知ってもらいたい。宝石の丘へと挑戦した彼らのように、私にも世界を変えることができると証明したい。そうすれば、きっと私の孤独は癒される……」

 どこか遠くを眺めるようなナタニアの瞳。紫紺色の輝きに濁った両の瞳は、その実どこも見ていないように感じられる。そこにナタニアの意志はない、と俺は判断した。


「落第点だ、ナタニア――!!」

 俺は覚悟を決めた。

 ナタニアを殺す覚悟を。

「先輩は強いですよね。でも今の私をどうにかできるとは思いませんけど?」

 魔人に弱点があるとすれば、強大な力を持つが故の慢心もまた一つであろう。魔人と化した自分を脅かすものなどなく、何でもできると錯覚してしまうのだ。


(――世界座標、『宝石の丘ジュエルズヒルズ』に指定完了。彼方より此方へ、来たれ――)

『結晶樹海!!』

 天然緑柱石エメラルドの魔蔵結晶を全力開放で術式発動させると、放り投げた緑柱石エメラルドの結晶が砕け散り、研究室内の風景を一変させた。

 そこは緑柱石エメラルドの樹海。巨大な緑柱石エメラルドの柱が並び立ち、緑の群晶に絡みつく銀の蔓には薔薇輝石ロードナイトの花が咲き乱れる。


 生き物のように蠢く銀の蔓がナタニアの体へと絡みつき、次々と薔薇輝石ロードナイトの花を咲かせる。蕾が花を開かせるたびに、緑柱石の大樹が淡く明滅する。

「こんなもので――」

 蔓を引き千切ろうとするナタニアであったが、柔軟な銀の蔓は千切れることなく、むしろより複雑に絡みついていく。また一つ、薔薇輝石ロードナイトの花が咲いた。

「うっ……!? 力が、抜けていく……?」

 ナタニアの表情から余裕がなくなる。もがけばもがくほど銀の蔓は絡みついて、薔薇輝石ロードナイトの花の数が増えていく。


「どうだ、ナタニア。伝説の秘境、『宝石の丘ジュエルズヒルズ』に招待された気分は」

宝石の丘ジュエルズヒルズ……ここが?」

「宝石の丘にある緑柱石の樹海。幻想種を喰らう結晶樹海。よほど高位の幻想種でなければ、樹海に取り込まれて封じられてしまう。半ば異界と化した領域だよ」

 俺の切り札とも言うべき術式の一つ、宝石の丘ジュエルズヒルズの結晶樹海を呼び寄せる召喚術だ。とりわけ幻想種を捉える封印術としては強力な部類になる。幻想種に近い存在である魔人にとっても、この樹海は極めて有効な封印の場になるだろう。

 この樹海が幻想種を喰う森だと判明したのはつい最近だ。どういう現象で幻想種を取り込む特殊な結晶が発生したのかは不明だが、半ば異界と混じりあった空間であるため、現世の法則でいくら考察しても無駄だろう。きっとそういう場なのだ、ここは。


「なっ!? なんですか、これはいったい……」

 研究室の廊下からアリエルの声が聞こえてきた。恐る恐る室内に入ってきたアリエルは、俺とレリィ、そして銀の蔓に捕らえられたナタニアを見る。

「ナタニア……なのですか?」

 研究室へと戻って来たアリエルが、ナタニアの変わり果てた姿を見て絶句している。

「あぁ、アリエル……。私です、貴女の親友のナタニアです。ねぇ、お願いだから、私を助けてくれませんか?」

 青い肌、紫紺の瞳、古代式魔導回路を刻まれた体。見るからにまともな人間とは思えない姿になったナタニアから声をかけられて、アリエルは顔を引きつらせながら肯定も否定もできないまま立ち尽くしていた。その姿を見て、ナタニアは残念そうに溜め息を吐く。

「……悲しいですね。私、アリエルに嫌われてしまったみたいです」

 本音か欺瞞かわからない様子で、ナタニアは辛そうな声を搾り出す。思わずナタニアに近づこうとしてしまうアリエルを制して、はっきりと俺は言い切った。


「ナタニアはもうだめだ。完全に魔人化している。後戻りはできない」

「後戻り、できない……?」

「かなり以前から幻想種との親和性を高めていたのだろう。それもナタニア本人が受け入れる形で。だからこそ自我を残しつつ、あそこまで完全に魔人化してしまった。だが、その自我も不安定で危うい。暴走すれば、破壊衝動を撒き散らす危険を孕んでいる。……こうなれば、殺す以外の手段はない」

「そんな馬鹿な!? 確かにナタニアは取り返しのつかないことをしました! ですが、こうして捕らえることができたのなら、何も殺さずとも……」

「先ほどの問答でもはっきりした。残念だが、ナタニアの自我は『孤独な海ソウラマリス』に侵食されている。この封印術式も一時的なもの。召喚した『場』が消え去れば、ナタニアを抑えておけなくなる。もしもナタニアを取り逃がし、そのまま放置すればいつか必ず暴走する。どれだけの災厄を撒き散らすかわからない」


