第232話 教科書は魔導書
「それで、今日から本格的に先生としてお仕事するの?」
「そうだ。とは言っても、一日に二時限までだけどな。昼には仕事を終えてゲストハウスに戻ってくる。それまでは大人しくしていろ」
「はぁ~……やることないし、暇なんだけどなー」
朝、講義へと向かう前にベッドの上で寝転がるレリィに今日の予定を伝えておく。ここ一週間は俺が講義の為の準備で忙しくしていたので、簡単な手伝いもやらせていたのだが、準備が済んでしまうと途端にレリィはやることがなくなってしまった。今も朝食を済ませた後は二度寝に入ろうと、生地の薄いホットパンツに丈の短いチューブトップの寝間着姿で掛布をかぶってごろごろしている。
「そんなこと言って俺が図書館から借りてきてやった本は一冊も読まないだろうが」
「だって、クレスが持ってくる本、全部難しいんだもの」
アカデメイアの中央図書館は莫大な蔵書量を誇っているが、その多くは研究のための参考書である。たまに娯楽小説の類もあるのだが、それですらレリィは難しいとごねるため、本で時間を潰すということができない彼女は、ただひたすらに暇を持て余していた。
「とりあえず体動かして鍛錬でもしてようかな……。何もしないよりはましだから」
「そうしておけ。広々とした敷地はあるし、他人の迷惑にならない程度なら体を動かしていても構わないだろう」
「うん! 決めた、そうする!」
「よし、じゃあ俺はもう行くからな。講義から戻ってきたら一緒に昼食だ。飯のついでに今後の打ち合わせをしておこう。そろそろアリエルの指導方針も具体的に考えないといけないからな。お前も案を出せよ」
「うぇー。だからあたしはそういうの考えるの苦手なんだって!」
「それでも年頃の娘の気持ちくらいは俺よりわかるだろう。何か考えておけ」
文句を垂れるレリィに言い捨てて、俺はアカデメイアの講義棟へと向かうのだった。
一時限目の鐘が鳴り響き、二十余名の学士が集まった教室で俺は教壇に立った。
(……最初の講義から人数が減っているな。まあ別にそれでもいい。やる気のない奴は邪魔なだけだ……)
「全員、指定の参考書は購入してきたか? 持っていない者は今日の講義は受けられない。直ちに退室するように」
一応の確認として参考書の有無を尋ねてみたが、さすがに忘れてきた者はいないようだった。
「よし、まだ本は開くなよ。と言っても、鍵をかけてあるから事前に開けてきた者もいないだろうが」
俺も見本として持ってきた一冊の本。学士達の持っているものと同じそれは、頑丈な金属製の帯が巻かれ、錠が取り付けられている。
「あの……講師クレストフ。本に鍵がかかっていて内容の予習をできなかったのですが……」
おずおずと遠慮がちに発言したのは、最初の講義でも俺に質問してきた金髪セミロングの女学生だ。最前列の席に座っており、いかにも真面目な学士と言った印象で、予習できなかったことに不満を感じているらしい。
「本を開くための鍵は俺が持っているからな。予習しようという意気は買うが、俺の講義では予習も復習も不要だ。すべてこの講義の中で学べばいい。さて、本を開く前に事前の講義を行っておく。理解不十分なまま、この本を開くのは危険だからな」
「はぁ……?」
危険という言葉の意味が全く理解できていない様子で首を傾げる学士達。納得いかないまでもそれ以上の質問は時間の無駄と考えたのか、教室の学士達は静まり返って次の俺の言葉を待つ。
「最初の講義で確認したことだが、諸君らはまだ魔導技術の基礎すら修得できていない現状だ。個人差はあるが、俺からして見れば全員大差ないと言える。本来はアカデメイアの基本課程で一年かけて基礎を学んでいくらしいが、今の時世に時間をかけて板書した内容を写すだけの作業など無意味だ。だらだらと知識の詰め込みをしているくらいなら、他にやるべきことはいくらでもある」
ざわめきが教室内に充満する。一々、俺の話すことに動揺しているようでは先が思いやられる。
「もう一度言うが、知識の詰め込みなど無駄だ。最低限の知識は持っておく必要もあるが、大抵の事柄についてはその都度、書籍で調べれば済むことだからだ。それよりも重要なのはむしろ、迅速な情報検索能力、情報の比較および取捨選択能力、そしてそれらの情報を正確に実践する方法論と技能だ!」
徐々に説明に力が入ってきて、思わず机の上の本を手の平で叩く。
「まず諸君らには、その最低限度の基礎知識を頭に叩き込んでもらう。基礎で足りない知識が必要になったら関連書籍を探す、その為の情報も同時にな」
「では、やはりこの講義では基本課程を学ぶのですか?」
