第230話 異界を渡るもの
「この度はアカデメイアに多大なる寄付を頂き感謝いたします、術士クレストフ殿」
「こちらこそ、強引な願いを聞き入れてもらえたこと、感謝します」
床には毛足の長い赤絨毯が敷かれ、天井からは水晶のシャンデリアが煌めく。厳かにして絢爛、煌びやかな雰囲気を持ったアカデメイア学院長室。そこで俺は、現アカデメイアの代表であるベアード学院長に挨拶をしていた。
真っ白な長い髭を蓄えたベアード学院長は、年相応に落ち着きと貫録を持った態度を保ちつつ、若年でありながら同等の社会的地位にある俺に対して最大限の礼を持って接してくる。正直、礼儀など糞くらえの俺ではあったが、敬われる立場にある人物から礼を尽くされてはこちらも非礼な態度を取るわけにいかない。
アカデメイアを訪ねる前に、多額の寄付と事情の説明を行っていたこともあってか、アカデメイアの受け入れ態勢は様々な点でよく整っていた。ゲストハウスに到着してすぐ、貴族待遇で持て成しを受けることになり、宿泊する部屋の整理などの面倒は全て小間使いの女性が手際よく済ませてくれた。事前に送ってあった魔蔵結晶は部屋に備え付けの金庫へ厳重に保管されており、着替えなどの衣類は種類ごと的確に室内の家具へと収納されている。
おかげで荷解きに時間をかけることなく、到着したその日に余裕を持ってアカデメイア学院長にも挨拶を済ませることができた。こちらから言い出すまでもなく、取り次ぎをしてもらえたのは非常に助かった。アカデメイアほど大きな組織になると、学院長に会って話をするにも手続きを踏まねばならないのが通常だ。それが何の手間もなく済んだことは、形式的なやり取りが嫌いな俺にとっては大きな負担の軽減であった。
「……事前のお話では、アカデメイアで異界法則に詳しい人物を紹介してもらいたい、とのことでしたかな?」
「ええ、そうです。そして可能ならば数年の期間、アカデメイアの外での協力をお願いしたい」
「なるほど……学外での協力も含めて、ですか……」
長い髭を撫でながら、ベアード学院長は目を細めて天井を仰いだ。遠くに思いを馳せるように、ずっと先の未来を見通すように。
さすがに難しい注文だとは思う。具体的にはアカデメイアの優秀な教職員を引き抜こうと言っているに等しいからだ。それでも、どうしても必要な人材なのだ。異界の狭間からビーチェを取り戻すためには。
「難しい要望ではありますが、幸いにも一人、期待に応えられそうな人物がおります」
ベアード学院長の言葉に、秘境の地を思い描いていた俺は意識を引き戻される。
「ただ、その人物があなたに協力するかまでは本人の意思を確認してみないとわかりません。私からある程度の説明はしてありますが、返事はまだもらっておらんのです。ここから先は当事者同士の交渉となりますが構いませんかな?」
「充分です。ご配慮、いたみいります」
自然と頭が下がっていた。本当にありがたい。まだ本人に会ってからの話とは言え、可能性が見えてきただけでも上首尾だ。
「この程度、大したことではありませんとも。それとせっかくアカデメイアに寄られたのです。他にも有望な人材が学士でいれば声をかけて頂いても構いませんぞ」
「よろしいのですか?」
「アカデメイアから偉大な一級術士が輩出され、その引き合いで新たな実績を得る学士が生まれるのなら、まさに喜ばしいことですな。ただ……教員は不足しているが故に引き抜きは一人を限度として考えてもらいたいのです」
「一人でも助かります。本当に……」
それ以上は感謝の言葉も出なかった。失礼な態度に見えたかもしれないが、胸が詰まったような感覚で何も言えなかったのだ。
学院長室を出たところで、廊下に待機していたレリィが無言のまま俺の後に続いて歩く。
「収穫はあった?」
「思っていた以上にあったな。学院長も協力的だった」
まだ当人に会ってみないとわからない部分はあるものの、希望とする人材がアカデメイアに存在し、交渉の余地もあるとなればこれ以上の成果を望むのは贅沢なくらいだ。そもそも、アカデメイアから人材を引き抜くことには俺自身も遠慮があった。
アカデメイアは宝石の丘への遠征に際して、テルミト教授と優秀な学士数人を派遣して……結果的にそれらの貴重な人材を失っている。その原因でもある俺が再び死の危険を伴う旅に、アカデメイアから人を連れ出そうというのだから相当な反発を予想していた。ところが学院長の態度には裏表なく歓迎の意思が込められていたのである。
「……しかし、単純に喜んでいいものか」
「何でよ?」
「話がうまく行き過ぎている時ほど、落とし穴があるものだ」
