第256話 孤独な海
毎日が余裕のない日々だった。いつも何かに追われて、明日のことを考える暇もないほどに。
現実から逃げ出したかった。この辛い現実から。
本当なら、こんな場所でこんな生き方をしている人間ではないはずだった。
アリエルは貴族だったが早くに両親を失い、親戚筋もほとんど血筋が絶えており、遺産をやりくりしながら生活しなければならなくなった。
いずれ財産が尽きることはわかっていたから、十三歳になった頃には魔導技術連盟へ登録して、独学で勉強しながら連盟で仕事をもらうようになっていった。
アカデメイアへ入学し、一人で生きていけるだけの歳まで財産が残っていたのは幸いだった。財産が尽きた時点で、稼ぐ術がなければ身売りでもするしかないところである。金持ちの男にでも飼われ、媚を売る生活など恐ろしくて想像もしたくない。それなりに容姿は整っている方だと自負するが、愛想のない自分では飼い主にうまく取り入ることも難しいだろう。体だけが目当ての人間にでも買われたら、待っているのは欲望の捌け口としての悲惨な扱いだけだ。
貧乏学生で、奨学金を使ってなんとかアカデメイアに通っているものの、パン屋の手伝いと勉学・研究の両立は、若い少女には過酷な生活を強いていた。いっそ、アカデメイアをやめてしまおうかと思ったが、そうなるとパン屋の仕事で一生、食い繋ぐことになるかもしれない。パンは嫌いではないが、別に作るのは好きでもなかった。店の手伝い程度では稼ぎも少ない。それを考えると将来が薄ら寒くなった。
他人に頼る器用さもなく、何でも自分一人でやらねばならなかった。誰が救いの手を差し伸べてくれるわけでもなく、そこに他者からの愛情などは存在せず、ずっと孤独の中で生きてきたのだ。
もういっそのこと、ここではないどこかへ行ってしまいたかった。金も、食事も、家も、明日のことを考えなくていい、別の場所……別の世界。
そうだ、ここではない世界……異界に行きたい。人としてのしがらみを全て捨て去って。
そんなことを考えていたら、自然とアカデメイアの研究は異界の研究という分野に偏っていた。興味があることはいいことだ。将来の生活の為だけに嫌々ながら勉強していたものが、心の救いになり得るのだから、それはとても素晴らしいことだった。ムンディ教授はそんなアリエルの屈折した動機は深く追求せず、研究室へ入れてくれた。
異界法則の研究が不人気で、金にならないと知ったのはだいぶ経ってからのことだった。それからまた、将来のことを考えると薄ら寒くなってきた……。残念ながらムンディ教授は大層な変人だ。気の利いた就職先などに心当たりもなさそうだった。彼は良くも悪くも研究者気質で、世のしがらみから超越した変人であり、その生き方はアリエルにとって羨ましいものだった。もっとも、そんな生き方を貫けるほどの力量はアリエルにはなかった。もう本当に、異界への門があるなら今すぐ飛び込みたい。早くどこか楽な場所へ、逃げ出してしまいたかった。
しかし、そんなアリエルに寄り添って孤独感を紛らわせてくれたのがナタニアだった。
アカデメイアでは一人、教室の後ろの方で講義を受けていたアリエルに、わざわざ声をかけて昼食まで付いてくるお節介な女。優等生で学友に分け隔てなく優しく、気配りも細やかな人格者……の皮を被った偽善者だろう。それがナタニアに抱いた最初のイメージだった。
どうせ不遇なアリエルを構うことで、情け深い姿勢が素敵、などと自分に酔っているのだ。そうに違いない。
ある日、パン屋で忙しく働くアリエルの元にナタニアは顔を出した。
客がいないからと図々しく親しげに話し込もうとするナタニアに、アリエルは仕事の邪魔をするな、ときつく言ったことがある。その日はさすがに、しょげた様子で大人しく帰っていったが、次の日からは仕事の邪魔をしない程度にとでも考えたのか、お昼のパンを買うついでと言いながら短時間ではあるが頻繁に店を訪れるようになった。
しかも、それが日常化すると今度はアリエルが仕事をサボっているのを見咎めて注意してくる始末。仕事の邪魔をするなと言った手前、サボりを指摘されては反論できるはずもなく渋々ながら真面目に働くことになってしまった。本当にお節介な女だと思った。
いつの頃からか、ナタニアと一緒にいるのが普通になっていた。
それが気分の悪いものではなく、どこか心地よいものに感じていた。相変わらず毎日が忙しかったけれど、ナタニアと一緒にいるときだけは心が和らぐのを感じていた。
だから、いつからか考えることを止めていた。ナタニアが何故、自分に関わってきたのか。必要以上に親しくなろうと近づいてきたのか。
アリエル自身はナタニアによって孤独を癒されていた。
この世界にも、自分が居たいと感じる場所があるのだと思えた。
――でも、ナタニアはどうだったのだろうか?