また金髪セミロングの学士が質問をしてくる。この学士は教室内の代表か何かなのだろうか。そんな取り決めはないはずだが、質問してくるのがこの学士だけというのは、あまり良い傾向ではない。疑問に思ってもその場で質問をしない他の学士が悪いのだが、特定の人間が質問時間を一人占めしてしまうと講義内容が偏ってしまう。
とはいえ、彼女の質問はおおむね教室内の学士達が共通に抱く疑問のようだ。今は素直に答えてやるのが最善だろう。
「無論、基礎を軽視しているわけではない。当然、基礎課程の修得は行う。だが、それは本日の講義に限る。この一時限で全て覚えてもらう」
再び、教室内のざわめきが強まった。そこかしこから「無理でしょ」「それこそ詰め込みだし」「意味わからない」と声が上がる。
と、ここらが我慢の限界だったのか、最前列に座っていた金髪質問学士が勢いよく立ち上がる。
「横暴です! 講師クレストフ、あなたの教育方針は極端すぎる! 持論を話すのは結構ですが、私達はきちんとしたアカデメイアの講義を受けたいのです! 基本課程に則った講義を! それをたった一日で済ませてしまおうなどと、手抜きにもほどがあります!」
怒りの形相で声を荒げる金髪学士。その発言は教室にいる学士の総意でもあるようで、抗議に口を差し挟む者はいなかった。それどころか納得顔で頷いていたりする。
まったく、これは酷い。ここまで保守的な学習態度を身に着けさせてしまった高等教育は罪深い。
「まだ、理解が足りていないようだな。君、所属と名前は? 何級の術士だったか?」
「私は魔導学部・魔導現象学科に所属しているブリジット・デ・ロレンツィです。術士等級は八級です」
自分の名前を言うときに、一瞬だが強い自信のようなものが垣間見える。俺は知らないが、それなりに有力な貴族の子女だったりするのかもしれない。よく見れば、控えめながら高価な装飾品を身に着けている。この教室内では八級術士も少ないし、そうした背景なら発言力が強いのも頷ける。貴族の入学枠は低能ばかりと思っていただけに意外ではあったが、それでも所詮は八級の術士だ。
「そうか、俺は一級術士だ。君はアカデメイアに一人しかいない一級術士の講義を、基本課程とやらにこだわって聞かないことにするのか?」
「――え? 一級術士?」
静まり返る教室。ブリジットは目を白黒させて、自分の耳を軽く引っ張ってみたりしている。困惑が窺える可愛らしい仕草だが、すぐに我を取り戻したのか厳しい顔つきになって言い返してくる。
「ひ、非常勤講師の人が一級術士なわけ、ないでしょう! 教授職でもないのに……」
「何故そう思う? 一級術士は暇ではないから、常勤で教えることができないだけだぞ。ちなみに、俺はこの講義を三ヶ月で終わらせる予定だ。ああ、単位は他の選択必修科目と同じだけ換算されるから、心配はいらない」
「で、でも、普通は非常勤講師なんて、助教の方などがやるものでしょう?」
「確かに教授職を目指す人間が就くことは多いが、俺の場合は教職に就くつもりもないからな。そもそもベアード学院長に頼まれたから、自分の貴重な時間を割いて学士に講義しているだけだ。君らが不要な講義だと言うなら、俺も無理にやる必要はなくなるな」
「そ、それは困ります! 既に、選択必修科目として取っているのですから!」
「最初の講義でも伝えたはずだ。諸君らには六級術士の資格取得を目指してもらう、と」
「……それは……まさか、本気なのですか? それぐらいの意気込みで勉学に励めと言ったのかと……」
どうにも理解が足りないと思ったら、最初の講義で言ったことが冗談だと伝わっていたようだ。実に目標設定が低い。
「学士ブリジット、理解できたかな。俺は本気だ。そして、そのための教本が君達の手元にある」
学士達が机の上に置いた本を指さして、俺は本の施錠を開ける鍵を取り出した。
「そいつはただの教本ではない。俺が創った魔導書『
「こ、この一冊にそんな情報量が!?」
鍵で施錠された魔導書には、分厚く固い金属製の表紙に複雑な魔導回路が刻み込まれ、中心部には一個の水晶が埋め込まれている。この水晶内部にも緻密な魔導回路が刻まれており、表紙の魔導回路と接続されている。
「そろそろ理解できたかな、この講義の主旨が。これより、『
いまだ困惑の表情が拭いきれない学士達を前に、俺は一人一人の魔導書に鍵を差し込み解錠していく。
「では魔導書の表紙、水晶に魔導因子を流す用意を。……念のため聞いておくが、外部に魔導因子を流す
基板に刻まれた魔導回路へ魔導因子を流して術式を起動する魔導具などを扱うには、脳から発生する魔導因子を外部へ出力するための導通経路が必要なのは常識だ。通常は指先に簡単な手術を施すもので、術士として働いていない一般人にもそれなりに利用されている。
さすがに魔導学部だけあって、導通経路を持たない者はいなかった。もしもいたら、表紙の水晶に魔蔵結晶を追加で取り付けて魔導因子の補助をしてやらなければいけなかったが、その心配は杞憂に終わったようだ。