「君はいつも疑り深いね。人の厚意は素直に受け取るものだと思うけど?」
何故か偉そうに説教じみた口調で話し出すレリィ。自分の方が人生の先輩だとでも勘違いしているのだろうか。こいつの方こそ人の善意をまともに受けたことがないような生活を送ってきたはずなのだが。
「お前は楽観的に過ぎる。何がお前の信じる根拠になっているんだ?」
「えっ!? それ、君があたしに聞く? う~ん、クレスこそ、どうして信じてくれないかなー」
「ついこの前の事件も忘れたのか、お前は。カナリスの街では暗殺されかけたんだぞ」
「でも、最終的にはわかってもらえたじゃない。クレスのこと恨んでないって、わざわざ遺言まで残した人もいたわけだし」
「……メルヴィオーサのことか。そうは言っても宝石の丘では多くの犠牲を出した。恨みを抱く人間は他にもいるだろう」
「それは不幸なことだったけどさ。皆、自分の意思で挑戦したんでしょ。嵌めようとしたわけでもないし、真実を知れば誰だって納得するよ」
「どうだかな……。まあ、それでもアカデメイアにはテルミト教授達が亡くなった経緯は詳細に伝えてあるから、事情を理解はしてくれている、と思いたいところだな」
「心配性だね、クレスは」
やれやれとレリィは肩をすくめてみせる。その豪胆さは俺にとって羨ましくもある。こいつのように細かいことを気にしない生き方ならば、毎日の寝食はさぞかし気分がいいものだろう。
「それで今日はこのあと、どうするの?」
「……目当ての人物に会っておこう。交渉の時間も考えれば、なるべく早い方がいい。簡単に身辺調査をした限りでも、相当に癖のある人物だからな……」
「クレスにそこまで言わせるなんてすごいね。どれだけ偏屈な人なんだろう」
「お前の言い方は一々、気に障るな……まぁ、いまさらか」
まったく悪気を感じさせないのが、冗談でなく本気の発言であることを示している。しかし、これから会おうとしている人物に関して言えば、レリィの心配する通りであるというのが俺の予想だ。交渉がすんなりとまとまる可能性は限りなく低い。
「さて、目的の人物がいる研究室は……第十三実験棟か。学院の中でも隅っこの方だな」
学院の案内図を広げて場所を確認する。
「あれ、クレス地図なんて見るの? アカデメイアには通っていたんでしょ?」
「年月が経てば建物の改築や名称変更もある。それにこれだけ広い敷地だと、全ての建物や研究室の位置を把握できてはいないさ」
「確かに大きな学校だよね。他の学校もみんなこんなに大きいのかな?」
「アカデメイアは特別だな。あらゆる分野の学問に通じている総合的な学術組織というのは、実のところ珍しい部類になる。大抵は特定の分野に偏るもんだ……っと、十三棟はあっちだな」
広い学院を、地図の示す道に従って歩く。やがて石畳で舗装された道が途切れ、辺りには建物らしいものが何もなくなり、刈り込まれた草地だけが続くようになる。
「ねえ、本当にこっちであっているの? 何もなくなってきたんだけど」
「間違いない。地図でも周辺に建物はないし、十三棟は孤立した建物のようだ」
「なんで一つだけ離れた場所にあるんだろ。不便だよね」
「隔離されているんだろう。それだけ危険な実験をする施設ということだ」
「…………え? 隔離? 危険、なの?」
先行して歩いていたレリィの足が止まる。心底から不安そうに、眉をひそめた表情で振り返ってきた。
「そんなに嫌そうな顔をするな。異界法則の研究なんてのは一般的には忌避されるものだから、実際に危険がなかったとしても日陰者扱いされるんだ」
もっとも、これから会いに行く人物に関しては、その異常性から隔離されていると見るのが実際のところであるはずだ。
「ああ、見えてきたな。あれが第十三実験棟……でいいんだよな?」
「いや、あたしに聞かれても困る……」
思わずレリィに聞いてしまったのも、第十三実験棟と思われる建物があまりにも――。
「廃墟、に見えるんだが」
「古いだけの建物って感じでもないよね……」
レンガ造りの簡素な直方体の建物。黒く変色した壁面には無数の蔦植物が這い上がり、周囲に広がる草原の緑に溶け込むような外観となっている。
それでも建物に近づいてみれば入り口だけは蔦が除かれて、人が普段から出入りしている形跡があった。入り口の扉の脇には、第十三実験棟と金属板に焼き付けられた文字が読み取れる。
「間違いないみたいだな。入るぞ」
「こんなところでお仕事している人がいるなんて想像もつかないなぁ」
不安を胸に第十三実験棟へと足を踏み入れた。中に入ってみれば武骨な剥き出しの石壁に、いつ掲示されたかも怪しい茶色く変色した貼り紙が半ば剥がれ落ちそうになっている。
