第241話 昔日の憂い
「すさまじい……ものだな、本物の騎士というのは」
黒い灰となって滅びゆく魔獣のなれの果てを眺めながら、博士カルネムは愕然とした様子で呟いていた。
打ち倒されたのは魔獣だけではない。魔獣との戦闘の最中に、レリィへと殺到していた牛蜘蛛は十数匹はいただろうか。それらも全て一撃の元に叩き伏せられていた。
「……これをレリィが? 一人でやったの……?」
リスカは確かにその様子を見ていたはずなのに、にわかには目前の光景が信じられないでいた。滅び去る魔獣の死骸を前に、翡翠色の闘気を立ち昇らせているレリィの後ろ姿を見てぶるりと体を震わせる。
魔獣が完全に滅びたことを確認した後、ゆっくり振り返るレリィの髪は一部が血のように紅く染まり、体のあちこちに牛蜘蛛の体液を付着させた姿はリスカから見ればまるで悪鬼か何かのようにも思えたのだろう。
「――しかし、とても人間わざとは思えないな……」
「カルネム博士……!? そういう言い方はないんじゃないかな……!」
「あ。いや、別に悪い意味合いで言ったわけではないのである……すまぬ……」
カルネムの言い方を非難するリスカであったが、意識せず言葉を発したカルネムよりも、『人間わざとは思えない』を字句通りの意味として捉えていること自体が、彼女もまた同じ印象を抱いているのだと示していた。
自分から少し離れた場所でそんなやり取りが交わされているのを、レリィは諦めの気持ちと共に受け止めていた。よくあることで、いつものことだ。
極力、平静を装って三人の元へと戻る。体はさほど疲れていないはずなのに、前へと歩みを進める足は鉛のように重かった。
「魔獣は倒したよ。皆は大丈夫? モリンさん、平気かな」
「あ、ああ……幸いにも命に別状はなさそうだ。とはいえ、骨の一、二本は折れているやもしれん。すぐにアカデメイアへ戻って治療してもらわねばなるまい」
努めて穏やかに言葉を発したつもりだったが、カルネムはレリィの全身から漏れ出る闘気にやや気圧されているようだった。戦闘が終わって間もない現状、どうしても昂ってしまうのを抑えることができない。闘気を封じ込める髪留めで赤く枯れた髪をまとめ上げる。それでもまだ、わずかな闘気が漏れ出してしまうのだ。
「リスカも怪我はない?」
「うん! ボクは大丈夫! ……レリィこそ、魔獣と殴り合いになって無事だったの?」
「あたし? 平気だよ、どこも怪我してないし」
「――あ、そ、そうなんだ。そっか、無傷か。さすがだね……」
心配させまいと返した答えは、リスカにとっては予想を裏切るものであったらしく、わずかに表情を引きつらせていた。
「あはは、リスカったら心配してくれたんだ。ありがと」
ぽん、と手で軽くリスカの肩に触れた瞬間、まるで電気を流されたかのように彼女の身体が小さく跳ねる。顔は強張り、足は半歩ほど後ずさっていた。
昨日までレリィにべったりと懐いていたリスカの姿はなく、今はまるで初めて会った他人を警戒する少女の顔をしている。
――またか。
またなのか、ここでも。
「……リスカ、疲れている? 早く、アカデメイアに戻ろうか。カルネムさん、モリンさんはお任せできますか? ちょっと疲れるかもしれないけど、このままアカデメイアに帰りましょう。今の戦闘に刺激されて他の獣が来ないとは限らないから、すぐに場所を移動した方がいいと思う」
「うむ、自分は大丈夫だ。モリン殿も任された。リスカはこのまま行けるか?」
「そ、そう……だね。うん! カルネム博士、急いで帰ろう! また別の魔獣が出てこない内に! 出てきても、レリィがやっつけちゃうと思うけど! 疲れたし、帰ろうね!」
喉が
リスカがレリィを恐れているのは、態度を見れば明らかだった。
不意に、森の中で揺らめく多数の人影が見えた気がした。それはレリィの錯覚であったが、胸の奥が締め付けられるような気分の悪い幻影であった。
