第257話 葉は森の中に隠し、本は


「でも驚きました。孤独な海ソウラマリスの生み出す異界の影響に抗うことができるなんて」

「僕の専門は異界研究だからね。異界法則の影響を受けないようにする結界構築とか、色々と研究もしているんだ」

「そうですか、さすがムンディ教授……それにしても、先輩もやっぱりすごい。隙がないですね……」

 ナタニアは余裕の笑みこそ崩さないが、水晶に包まれたクレストフを見ながら低い声を漏らす。

「自分の身体に異常が発生すると、自動的に防衛術式が働くようにしていたんですね……。まだ、異界法則の影響下にあるとはいえ、これだと私も手が出せない……」

 クレストフの身体が水晶に包まれているのは、他でもない本人が自動で発動した防衛術式によるものであった。術者の生命維持を最優先に、あらゆる外力から守護する結界術式だ。あとは時間をかけてでも、クレストフの心が異界法則の影響下から脱すれば戦線復帰できる。


「クレストフ君抜きで戦うのは厳しいけど。ひとまずこの場は僕らで対処するしかないようだね」

「ムンディ老師……でもどうやってです? 魔獣を召喚し、操るような相手ですよ? ナタニアも黙って見ているとは思えません」

「何、単純なことだよ。僕らの敵はあの魔導書。あれをどうにか、封印するなり破壊するなりできればいい」

「ふふっ。簡単に言うんですね。できますか? あなた達二人だけで」

 ナタニアが自前の杖棒ワンドを取り出す。以前に講義中で見かけた黒檀の杖棒と意匠デザインはほぼ同じだが、杖の表面には見たこともない古代式魔導回路が刻まれている。柄には小さな水晶球、先端部には六角水晶が取り付けられているが、これらの表面にもご丁寧に古代式の魔導回路が緻密に彫られている。


「正面からでは、難しいかもしれないね。君に対してはアリエル君も本気で攻撃はできないだろうし」

「ムンディ老師、お気遣いは無用です。多少、痛めつけてでもナタニアは止めます」

「いやいや、そんな悲痛な覚悟はいらないよ。だって最初に――」

 ムンディ教授が話の途中で自らの魔導書を素早く掲げる。魔導書が強く光り輝き、眩い閃光で研究室を照らし尽くす。


 閃光が収まった後、辺りの風景は一変していた。

 そこはそれまでいた研究室ではなく、別の建物にある広い講堂だった。

「――ナタニア君と魔導書を引き離す。こうすれば遠慮はいらなくなるね」

「あ? え? 冗談……ではないのですか? だって、魔導回路を刻んだ物や人を送還するなんて、そんなこと――」

「普通はできない。人や物を情報とエネルギーに分解して送還しようとすると、魔導回路が送還術に干渉してしまうから。でもね、分解せずに異界へそのまま取り込んでから別の場所に放り出す……言ってみれば一時的に『送還の門』を再現してやる分には、こういうことも可能なんだよ。短時間、少量で、事前に陣を作った場所に限る条件付きだけどね」

 その場にはムンディ教授とアリエル、そして魔導書だけが送還されてきていた。


 ――ブゥアアアァァァッ――!!


 してやられた、と感じ取ったのか。魔導書『孤独な海ソウラマリス』が威嚇のような音波を発する。そして、ばたばたと本の頁を開閉しながら高速で飛び回り、講堂の扉を突き破って外へと逃げ出す。

「ムンディ老師、魔導書が逃げました……」

「いきなり逃げの一手とは!? 驚いたね、追うよアリエル君!! 魔獣召喚の時間を与えてはいけない!」

「はっ……!? そうでした! ナタニアを操る元凶、逃しません!!」


 あまりにも鮮やかな逃げっぷりに呆然としていたアリエルは、ムンディ教授の声に我を取り戻し慌てて魔導書を追いかける。

 アリエルは講堂から廊下に飛び出すと、走りながら意識を集中し魔導因子を練り上げる。額から頬に刻まれた魔導回路が発光し、アリエルの両目に夜星の輝きが宿る。

(――星界座標、土星輪環サタニア・ハイロゥに接続開始――)

『天使の氷礫ひょうれき!!』

 土星輪環より召喚された無数の氷の粒が、魔導書へ向けて発射される。真っ直ぐな廊下では逃げ場もなく、散弾の如く撃たれた氷の礫を避ける術など魔導書ソウラマリスにはない。


 ――ブヴォァア――!!