 俺は一拍置いて、非情な決断を口にする。

「ナタニアはここで、殺すしかない」

「そんな……本当に……本当にそれしか方法がないのですか……?」

 悲痛な表情でナタニアの助命を嘆願するアリエル。だが、それは聞けない望みだった。


 先ほどから結晶樹海がナタニアを取り込もうと銀の蔓を絡めているが、動きを封じられながらもナタニアは魔力で抵抗して封印されることを拒んでいた。その証拠に、銀の蔓に咲いた薔薇輝石ロードナイトの花が静かに散っていた。あれは幻想種の力を吸い上げて固定化するときに咲く。それが散ってしまっているのは、ナタニアの魔力を吸収しきれていないためだ。

 おそらく、俺が扱える他の封印術ではナタニアを捕まえておくことは難しい。最上級の術式ならば数年程度、封じておくのは可能だろう。しかし、時間が経てば封印を破られる。定期的に封印を強化すれば閉じ込めておけるかもしれないが、何かの拍子に封印が弱まったり、外部から封印を解こうとする者が働きかければナタニアは解放されてしまう。

 ナタニアが自我を保てない恐れが高い以上、そんな危なっかしい賭けに乗ることはできない。


『――世界座標、ミール大風穴・上層域より召喚。切り取れ、万年凍土!!』

 俺とアリエルが言い合いをしている隙を突いて、精神集中をしていたナタニアが召喚術を行使する。

 緑柱石の樹海が大きく揺れ、凍土の地層が地面から突き出してくる。半ば異界と化している領域に、全く別の領域を無理やり召喚させてきたのだ。俺が主導権を支配する空間に割り込んで召喚術を使うとは並外れた魔力である。


 あまりに激しい召喚術の衝突で、研究室の壁に罅が入り始める。半ば結晶樹海と化してはいても、元々ここはアカデメイアの研究室の一つ。一時的に現れては消える不完全召喚とは言え、狭い空間に『それよりも広い空間』を呼び出そうとすれば不具合も生じるというものだ。俺が呼び出した結晶樹海は異空間扱いで、研究室とは別の領域として呼び出しているため、この場と重複しても影響は小さい。

 だが、ナタニアはなりふり構わず、この場に馬鹿でかい質量を呼び込もうとしている。しかもこれは完全召喚の気配すらあった。目の前に見えている質量が、俺の結晶樹海を破ってこの場に完全召喚されてしまえば、間違いなく研究棟ごと倒壊する。


 もう一刻の猶予もない。ナタニアには大人しく封印される気はないようだ。それこそ、抵抗を全くしない保証があれば『魂の監獄』に収監することで命だけは繋げるが、それは永遠の孤独と退屈を意味する。それがわかっているなら、まず従ってはくれないだろう。


(――異界座標、『煉獄』に指定完了――)

『異界より来る理を、異界へと戻せ……』

 俺は苦礬柘榴石パイロープの魔蔵結晶をナタニアの前に掲げ、術式発動の意思を込める。

「やめなさい……!! ナタニアは、殺させません!!」

 ナタニアを庇ってアリエルが立ちはだかる。状況は違えども既視感を覚えるこの状況、過去に宝石の丘で見た情景と重なる。強力無比な怪物を倒すには、傍らに立つ親しき者さえ犠牲にしなければならない。


「アリエル! 恨むなら、恨むがいい! これが今の俺の、最善だ!!」

「クレス!? まさか――!?」

 それまで黙って見ていたレリィが俺の肩を掴む。俺は無言で振り返り、心配そうにこちらを見る翡翠の目を強く見返してやる。これが最善なのだ、と。

 ナタニアからテルミト教授や学友を奪い、孤独にしてしまったのは俺の責任でもある。彼女への引導は俺が渡してやらねばならない。

 俺の決意が固いことを理解したレリィは悲し気に目を伏せて、肩から手を離した。


因子還元いんしかんげん祓霊浄火ふつれいじょうか!!』

 アリエルごと燃え盛る浄化の炎がナタニアを包み込む。


 ――キィァアアアアアアアア゛ー――ッ!!


 人には発することもできない高音域の叫びが響き、ナタニアの青い肌がちりちりと赤い火の粉になって散っていく。

 一緒に炎で包まれたアリエルは必死でナタニアにしがみついているが、その体が燃えることはなかった。ただ、苦しみもがくのはナタニアのみ。


 炎の中からナタニアの弱々しい呟きが聞こえてくる。

「あぁ……アルバ、ビルド……テルミト先生まで……。どうして私を置いて……先に逝ってしまったんですか……? はは……だけど、もうすぐ私も……」


 やがて召喚で呼び出されかけていた万年凍土の地層が光の粒となって消滅する。ナタニアが召喚術を維持できなくなったのだろう。

 燃え立つ火柱は青い魔性だけを焼き焦がし、幻想種『孤独な海ソウラマリス』を滅ぼした。

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