床には何に使うのかもわからないようなガラクタが散乱し、ただでさえ狭い廊下を歩きにくくしていた。
「やっぱりここ、廃墟じゃないのかな?」
「乱雑ではあるが、人の出入りがある。それらしき状況も」
薄っすらと積もる埃をよく見れば、つい最近に物を動かしたと見られる痕跡や人の足跡もある。
まあそれならそれで、もう少し掃除はしておけと言いたいところではある。古びた施設ならなおさら、普段からこまめに掃除してやらないと薄汚い印象が強調されてしまう。
「さて、どうも研究室の名前すら貼り出していない様子となると、一つ一つ人がいる部屋を当たるのは面倒だな」
目当ての人物は第十三実験棟にいる、としか聞かされていない。小さな建物ではあるが、それでも部屋数は十以上ある。不躾ではあるが俺は手間を省くため、左耳につけた
「見つけた。あそこの部屋だ」
「へ? な、なんでわかるの? いつもながら突然、変な動きするよねクレスって」
「……お前、俺がこの術式を使うのは何度も見ているだろう。いい加減に学習しろ。もし、これが敵対する術士であったなら、気づかれないうちに呪詛をかけられていることに――」
「あ! わ、わかった! わかったから! 説教とかなし! ほら、人に会う目的があるんでしょ? そっちが優先だよ」
すぐに藪蛇な質問だったと思ったのか、レリィは俺の小言が始まるや即座にごまかしにかかる。こんな調子だからいつまでも学習しないのだ。
レリィの態度には呆れつつも、当初の目的は確かに優先されるべきことだ。俺は迷わず目を付けた部屋の前まで行くと、軽くノックをしてから入室する。
「失礼する。こちらに――」
「あっ!?」
扉を開けた瞬間に目があったのは見覚えのある人物だった。驚愕に目を見開き思わず声を上げたのは、ほんの数時間前に会った学士の少女。
「何故あなたがここに来るのですか!? タラシ男!」
机に座って何か作業していたのか、書籍や紙の資料をガサガサとまとめつつ椅子から立ち上がったのは、眠たそうな細い目と波打つ長い黒髪が特徴的な女学生。
「あ~……。ええと、お前か。名前はなんと言ったか……」
「……アリエルでしょ。クレス、しっかりしてよ。さっき会ったばかりの人の名前忘れるとかボケちゃったの?」
「失礼なことを言うな。興味がない人間の名前など、初めから覚える気がないだけだ」
「ほほお、それでその興味もない人間のもとにいったいどんな理由で現れたのでしょうか。この失礼極まりないタラシ男は」
こめかみを引き攣らせながら、苛立たしげに机の上の資料を丸めてポンポンと手の平を打つアリエル。
「まず勘違いを否定させてもらいたい。別にお前に用事があって、ここへ来たわけじゃないからな。自意識過剰だぞ」
「そ、そんなことは言われなくてもわかっています! この研究室に何の用事があって来たのかと聞いているのです!!」
アリエルは真っ赤な顔で反論するように問いただしてくる。随分と感情豊かなことだ。出会った当初はもう少し淡泊な人物である印象を受けたのだが、あながちそういうわけでもないらしい。
「あぁ、アリエル君。彼はたぶん、僕のお客さんだね」
積み上げられた本の山、その裏から妙に若々しい声が聞こえてくる。物陰にでも座り込んでいるのか、声はすれども姿は見えない。
「やぁや、よく来たね、歓迎するよ。ベアード学院長から紹介は受けているんだ」
しばしの間があって本の山から顔を覗かせたのは、だぶついた白衣を身にまとう少年だった。
「子供……?」
レリィが思わず首を傾げてつぶやく。疑問に思うのも無理はない。目の前の少年は背丈や顔立ちからして、明らかに十代前半の年齢にしか見えないのだ。そんな子供が最高峰の学術機関であるアカデメイアに居ることは不自然極まりないことだろう。身の丈に合っていない白衣を引きずって、重たそうに書籍を抱える姿は、文字を覚えたての子供が理解できもしない本を自慢げに見せびらかすのにも似て滑稽ですらある。
「えーっと、君はひょっとしてあれかな。ここの先生のお子さんとか? あたし達、ある人を探しているんだけど……あー、ほら、偉い教授? 名前なんて言ったかなクレス?」
レリィが俺の方に視線を向けた刹那、白衣を着た少年は俺の方を見て、にやりと意味ありげに笑いかけてきた。それだけでなんとなく趣旨を理解してしまった俺は、努めて無表情を貫きながらレリィの質問に答えてやる。
「ムンディ教授だな。俺達が力を借りようとしている人物だ」
「そうそう、その人なんだけど。ここの研究室の先生でいいのかな? どこにいるか知らない?」
