第244話 ずれていく日常


 一日の講義が終わりゲストハウスへと向かう途中、夕暮れに赤く染まる時計塔を眺めながら、俺は季節の移り変わりを実感していた。

(随分と日が長くなってきた。思っていた以上にアカデメイアには長く滞在することになってしまったな。そろそろ『成果』を出して、宝石の丘へ向かう準備に入りたいところだが……)

 ゲストハウスへ戻った俺は、実験に必要な器材をレリィに持たせると第十三実験棟へと移動した。最近では日課となっているアリエルの研究指導へ行くのである。

 レリィは荷物持ち以外には役に立つこともないが、本人が俺の手伝いをしたいと言っているので好きにさせていた。アカデメイアで学ぶのは何も戦技ばかりではない。例え本質までは理解できないにしても、様々な術式を知り、見て、触れることは、騎士として見識を広げるいい機会になる。いつか、レリィが術士を補佐につけて活動する必要に迫られたとき、術士がどんなことをできるのか、またできないのか、それを知っておくことは大いに意味のあることだろう。


 やる気のなかったアリエルにも最近は変化が現れていた。

 渋々と俺の指導を受け入れていたアリエルが、心境の変化でもあったのか積極的に指導を受け入れて研究に力を入れるようになったのだ。

 彼女の親友であるナタニアも、助手の仕事を通じて成長著しい学士達を見たことが刺激になったのか、今も自分の所属する研究室に戻って新しい術式の研究に精を出しているとか。それもまた、アリエルに影響を与えた一つの理由かもしれない。


 ただでさえ、四級術士であるナタニアはアリエルの一歩先を行っている。置いて行かれたくなかったのかもしれない。あるいはもっと前向きに、並び立ちたいとか、追い抜きたいとか考えたのかもしれない。

 いずれにせよ、やる気を出してくれたことはありがたい。いくら俺が優秀な一級術士で、人材育成を得意としていても、やる気のない人間だけは教えようがないのだから。まあ、そのやる気を引き出すのも指導者の役割ではあるのだが、俺にはあまり時間がなかった。ムンディ教授との約束では、アリエル指導の期限にはかなりの猶予が与えられていたが、俺自身の都合として一刻も早く宝石の丘へ向かい、ビーチェ救出の活動を進めたいのだ。


「やあ、クレストフ君。調子はどうかね? アリエル君の指導は順調かい?」

 白衣を引きずりながら、少年姿の老教授ムンディが研究室へ入ってきた。術式研究に集中しているアリエルと、その様子を夢中になって見ているレリィは気が付いていなかったので、俺は二人から少し離れてムンディ教授と話をすることにした。

「順調ですね。本人のやる気次第、といったところではありますが。ここ最近は何か心境の変化でもあったのでしょう。随分と熱心に研究へ取り組むようになりました」

「そのようだね。これであれば彼女に研究室を任せていけるかもしれない。僕もクレストフ君の要請に応えられるよう準備をしないといけないな」

 珍しくそんなことを言い出したムンディは、研究室にある自分の机から、彼の体格には不釣り合いに大きな旅行鞄へ書類を詰め込んでいた。


「……ムンディ教授は、どこか出掛けられるのですか?」

「首都の魔導技術連盟まで用事があってね」

「連盟の本部に?」

「僕もアカデメイアの研究者とはいえ、連盟との関わりも薄いわけじゃない。準一級術士である僕が、一級術士の君と協力して何かするともなれば、全く報告なしとはいかないよ」

「連盟本部への連絡なら、自分の方から済ませれば問題ありませんが……」

 俺に報告は入ってきていないが、連盟の方からムンディ教授を呼び出したりしたのだろうか。何かと小うるさい古参の魔女共なら、口出しをしてきても不思議はない。


「ははは、そこまで気を使ってもらわなくても平気さ。僕も昔馴染みと会うついでだよ」

「そうですか。そうであれば気にしませんが。いつ頃まで?」

「アカデメイアから頼まれている仕事もあってね。二ヶ月まではかからないと思うけど……戻ってくるころにはアリエル君の指導も完了しているかな?」

「最低限、研究室を回せる水準には育てておきましょう。それにしても二ヶ月ですか……もしかするとその間には、一、二年時の学士達を引き連れて自分も連盟に顔を出すかもしれません」

