第231話 変革の兆し


 ――アリエルの指導に当たってほしい。

 ムンディの依頼は要するに、自分が研究室を抜けて戻らなかったとしても残されたアリエルが無事に博士課程を修了して、本人にその気があれば研究を丸ごと受け継いでほしいという願いだった。ムンディ教授も普段の指導には当たるものの、それだけでは順調にいってもあと二年はかかるとの話だ。俺もそこまで長期間は待つことができない。なんとか俺の手でアリエルの教育期間を短縮しなければならなくなった。

 引き受けることにはしたものの問題はアリエルが俺の指導を素直に受けるとは思えないことだ。正攻法では難しいだろう。ムンディもその辺りは理解しているようで、手段や過程は問わないので結果を出してほしいと言われた。


 俺は一級術士の魔導技術連盟所属員に対する監査権限を行使して、アカデメイアの教学課から取り寄せたアリエルの履歴書を片手に、彼女の指導方針を考えてみる。

(……最初は、直接的な指導は避けるべきだな。重要なのは本人の実力向上と自立心育成。額面通りの指導というわけにはいかない。そういうふうに仕向ける必要がある……)

 まずは自然な形でアリエルと近しい関係を構築しなければならない。もう一枚、アリエルと特別に親しい関係にある女学生ナタニアの履歴書にも目を通しながら対策を練る。

(……うん? ナタニアは……そうか、あの研究室に所属していたのか……。そうするとあまり、積極的に協力を要請するのは気が引けるな……。しかし、アリエルを懐柔するには一番の人材でもある……)


「どうしたものかな……」

「ムンディ教授のお願い事、難しそう?」

 ゲストハウスの休憩室でくつろぐレリィが、大きなソファの上で転がりながらまるで他人事のように尋ねてくる。

「はっきりとした正解は見えてこないな。気難しい女学生を信用させて、あれこれ教え込む方法でもあればいいが」

「やらしい……」

「…………おい。俺は真剣にアリエルのやつを育てる方法について考えているんだぞ?」

「ますます、いやらしい!」

「なんでそうなる!?」


 俺の言葉をどう解釈したのか、レリィは俺がアリエルを手籠めにしようと画策しているようにとらえたようだ。

「いや~だって、クレスの言い方があまりにも卑猥な感じに聞こえたから」

「だいたいお前もあの交渉の場に居たんだから、アリエルを指導しなくちゃならんことは知っているだろ。たまには何か知恵を出せ、知恵を」

「あたしにそういうの求める~? うーん、とりあえずクレスが先生になるってことだよね。だったらほら、以前にあたしが騎士になる勉強をしたときみたいに、あまり深く干渉せずに手助けするのがいいんじゃない? アリエルってクレスのこと毛嫌いしてるみたいだからさ」


「あの時はお前にやる気と動機があったから、簡単な手助けで済んだわけだが……。そもそもアリエルが俺の助けを必要としているのかも疑問だ。彼女からしたら、俺が諦めてアカデメイアを去るのが一番波風立たない穏便な結末だからな」

「そっかー……そうなると、あたしの時みたいに勉強しなくちゃならない状況に追い込むとか? 現実を突きつけて将来の不安を煽るとか、逆に希望にあふれた夢を見させるとか、貧乏学生ならお金で釣るとかもありかな? ほら、あの子、パン屋で仕事もしてたし、自分で学費を稼いだりしているのかも」

「お前も随分えげつないことを考えるようになったな……」

「知恵を出せって言ったのクレスだからね!? それに全部、クレスがあたし相手にやったようなことだからね!?」

「そうだったか? ……まあいい、俺も同じことを考えていたのは確かだ。問題は何をもって追い込むか。もう少しアリエルについて身辺調査をしながら考えるか」


 思えばアカデメイアへ来て一日で色々と話が進んだ。この辺りで一度、情報を整理しながら次の手をゆっくり考えるべきかもしれない。気持ちははやるが、焦ってここまでのお膳立てを台無しにしては意味がない。幸にして、まず何をするべきかレリィとの会話の中で少しばかり見えてきたところもある。