アリエルは自分のことばかりで、彼女のことをさほど気にかけていなかった。
与えられる善意だけを享受して、彼女が求めるものに気づいていなかった。
本当に孤独を抱えていたのはナタニアの方だったと、どうして気づいてやれなかったのか。他でもない、依存していたのはナタニアの方だったのだ。自分は、ただ自分の境遇を不幸だと嘆いて卑下していただけだ。一人で腐っているだけで、別にそれでも何も問題なかったのである。ナタニアとの日々は心安らぐものではあったが、元来、アリエルは孤独に慣れていた。
むしろ、孤独に苛まれ、繋がりを必要としていたのはナタニア。
思い返せば彼女の私生活や境遇など、アリエルは興味を持って聞いたことがなかった。自分はナタニアに構ってもらいながら、アリエル自身はナタニアに寄り添ってやったこともなかった。積極的に彼女のことを知ろうとはしていなかったのである。
あるいは一緒にいるだけでもナタニアとしては、孤独を紛らわす役には立っていたのかもしれない。けれども不十分だったのだ。結局、ナタニアは心の内をアリエルに打ち明けることなく今回の暴挙に出てしまった。
(――私は、私自身の無関心で、友人を失ってしまった――)
深い後悔と自己嫌悪の中で、アリエルはまた昔の孤独であった頃の自分に戻っていた。
もはやナタニアが隣にいない日々など考えられなかった。彼女のいない日常は、ひどく無味乾燥で寒々としたものになるだろう。
(……すみません、ナタニア。私は、良い友人にはなれませんでした……)
孤独が心を締め付けてくる。
体から熱を奪い、意識を凍り付かせて――。
「いけないな、アリエル君。幻想種を相手にするとき、心に隙を作っては」
聞きなれた声がどこからともなく聞こえてくる。
ナタニア以外に、アリエルが唯一心を許した人の声。
卑屈な自分の考えを、それもまた人が抱く正直な心であると認めてくれた。
自由にしていいのだと、思うままに振る舞えばいいと。自身で責任を取れるなら、それは許されるのだと。
「君は卑屈だが、臆病な人間ではないだろう。気に入らない相手がいるなら、はっきりと文句を言えばいい。それが、君だよ――」
その言葉を聞いて、怒りが湧いてきた。確かにその通りだ。
自分に何の相談もなく、大馬鹿な事件を起こした友人が腹立たしい。
友人の弱みに付け込んで煽った存在など、なおさら憎い。
一言、文句を言ってやらねばなるまい。
そもそも自分には友人などいなかったのだ。ここで喧嘩して友人を失ったところで、昔に戻るだけ。
別に昔の自分は孤独などではなかった。辛く苦しいことがあっても、一人で平気だった。
(――私は孤独なんかじゃない。私は孤高だったんだ――!)
今更、一人になることを恐れはしない。
ただ何もしないまま、友人が道を踏み外して行くのを放っておけなくなった。
一度くらいいいだろう。
自分からお節介の一つくらいしてみても。
自分がされるのは嫌だったお節介。それで嫌われたって構わない。
ナタニアにもお返しにしたっていいはずだ。
「ナタニア……!! 幻想種の誘いに軽々しく乗るなど! そんな尻軽、友人として恥ずかしいです!」
だんっ、と床に着いていた膝を持ち上げ立ち上がる。
自らが発した声に驚いて、アリエルは覚醒する。それまでどこか別空間に連れていかれたような感覚だったのが、今はしっかりとこの場に自分がいることを自覚できる。
「戻ってこられたようだね、アリエル君」
隣を見れば、自前の魔導書を開いて何かしらの術式を行使しているムンディ教授の姿があった。少し離れた場所では、クレストフが片膝を着いてうなだれている。どういうわけかクレストフは、全身を巨大な水晶の塊に包まれていた。
「講師クレストフ!? 生きているのですか!?」
「落ち着き給え、大丈夫。彼も一級術士だ。すぐにこの異界の影響下からも脱出してくる」
「ここが、異界……?」
改めて周囲を見回せば、研究室の中に薄青い靄が漂っていた。少し離れた場所の風景は靄に呑まれて見えなくなっている。まるで視界不良の大海原に投げ出されたような感覚。
「気が付いたようだね。見ての通り、ここはもう異界と化している。特性からしておそらく、孤独という概念を特別に強く内包した領域。呑み込まれれば身も心も孤立した場所へ連れていかれてしまう」
ひどく冷たい、寒々しい空間だった。これが異界。アリエル自身が望んで止まなかった異界だと言うのか。この空間に一人で放り出されることを想像して、アリエルは恐怖からぶるりと大きく身震いした。
「――そう。これが私の手にした力」
アリエルの目前には、不気味に微笑むナタニアとその傍らに浮く一冊の魔導書があった。
花柄の
「孤独の心を増長する。魔導書『
恍惚とした表情で嘲笑うナタニアは、もはやアリエルの知る優等生な女学生の姿とはかけ離れていた。
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