第233話 急ぎ足で手を引いて
「あの……先輩――じゃなかった、クレストフ先生」
「なんだ、別に無理して先生なんて呼ぶ必要はないぞ。ほんの数か月の臨時講師だからな」
次回の講義を行う準備でアカデメイアの研究棟を歩いていた俺に、学士ナタニアが声をかけてきた。
薄青い髪と、縁のない小さな鼻かけ眼鏡が特徴的な博士課程の女学生。アカデメイアへ来た初日に出会った彼女のことは、俺の記憶にも印象深く残っていた。
「本当にアカデメイアの講師になっていたんですね。驚きました。先輩の用事って、講師を引き受けることだったんですか?」
「用事は別にあるんだが、まあ無関係でもないな」
「……優秀な教員や学士を引き抜きに来た、って聞いていますけど?」
「なんだ、知っていたのか。噂になっているのか?」
「噂の一つ、ですね。でも、信憑性が高いのはそれかなと思いまして。少し、鎌をかけてみました」
悪気を感じさせない笑顔でナタニアはちゃっかり俺から情報を引き出していた。自然な会話の中から、うまく欲しい情報を引き出す姿勢は嫌いじゃない。価値のない世間話を延々としがちな若い学士達を思えば、今のやり取りは実に意味のある会話だ。
会話とは情報の交換だ。そして、話の内容で人を動かし誘導することもできる。いかに少ないエネルギー消費で、自分の思い通りに多くのものを動かすか。話術とは、そうした意味で魔導技術などよりもよほど効率的な呪詛なのだ。ここは一つ、ナタニアへ情報を与える代わりに少しばかり働いてもらうとしよう。
「ところでナタニア、来週に実験を交えた講義を行う予定なんだが、助手として実験の手伝いをやってもらえないか? 労働時間に応じた給金がアカデメイアから出るほか、俺からも個人的に報酬を出すつもりだ。ついでに、アリエルのやつを誘ってくれると助かる」
「ついで、ですか?」
「むしろ本命とも言う」
「ふふっ、正直ですね、先輩は。……わかりました、うまく誘ってみます。たぶん、報酬に釣られてくれると思いますから」
俺の本音を聞いても笑って流すナタニア。肝が据わっているというか、答えを予想していたのか、いずれにしろ友人を引き込むことに抵抗はないようだ。
「そう簡単に釣られるかね? 講義の担当が俺だとわかっても」
「お金が絡むなら、アリエルは感情より打算が優先しますよ」
「……守銭奴なのか? そうは見えなかったが」
「単純に貧乏なんです、あの子。あ、悪口とかじゃないですからね、本当に日々困窮しているというか……。働くのは好きじゃないんですけど、割のいい仕事を紹介してくれ、とはいつも言われているんです」
「……意外だな」
「意外、ですか? やっぱり、そう思いますよね。あの子、態度は大貴族みたいですから」
「いや、意外なのは君だ、ナタニア。まさか、アリエルの個人的なことを俺に教えてくれるとは思っていなかった」
「――――」
俺の素直な感想に、ナタニアは不意を突かれたように言葉を失った。しかし、その表情からうかがえるのは罪悪感とか開き直りではなく、ただ自分でも意外なことに気が付いた、という表情だった。わずかな沈黙の後に、ナタニアは小さく口元を綻ばせた。
「たぶん、先輩にアリエルのことを知ってもらいたかったから、ですね。普段なら、他人に親友の個人的な事情なんて話したりしませんよ」
「それは俺が信頼されている、と見てもいいのか」
「もちろん信頼していますよ、先輩のこと」
真面目なだけの性格かと思っていたが、ナタニアは意外と強かな心の持ち主であるようだ。信頼という言葉の裏に、いい加減なことは許さないという含みが感じられる。
「アリエルにとって悪いようにはしないさ。そこは信頼してもらっていい。じゃあ……来週から講義の手伝いを頼む。可能ならアリエルにも次回から参加してもらいたい。日当は、俺から出す報酬分は当日の講義終了後に渡す」
「当日に現金支給ですか? それなら間違いなくアリエルも誘えると思います。あの子、来週はパンの耳が主食になりそうだって愚痴をこぼしていましたから……」
「そこまでかよ……。何でそんなに貧しいんだ、あいつは?」
「それは……。色々、あるんです。アリエルにも事情が……」
