第240話 悪意の産物
陽が落ちて暗闇に呑まれた森の中、四人は焚き火を囲んで暖を取っていた。初夏の季節だというのに、昼間も日の光が届かない森の中は寒々としており、夜ともなれば肌寒さも増してくる。
「予定より遅くなってしまいましたね。ここまで暗くては森を進むのは危険です。探索術を使えば進めなくもないですが、無理せずに朝を待ってから、再度出発しましょう」
モリンの指示に従い、その日は無理にアカデメイアまで戻らず、野営をすることになった。鋼顎亀の甲羅三つと、屍食狼の毛皮と牙を十組ほど、モリンの送還術によってアカデメイアに送っていた。持ち運べる程度の物は送還せずにアカデメイアへ持ち帰るのが通常だが、鋼顎亀の甲羅は重すぎるので術式で送ってしまった。リスカはレリィに運ばせようと考えていたようだが、それを聞いたモリンは「冗談でしょう?」と笑っていた。
ついでにリスカの担いでいたマンドラゴールも一緒に送ってしまったので、荷物は少なくなり身軽な状態だった。それでも夜になる前にアカデメイアへ戻れなかったのは、度々、猛獣の襲撃を受けていたからだった。やけに獣の数が多い、とモリンは首をかしげており、普段より多めに獣の間引きを決めたのも時間がかかった原因ではあった。
「リスカ、君は明日の講義の予定などはあったか?」
「明日はない! 訓練に当てるつもりだったし、森の中でも大差ないよ!」
「……うむ、休みの日も訓練とは大した意識の高さだ。兵論学科にしておくのがもったいないな! どうだ、戦技学科に編入しては?」
「ボク、ガチムチの魔導剣士を目指してるからねー。戦技学科だと習える術式の種類とか、足りないんだよ。残念、残念」
カルネムの勧誘をリスカは笑いながら断る。わりと本気だったのかカルネムの方は心底、残念そうな顔をしている。
「レリィさんは明日の予定などありましたか? 何かあれば、アカデメイアに連絡を入れておきますが」
「ん、あたし? 明日は一応、戦技学科と合同の戦闘訓練があったと思うけど……」
「では後で、シュナイド教授に簡単なメモを送還しておきましょう。もっとも、あなたには戦闘訓練は必要なさそうですけど」
「そんなことないよ。色んなことを学べて楽しい。学校っていいところだね。力任せに戦うだけじゃないって、ここへ来て知ったかな」
本音から出た言葉だった。一級術士クレストフに相応しい騎士として、自分に何が足りていないかわかった気がするのだ。いつまでも彼に未熟者と見られるのは悔しい。彼に認めさせるためにも、アカデメイアで学ぶべきことは多い。
「ところでレリィさん。あなたは元狩人だという話だけど、ここの森の様子を見て何か妙なところは感じなかった?」
「森の様子? う~ん、普段この森がどうか知らないから何とも言えないけど、随分と変わった獣が多いとは感じたね。種類もそうだけど数も多い。普通の獣はもっと少ない数で広い縄張りを持っているから、今日みたいに森の中で頻繁に出会うことはないんだけど」
「その違和感は私も同じくするところです。ここは
レリィの感じるところを聞いてモリンの表情は暗くなった。危惧していることが気のせいではないと、確信に至ったのだろう。
「森の生態系に異常が出ている……。それも前回の一ヶ月前に行った調査では異常がなかったことから、ここ最近の短期間で起きていることです。しばらくは頻繁に調査を続ける必要があるでしょう。もし、よければ次の機会でも協力頂けると助かりますが……」
「クレスに聞いてみるけど、たぶん協力はできると思うよ。色んな猛獣と戦うのも経験にはなるしね」
「是非とも! お願いしますね! レリィさん!!」
がしっ、と両手を包むように握りしめてモリンが頼み込んでくる。森が危険とわかった以上、安定した戦力が欲しいのだろう。今日も、レリィがいなければ危険な場面が何度かあった。