「うん? 学士達と? 何故だい?」

「術士の等級審査を受けさせようと思っています。六級はいけるかと」

「へぇ……一年時の学士達を六級に? なかなか挑戦的な目標だね。面白そうだ」

「問題なくいけますよ。それぐらいには育っています」

「そういうことなら、連盟本部へ来る時には連絡を送ってくれたまえ。日程が都合よければ僕も合流するよ。一人での引率は大変だろう」

「手伝って頂けるなら、助かりますね。その時には連絡しますよ」


「ねぇ、クレス。お話、終わった?」

「講師クレストフ、あなたに確認してもらいたい部分があるのですが」

 ムンディ教授と話し込んでいると、実験が一段落したのかアリエルとレリィがいつの間にか背後へとやってきていた。

「どうした? 面白い結果でも出たか?」

 半ば軽い気持ちで問いかけたのだが、反応は答えに窮するといったようで、二人は顔を見合わせて眉根を寄せている。

 何か起きたのか、と少し真剣に向き直り、アリエルの実験していた魔導回路の様子を見に行く。



 ちょうど腰のあたりの高さ、中空に二つの輪が固定された装置がある。輪の直径は指二本が入る程度、ちょうど親指と人差し指をくっつけて丸を作ったぐらいか。

 そこには、穴が開いていた。

 二つの輪の中には暗い闇が湛えられ、油膜のような虹色の波紋が揺らめいている。

「これはまさか、送還の門? どうやって作った?」

「いえ、それが……単に一つの術式について、起点を二つに分けて召喚する実験をしていたら……勝手に生成されたのです」

「一度の召喚で、二種類の対象物を召喚しようとしたのか?」

「違います。一つの召喚術式で、異なる二点の座標に、一つの特定対象物を召喚しようとしたのです」

「それだと単に似たような対象物が二つ召喚されるか、あるいは召喚矛盾を起こして術式未発動が普通だが……何を召喚しようとしたんだ?」

「星界座標、『月面穿孔げつめんせんこう』からイルメナイト資源を少々……。ナタニアが欲しがっていた素材なので、実験のついでにと思ったのですが……」


 星界座標、それは地球外の宇宙空間に指定された座標だ。広大な宇宙空間においては、いい加減な座標指定ではただの真空が召喚されるばかりで有益なものは得られにくい。だが、星々の座標を正確に指定できれば、その星の資源を得ることができる。

 月面からの召喚であれば、アリエル程度の学士にも資源を召喚することはそう難しくない。ましてや鉱物資源の召喚程度なら、なんの問題も起こらないはずだ。妙な召喚方法を取ったことは確かだが、予想外の現象が起こるほどのものとは考えにくい。


 警戒しながらも、俺は虹色の油膜のようなものの正体を突き止めるために、片方の輪の中へ手近にあった鉛筆を突き入れてみる。すると、突き入れた部分から油膜に波紋が広がり、それと全く同じ波紋がもう一つの輪に浮かぶ油膜にも波立った。

「互いに共鳴している……のとは違うな。これは不完全召喚で存在率五分五分のまま、二地点に同一対象物が召喚されているのか……」

 召喚が完全なものではなく不完全なものである場合、元ある場所と召喚先で被召喚物が同時存在する現象はよく知られている。だが、召喚先が二ヶ所あり、その二点で同時存在するという事例は俺も覚えがない。普通は召喚自体が失敗する。アリエルはナタニアへ渡す資源として、イルメナイト鉱石を完全召喚しようとしたはずだ。召喚時、元の月面と目の前の二ヶ所、計三ヶ所に分割されたことで、不完全な召喚になってしまったのだろうか。