先ほどまでの話の続き、ほんの軽い気持ちで尋ねた質問だったが、今度ばかりはナタニアも言葉を濁した。
これ以上は、俺が軽々しく踏み込んでいい事情ではないのだろう。それ以上の追及はせずナタニアと別れた。
ムンディ教授にアリエルの指導を任されたが、どこまで踏み込んで、何を彼女にしてやればいいのか。単純に学士として育て上げるだけでいいのか、考えを改め直す必要があるのかもしれない。
「真に不本意ではありますが、破格な労働の対価に目をつぶって、あなたの講義に協力しましょう。ですが勘違いしないでください。私はナタニアに頼まれ、アカデメイアの正式な講義の補助として手伝うのです。決してあなたの個人的な指導を受け入れたわけではありません。例えムンディ老師がそれを望んでいようとも、信用できない人間に自分の将来を預けるつもりはありません。ましてや老師を死地へと連れ出そうなどという
「はいはい、そこまでねアリエル。もうすぐ講義が始まってしまうから、準備を進めないと」
講義の開始時間が迫るなか、改めて顔合わせをしていた俺とナタニア、そしてアリエルの三人であったが、開口一番にアリエルからつらつらと文句を浴びせかけられてしまった。信用がないのは会って間もないこともあり仕方ないとして、ここまで邪険にすることはないだろうに。やはり、ムンディ教授を旅に連れ出そうというのが、彼女にとって許しがたいのだろうか。
「言いたいことは沢山あるんだろうが、今日はとりあえず協力的に頼む。とは言っても、今回はナタニアとアリエルには学士達が危険行為をしないか、俺の目が行き届かないところに注意をしてもらうぐらいだ」
「危険行為って……先輩、どんな実験をやるつもりなんですか?」
「別に怪我をするほどの危険なことをやるわけではない。ただ、俺の指示と違ったことを始める学士がいないか気を付けてほしいということだ」
「自らの指導能力の不足を他人の目に頼ろうというのですね。いいでしょう。あなたの危ない教育指導の毒牙に、若い女学生が被害を受けないよう監視していましょう」
「お前は一々、俺に突っかからないと気が済まんのか……?」
何かにつけて毒舌を発揮するアリエルには呆れてしまうが、もはや気にするだけ無駄なのかもしれない。まともに聞いていたら疲れてしまうし、一向に話が進まない。
「それで先輩、今日の講義内容はどんな感じですか?」
話がなかなか進まないことをナタニアも感じ取っているようで、うまい具合にアリエルを宥めながら本題へと誘導する。まったくもって、よくできた娘である。
「今日は身に着けた知識の実践。基礎の基礎、召喚術の行使だな。既に学士達が情報を得ている世界座標から、幾つか決まりきったものを各々に召喚してもらう。その流れで、
「ちょ、ちょっと待ってください! 先輩、それ今日の講義でやる内容ですか!?」
「ん? そのつもりでいるが? 何か問題あるのか?」
慌てて問いただしてきたナタニアは俺の返事を聞いて言葉を失ってしまった。同時に、溜め息を吐き出したアリエルが心底から人を見下したような視線で俺を流し見る。
「馬鹿ですか、あなたは。アカデメイアに入学したばかりの学士に、いきなり術式の行使をさせるなど。まずは前期で基本課程の講義を一通り受けさせてから、その後に後期で召喚術の基礎理論を教えた上で、視界にある物品の場所移動によって召喚の意味を理解させ、限られた範囲で術式の行使をさせる。これが通常の教育課程ですよ? 一体、どれだけの過程をすっ飛ばしているんですか」
「なるほど。確かに目の前のものを場所移動させて、召喚の意味合いを視覚的に理解させるのは重要だな。どこかにある物を持ってくるのが召喚術、それはまず理解すべき原則だ。しかし、それは四半刻とかからない内容だ。『
ナタニアとアリエルがそろって顔を見合わせる。どうにもまだ俺の言っていることが二人には伝わっていないらしい。
「ですから先輩、まずは基本課程の講義を済ませてからでないと……」
「なんだ、そのことを心配していたのか? だったら問題ない。前回の講義で基本課程の基礎知識はすべて学習済みだ」
「学習済みってそんなわけがないでしょう。まさか、教科書を流し読みして終わらせたのですか?」