(――あ、いやだな……昔のこと、思い出しちゃったよ。この程度のことで――)
クレストフと出会ってからは久しく忘れていた過去の暗い思い出。とっくに吹っ切れたと思っていたのに、いまだ胸中で渦巻く気持ちの悪さは、レリィが過去に縛られている証だった。
もう随分と昔のこと、早くに両親を喪ったレリィは村のお荷物になった。
村の人々はレリィのことを疎んでいたが、それでも彼女を見捨てずに生活の手助けをしたことは良心的であったと言えよう。
だからこそ、村の人達に何か恩返しがしたかった。何か自分にできる仕事はないか、と積極的に手伝いに走り回っていた。
――いや、違うか。恩返しなどとおこがましい。
要するに村の一員として認めてもらいたかっただけだ。お荷物であることに肩身が狭く、自分の居場所を確保したかったのだ。無駄飯食らいと蔑まれることなく、厄介者と疎まれることなく、愛情までは求めないが親しみをもって接してもらえるくらいには受け入れてほしかった。
だからこそ、自分の全身に漲る能力に気がついたとき、レリィは歓喜した。これならば力仕事も狩りもできる。自分も役割が得られる、と。
村の男衆に混じって狩りに初めて参加した日。荷物持ちとして、無理を言って同行させてもらったレリィは、そこで自分の価値を示そうと考えた。
狙う獲物は赤猪。赤土の土壌を好んで泥浴びし、いつも真っ赤な体表をしている大型の猪だ。
村の近辺の森に生息していて、たっぷり脂肪のついた肉を持つ、狩りの対象としては一番上等な獲物である。
村の男衆が弓矢と棍棒で追い立てるも、赤猪は巨体に似合わず素早い動きで逃げ回る。
大の男を軽々と鼻先で突き上げ、生半可に射られた矢であるならば分厚い毛皮に阻まれて致命傷に至らない。
男衆の包囲を突破して、彼らが赤猪に逃げられたと完全に諦めたとき、レリィが動いた。
得物は少女の手にぎりぎり収まる太さの棒切れ。レリィは赤猪の前へと飛び出し、棒切れを構えた。赤猪は構わず突進し、男衆は怒声を上げていた。
それでもレリィは赤猪の前に立ちはだかり、思い切って棒切れを振り下ろした。棒の先端が赤猪の頭頂部を捉えて、強かに打ち据える。だが、赤猪の突進はその程度では止まらずに、レリィの腹に向かって体当たりをぶちかました。
少女の軽い身体では抗うこともできず、吹っ飛ばされて地面をごろごろと転がっていく。視界は天地がひっくり返り、何度か土を舐めたあと仰向けに倒れると、深緑色の髪が髪留めの結束から逃れて発散する。武器として持っていた棒切れも弾き飛ばされて、藪の中へと消えてしまった。
倒れるレリィに向かって、赤猪が追撃の突進をしてくる。
レリィは全身に漲る力を感じながら、上半身をゆっくりと起こした。そこへ赤猪が再び突撃してくる。
誰が見ても体当たり直撃で大怪我は免れない。少女の身体を蹂躙するはずの衝突はしかし、少女自身の手によって止められていた。
翠色の光を発して、レリィの髪から燃え上がるように立ち昇る気炎。
がっちりと組み合った赤猪と少女。それは少女が赤猪の突進を止めたと見るよりは、赤猪が少女にじゃれついていると見る方がまだ現実味のある光景だった。
レリィは赤猪の牙を掴みながら立ち上がり、力任せにその巨体を持ち上げて放り投げる。背中から地面に叩きつけられた赤猪はもんどりうって暴れるが、横倒しになった赤猪の身体にレリィはのしかかり、拳で顔面を殴りつけた。殴る、殴る、殴り続ける。
拳を固めて殴るたびに、翠色の光が飛沫となって飛び散り、同時に赤い血飛沫も飛び散った。
次第に赤猪の抵抗は弱まり、虫の息となって泡を噴き絶命した。
――やった。たった一人で大きな獲物を仕留めた。男衆が逃がして諦めた獲物を、自分が仕留めたのだ。