「明日、朝から早速動くぞ。今日は旅の疲れもある、もう休むことにしよう」

「夕飯は?」

「……あぁ、色々あって空腹も忘れていたな。食事はとっておこう。一階に食堂がある。この時間ならまだ開いているはずだ」

「やったー! なぁんか緊張で息つく暇もなかったから、やぁっと落ち着いて食事できるー」

 それなりに気を張っていたらしいレリィに、俺も共感を覚えた。今だけは気を緩めて、明日からまた本格的に動くとしよう。なんとしてもムンディ教授を引き入れる。そのために打てる手は最善を尽くして試すのだ。あらゆる手段を考えて――。



 とりあえず一晩考えて外堀から埋めていくことにした俺は、ひとまずアカデメイアにおける俺自身の立場をはっきりさせることにした。いつまでも部外者として学院内をうろつくのは体裁が悪いし、アリエルの指導へ当たるにもそのままでは色々と動きにくい。

「……と、まあムンディ教授との交渉内容を要約するとそういうわけで、形だけでもアカデメイアに講師としての立場を認めて頂きたい」

「なるほど、それは確かに立場をはっきりさせておいた方がいいでしょうな」

 相談を持ち掛けた相手、ベアード学院長は事情を聞けばすぐに納得してくれた。やはり、客人扱いの人間が長期間、一人の学士の指導に当たるのは推奨できないらしい。だがそれも、非常勤の臨時講師としての立場をアカデメイアが認めるなら問題ない。


「ふむ、ところで……せっかく講師として勤められるのですし、この機会に少しばかりでもアカデメイアの学士向けに講義をしてはもらえませんかな? ぜひとも一級術士の見聞を、他の学士達にも広めて頂けたなら助かります」

「自分が学士向けに講義を……? 日に一時限か二時限程度なら可能ですが、学士達に有用な話ができるかは保証できませんよ。多人数相手の講義はあまり経験がありませんので」

「学部生の一、二年向けに魔導概論的な話ではどうですかな。現役の一級術士から受ける講義なら学士達には非常な価値がありますとも。可能なら若手の教職員にも公聴させたいくらいですな」

「……ええ、それくらいなら構いませんよ。いや、これも良い経験だと思って、こちらからもお願いします」

 断ろうかとも思ったが、アカデメイアで講師を名乗るなら、他の教職員に対して筋を通すためにも幾らか講義をこなしてみせる必要はあるだろう。それに、実際に講義を受け持って学士に教える経験は、そのままアリエルの指導に活きてくる。


「おぉ……それは良かった。正直なところ、断られることを覚悟での頼みでしたが、引き受けてもらえるとは! 恥ずかしながら、昨今は教師にしろ学士にしろ全体として『質』の低下が起きていましてな。是非ともてこ入れをしてもらいたいところなのです」

 俺が積極的な姿勢を見せたことが嬉しかったのか、ベアード学院長は顔をほころばせて喜んだ。

 実のところ、ベアード学院長の頼みを聞いて、アリエル指導の具体的な計画が頭の中で組みあがってきたのだ。遠まわしな指導方法になるが効果は大きいと思われる。

「では早速、講義の日程調整を。周知期間も必要でしょうから、こちらの準備もあわせて開講は来週以降の予定で。一年時の学部生に対しては、魔導学部での選択必修科目の扱いでお願いしたい」

「選択必修科目と? ……少し、お待ちを」


 ベアード学院長は本棚から自作の魔導書らしき一冊を取り出し、表紙を撫でながら何事か小さな声で呟いた。本の表紙に仄かな光の筋が走り、頁を一枚、二枚とめくりながら思案に耽る。

「ふむ、他の講義との折り合いを考えても妥当ですな。せっかくの一級術士による講義、なるべく多くの学士に受けてもらいたいのは確か……。そのように取り計らいましょう。何でしたら完全に必修科目としてもよろしいのでは?」

「それはこちらが遠慮させて頂きたい。自分にも担当できる人数に限りがある」

「はっはっはっ……それは確かに。ですが、気が向いたら大講堂を使った特別講義を開いてもらっても構いませんぞ。その気があれば是非ともお願いします」

「気が向いたらということで、考えておきますよ」

 こうして、アカデメイアでの人材勧誘は予期せぬ方向へと舵を切り始め、俺は成り行きで学院の講師として活動を始めることになった。




 クレストフ・フォン・ベルヌウェレによる講義初日。教室へ一歩踏み込んだ時点から、俺は『値踏み』を始めていた。

 左耳に装着した天眼石アイズアゲートの耳飾りを軽く撫で、魔導因子を指先から送り込んで発動した『天の慧眼』の術式によって、教室内を流れる魔導因子の動きを読み取る。

 教室自体は何の変哲もない部屋だ。持続型の術式で青い炎を灯した魔導ランプが薄暗い室内を照らし、階段状に並べられた据え付けの机と椅子に大人しく着席している学士達。彼らの半数からは魔導因子の不自然な流れが見て取れる。その内の半分は体に少ないながらも魔導回路を刻み、もう半分は懐に魔導具の類を忍ばせている。