「まあ、流し読みといえば、そうとも言えるな」
馬鹿にした口調でアリエルは小さく鼻を鳴らす。たぶん俺のことを煽っているつもりなのだろうが、正直言ってアリエルが行うその仕草は可愛らしく微笑ましいだけだ。物を覚えたばかりの子供が自慢げにその知識を披露している時のような――あ、いや違うな、知ったかぶりのドヤ顔みたいで、やっぱむかつくなこれは。
「ま、お前らの心配はよくわかった。それなら講義の復習も兼ねて、魔導の基礎理論について学士達に尋ねる時間を半刻ほどくれてやる。二人で好きなだけ確認の質問を学士にしてみるといい」
「本気で言っているのですか? そこまで言うなら確認させてもらいますが、基礎知識が身についていなければ、一からきちんと基本課程に沿った講義をやってもらいますよ。いい加減な講義をされては学士達がかわいそうです」
「すいません、先輩。私も信じられないので、ここはしっかり確認させてもらいますね」
ナタニアまで俺の言うことを疑うとは、実に嘆かわしい。これもアカデメイアにおける昨今のゆとり教育の弊害か。いや、この頭の固さはむしろ低水準の詰め込み教育による弊害かもしれない。
「やれやれ、これではムンディ教授が研究室の後を任せられないと言うのも頷けるな……」
ぼそりとこぼした俺の独り言に、アリエルが顔を真っ赤にして拳を振り上げていたが、ナタニアに羽交い絞めにされて冷静になるまで廊下へと引きずり出されていた。
かくして、ナタニアとアリエルの博士課程学士による、学部生学士達への基本課程の知識に関する問答が講義の初めに行われていた。
「では、最前列にいる金髪のあなた。まず初めに魔導媒介学における基本概念となる、魔導因子の定義を簡潔に説明してみてください」
「はい。魔導因子の本質は『想像から生み出される波動であり、この世ではないどこかに繋がるもの』とされています」
ナタニアから発せられた問いに、指名された学士ブリジットが起立して返答する。先週は鼻血を出して醜態をさらしていた彼女だが、今日のような一問一答形式のやり取りは慣れているようだ。叩き込まれた知識を披露するだけなら、関連書籍を棒読みするのと大差ないのだが、ここはナタニアとアリエルを納得させるためにも黙っていよう。
「続けて、詳細の説明を」
「魔導因子は高等生物の脳、特に想像力豊かな人類種の脳から生成されやすく、これを魔導回路に流すことによって、異界から魔力を効率よく取り出すことができます。魔力とは魔導因子の渦から発生する現象で、これは天然の魔導回路である魔眼保持者や幻想種の存在構造を解き明かす過程で発見されました。すなわち魔導因子とは現世と異界を繋ぐ門となり、現世より高いエネルギー状態にある異界から、魔力あるいは新たな魔導因子そのものを引き込む呼び水となるものです。魔導因子の詳細に関しては多くの文献で説明がなされていますが、現代の理解に最も近い形で説明した最初の論文は、プレスコ・ハミルトンによる著書『魔導媒介現象における素因子の役割』に記されています」
ナタニアの質問に淀みなく答えるブリジット。おおむね正解ではあるが、教科書の説明そのままなので俺がついでに補足説明してやる。
「一般に言われる『魔導因子の呼び水理論』だな。要するに、魔導因子の渦によって現世と異界の間に魔力の流れを作ってやると、異界に存在するエネルギーが現世へ漏れ出してくる。異界は現世よりも高いエネルギーを保有しているから、一度、魔力が流れ出せばエネルギーの高低差で継続して魔力が流れ続ける。極めて小さな消費エネルギーで、膨大な力が発生する理屈がこれだ。もっとも、小さな流れだと放っておけば世界の復元力による抵抗が働いて流れは止まってしまう。それゆえに継続して術式を行使する場合には、少量とはいえ常に魔導因子を供給して流れを保ってやる必要があるわけだ。魔導因子そのものの研究に関しては、なぜ人間のような高等生物の脳から魔導因子が生成されるのか、原理的なことはかなり解明が進んでいるものの、未だに論争が続いている部分もある。だがそれは『この世界が何故、存在するのか』などと言った根源的な意味追及に等しい論争であり、理由はあっても意味はない、というのが現在の暫定的な答えだと言っておこう」