「しかし、こいつはいったい何だろうな。イルメナイトでないことは確かだが、月面にこんな物質があったか……?」

 虹色の油膜から鉛筆を抜き出した俺は、きれいさっぱり消失した鉛筆の先をまじまじと見つめて、一気に血の気が引いた。

「……っ!? こいつは――」

「クレストフ君!! それは『虚ろな穴』だ!! 何か質量のある物質で、すぐに塞ぎたまえ!!」

 ムンディ教授の焦った声が上がる。


晶結封呪しょうけつふうじゅ!!』

 緑藍晶石ヌーマイトの魔導回路を瞬時に起動し、結晶で二つの輪を完全に包み込む。一瞬、結晶による囲いに抵抗しようとする魔力の動きを感知したが、俺は力押しで抵抗を許さず、完全に結晶の中へ虹色の油膜――『虚ろな穴』を封じ込めた。


 いきなりの展開に呆然とするレリィとアリエルをよそに、俺はムンディ教授と目を合わせ、ひとまず危機的状況が去ったことを確認しあった。

「とりあえず完全に封じ込めました。この結晶体に封じられれば、いかに幻想種でも脱出はできません」

「そのようだね。大事にならなくてよかった」

 話について来られていないレリィはまだ間抜け顔を浮かべていたが、話を聞いていたアリエルは先ほどのアレが何であったのか、想像が追い付いてきたようで、その場にへたり込んでいた。

「まさか、幻想種……? どうしてそんなものが召喚されたのですか……?」

「厳密には幻想種というより、現象因子フェノメナに分類されるものだけどね」


 ――『虚ろな穴』――。幻想種の一種と言えなくもないが、邪妖精のような自我があるものではなく、特定の概念を現世に発現する現象因子フェノメナと呼ばれるものだ。

 現世の生き物を例に挙げるとするなら、細菌と病毒分子ウイルスの違いのようなものか。病毒分子ウイルスが半生物と言われるように、現象因子フェノメナもまた半幻想種と呼ぶべきものであり、取り扱われる分野によっては指向性を持った魔導因子とも定義される。


現象因子フェノメナ……なんだかあやふやでよくわかんないんだけど。それって他にどんなものがあるの?」

「ふむ……レリィ君でも聞いたことがありそうなものと言えば、ほら隣国ヘルヴェニアのおとぎ話にもある『幸の光』というやつも、一種の現象因子フェノメナだと言う説があるね」

「幸の光!? へぇー、そういうものなんだ……」

「…………」

 唐突にムンディ教授の口から飛び出た単語に、俺も少なからず反応してしまう。

 ――幸の光。少し前まで俺が探し求めていた伝説の魔導現象。確かに言われてみれば、あれの特性は魔導因子と幻想種の中間とでも言うべき概念物質とするのが、お伽話にある事象を引き起こすに不都合がない。


「ま……幸の光は伝説級の代物で本当に存在するのかも怪しいが、『虚ろな穴』は不安定な召喚現象が起こると稀に紛れ込んでくるんだ。『送還の門』にもよく間違えられるやつで、割と術士にとっては近しい存在とも言える。入口と出口のある送還の門と違って、こいつは入口しかなく、繋がっている先は情報を消失させる概念の墓場だ。もし指でも突っ込んでいれば、痛みもないままに指がなくなる。俺も実際に見るのは初めての現象だったから、正直、危うかったな……」

 実際、過去には送還の門と間違って飛び込んでしまい、全身消失の事故に遭ってしまった術士もいる。だが、遭遇する確率は低く、専門の召喚術士でも一生のうちに一度、遭うか遭わないかといったものだ。それでも、幸の光などに比べたら、はるかに遭遇確率の高い現象ではある。

「……すみません。どうやら私は、大きな失敗をしてしまったようです……」

 半ば涙目になりながら謝罪するアリエル。殊勝な態度で珍しく可愛げはあるが、実のところ彼女の失敗とは言い難い。


「あれはめったに現れる代物じゃない。全く同じ実験をしたところで、もう一度、現出するようなことはまずないだろうよ。だから気にするな。アリエル、お前に落ち度はない」

「クレストフ君の言う通りだよ。ただね、『虚ろの穴』が現出するには条件があって、それが偶然に満たされたとは考えにくいかな」

「条件? 待ってください、ムンディ教授。そんな話は俺も初耳だ」

「初耳なのは当然だろう。私が立てた仮説だからね。条件としては、不完全召喚を起こしている時に、近場で幻想種の召喚儀式を行っていること。これが条件だよ」

 あっさりと言いのけたムンディ教授の仮説とやらは、かなり衝撃的な内容の話だ。

「条件がそろえば確実に現出するというものではないけれどね。過去に『虚ろな穴』が現出したときの状況を探ってみると、確認できる範囲では高確率でこの条件を満たしている。これは必要最低条件なんだ」