歓喜のままに満面の笑顔でレリィは振り返り、立ち並ぶ大人達からの称賛を待った。
けれども、周囲から返ってきた反応はレリィの予想とは大きく違うものだった。
困惑、畏怖、忌避……肯定的な感情は一切見られず、これまでの疎外感とも決定的に違う拒絶の意思が伝わってくる。
どうしてそんな顏で見返してくるのか。獲物を仕留めた自分を褒めてくれないのはなぜなのか。
しばらく無言で佇んでいた男衆だったが、レリィが赤猪の死体から離れると鈍い動きながら獲物を運搬する準備を始めた。レリィも運搬の準備を手伝おうとしたが、男の一人が彼女を押し止めて、強く首を振った。言葉はないが、自分の手伝いは不要なのだとわかった。
村に帰ると、待っていた村人たちは大きな獲物に喜びの声を上げ、赤猪を担ぐ男衆を喝采で迎え入れた。
一方で、レリィに対しては眉を顰め、村人の誰一人として近づいたり声をかけたりはしてはくれなかった。
この扱いの差はなんなのか。自分は手柄を横取りされたのか。腑に落ちない、耐え難い怒りを抱えてレリィは立ち尽くしていた。
村人の何人かが、レリィの方を盗み見るようにしてひそひそと言葉を交わしている。レリィの耳に聞こえてきたのは「あんな泥だらけで、狩りの邪魔でもしたのか?」「あの子が一人で猪を狩ったって……」「嘘でしょう? 本当なの……?」などと彼女の仕事を疑う声だった。
村が赤猪の狩猟に沸くなか、一緒に狩りへ出ていた男の一人が村長になにやら耳打ちをしている。
すると、村長は村の倉庫から大きめの小麦袋を一つ持ってこさせて、それをレリィに渡して言った。
「今回の狩りの報酬だ。後で、切り分けた肉も届けさせる。ひとまずは家へ戻って体を洗いなさい」
ずしりと両腕にかかる重みは、レリィが初めてまともに得た報酬だった。およそ数か月分の糧食となる小麦粉。そのうえ、後で赤猪の肉も分けてもらえるという。
認められた。自分の働きが認められ、報酬をもらえたのだ。
その事実だけが嬉しくてレリィは小麦粉の袋を大事に抱えて、自宅へと帰った。
理解のない村人達の噂など気にならなくなった。認めてくれる人はいるのだ。
狩りはいい。自分なら一人でも赤猪を仕留めることもできた。予想以上の報酬も貰えた。
これこそが自分にとっての役割ではないのか。そういえば父親も狩人だったと聞くし、自分にとっても天職だったのかもしれない。
多幸感に包まれたレリィは、両親がいなくなって少女一人には広すぎる家の中で意味もなくグルグルと回り踊った。
ひとしきり喜びを噛みしめた後、疲労を感じたレリィは寝床に倒れ込もうとして……寸前で動きを止めた。
ふと見た自分の両手が血に濡れているのに気が付いたのだ。
そういえば村長にも体を洗えと言われていた。自分では気にしていなかったが、山林で狩りをして汚れてしまったのは間違いない。
姿見の鏡で自分の全身を改めて見直し、鏡に映る自分の姿にレリィはしばし茫然としていた。
赤猪から移された土と血の色が全身を赤く汚し、それどころか髪の半分程度までもが紅く染まっていた。
肩に垂れ下がった自分の髪を直接見て、レリィは首を傾げた。自分の髪は母親譲りの深緑色であり、決して鮮やかな真紅ではなかったはず。自身の体の明らかな異常に恐ろしくなったレリィは、衣服を脱ぎ捨てて裏庭の井戸に走り、頭から水をかぶって汚れを落とした。
赤猪の血は水を二、三度かぶると、土汚れと混じって赤い汁となり、膨らみかけた胸の谷間を流れ落ちていく。
日に当たっても焼けることのない白磁のような真白い肌が汚れの下から現れると、レリィはほんの少しの安堵を得た。
だが、胸元に落ちてきた一房の髪を見てレリィは凍り付いた。
紅い。
いくら洗っても紅く染まった髪は色落ちすることはない。血に染まって赤くなっているわけではない。髪の色素そのものが変質している。