(何らかの魔導媒体を身に着けた者が教室内の約半数……印象としては、少ないな)

 俺が現役の時にはほぼ全員が何かしら魔導媒体を身に着けていた。アカデメイアの、それも魔導学部の学士ならば、入学時点で大抵は術士としての個性が現れ始めており、魔導回路を体に刻むか魔導具を所持しているものだった。それが今は半数か。

 たった今、俺が目の前で術式を一つ発動したのにも全く反応がない。気が付いていないのだろう。呪詛に対する警戒心も皆無。観察力が不足している。


(――学士の質が、昔より落ちている――)

 それは落胆せざるを得ない事実だ。まだこれからアカデメイアで学ぶ一年時の学士とはいえ、明らかに下地が固まっていない。幼年から高等までの魔導教育、その補助としての魔導技術連盟による術士育成の活動、それらが不十分で浸透していない実態が一目でわかってしまった。

(……ベアード学院長も言っていたな。昨今はアカデメイアへの入学希望者が減少したことから、さほど優秀でない者も潜在力があれば入学させ、他にも多額の寄付などを行う貴族子息の受け入れ枠も増えたことで学士の水準は全体に低下している、と……)

 それはすなわち、学士の中から優秀な人材を探し出せる見込みの低さと、教育指導の困難を予感させた。これがアカデメイアだけの問題なのか、それとも世界全般における魔導技術発展の減速であるのか。いずれにしろ高等教育が十分でなければ、最高学府であるアカデメイアにおいても次の段階に進ませるための教育が施せない。教育段階における境界線の隔絶、連携の取れていない歪な教育工程が影を落としているように思う。


「今日から諸君、主に一年時の学士向けとなる講義を担当することになった、講師のクレストフ・フォン・ベルヌウェレだ。非常勤であり、短い期間の付き合いになると思うが、皆それぞれに目的をもって積極的に学び、貪欲に魔導技術の基礎を身に着けてほしい」

 俺の挨拶に対して、小さな教室内にまばらな拍手が起こる。敢えて一級術士であることは強調しなかったが、俺の名前を聞いて反応したのは僅か数人。アカデメイアにおいて俺の名は、秘境『宝石の丘』の探究者としてそれなりに知れ渡ったはずなのだが、ほんの一、二年で学士達の興味からは外れてしまったのだろうか。入学間もない学士の卵なら、そうした情報に疎くても仕方がないが、単純に魔導技術全般への興味が弱いのだとしたら、いよいよ救いようがない話である。

(……これは少しばかり、今の学士達の感覚を知っておいた方が良さそうだな。対話で探りを入れてみるか?)

 俺は軽く咳払いをして、改めて教壇から着席する学士達に向かって視線を一巡させる。


「今日は講義の初回だ。まずは諸君の学力水準と、術士としての実力程度を知っておきたい。この中に七級以上の術士資格を持つ者はいるか? いれば挙手を」


 ――術士には、実力を客観的に評価する『等級』がある。


 何の知識を持たずとも魔導技術連盟への登録だけで認められる十級術士から、魔導のごく初級における基礎知識が備わった程度の九級術士、実際に一つでも魔導を使える八級術士と、等級が上がるにつれ魔導の扱いに長けていく。

 社会的に役立つ水準の術士は、出来合いの魔導回路を使って幾種類かの魔導を扱う七級術士、またこれより上位等級の術士である。

 六級術士ならば基本的な魔導回路を作成できる実力を持ち、五級術士ともなれば独自の応用を利かせた魔導回路を作成した上、より実践的な魔導の使用方法を理解している。


 欲を言えばアカデメイア入学時点で六級程度の知識と技術水準があると、研究室でも一年時から即戦力として使えるので好ましい。果たして、一歩ばかり譲歩して七級以上がいるか確認してみたところ、この教室内において一人の手も上がることはなかった。

(……おいおい、まじかよ……)