焚き火にくべた枯れ枝が、ぱちり、と爆ぜて音を鳴らした。
風に煽られて強くなった炎が森の闇を一瞬だけ照らす。赤い光の中で、リスカが据わりきった目でこちらを眺めていた。
「リスカ? どうしたの?」
「……はっ!? ボク、寝そうになってたかも」
「眠ければもう休んで構いませんよ。索敵結界は張っておきましたので、獣が近づけば気づきます」
「うむ。しばらくは自分も起きている。モリン殿と交代で休む予定であるし、なるべく休めるときに休むといい」
「でも、ボク……」
「それじゃ、あたしは休ませてもらおうかな。リスカも早めに休んだ方がいいよ」
遠慮しそうなリスカが余計な気遣いを始める前に、レリィは一人で木に登り、落ちないように体を幹に紐で縛ってから早々に目を閉じる。
「……慣れてますね、レリィさん」
「慣れているな」
「お猿さんみたい……」
ちょっと気になる発言が聞こえてきたが、レリィは無視して眠ることにした。どうせ、獣が近づいたりすれば自分の身体は勝手に覚醒する。
この森は故郷のそれに比べて嫌な雰囲気が漂っているが、それでも人智を超えるような領域ではない。油断はできないが、気を張りすぎることもないだろう。
そのあとリスカがいつ頃、寝たのかは知らない。
暗く静かな森の中で、レリィの意識はまもなく闇へと落ちていった。
――意識が覚醒した時、既に森の空気は冷たく張りつめていた。
何かが近づいている。そんな確信と共に目覚めたレリィは、すぐ下で辺りを探るように動いているモリンと、リスカを静かに揺り起こしているカルネムの姿を見た。
レリィは体を縛っていた紐をほどくと、音を立てずに地面へと降り立った。一瞬、モリンがびくりと竦みあがるが、そこはさすがに声を上げることもなくレリィに目と手の仕草で合図を送ってきた。
何かが迫ってきている。
地面に耳を触れさせても獣の足音らしきものは聞こえない。だが、何かしら規則的で小刻みな振動が伝わってきているのは間違いない。
(――遠い? でも、なんだかおかしい。足音というより、跳ねている?)
地の底深くから伝わってくるような小さな振動。獣が近づいてきているとして、どうしたらこのような音が伝わってくるのか。
モリンが探索術に集中している間、カルネムとリスカが周囲を警戒しているが、こちらに迫り来る獣の姿は発見できていないようだ。
「もう……すぐ、そこまで来ています……! 動きに迷いがない……完全に捕捉されていますよ……!」
焦ったようにモリンが声を発する。音は遠く、だがモリンの探索術ではすぐそばまで脅威は迫っている。
しかし、森の中にそれらしき姿は見えない。
ここまでの情報を、レリィ自身の経験から総合して考えると――。
「頭上に気を付けて! 木の上から来る!」
「なんだとっ!?」
カルネムが頭上を振り仰いだ瞬間、目前の樹木が大きく揺れた。
闇に紛れて巨大な影が覆いかぶさるように降ってくる。
間一髪でカルネムが飛び退いた場所へ、ツルハシのような鋭い爪が突き立てられた。足音が聞こえなかったのは、ずっと樹上を移動してきたからだろう。風に揺れる葉擦れの音に紛れながら、着実に距離を詰めてきていたのだ。この怪物は――。
「こいつは……なんだ!?」
「うわぁっ、キモっ! こいつ、キモいよ!」
地面を深く穿った爪の持ち主。一見した印象は人並みに巨大な蜘蛛。丸々とした体に八本の節くれ立った足が生え、体の正面には二本のねじくれた角と鋸刃の付いた牙を持つ頭部。暗闇の中で赤く光る眼玉が八つ。
まさに人の本能に恐怖を植え付ける容姿で、直視したリスカは思わず腕に鳥肌を立てていた。
「
モリンは気づいているのだろう。この場に現れた牛蜘蛛が一匹ではないことに。
「モリンさん。この牛蜘蛛って群れを作るの?」
「……いいえ、単独で狩りをする習性があります。縄張り意識が強く、同族であっても敵と認識すれば容赦なく共喰いもする……群れをなすはずがない、のですが――」