ここへ来てようやく、自分が村人から奇異の目で見られていた理由に思い至った。
血にまみれた姿も、猪を一人で狩ったという噂も、レリィに対する偏見に一役買ったのだろう。しかしなによりも、紅い髪。半日の内に変質した髪の色は、明らかに普通ではない人間の烙印となっていた。
自分は認められたわけではない。
ただ、恐れられていたのだ。
与えられた報酬も、暴れられては困るから対価を与えるといった配慮だろう。
結局、どこまでいっても自分は村の厄介者だ。誰かに認めてもらえる日など来ないのかもしれない。
それからのレリィは、有り余る力を活かす場所として厄介払いのように森の狩人として猛獣狩りの仕事に回された。
一人で狩りをしているときは誰からも疎まれることなく気楽だった。夜の森は孤独感をいっそう強めるものだったけれど。
大きな獲物を捕まえて帰った時は、少しだけ村の人達が優しくもなった。獲物はいつも安く買い上げられてしまったけれど。
そして、そうして、結局、村人達とはわかりあえないまま、レリィは村を出たのだ。あの人と――。
「ようやく戻ったか。待ちくたびれたぞ」
ぼんやりと森を進んでいたら、いつの間にか目の前に人影が現れていた。不機嫌そうな声音を隠そうともせず、口をへの字に曲げて腕を組みながら立っている。
「……クレス」
自分を待ってくれている人がいた。
アカデメイアの南門を出てすぐの場所。そこではクレストフがレリィの帰りを待っていた。
「予定より帰還の時間がずれる、とは聞いていたが……こんな真夜中に戻ってくるとは」
「なんでクレスがここにいるの?」
「南門付近に仕掛けた感知結晶が、お前の固有波動を捉えたんだ。この時間では迎え入れに動かせる人間もいない。とりあえず、俺が様子を見に来たわけだが……負傷者がいるな。早くアカデメイアの門をくぐれ。医学研究棟になら医療術士の一人くらいは宿直でいるだろう。そこまでさっさと運ぶぞ」
カルネムに担がれたモリンを見て、クレストフは手早く開門を行い、三人をアカデメイアへと迎え入れた。
あいかわらずぶっきらぼうな口調と態度だが、深夜であるのに真っ先に迎えに出てきてくれたのはやはり心配してくれたのだろうか。
レリィにはクレストフの言動がいまいち掴み切れなかったが、普段と変わらない彼の態度に深い安心感を抱いた。
「クレス……あたしさ……」
「なんだ、どうした?」
言い淀むレリィに、少し苛立った様子で発言を促すクレストフ。言おうか言うまいか迷ったが、もう我慢の限界だった。いまここで言っておかないと、後になって後悔するかもしれない。
「あたし……お腹すいた」
「……ちっ、面倒な。簡単な夜食ぐらいならゲストハウスで作ってやる。だが、怪我人を医療研究棟に預けて、アカデメイアの事務局ポストに帰還報告を出す。それらの手続きが済むまでは我慢しろ」
「うん。夜食、楽しみ……」
ふらふらと足元がおぼつかない。そこまで過酷な戦闘をした覚えはないのだが、気が緩んでしまったのだろうか。眠気と空腹で目が回る。
「おいおい、しっかりしろ。ったく、仕方ない……。カルネム博士、そちらは後を頼めるか?」
「問題ない。モリン殿を医療術士に預けて、帰還報告は全員分、事務局に提出しておこう。レリィ殿も魔獣と随分激しい戦闘をしていた。疲れているのは当然だろう」
「何!? 魔獣だと……? …………緊急に対策を取る必要がありそうか?」
魔獣という単語を聞いて、クレストフは途端に険しい顔になった。
確かに、あんな怪物がアカデメイア付近に出現したとなれば、警戒はして当然だろう。
「ひとまず直近の危機はないと思われる。が、アカデメイアの警備隊には連絡が必要であろう。詳しい話はモリン殿を預けたら自分が警備隊に伝えよう」
「わかった。ひとまず、先触れとして俺も連絡を入れておく。細かい話は任せた、カルネム博士」