「よし、準備はいいな。ゆっくりと魔導因子の流す量を増やしていけ」
「ま、待ってください! これ、この魔導書は何ですか? どういった効果が……」
「また君か、ブリジット。わざわざ質問をするようなことか? 俺は言ったはずだぞ、『知識の定着作業』だと。さあ、今だけは何も考えずに無心となって受け入れろ。抵抗する意思があると余計な負荷がかかる」
「そんなこと言ったって……ああもう、何かあったら責任取ってもらいますから……!」
「急ぐ必要はないが講義の時間にも限りがある。つまらん心配をして躊躇っている暇はないぞ」
文句を言い続けるブリジットを無視して、俺は学士達に魔導書の起動を促した。
「魔導因子を流して、表紙の回路全体に光が灯れば十分だ。後は、とにかく無心になれ。魔力の流れに身を任せるんだ。さあ、やれ!!」
号令を受けて、学士達が魔導書の回路に魔導因子を流し始める。次々と魔導書の回路に淡い光が灯り、教室全体が白い発光で満たされる。
魔導書が起動して、刻まれた術式が効果を発揮し始めた。バラバラと魔導書のページがめくれて虹色に光り輝く文字が飛び出し、学士達の眼球に次々と吸い込まれていく。
「わっ……あ、ああっ……」
「これは、これはっ……!?」
「文字、文字が……頭に直接……?」
――魔導書『
表紙の回路へ魔導因子を流した人間に対し、術士等級で第六級相当となる知識を自動的に直接脳内へ焼き付ける呪詛を発動する魔導書である。
知識の詰め込み教育を無駄と断ずる一級術士クレストフは、基礎知識の暗記に費やす時間と労力を極力減らすと共に、情報検索能力の強化を一度に行うことができる教育用の魔導書として『
知識詰め込みで資格取得の為だけの勉強と捉えられがちだが、重要な基礎だけ一通り押さえることができるので、学習内容としては無駄がないのだ。細かい部分に関しては丸暗記しておく必要はなく、その都度の情報検索で補えばよい。そのための目録機能でもある。
ただ、これだけでは知識のみの頭でっかちになってしまうので、今後の講義はより実践的な内容として、魔導回路の製作と操作といった実技習得が必須となってくる。知識を活かして実際に物作りの経験を深めるには、どうしても長時間の訓練が必要だ。教科書に載っているだけの内容を暗記するのに時間をかけている暇などない。
「四半時経過……約半分の工程か。順調だな」
魔導書による知識の定着は順調に進んでいた。学士達にやや疲れが見え始めてはいるが、若いので体力もあるし大丈夫だろう。
「うあ、あああ……はぁ、はぁ……」
「ここ、ここここ……れれ……?」
「もももももももももも……!?」
幾人か涎を垂らしていたり、目が血走っている者もいたが、まだまだいけるだろう。
ただ、一人だけやけに苦しそうな顔をしている者がいた。
「は、はひっ、はぐぅううっ……。はぁっ、はっ! ふぐぅううっ……!」
白目を剥いた目からは涙を、口から涎と荒い呼気を、それでも必死に意識を保って魔導書からの知識の奔流に耐えている。
学士ブリジットだ。
「ブリジット、意識的に抵抗するな。魔導書を受け入れろ。そうでないと転写の負荷が大きくなってしまう」
「はっ、はひっ! や、やや、やって、やです!!」
「何を言っているんだ? とにかく、無心になれ。下手に意地を張るから、きつくなるんだ」
「ひぃいっ……!? ひぃ……!?」
とても年頃の女子がするべきでないぐしゃぐしゃの表情で、ブリジットは必死に魔導書へしがみついている。ちなみに、この魔導書は呪詛を発動すると知識の転写が全て完了するまでは停止することがない。中途半端な状態で術式を止めてしまうと誤った情報が脳内に刷り込まれてしまう恐れがあるからだ。仮に、転写に失敗した場合には一度、転写した情報を消去する機能も魔導書に搭載されているが、脳への損傷を与えないように慎重な術式運用となるので時間は転写の時の倍かかる。
「途中でやめて失敗すると、やり直しが面倒だからな。頑張って一発で転写を成功させろー」
「ひぎぃいぃっ……!?」
金髪を振り乱し、もはや人の声とは思えない呻きを漏らすブリジット。あ、鼻血でてる。
……たぶん、脳の酷使により、のぼせて血流が良くなり、鼻の粘膜にある毛細血管から出血しただけだ。危険はないと思う。
こうして一刻の時が過ぎ、本日の講義は終了した。本当は二時限目に知識がきちんと定着しているか試験を行う予定だったのだが、全員が力尽きてしまったので残りの時間は休講として、俺は一人静かに教室を去るのだった。
三時限目の講義が始まる時間帯、自分の研究室に向かっていた学士ナタニアは、通りがかった教室が何やら騒がしいことに気が付いた。
(……これはいったい、何が起きたのかしら?)