 仮にそれが本当だとしたら、それはつまり――。

「まさか、アカデメイアの敷地内で幻想種の召喚儀式を試みている人間がいると?」

「そういうことになるね」

 幻想種の召喚自体は禁呪というわけでもない。異界から幻想種を召喚して捕獲、封じ込めて精霊機関とし、魔導人形の核にしたり、魔導装置の動力源にしたりする実験というのは実のところそう珍しいものではないのだ。難易度は高いが、二級術士くらいなら可能な作業だからだ。社会的有用性も大きく、幻想種を召喚して精霊機関を造り上げる一連の工程を一人でやれるなら、引く手あまたで仕事にあぶれることもないだろう。

 だが、学士が操る魔導技術の水準としては危険が大きい。アカデメイアの教員が、人の大勢いる学内で試すような安易にできる儀式でもない。


「一応、ベアード学院長には報告しておく。偶然、と思いたいが『虚ろな穴』の現出は黙っておけない事件だ。それにもし幻想種の召喚儀式を黙ってやっている人間がいるなら、それこそ問題になる。事前許可なしにアカデメイアで幻想種召喚を行うことは禁止されているからな」

「あ、待ってよクレス! あたしも行くから!」


 レリィと二人で連れ立って十三実験棟を出た俺は、アカデメイア学院長室へと向かう途中、ふと時計塔の指針を見て違和感を覚える。

「おい、レリィ。今、何時だ?」

「え? あたし、時計持ってないよ」

「ちっ……使えないやつだな。体感時間でもいい」

「うわっ、なにその言い草。ひどっ! ……お腹の空き具合からして、もう夜の八時じゃないかな。研究に没頭するのもいいけど、食事はちゃんと取らないとだめだよ」

「まだ、六時だ」

「え、嘘でしょ? そんなわけないよ。あたしに限って二時間も間違えるなんて」

「時計塔の時刻は六時を指している」

「……時計がずれているんじゃない?」

 時計塔の針を見て、即座に時計の故障を疑うレリィ。


 普通の時計なら、そうだと考えるだろう。

 俺も実際、今は夜の八時くらいだと踏んでいた。そして、手元の懐中時計も八時を指している。だが、あの時計塔に限っては違うのだ。

「いいや、あの時計塔は『アトモスの指針』と連動している。決して狂うことのない時間刻みと、決して止まることのない稼働機構の時計なんだ。つまり、間違っているのは俺たちの方ということになる」