 魔導書が短く奇妙な音を発すると空中に大きな水の球が出現して、アリエルの撃った氷の礫を受け止める。勢いを失った氷の礫は水の中に溶け消え、魔導書は悠々と廊下の角を曲がって姿をくらましてしまった。

「防衛術式……!? たかが魔導書のくせに器用なことを!」

「かなりの知性があるようだね、あの魔導書には。幻想種としても高位の部類かもしれない……これは手間取りそうだ」

 白衣を引きずりながらムンディ教授も廊下へと出てくる。既に走り出しているアリエルを追いかけるが、子供の身体であるムンディ教授の足ではすぐに追いつけそうにもなかった。

「アリエル君、なんとか見失わないように追跡してくれ! 僕もすぐ追いつくから!」

「私一人で!? くっ……仕方ありませんか……」

「異界現出の呪法は幻想種といえ、そう何度も連続で使えはしないはずだから。追い詰めるのは今しかない! 頼んだよ……!」

 走る速度の違いから遠のいていくムンディ教授の声。アリエルは一人であの不気味な魔導書に立ち向かうことに不安を抱いたが、ナタニアを救うためと考えて勇気を振り絞り、一人で魔導書の後を追った。


 廊下を曲がると外へと通じる入口があった。魔導書は既に外へと逃げ出しており、ぱたぱたと羽ばたきながら大きな建物の中へ逃げ込もうとしていた。

「なっ……!? まずいですね、あの建物は――」

 アカデメイア中央図書館、大量の蔵書が保管されている建物である。


 魔導書を追ってアリエルは中央図書館へと飛び込んだ。

「覚悟なさい、薄汚い古本め! こんな場所に紛れ込んだところで、あなたの異様な装丁は隠せませんよ!」

 アリエルは魔導書を口汚く罵ったが、そんな挑発に乗って姿を現すほど感情的な相手ではなかったようだ。魔導書は既に、数多あまたの蔵書に紛れて完璧に擬態しているようだった。吹き抜け構造になった図書館の中心に立ち、アリエルは数えきれないほどの書籍が納められた本棚の群れを見上げる。この中から一冊一冊、あの魔導書を探し出すのは現実的ではなかった。

「……いいでしょう。そちらがずっと隠れているつもりなら、こちらもじっくり準備をして炙り出してやります」


 アリエルはその場にあぐらをかいて座り込むと、目をつぶって精神集中を始める。魔導因子が額から頬にかけて魔導回路を駆け巡り、術式の源である魔力を高めていく。

(――この世の理を乱すもの、異界の波を捉える術を――)

『魔性観測!』

 見開いた両目は真っ暗な深淵の闇となり、図書館内に渦巻く魔導因子の流れを余すところなく捕捉する。

 クレストフに学んで、とりあえず習得すべき最重要の術式として教わった観測術式である。この術式を使えば、ある程度の障害物を透視しながら、呪術的な異常を探り出すことができる。

(……さすがにアカデメイアの中央図書館。多種類の魔導書が置いてあるせいか、あちこちに魔導因子の乱れが視えますね……。この中から、魔導書ソウラマリスの固有波形を探し出せれば……)

 幻想種が憑依した魔導書の固有波形は、普通の魔導書とは大きく異なる波形となるはず。見間違えるとは思わない。


 じっくりと図書館内の本棚に視線を向けて探っていくと、一ヶ所だけ奇妙な魔導因子の乱れを起こしている区画が見つかる。

 怪しいと思って注意深く見なければ気が付かない程度ではあるが、明らかに他と異なる魔導因子の流れ方だ。

(……他に同じような魔導因子の乱れはない。おそらくあそこにソウラマリスがいますね……)

 まさか、ソウラマリスのような幻想種の憑いた魔導書が何冊もあるとは思えない。間違いないだろう。

(さて、問題はここから。どうやって仕掛けるか……)