「では、八級以上はいるか?」

 ばらばらと手が上がった。しかし、少ない。全体の五分の一もいないのではないか。

「今、挙手した者はそのままで、九級以上を含めるとどうだ?」

 さすがにここまでくると六割がた手が上がった。それでも手が上がらなかった人間がいるということは、彼らは魔導技術連盟への登録すらしていないということだろう。

(……ま、まあ、あれだ。もしかすると登録していないだけで、九級以上の知識は身に着けている可能性はある。連盟への登録も義務じゃないしな)

 だが、俺もかなり不安が募ってきていたので、はっきり聞いておくことにした。


「ちなみに、魔導に関する高等教育を受けていないものはいるか?」

 普通、高等教育を受けてきていれば必然的に九級術士程度の知識は身についている。まじめに授業を受けていることが前提ではあるが。

 少なくともアカデメイアの難関入試を突破した学士なら、魔導学部に入学した時点で九級程度の知識は完璧に把握しているのが当然だ。

 ところが、教室の二割ほどの手が上がった。これはどういうことだ? 魔導の高等教育を受けずに、アカデメイアの『魔導学部』に入学してくることがありうるのか? 入学後の即時、学部転換か? しかし、この数は考えにくい。


(……だとすれば、この二割は特別な推薦で入ってきた……貴族子息の入学枠ってやつか……)

 頭が痛くなってきた。いくら入学希望者が減少しているからと言って、適性のない学士をこんなにも多く受け入れるとはどうかしている。アカデメイアが責任をもって彼らをまともな学士として育て上げられるのなら立派だろう。けれども、それはたぶん無理だ。少なくとも普通の学校教育では不可能だ。基礎がないところに知識や技術を積み上げようとしても、まともに積みあがらないばかりか手痛い失敗をして終わるのが落ちだ。手取り足取り基礎から教えていたら、今度は全体の教育課程に遅れが出るので、手厚い個別指導も教員不足の現状ではまずできない。


 アカデメイアとしては入学金と学費を稼げればいいという考えだろうか。学士の方も、知識や技術が身に付かずとも、アカデメイア卒という箔が付けばいいのだろうか。

 馬鹿げている。いったい何のための学術機関アカデメイアなのだ。この学院が存在する意味は、そんな薄っぺらいものではなかったはずだ。

 しばし無言で状況理解に苦しむ俺の様子に、教室内の学士達はひそひそと雑談を始める。やがて、教室中央の席にいた一人の学士が立ち上がり、はきはきとした口調で質問を投げかけてくる。


「講師クレストフ! 質問ですが、このような確認に何の意味があるのですか?」

「なに?」

 こいつは今、何を質問してきた? 俺は初めに「諸君の学力水準と、術士としての実力程度を知っておきたい」と説明したはずだ。話を聞いていなかったのか、それにしたって普通はこの確認の意図くらい理解できるだろう。まさか、それすら理解できない低能なのか? だとしたら絶望しかない。

 いや、何か誤解があるのかもしれない。俺は慎重に言葉を選んで、学士の質問が本当に意味するところを確認する。

「諸君らの実力を知ることで、どの程度の水準で講義を展開すれば最も理解が深まるか、その判断基準になる。理解できない話をいくらしても無駄だし、既に理解できていることを話すのも無駄だ。より効率的に、進んだ内容の講義をするためにも、学力水準の把握は必須という意味だ」


 簡潔に、わかりやすく、正確な言葉を選んで俺は回答したのだが、どういうわけか学士の顔に理解の色が浮かんだようには見えない。むしろ、困惑が表情に浮かび上がっている。質問をしてきた学士が、改めて再度の質問をぶつけてくる。

「……? 一年時の講義は全て、アカデメイアで定められた基本課程のみ習うのだと思っていたのですが、違いましたか?」

 ――ああ、そう言うことか。くそったれめ。

 話が噛み合わない理由が今の質問でわかってしまった。彼らにとって、アカデメイアにおける講義がどういったものか、そこで目標としているのが何なのか、見え透いてしまった。

 たぶん、彼らに自主的な向上心といったものはない。それは常に受け身の学習をさせられてきたからに違いない。自分の質問している内容に疑問を持っていないのが良い証拠だ。これは彼らの怠慢ではなく、教育者の失態と言うほかない。