鼻にかけた縁なし眼鏡の位置を、くいっと直して騒ぎの様子を注意深く観察する。
次の講義が始まろうという時間にも関わらず、廊下に学士達があふれかえっており、教室に入ることができないでいるようだ。
おそらくは前の講義が長引いているとか、そんなところか。しかし、昼休憩を挟んでいるのにな、と不審に思いながら通り過ぎようとしたところ、ちらりと視界に入った教室の中の光景にぎょっとする。多くの学士達が机に突っ伏すようにして倒れ込み、死屍累々といったありさまだったのだ。
いよいよ教室の中の異変に気が付いた次の講義の出席者達が、倒れ伏した学士達を廊下に運び出して介抱を始めた。
介抱される学士の何人かは鼻血を出している。まだ入学一、二年目くらいの学士だろうか、あどけない顔をした女学生が鼻から血を垂れ流している姿は痛ましい……と同時に、なんだか現実味がなくて滑稽にも見えた。
(暴力事件とかじゃない感じ……外傷は見当たらないし、服も乱れていない……)
腑に落ちない点は多々あったが、既に状況は解決に向かっているようなのでナタニアはとりあえず邪魔にならないように、その場を離れることにした。ナタニアとてやることがたくさんあって、暇ではないのだ。野次馬としていつまでも様子を見ているわけにもいかない。ただ去り際に、近くにいた学士達の話が耳に入ってきた。
「……それにしても何なんだ、あの臨時講師……」
「クレストフとか言ったっけ? あの若い講師……」
「むちゃくちゃよ、倒れるまで続けるなんて」
「どんな講義をしたらこんな事態になるの……?」
――クレストフ。その名前が出た瞬間にナタニアは足を止めた。
驚くべきことは幾つもある。つい先日、偶然に旅の帰着でアカデメイアへの道を一緒に歩いた高名なる錬金術士。彼はアカデメイアに用事があって来たと言っていたが、学士達の噂話からすると、どうやら臨時講師となっているらしい。忙しくてまだ再度の挨拶に行くことができないでいたナタニアはそのことを知らなかった。
アカデメイアでは最初に自分が会って案内をした人物なのに、いつの間にか情報の流れに遅れていたことがひどく悔しかった。そうして廊下の噂話に聞き耳を立てている内に入ってくる新たな情報は、彼女をさらに驚かす内容だ。クレストフの講義中に学士達が次々と鼻血を出してぶっ倒れるという事態が起きたらしい。
暴力事件かと思いきやそうではない。倒れた学士達もほどなくして起き上がると不気味なほどに満足げな顔で、恍惚とした表情に強い光を宿した瞳をしていた。彼らは口をそろえて、講義が少し『白熱』しただけだ、と説明している。
噂話でクレストフの悪口を言っているのは、三時限目の講義にやってきた学士達と教職員だ。当の倒れた本人達は特にクレストフを悪く言っている様子はない。むしろこれは――。
(……心酔している、のかしら。ちょっと気持ち悪いくらい……)
ふらふらとした足取りで、鼻血もろくに拭かず立ち去る学士もいる。彼らは皆、講義で配られたのであろう一冊の参考書を大事そうに抱えていた。その書籍にナタニアは言い知れぬ悪寒を感じて、自身の持つ花柄カバーの本をぎゅっと掻き抱いた。
(本当に、何が起こっているの……?)
何か予想のできない、恐るべき事態がアカデメイアに起ころうとしていた。
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