 中央図書館には貴重な蔵書が山ほどある。派手な術式を使って本を破損してしまうことは避けねばならない。

「本当に、厄介なところへ逃げ込んだものです」


 アリエルは背中に隠し持っていた短杖を取り出す。六角水晶が先端に装着された杖で、魔獣一掃作戦の開始前にクレストフから渡されていたものだ。虹色水晶の玉が五つほど杖に嵌め込まれており、魔導因子が貯蔵されているため即座に術式を発動できる便利な魔導具だ。奇襲をするにも、咄嗟の反撃をするにも術士にとって心強い武装である。

 魔導書に気取られないよう慎重に近づいていく。魔導因子の乱れが生じている本棚の一画を視界に捉え、アリエルは身構えた。ごく自然に書棚へと収まっているが、真っ青な背表紙の目立つ魔導書ソウラマリス。

 短杖の先端に魔力を集中し、魔導書を一撃で焼き貫けるだけの熱量を発生させる。

(――焼けてしまえ――!)

 精一杯の呪詛を込めて赤熱した短杖を突き出す。杖の先端が魔導書の背表紙に触れようとする瞬間、突如として魔導書が本棚から飛び出し激しく暴れだした。短杖の先が魔導書に触れて青い表紙に焦げ跡をつけるが、それにも構わず魔導書はばたばたと飛び上がる。

「くっ……往生際の悪い!」

 距離を取られたため、予備の短杖に持ち替えてすぐに遠距離用の術式に切り替える。


空弾エア・ブレット!!』

 図書館内では火も水も攻勢術式として使うには扱いが難しい。あまり強力な術式を使ってしまうと、図書館内の蔵書に多大な損害を与えてしまうだろう。そんな遠慮もあってアリエルは、魔導書の動きを止めるため殺傷力の低い風の共有呪術で攻撃を仕掛けた。

 しかし威力に乏しい空弾は、魔導書ソウラマリスの生み出した水の壁に阻まれてしまう。


 ――ヴゥァアアアッ!!


 さらに魔導書ソウラマリスが奇怪な音で吠えると、水の壁だったものが小さく分離して水弾となりアリエルに降り注いだ。

「ううっ!? くふ……っ」

 一発一発が並みの術士の水弾アクア・ブレットに匹敵する威力で、頬を、肩を、腹を、足を、全身あらゆる場所を水弾で撃たれて堪らず床に倒れてしまう。

 縮こまって体を丸め、床に伏せるアリエルに容赦なく水弾が襲い掛かり、アリエルは水弾で強かに背中を何発も叩かれた。

「あうっ!! ぐっ……!」

 連続する衝撃に呻き声が漏れてしまう。

 一瞬で形勢は逆転し、床に這いつくばるアリエルを嘲笑うように魔導書が図書館の天井付近をぱたぱたと飛び回っていた。

「はぁ、ふぅ……。……あの人の様には、うまくいかないものですね……。こうなったら、周りの被害に気を使っている場合ではありません……」

 全身が痛む。魔導書にいいように反撃されてしまい、アリエルは抵抗できないまま床に座り込んでいた。改めて術式に集中しようとしても、痛みが邪魔して魔導因子の生成がうまくできない。


 ――ギャヴァヴァアアッ!!


 魔導書がこれまでとは異なる、悪意に満ちたおぞましい叫び声をあげる。

 魔導書の魔力によって生み出されたのは槍をかたどった数本の氷柱。水弾とは殺傷力が格段に違う。アリエルの術式準備が整う前に魔導書ソウラマリスの攻撃が放たれた。

(――ああ、終わった……)

 防御も反撃も間に合わない。

 今度こそ殺される。


 目前に何本もの氷柱が迫り、鋭い切っ先がアリエルの胸に刺さる。

『異界法則、因果捻転いんがねんてん……!!』

 少年の高い声が図書館に響き、アリエル周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。するとアリエルの胸に刺さったかに見えた氷柱は、弾かれたように正反対の方向へ真っ直ぐ飛び、術式を放った魔導書ソウラマリスへと突き刺さった。


 ――ギャェヴォァアア!?


 機械的な魔導書の声音に初めて困惑の色が含まれる。

「僕の愛弟子に手をかけようなんて、許さないよ」

「ごほっごほ……! ムンディ老師……」

 咳き込むアリエルが振り返って目にしたのは、黄金色に光輝く金羊毛の魔導書を片手にした少年姿のムンディ教授だった。

「アリエル君、よく頑張った! 後は任せたまえ」

 氷柱が直撃して、重みに耐えきれず魔導書ソウラマリスが床へと落ちてくる。そこへ駆け寄り、ムンディ教授が暴れる魔導書を取り押さえて表紙に手をかける。

「……依り代たる魔導書を破壊されれば、君の力も激減するんだろう!」


 ――ヴゥウウギギギャァーッ!!