ほとんどカルネム博士に任せてしまって申し訳ないな、と感じながらも、レリィ本人はクレストフの肩に寄り掛かるような状態で歩いている始末だった。とても手伝えそうにない。
リスカはこちらを気にするような素振りで視線を送ってきていたが、カルネム博士と一言、二言、話をしたらそのままどこかへ行ってしまった。少し、距離ができてしまったように感じるのは寂しい気がした。
「そら、行くぞレリィ。まさか腹が減りすぎて歩けないのか?」
「だ、大丈夫。大丈夫だよ……」
多少、辛くはあるが歩けないほどではない。ゲストハウスに辿り着けば夜食が待っている。そこまで辿り着けば――。
(……昨日は、クレスが作ってくれた食事を食べた後、どうしたんだっけ? 体も服も汚れていないし、シャワー浴びて寝たのかな、覚えがないや……)
服と言っても今着ているのは、いつも寝間着として使っている生地の薄いホットパンツに、丈の短いチューブトップといったものだ。
ひとまず顔を洗いに、洗面場へと向かった。そこで、鏡に映る自分の姿を見て「あれ?」とレリィは首を傾げた。昨晩は確かに赤く枯れたようになっていた前髪が、普段の深緑色へと綺麗に戻っていた。一度、髪の毛が赤くなるまで消耗すると、完全に回復するまで丸一日はかかっていたはずだ。
ゲストハウスは静まり返っており、人の気配が全くしなかった。クレストフも講義に出ているのだろう。
色々と腑に落ちない点はあるが、なんとなくまだ身体が怠かったレリィは二度寝を決め込むことにした。元々、森での狩りが終わったら体を休める予定でいたのだ。誰に文句を言われることもなく、惰眠を貪ることにしよう。そう決めた。
「おい、いい加減に起きろ。もう夕方だぞ」
意識の遠く外からクレストフの呆れた声が聞こえ、頭を髪ごとガシガシと揉まれる感触を受けてレリィは
乱暴な起こし方だ。断固、抗議せねばなるまい。
「んやぁー……、やめてぇ~……」
寝ぼけた頭と体では間の抜けた声しか出なかった。それでも一応、起きたことは伝わったのかクレストフもそれ以上は手を出さず、レリィのすぐ横で黙って待っていた。クレストフがその場から去る気配はない。これはどうしても起きないといけない、ということだろうか。
「なに~?」
「
「魔獣……って、体に黒い靄をまとわせた怪物のこと?」
「そうだ。お前から見て、どの程度の脅威があったか聞きたい」
クレストフは神妙な面持ちで頷くと、レリィに返答を促した。
「真面目な話なんだね」
レリィはベッドの上で姿勢を正し、クレストフに向き直った。寝間着姿のままだったがクレストフは気にしておらず、それどころではない雰囲気を漂わせていたので、レリィも固唾を呑んで彼の質問に耳を傾ける。
「そうだ。本当なら昨晩の時点で聞いておきたかったことだ。今日もアカデメイアで緊急の対策会議があったからな。これまで
「……ごめん、寝起きで難しい話に頭が追い付かないんだけど。つまり、どういうこと?」
「これまで以上に凶暴な怪物が発生する可能性がある。魔獣の脅威度によっては、アカデメイアの防備を固めるか、実験森林へさらなる調査隊と討伐隊を送り込む必要があるってことだ」
言い回しこそ変わっただけでクレストフの喋り方はいつも小難しい表現をしていて、レリィにとっては理解に苦しむ。回りくどいこと言わずにはっきり言ってくれればわかりやすいのだが。
「つまり、あの魔獣が強いか弱いかってことでしょ、問題は? だったら正直に言うけど、あれはちょっと大きなだけの牛蜘蛛だよ。それほど特別な脅威は感じなかったかな」
「お前にとってはその程度の相手だったと?」
「なんか含みのある言い方だけど、そうだよ。普通の牛蜘蛛とは明らかに違ったけど、ただ大きいだけでクレスみたいないやらしい呪術とか使ってはこなかったから」