モリンの発言を否定するかのように、辺りの木々には幾匹もの牛蜘蛛がぶら下がっていた。獲物を競って奪い合うというわけでもなく、周辺を隙なく包囲して不気味にこちらの様子を窺っている。
「じゃあ、こいつらはいったい……」
リスカが牛蜘蛛から視線をそらした一瞬、彼女の死角にいた一匹の牛蜘蛛が音もなく距離を詰めてきた。
「リスカ! 左上から来てる!!」
レリィの声に反応して、リスカがその場から大きく跳躍する。だが、追いすがるように更に二匹の牛蜘蛛がリスカに集中攻撃を仕掛けてきた。
「このっ! ボクを舐めるな!」
加速する魔導剣で牛蜘蛛の伸ばしてきた足を切り落とす。だが、まるで痛覚がないかのように、牛蜘蛛は怯むことなくリスカとの距離を詰めてくる。
『
モリンが両腕を突き出し、手の平から生み出した二つの巨大な火球を牛蜘蛛に向かって高速で撃ち出す。狙い違わず二匹の牛蜘蛛に火球が炸裂し、灼熱でもって焼き焦がした。闇に落ちていた森が炎の明かりで照らし出され、牛蜘蛛達の姿を浮き上がらせる。
火炎球の直撃を受けた牛蜘蛛は、火の熱に炙られて長い足をくしゃくしゃに丸めるようにしながら絶命していた。辺りに焦げ臭く不快な臭いが漂っている。
『
リスカが襲われる一方で、カルネムも牛蜘蛛との戦闘に突入していた。木々を飛び移り、頭上から八本の爪で攻撃を仕掛けてくる牛蜘蛛に対して、拳と蹴りでこれを捌きながら、わずかな隙を突いては打撃を放って着実に敵へ損傷を与えている。しかし、モリンの火炎球ほどには高い効果がなく、一匹を倒すのにも苦労を強いられている様子だ。
徐々に押されている、とレリィは感じていた。
牛蜘蛛は倒しても次から次へと新たに数を増やしている。同時に複数を相手にすれば一匹当たりへの攻撃頻度も少なくなり、一匹倒すうちに二匹増えているといったありさまだ。当然、こちらは防戦に回るので手一杯になってくる。
レリィにしても四匹を同時に相手取っており、四方から突き出してくる爪の攻撃を受け流しながら、反撃によって牛蜘蛛を打ち倒すのは容易なことではなかった。
(……このままじゃ誰かが力尽きる。一人減れば負担も増えて総崩れになりかねない。ここは闘気を使うべき……?)
迷っていた。牛蜘蛛の数が増え続けている現状、もし闘気を使い果たしてなお奴らの後続が尽きなかった場合、包囲を突破して離脱する余力もなく全滅だろう。使いどころを間違えれば、生き残る可能性を失ってしまう。
レリィ一人だけならば、直ちに闘気をまとって離脱すれば振り切れる。けれど、他の三人は難しい。アカデメイアに近づいたとはいえ、牛蜘蛛から逃げきって駆け込むにはまだ遠い距離だ。
それに、闘気を使いきることはクレストフから厳重に注意されていた。特に、周囲に術士の味方がいる場合は最悪の結果をもたらす、と。
――レリィの特異体質、『魔導因子収奪能力』が発動すれば周囲環境の魔導因子はあっという間に枯渇するため、術士は戦う術を失ってしまうのだ。
「……怯まないならぁ! その脚、全部を切り落とせば――!」
リスカの魔導剣が鮮やかな薄緑色の輝きを放ち、刀身の軌跡が残光となって夜の森を走る。加速、加速、さらなる加速。リスカも本気だ。無駄な思考も動作も削ぎ落とし、ただひたすらに牛蜘蛛の脚を切り落とす行動に集中することで、効率的に敵の動きを封じていく。
『
動けなくなった牛蜘蛛へ容赦なくモリンの火炎球が直撃して焼き尽くす。
「はぁああっ!! せいっ!!」
カルネムの拳が牛蜘蛛の頭部を的確にとらえ眼球を潰す。目を潰されて動きの鈍った牛蜘蛛の脚をリスカが素早く切り落としていく。そこへモリンの術式がとどめを差す。
三人の連係が極限状態の中で洗練され、徐々に形勢を逆転させていく。
(……この連係、うまい! 今の流れを維持すれば――!)