「でも、完全に陽も暮れているし、六時の空じゃないでしょ? やっぱりおかしいよ」

 そうだ、おかしい。その感覚はレリィの意見が正しい。確かに俺たちは間違えているのかもしれない。

 だとすれば、何を間違えている? 時計塔は正常に動作をしているとして、間違えているのは……。



 時計塔に近づくと周辺では教員や学士達が各々の時計を確認しあって、時計のずれについて大騒ぎしていた。

「時計塔の時刻がずれるなどありえん。ありえんことだ」

「ですがシュナイド教授。現にずれているのです。この場にいる全員の、手持ちの時計が八時を示しているのに」

「時計塔の中に入って状況を確認しましょう」

「ダメだ。時計塔の鍵は学院長が管理している。今日は外出していて戻ってこない」

 学院長は今日、不在だったか。幻想種の召喚についても話をしておきたかったのだが……。


「とりあえず外から、時計塔におかしなところがないか、私が確認してきます」

「プロフェッサー・サライヤ、くれぐれも慎重に。これは異常事態である」

 黒い革のツナギを着た小麦肌の女性、サライヤ教授が飛行術式で直接、時計塔の針を確認しに行く。


 サライヤ教授が飛び上がると、学士達の間から歓声が上がる。

「純白の魔女が飛び立ったぞ!」

「サライヤ先生、がんばれ~」

「今日は何色なの~?」

 学士達の気の抜けた声援に、サライヤ教授が空中で体勢を崩しかける。ふらふらと頼りなく時計塔の針へと近づいていった。


「しかし、純白の魔女、とは聞き覚えのない二つ名だな」

「それは先輩、アカデメイアでだけの通り名ですから」

 独り言のつもりで呟いた俺の言葉に、レリィではなく別の人物が後ろから答えを返す。

「ナタニア、君も騒ぎを聞きつけて来たか」

「ですね……。これだけ騒がれれば何事かと。それにしても時計塔が狂うなんて」

「おそらく、狂ってはいないと思うがな」

「そうなんですか? でも……」

 時計塔の周囲を飛行しながら確認作業を行っているサライヤ教授を眺めて、ナタニアは小首をかしげる。青みを帯びた髪がさらりと揺れ動き、鼻の上にかけた小さな縁なし眼鏡がわずかにずれる。


「ねぇねぇ、それで何でサライヤ教授が、純白の魔女って呼ばれているの?」

 緊張感のない声で、レリィがどうでもいいことをナタニアにしつこく質問している。どうせ、アカデメイア内でだけの愛称か何かなのだろう。わざわざ聞くまでもないことだ。

「それは、ですね。先輩? 先輩も知りたいですか。サライヤ教授の通り名の由来」

「心底、どうでもいいな」

「あはは、先輩らしい。でもレリィさんが興味津々なので、教えてあげますね。実はサライヤ教授が新任の頃、スカートのまま飛行術式を使ってしまったことがあって、それで下着が綺麗な純白だったので……。サライヤ教授の日焼け肌と対照的で、皆の印象に強く残ったんでしょうね。それ以来、サライヤ教授は学士達の間では純白の魔女と……」

 本当にどうでもいい話だった。レリィと言い、ナタニアと言い、どうも事態の深刻さがわかっていないようだ。


 時計塔の周囲を見て回っていたサライヤ教授が地面に降り立ち、状況を報告する。

「ダメですね、特に異常は見られませんでした」

「しかし、これは明らかな異常事態である」

「いっそ、時計の針を外からずらしては? 再調整は学院長が戻ってからでも……」

「いかん! それだけは、してはならない!」

 ある若手教員が口にした時計の針を動かす提案に、シュナイド教授が大声で却下の意を示す。


「ですが、このままだと明日の講義にも支障がでてしまう……」

「一時的に正しい時間へ動かすだけです。多少の誤差はあるでしょうが」

 次第に時計の針をずらすといった意見が増えていくのを、俺は呆れながら見ていた。さすがにこのままの流れはまずい。

「時計塔の針をずらすなど、とんでもないことだ。あれはアトモスの指針と連動している。そう単純な構造ではないのだから」

 黙ってもいられなくなった俺は、議論の渦中へと飛び込んでいく。


「クレストフ先生……。ですが、明らかに時計が狂っている以上、なにか対策を取らないと」

 間近で時計を観察してきたサライヤ教授が焦った様子で口を開く。

「その必要はないな」

 俺は召喚術用の汎用結晶を取り出し、目を閉じて術式の意識構築を始める。


(――世界座標、魔導技術連盟本部、時計室。彼方かなたの姿を、此方こなたに示せ――)

『時を示せ、アトモスの指針!』

 術式発動の楔の名キーネームを発すると、召喚時に発生する光の粒が舞い踊り、時計塔広場の中空に大きな時計がぼんやりと現れる。

「アトモスの指針は世界の要所において複数台同時並行で動いている。万が一どれか一台に故障が起きたとしても他の指針が正確な時を刻み続ける。今、俺が召喚したのは魔導技術連盟本部にあるアトモスの指針だ」

 時計は空中に浮いた状態でそこにあるが、不完全召喚による存在の揺らぎにより、実体としては曖昧な様子で薄ぼけた光に包まれている。だが、指針が示す時刻ははっきりと見えるはずだ。