「俺みたいな、いやらしい……まあそこはいい。お前から見て雑魚扱いなら超越種に迫る水準ではないな。ひとまず安心か……。昨晩、お前が随分と疲弊していたから俺はてっきりどんな強敵が現れたのかと心配していたんだが、杞憂だったようだ」
レリィの返答を聞いて、クレストフは心底安心した様子で胸を撫でおろしていた。ただ、レリィとしてはクレストフが本当に魔獣の脅威を計りきれているのか不安に思った。
「確かにあたしにとっては大したことなかったけど、でも、他の人達にはそうじゃないかも。モリンさんも怪我したし、カルネムさんやリスカもアレには立ち向かえなかったから」
自分の感覚などを信じて、果たして正しい判断が下せているのか。そんな疑念から出た言葉に、クレストフは
「何を当たり前のことを言っている? 魔獣に不意打ちを受けたのなら、三級術士のモリンでも対応は難しいだろうよ。ましてやアカデメイアを卒業もしていない学士ではな。俺やお前なら超越種でもない限り脅威にはならんだろうが、大抵の人間にとっては十分すぎる脅威になる」
「あ――あれ、そうなの?」
あまりにもあっさりと、彼らと自分は違うのだと言い切られてしまい愕然とした。
しかし、何故だろうか。リスカに恐れを抱かれた時とは違う。他者との隔絶感に全く嫌な感じがしない。
「どうした、まだ疲れているのか? そういえば昨晩は何でまたあれほど疲弊していた? 普段のお前なら、あの程度の討伐任務はどうってことないだろ。そんなことじゃ、まだまだ俺の専属騎士として足りんぞ」
――ああ、そうか、そうなのだ。
嫌な感じがしなかったのは、彼もまた自分と同じ側にいるからなのだ。
何の気負いもなく、化け物じみた能力を持つ自分を相棒として見て、それでもまだ不足しているのだと平気で言ってくれる。まったく、笑ってしまう。
「おい、どうした――!? レリィ、何で――」
「え?」
レリィは笑っていた。
突然、笑いだしたのが不思議だったのだろうか。クレストフがいつになく慌てふためいている。
けれども、続く言葉にレリィは自分が今、どんな状態にあるのか気づかされる。
「何で、泣いているんだ? 笑いながら……」
言われて頬に手をやれば、冷たい水滴が指に触れる。涙だ。
「あ、はは、あたし、どうして泣いちゃってるのかな……。笑っていたはずなのに、むしろ……嬉しくて、泣くことなんてないのに……」
「やはりどうも様子がおかしい。何かあったんだな? 森で」
「ううん、違う、何もないよ。大したことじゃない。疲れていたのは、魔獣との戦闘前にもずっと他の獣との連戦が続いていたからだし。モリンさんもあれだけの獣が大量発生するのは異常だって言ってた」
「獣の大量発生の話は聞いている。だが、お前が疲弊するほどとは思わなかった。認識を改める必要があるか……」
クレストフはとりあえず、レリィの疲労の原因が単純な理由だと納得したようだった。そのことにほっとしつつも、もう少しの間だけ心配してもらえるのも悪くなかったか、と後悔してしまう。彼がここまで自分の身を気にかけてくれるとは、思ってもみなかったからだ。
「そうだ、魔獣を倒したときに手に入れたものがあったんだけど……。綺麗な赤い結晶で……」
ふと、話題の転換ついでに思い出したことを口に出す。クレストフはそれだけでわかったのか、おもむろに部屋の隅へと歩いていき、レリィの記憶にもある暗赤色の十二面体結晶を持ってきた。
「これのことか。稀に魔獣の体内から見つかることもある魔核結晶……いわゆる魔蔵結晶の一種だ」
「魔蔵結晶って、よくクレスが持ち歩いている?」
「俺のは人工的に魔導因子を貯蔵させたものだが、他に天然の鉱石として産出するものや、今回のように魔獣の体内で生成するものなどがあるんだ」
「珍しいものなの? 今回、あたしが拾ったものも」