レリィは木の幹を蹴り上げ、三人の頭上から迫っていた牛蜘蛛を殴り飛ばして撃退する。彼らの連係が円滑に機能するよう、レリィは遊撃役として木の上を伝いながら牛蜘蛛による三人への奇襲を阻んでいた。
このまま行けば押し切れる。
そんな期待が頭をよぎった直後、森の奥で轟音と共に複数の木々が倒れた。
連続して倒れゆく木々は、真っ直ぐレリィ達の元へと向かってきていた。
「三人とも気を付けて!! 向こうから、大きいのが来る! 何か――」
木の上からレリィは叫んだ。
レリィが言葉を言い切る前に、その何かは姿を現して一瞬の間に通過していった。
巨大な影が鼻先をかすめて通過していったとき、あまりにも馬鹿げた大きさと速さに背筋が凍りついた。レリィは木の上に居たにも関わらず、地を走るそれは鼻先をかすめて行ったのだ。
そいつが通過していった後には、なぎ倒された木々と踏み潰された牛蜘蛛、そしてただの突進の一撃で蹴散らされたリスカ達の姿があった。
「リスカっ!! モリンさん、カルネムさん!!」
レリィの呼びかけに三人は辛うじて呻き声で応えるが、体を起こそうともがきながら動けずにいる。
「くっ……いったい、何が起こって……」
半身を起こしたカルネムが見たものは、周囲に生える木々よりも背丈が高く、横幅もまた同じぐらいに大きな灰色の影。
「鋼顎亀……? じゃなくて、牛蜘蛛? どっちだ、これ……! どっちにしても、ふざけんな! こんなの、こんなの……反則じゃないか!」
その異様な姿を見たリスカは、地面に這いつくばりながら理不尽を嘆いた。
彼女の目前に現れたものは、鋼顎亀のような甲羅を持った丸い身体と伸縮する首、牛蜘蛛のような足が十六本生えて、首の先端には研ぎ澄まされた鎌のような牙が左右一対ずつで三組。大小複数の赤い目玉が全身のあちこちに付いて、死角なく周囲の状況を探っているようだった。
「鋼顎亀と牛蜘蛛の
血の混じった咳をしながら、モリンは呆然と怪物を見上げている。
特徴的なのは通常生物としては限界近いほどに肥大化した巨躯、そして何よりも異質なのは今も全身から立ち昇っている黒い霧状の物体。
「あれは、魔獣……」
モリンはその一言を発して気絶した。完全に気を失ってしまったモリンへ、カルネムが必死に呼びかけるが反応はない。
ただ、苦し気にではあるが呼吸をしているのは見て取れるのが救いか。まだ助かる可能性はある。
「あれが魔獣……」
レリィはクレストフと仕事をする中で様々な猛獣、人造の
クレストフの話では魔獣の中でもとりわけ強力なものを超越種と呼ぶらしいが、そこに明確な区別があるわけではなく、ただその存在規模と危険度から判断されるのだとか。ある程度の実力者であれば、魔獣と超越種の違いは『見ればわかる』らしい。同じ魔獣でありながら、それほどまでに隔絶した力の差が存在するのだという。
かつて見た超越種『
(……だからって簡単に倒せる相手なわけがないよね。他の皆も限界だし……なら選択肢は一つ……!)