 いったい誰が『基本課程のみ』などと低水準の教育目標を掲げやがったのか。


 俺が現役だったころ、基本課程とは最低水準の必修科目であり、その上に各学士は自分が興味を持つ専門分野の講義を受けるか、全体の知識をさらに深めるため総合理論の講義を受けたものだ。実力のある者は一年時で早々に、研究室へと所属して簡易的なことからでも独自の研究を始めるようになる。それは自発的な学習であり、興味や好奇心、野心に向上心、人それぞれの動機ではあっても高い目標を目指したものだ。

 ――それが、世界最高峰とまで持てはやされたアカデメイアが、いつから『基本課程のみ』などと、そんな低い目標を掲げるようになったのだ? それも個人の能力や意欲を無視して画一的に。


 そうした低空飛行の考え方が学士達にも伝わり、卒業単位に必要なだけの科目を及第点で取れればよい、などと短絡思考に陥れるのだ。夢も野望もなければ、現実的な将来さえ見えていない。学士達が何のためにアカデメイアに入学したのか、アカデメイアで何を学ぶつもりだったのか、卒業したあと何をするつもりなのか。

 アカデメイア卒業という箔だけ付けても、そんなものは薄っぺらいメッキだ。剥がれてしまえば実質的に何の役にも立たず、最後には自身がアカデメイアで何も学ばなかったことを暴露することになる。引いては、役立たずの学士を世に出したアカデメイアの権威も傷つき、やがては失墜するだろう。


 怒りが湧き上がってきた。この怒りの矛先は、ふがいない学士達に対してではなく、低い目標で学士達の可能性を頭打ちしてしまう現在のアカデメイアの教育方針に対してだ。

 ベアード学院長は有能な人だと思うが、現場にはその思想も反映されていない。今や目標の低空飛行は学士というよりも教師陣に蔓延しているのかもしれない。考えてもみれば、異界の存在証明という偉業を達成したムンディ教授が、その分野の日陰的な性質上とはいえ、あんな古ぼけた施設で研究を続けているのが現状を表す例だったのだ。

 挑戦は忌避され、安定志向が歓迎される。当たり障りのない現状維持という名目の実質的後退が、自分達の首をゆっくりと締め上げていることにも気が付かず、じり貧の状況を着々と固めてしまっているのに。やがて訪れる結末は、学士にとってもアカデメイアにとっても、社会全体にとっても不幸でしかない。

 今の状態は、持続可能な現状維持ですらない。退化の道を進んでいるのだ。最悪、ここまで人類が積み上げてきた魔導技術も継承が滞り、失われていくことすら想像できる。いくら過去の英知を保存したとしても、それを理解して再現できる人間がいなくなっては意味がないのである。


 たぶん、改革が必要なのだろう。それを俺が短期間でやれるとは思えないし、そんなことに時間を費やすつもりもない。

 ――それでも。凝り固まった体制を崩す、楔を打ち込むことぐらいはしてやろう。


「諸君らの学力水準と実力程度はよくわかった。その上で、あえて言っておく。この講義では基本課程以上の内容を教えることになる。講義終了時、諸君らには全員、魔導技術連盟の等級審査を受けてもらう。合格目標とする等級は、六級術士の資格取得となる」

 俺の宣言に学士達がざわつき始める。この程度の目標設定で何を騒いでいるのか。

 と、思ったがそれも仕方のないことか。昨今、アカデメイアの学部四年間を卒業した学士の平均的な術士等級は五級から四級程度。それでも五級術士の平均年齢が三十代半ばであることから、一般より高水準にあることは間違いない。そう考えれば一年時のわずか半年に満たない講義一つで、六級術士の目標設定は無謀に感じるのかもしれない。

 だがそれは錯覚なのだ。過去の平均値を見て考えるから、何かとんでもなく大変なように感じてしまうが、実のところはまともに準備をして挑戦する奴が少ないだけのことである。


「無茶でも冗談でもない。諸君がこの講義を休まず、最後まで真面目に参加したのなら、自然と六級術士並みの知識と技能が身に付くことを約束しよう。次回より本格的な講義に入る。講義に必要な物はこちらで指示を出すので、事前に準備してくるように。参考書や実験素材の購入はあるが、特別の安値で大学の購買部に卸しておく。ここでの投資をケチるようなら大成はできないと思え。以上、本日の講義はこれで終了する」


 ここまで言ってしまった以上は、俺も本気で準備をしなければならない。次回の講義は一週間後。それまでに必要な物は揃えてやらなければ。

 学士達の喧騒が冷めやらぬうちに、俺は無駄口を叩かず教室を後にした。

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