「やはり、もう八時を過ぎている!」

「アカデメイアの時計が狂っているのか!」

 早とちりをした教員たちが騒ぎ始める。そんな声を無視して、俺はもう一つ召喚を行う。


(――世界座標、アカデメイア時計塔。彼方かなたの姿を、此方こなたに示せ――)

『時を示せ、アトモスの指針!』

 今度はアカデメイアの時計塔が召喚される。目の前にあるものを、わずかにずれた場所へ不完全召喚したのだ。被召喚物である時計塔の存在状態が揺らぎ、わずかに薄れて見えるようになる。ちなみに、時計塔には完全召喚を阻害するだけの複雑な魔導回路が刻まれているが、不完全召喚だけは許容するという器用な条件付けがなされている。これは広く一般の術士にも、正確な時を知る権利を与えるため取られた措置だ。


 そうして、連盟本部とアカデメイアの時計を見比べてみると、果たしてそこには一分のずれさえない時計塔の姿が浮かび上がっていた。

「どういうことだ? 我々の目の前にある時計塔と、講師クレストフの呼び出した時計塔は同じように見えて、違う時刻を示している」

「シュナイド教授、おっしゃる通り。だが考えてもみてもらいたい。アトモスの指針はこれまで、外的要因なしに狂ったことは一度もない万年時計。また、当然のことながら外的要因に対する備えも十全にされている。それだけの信頼性がある。だとすれば、まず疑うべきは自分の目。間違っているのは――」

「我々の方だと――!?」

 はっとした様子で、シュナイド教授は広場に建つアカデメイアの時計塔を鋭く睨む。シュナイド教授は既に気が付いたのだろう、この時計塔にかけられた呪詛に。

 俺と同じく、彼にはもう見えているはずだ。正確に時を刻む時計塔の姿が。


「単純だが効果的な幻惑の呪詛。発動条件は『時計塔の針を見ること』、解呪条件は『自分の目を疑うこと』。しかし、肉眼で直接見るのではなく、召喚術を経由して時計の針を見る分には、呪詛の効果はそこまで及ばない。巧みであるとは思うが、さほど強力な呪詛ではないな」

 俺の説明で自分の目を疑い始めた人間が、次々と時計塔にかけられた呪詛の影響から脱していく。

「そんな、私なんてあんなに近くで観察していたのに……」

「あれ? 何であたしも時計の針を見間違えたんだろう……」

 サライヤ教授やレリィも呪詛の影響から脱したのだろう。驚愕の表情で時計塔の針を凝視している。


 大勢が時計塔を指差しながら騒ぐ中、俺の隣に立っていたナタニアが、じっと時計塔を凝視しながら小さくつぶやく。

「先輩……この呪詛。先輩だったら、どう評価しますか?」

「ん? そうだな。種が割れれば大したことはない。視覚系の術式を使って観察すれば、すぐに呪詛がかかっていることにも気が付くだろう。だが、一時的とはいえアカデメイアの教員を欺いたのだから、上手い呪詛だ。評価はB+ってところだな」

「……手厳しい、ですね」

「そうか? 俺にしては、かなりの高評価だぞ」

 ナタニアは苦笑いをして時計塔を眺めている。


「先輩。ここ最近、アカデメイアで奇妙なことが続いています」

「ああ、そうだな」

「もうしばらく、アカデメイアにはいられますか?」

「アリエルの指導もあるからな。もうしばらくだ。あいつが立派に育ったら、俺もアカデメイアを去る。とりあえず目標は、アリエルの四級術士昇格ってところだ」

「……ですか。残念です、もうじきお別れなんて……」

 小さな眼鏡を外して、軽く目をこするナタニア。目が疲れたのか、泣いているのか、彼女の表情からは判断がつかない。


 今回の呪詛、上級の術士であるアカデメイアの教員すら欺く巧みさ。

 悪意を持った何者かが、アカデメイアで動きを見せているのは確かだ。できることなら問題を解決してからアカデメイアを去りたいが、俺にもやるべきことがある。

 アカデメイアを守るのは、アカデメイアにいる者達こそがやらねばならない。

 悪意に立ち向かうのは学院長以下の教師陣か、あるいはナタニアやアリエルといった学士達なのかもしれない。

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