事ここに至って迷う理由はなかった。これ以上の力の出し惜しみは即時敗北を意味している。
使うべき時に使わずして、騎士の力に意味もないだろう。
「カルネムさん! リスカ! なんとか体を動かして、モリンさんを連れて逃げて!」
周辺には依然として牛蜘蛛が徘徊している。無茶な要求だとは思うが、無防備なままでいれば数分ともたずに三人とも襲われて死んでしまう。
目前の魔獣に関しては――。
「この魔獣は、あたしがどうにかするから」
がばりとカルネムが膝を上げて立ち上がり、モリンを脇に抱え上げた。リスカの腕を引っ張って立ち上がらせると、一度だけレリィの方を見てからすぐに走り出す。魔獣から遠ざかる方向へ、牛蜘蛛の包囲を突破してアカデメイアのある方角へと。
「待ってよ、レリィがっ! レリィがまだ――!」
「リスカ! 騎士が、どうにかすると言ったのだ! で、あれば任せるべきなのだ! 手負いの術士が近くにいても邪魔なだけだ!」
この場を離れようとしないリスカに、レリィは早く行けと手だけ振って追い払う。魔獣も今は警戒して様子を見ているが、いつまでも大人しくしているとは限らない。
半ば強引にカルネムによって引っ張られていくリスカ。逃げようとする三人に牛蜘蛛が襲いかかってきたところで、リスカも覚悟を決めたのか、レリィの方は振り返らずに応戦を始めた。それでいい、せめて自分の身ぐらいは守ってくれないと。
特殊な魔導回路の縫い込まれた髪留めを一つ、二つと外していく。合計八つに結い分けられた深緑色の髪を、四つまで解いてからレリィは闘気を発した。
呪縛を解かれた髪は翡翠色の輝きを放ち、ゆらりゆらりと光の帯を立ち昇らせていく。
久しぶりの感覚だ。全身に、溢れんばかりの気力と体力が漲ってきた。巨大な魔獣を目の前にしても負ける気がしない。
「勝てる」
何の気負いもなく、確信が持てた。
水晶棍を強く握り直し、闘気を込めて強化する。
「はぁあああっ!!」
気合いと共にそれまで体を預けていた木の幹を蹴る。蹴りつけられた樹木がしなり、へし折れるほどの反動でもって魔獣へと突撃した。
跳躍しながら水晶棍を振りかぶり、渾身の一撃を魔獣の顔面にめがけて叩きつける。
狙い通りに水晶棍の先端が魔獣の頭部を殴打すると、翠色の閃光が迸り、激しい衝突によって千切れんばかりに魔獣の首が伸びきる。
――ギュッ、ギュッ、ギュゥォオオオ――ッ!!
魔獣は不気味な雄叫びを上げると辺りを徘徊していた牛蜘蛛達が寄り集まり、一斉にレリィめがけて襲い掛かってくる。
「こいつが牛蜘蛛達を操っていたわけね! そういうことなら、わかりやすくていいよ!!」
飛び掛かってくる牛蜘蛛を、無数の爪と牙を、水晶棍で全て殴り飛ばす。これまでの戦闘とは桁違いに多い敵の数も、闘気をまとったレリィにとっては物の数ではない。雑草を刈り取るように、翠色の衝撃波でまとめて吹き飛ばす。水晶棍の一振りで牛蜘蛛達の脚は千切れ飛び、ばらばらに分解されて森の土へと還っていく。
「なにあれ……」
遠くでリスカの呟く声が聞こえる。彼女達に襲い掛かっていた牛蜘蛛も全部、こちらに殺到したのだろう。遠巻きに様子を見ているだけの余裕ができたようだ。
それならば、後はこのデカブツを退治するだけ。
闘気の出力を高める。翠色の闘気が体から迸り、解けた髪が縦横無尽に暴れ狂う。以前よりも体の動きが滑らかで、闘気の巡りもいい感じがする。最近の体術訓練が効いているのだろうか。自分の身体にどうやって闘気を回し、いかにして力へ変換すればいいか、繊細に、正確に、手に取るようにわかる。