俺の補足説明に関しては、既に基本課程の知識を得ている学士達にも新しい情報と思われたのか、ここまで板書の書き写しをしていなかった彼らも自分の手帳に書き込んだりしていた。
「講師クレストフ、今は学士達に答えさせる時間なので、補足説明は控えめにお願いします」
つい口を出してしまった俺に対して、アリエルの淡々とした注意が飛ぶ。学士の知識を確認するため半刻の質問時間をやると言った手前、俺の口出しは確かに反則だ。軽く肩をすくめると、もう口出しはしない、とアリエルに動作で伝えて次の質問を促した。
「では、私からも問いを。物力召喚における魔力の働きとは何か。召喚によって物体が移動する原理も含めて回答をしてください。一番後ろで眠そうな顔をしている、頭に剃り込みの入ったあなた。そう、あなたですよ」
後ろの席で眠そうに頭を揺らしていた学士。魔導学部には珍しい男子学生であるが、外見からして目立つ人物だ。一体、いつの時代の
周囲の学士と比較すれば派手な格好だが、宝石の装飾品を全身に着けている俺からすれば、特殊な髪型が気になる程度で大したことはない。色合いの
「え、物力召喚っすか? そっすねー、魔力との関係ねー。あー、ちっと待ってくれる? ほら、教わったけどさ、俺、馬鹿だから思い出すのに時間かかるんすよ。人に説明すんのも慣れてねーし」
「十秒以内に考えをまとめて、説明を始めてください」
「えぇ? アリエル先輩、可愛い顔してキツイっすよ。いや、ほんと俺、ちゃんと覚えてるってば」
貴族の次男坊、という見立ては間違いだったろうか。かなり礼儀のなってない口調と態度で頭の鶏冠を揺らしながら、のらりくらりとアリエルの質問に対する回答を引き延ばしている。
アリエルは今にもブチ切れそうな顔でこめかみを引くつかせている。俺も少し不安になってきた。
それでもようやく考えがまとまったのか、鶏冠頭の学士は独特の口調で説明を始めた。
「そもそも物力召喚がっすねぇ、魔力の特性っつーの? んー、そういうの利用してるんすわぁ。で、まず、物をエネルギーと情報に分解するんすよ、魔力で。それが魔力のすげーとこ、魔力って物質を分解できるんすよね。そしたら一度、異界に落とすっつーんですかね。ほら、異界って基本、エネルギーと情報だけの世界? なんだそれ、って感じだけど、ま、異界だし。だからぁ、その分解された状態で物を異界に落とすと、距離感とか無視してっすね、なんてーのか位置の情報? あ、座標? そうそ、世界座標って言ったっけ! 行けって決めた場所に、物を送れるんすよ、一瞬で。あ、ばらばらになったやつは、基本、送った先で元に戻るっす。元の形に戻ろうっていう復元力ぅ……だよな? それが自然に働くとか。ちなみに召喚も、送還もぉ、原理は同じっすね。方向が違うだけ。だから魔力あっての物力召喚っていうわけ。うわ、マジすげっ! 俺、何でこんなこと知ってんだ?」
自分で説明して自分で驚いている鶏冠頭を見ながら、アリエルは額を押さえて天井を仰ぎ、唇を噛みしめて沈痛な表情を浮かべている。頭の痛くなるような口調での説明だったが、言っていることは間違ってない。異界法則の現出である魔力にも様々な種類があって、物質をエネルギーと情報に分解する力以外にも存在するのだが、その辺りの話は別の機会で説明することになるだろう。現時点では、ここまでの理解で十分だ。
「……い、いいでしょう。一応、理解はできているようですね」
「マジ!? 俺、正解した!? 本当かよ、クレストフ先生の教え方、半ぱねぇな!! 学校の授業で教わったこと、まともに思い出せたの今回が初めてだぜっ!?」
「本当に理解しているのでしょうね!? あなたは!?」
「アリエル!! 落ち着いて! 言いたい気持ちはわかるけど、冷静に!!」
こうして、半刻を少し過ぎる時間をかけてナタニアとアリエルが納得するまで質問は続けられ、一通り学士達に質問が済んだ時点で二人も認めざるを得なくなった。今、この教室にいる学士達は、座学においては間違いなく六級術士並みの知識を得ているのだということを。
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