 魔導書ソウラマリスが断末魔の叫びをあげ、ムンディ教授が魔導書の表紙を剥いで破り捨てる。

 青い靄と、赤い鮮血が宙を舞った。

「――――え?」

 表紙を剥がれた魔導書がまるで生き物のように苦しみ悶えて床をのた打ち回る。その横で、表紙を剥いだムンディ教授が、仰向けに倒れた。

 ムンディ教授の白衣は前がはだけて、まるで生皮を剥がれたかのように胸から腹にかけて真っ赤に染まっていた。

「ムンディ老師……?」

 何が起こったのかわからない。だが、何かが起こったのだ。魔導書を追い詰めたはずのムンディ教授が、逆にひっくり返って血だらけになっている。


「こ、これは……参ったね……。痛み分けの呪詛……あるいは道連れの呪詛、かな……? ごふっ!! ……ア、アリエル君、止めを……僕の代わりに――」

 理屈はわからないが、アリエルにも状況はわかった。これでも術士として修業を積んできたのだ。今、この意味不明な状況が、魔導書による呪詛で引き起こされたことに疑問の余地はない。ならば、アリエルがすべきことは決まっている。

「……この悪魔めっ!!」

 短杖に嵌め込まれた水晶に蓄積された魔導因子を解放し、瞬間的に火力を高めた一撃を放つ。

燃焼コンブーション!!』

 床でのた打ち回る魔導書に杖を突きつけ、ありったけの呪詛を叩き込む。魔導書が炎に包まれる瞬間、アリエルは短杖から手を放し、自身が放った呪詛との関係性を絶つ。

 すると手から離れた短杖が橙色の炎に包まれて燃え上がった。


 ――ヴゥギャァアアアア――ッ!!


 魔導書ソウラマリスは青い煙を巻き上げながら、炎を噴出して盛大に燃え尽きる。

 今度こそ、魔導書に止めをさすことができた。


「ムンディ老師! ムンディ……」

 倒れ伏すムンディ教授に駆け寄るも、アリエルはすぐに声をかけることを止めてしまった。

 傍らに寄って軽く肩を揺さぶっても、ムンディ教授に反応はない。彼の周囲にはおびただしいまでの血の池ができており、生半可な治癒術では手遅れなことが見て取れた。

「そんな……こんなこと……認められませんよ……」

 アリエルは肩を震わせながら、静かに泣いた。

 思えばナタニアの他に親しい人間といえば、この一風変わった老師ぐらいのものだった。偏屈な自分をありのまま受け入れてくれて、自分の研究室に置いてくれた。決して真面目な学士ではなかったのに、どうしてか期待をかけられるのがむず痒かった。でも、誰かに期待されるというのは、少しだけ嬉しくもあったのだ。


 その大切な人が亡くなった。いまやナタニアも以前までの彼女とは言い難い。

 自分の元から親しい人がいなくなっていく。

 孤高であったアリエルにとっても、それは悲しいことに違いなかった。


 しばし呆然としていたアリエルだったが、ふと魔導書ソウラマリスの残骸を見て、まだ戦いが終わっていないことを思い出す。

 ナタニアの元には自己防衛の術式で水晶に閉じこもったままのクレストフが残されている。ムンディ教授は大丈夫と言っていたが、放っておいていい状況ではない。

 人が死ぬ。こんな馬鹿げた騒動を引き起こしたナタニアにも責任を取らせなければならない。

 涙をぬぐい、体の痛みに耐えてアリエルは立ち上がった。そして再び、ナタニアのいる元テルミト研究室へと走る。




 アリエルが走り去った後、炎に包まれた魔導書ソウラマリスは完全に灰となって焼失した。

 魔導書から立ち昇った青い煙が、ゆらゆらと中央図書館から外へと流れ出ていく。

 向かう先は『契約者』の元。己の傀儡であり、庇護者でもある存在の元へ。

 魔導書は焼失したが、憑依していた幻想種本体ソウラマリスはまだ滅びていなかった。

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