次々と突き出される丸太のように太い魔獣の爪を、水晶棍でいなしながらレリィは間合いを詰めていく。魔獣は巨体を常に移動させながら、あらゆる角度より攻撃を仕掛けてくるが、そのことごとくを叩き伏せていった。
レリィには単純な攻撃が通用しないと悟ったのか、魔獣は十六本の脚を伸縮させると直上へと大きく跳躍した。木々の枝葉を折り散らし、闇夜の空へと巨躯を溶け込ませる。
頭上を仰いで、迎え撃とうとするレリィに向けて、透き通った無数の網が降り注ぐ。魔獣から放たれた蜘蛛の糸だろうか、その巨躯に相応しいだけの量で一瞬の内に森の一画が蜘蛛の巣だらけになる。
「ふぅん……魔獣になっても、やっぱり蜘蛛なんだ」
咄嗟に木陰へ隠れて蜘蛛の糸を回避したが、あちこちに粘り気のある糸が降り注いでいた。迂闊に動き回れば簡単に絡めとられて動きを封じられてしまうだろう。
広範囲に強力な行動阻害の罠を散布し、巨大な体躯と強靭な脚爪で獲物を狩る戦法は、魔獣の驚異的な戦闘能力を前提に考えれば全く無駄のない殺戮方法だ。
しかし、この魔獣の戦う手段はそれしかないようだった。後は精々、牛蜘蛛達を操ることくらい。クレストフから聞いた話では、魔獣の真の恐ろしさは知恵を持ち、魔導を行使することだという。
散布された蜘蛛の糸に何か仕掛けがあるかと退避したレリィだったが、すぐにそれが粘着性の蜘蛛の糸に過ぎないと見破っていた。この程度であれば、恐れるには足らず。魔獣にしては知恵に乏しく、魔導を行使する気配もない。
「さ、来てみればいい。あたしの元へ」
空より落下してくる魔獣。複数の赤い目玉がレリィを捉え、十六本の脚と三対の牙で襲い掛かってくる。随分と原始的な攻撃手段だ。もしも何の捻りもない攻撃なのだとしたら――。
「君はここで終わりだよ」
頭上から落下してくる魔獣に対して真正面から迎撃の体勢で構える。両手で握りしめた水晶棍が、闘気の集中を受けて翡翠色に光り輝く。
魔獣が十六本の脚をレリィめがけて突き出した瞬間に、大地を蹴り抜いて高く跳び上がり懐へと肉薄する。
一瞬、魔獣の赤い目玉と視線が合った。魔獣は三対の牙を開いて噛みつかんとするが、それよりも速くレリィの水晶棍が魔獣の首を捉えた。空気を震わせる衝撃音と翠色の波動が拡散して、魔獣の首が半ばから吹き飛ぶ。
体勢の傾いだ魔獣の背に水晶棍を振り下ろし、その巨躯を地面へと叩きつける。さらに横倒しになった魔獣の腹へ何度も水晶棍の打撃を打ち込み、鋼鉄のような外皮を抉り飛ばしていく。
――魔獣は並みの生物とは一線を画す生命力を有する。例え頭を潰しても安心するな。徹底的に破壊しつくせ、灰となって滅びるまで――
クレストフがレリィに教えてくれた魔獣への対処法。レリィはそれを忠実にこなす。
一切の容赦なく、一片の油断なく、敵が完全に滅び去るまで攻撃の手を緩めない。
――ずんっ、と一際深く魔獣の腹に水晶棍の先端が突き刺さった。
ざわりと魔獣の体から黒い靄が立ち昇り、周囲へと霧散する。と同時に、魔獣の脚が次々ともげ落ち、胴体も黒い灰となってぼろぼろと崩れ落ちていった。
崩れゆく魔獣の身体からは大小複数、暗赤色の十二面体結晶が転がり落ちる。
大地に結晶を幾つか遺し魔獣の巨躯は朽ち果てて、ついに滅び去った。
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