「並みの宝石程度にはな。魔獣の体内で魔力が淀み、変質した体細胞が魔導因子を含んだ結石となって生じるものだ。天然の魔蔵結晶よりも高密度の魔導因子を含んでいる。こいつは、魔核結晶としての質は粗悪だが、それでも一般に手に入る魔蔵結晶などより優秀な素材だ」
「粗悪なんだ……」
並みの宝石程度と聞いて身を乗り出したレリィだったが、粗悪品の一言でがっかりしてしまった。だが、クレストフは暗赤色の結晶を手の中で弄びながら、面白そうに観察していた。
「魔核結晶としての質は微妙だが、ここからわかることも多い。今回の魔獣がどういったものか、推測する情報としては悪くない拾い物だ」
「なにそれ、褒めてるの?」
「褒めているんだよ。お手柄だ、レリィ。こいつを解析すれば、あるいは魔獣の発生経緯がわかるかもしれない」
ぽん、とレリィの頭にクレストフの手が乗っかる。彼がこうして積極的に触れ合ってくるのは珍しい。そのくせ妙に頭を撫でる手つきが慣れている。まるで小さな子供をあやすように……。
「ねぇ、クレス。それだったら、ご褒美くれないかな」
「ん? 特別報酬か? まあ、別に構わないが、最近はさほど金に困っているわけでもないだろうに」
「お金じゃなくて。ちょっとさ、今日一日、一緒にいてよ」
「ううん? それこそ、今日はもう夕方で仕事も終わったから、ずっとゲストハウスで過ごすつもりだが……」
「そーじゃなくて! 近くにいてほしい、ってこと」
小さなわがまま。少しの歩み寄り。ほんのわずかな心の触れ合い。
これまで彼の相棒として、専属騎士として隣に立ってきた。けれど、それだけではなくて。いつしかそれ以上も求めたい、という気持ちが芽生えていたのは間違いないのだろう。
弱さを見せて、甘えられる相手が欲しかった。
両親を喪ってから以降、そんな都合のよい人など近くに居なかったのである。
「あー……何をどうしてほしいのか、よくわからんが。とりあえず、食事にするか?」
「うん」
「そのあとはまあ、気が落ち着くなら添い寝でもなんでもしてやる」
「それでいい」
「まさかとは思うが、体を洗って欲しいとか言い出すことは……」
「な、ななな、なに言っているの!? 変なこと期待しないでよ!! ……さすがにそこまではちょっと……甘えられないし……」
「まあ、昨晩すでにその重労働はさせられているんだがな……」
「クレス。今、なんて言った?」
「別に何も。今日くらいはわがまま言っても聞いてやる。さあ、何でも言ってみろ!」
最後はやけくそ気味になっていたが、おかげでとても素直に甘えることができた。今、自分はクレストフの目から見て、ひどく弱って見えるだろうか。専属騎士としてあるまじき姿だろうか。
それでも、今日だけは弱い自分を認めてほしい。騎士と術士の相棒という関係だけでなく、そうではない何か別の、互いを思いやる関係として。
その後、クレストフがアカデメイアの学食から持ち帰ってきた夕食を一緒に食べて、隣り合わせにくっつけたベッドでクレストフに添い寝してもらう。
――つもりだったのだが、ベッドへ横になった瞬間にクレストフは深い眠りについてしまった。そういえば食事中に、魔獣への対応策をアカデメイアの警備隊と一緒に打ち合わせしていた為、昨晩から徹夜で働き詰めだとぼやいていた。
(これじゃ、あたしが添い寝してあげているみたいなんだけど……)
夕方まで眠っていたレリィは目が冴えてしまい、ベッドで横になっても眠ることができなかった。
仕方なくクレストフのベッドに潜り込み、熟睡する彼の横顔を眺めながら夢に落ちるのを待っている状況だ。
弛緩した表情で小さく寝息を立てるクレストフを横目に、これも悪くないかと
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