妥当な言い回しでレリィが尋ねると、少年は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「知っているよ。彼は確かにここの研究室の代表だね。まあそれで、いるにはいるんだけどもね」
俺がその様子を黙って観察していると、すぐ隣にいたアリエルが肘で脇腹を突いてきた。
「いったい何の茶番を始めようと言うのですか? わかっているのでしょう、あなたは? そんな半笑いの表情で」
「おっと……笑いが堪えきれていなかったか。いや、別に俺はそんなつもりもなかったんだが、これも後に控える交渉を円滑に進めるため、必要な儀式かと思ってな。ムンディ教授は見た目以上に、遊び心のある性格なようだから」
俺とアリエルの妙なやり取りにようやく気が付いたのか、レリィが怪訝な顔で睨みつけてくる。
「ちょっとクレス! 君が会わなきゃいけない人を探しているんだよ!? 真面目に探しなさい!」
「ああ、まあ、そのことなんだが……」
「いい加減にしてください、ムンディ老師。あなたもです、詐欺師男」
「いや、すまないねアリエル君。初対面の人の反応が面白くて、つい」
「誰が詐欺師だ、こら。それ言ったら、ムンディ教授の方が見た目で詐欺だろ」
とうとう痺れを切らしたアリエルが俺とレリィ、そしてムンディ教授の間に入って茶番劇の幕を閉じる。
「え? どこ? どこにムンディさんいるの?」
レリィは一人だけ事態を理解できないで周囲を見回している。その首を強引に曲げて、『ムンディ教授』と顔合わせをさせる。
「お前の目の前にいるのがムンディ教授だよ。ムンディ教授、改めましてご挨拶します。魔導学部・魔導素材学科卒のクレストフです。こちらは専属騎士のレリィです」
「ああ、うん。僕も紹介が遅れたね。魔導現象学科の教授職にあるムンディだ。専門は異界法則学になる。見た目がまるで子供で驚いたろうけど、別に術式で姿を変化させて騙しているわけではないから、気を悪くしないでくれ。あと、挨拶が済んだならこれ以上の堅苦しい言葉遣いは不要だ。術士としてはクレストフ君の方が格上だから、かしこまる必要はないよ」
俺とムンディ教授のやり取りを前にして、レリィにもようやく理解が及ぶ。
「う……嘘だぁ~!? 何で? 子供だよ!? どう見ても子供でしょ? はっ!? そうか、君はとっても頭がいい少年なんだね? だからその若さで教授とか……」
「ムンディ老師は六十歳ですよ」
「そんなバカな話、信じられないよっ!?」
どうやら全く理解できていなかったようだ。アリエルの補足説明も素直に受け入れられずレリィは頭を抱えてしまった。
「ははっ。それにしても、悪趣味な
「過去の魔導実験による事故で、見た目が子供のようになったという経緯は聞いていたので」
正直なところ、悪乗りしたのは自分も半信半疑なところがあったというのが本音である。果たしてこの少年が本当にムンディ教授本人であるのか、と。
――プロフェッサー・ムンディ。
魔導学部、魔導現象学科で異界法則学を専門に教えている教授である。
戸籍上は初老で間違いないはずだが、ムンディ教授の外見は幼い少年の姿をしている。真に恐ろしいのは彼の体細胞から生命の設計図を解析した結果、ムンディ本人であることが確実であり、なおかつ実年齢は十歳という意味不明な事実が明らかになったことだ。若さを保つ術式に長けた『深緑の魔女』でさえ、ここまで完璧な若さを取り戻すことは不可能である。
実のところ原因自体は突き止められており、ほぼ間違いなく過去に行われた魔導実験による事故が影響したと言われている。そして、その実験内容というのがまた常軌を逸しているのだ。
実験目的は『異界』の存在証明と、現世存在による異界転移の可能性について。異界の存在自体は物力召喚学における理論と実践によって、まず間違いなく存在すると考えられているが、異界には空間も物質も存在せず、情報とエネルギーによって満たされているという『仮説』があるばかりで確たる証明はなされていない。あるいは自分達が異界と考えているものは、あくまで現世における高エネルギーの溜まり場であって単なる特異点座標ではないか、という説もあるくらいだ。
故に他の仮説を完全否定できるだけの証明は、魔導現象学において常に挑戦されてきた課題なのだ。また、そのような異界で現世の生物が存在を保てるのか? これは異界法則学において大きな謎だった。
物力召喚によって生物が一時的に異界を通過して現世へ戻ることが可能なことから、異界に留まることは可能、というのが理論的な解釈だ。だが、これまで幾度となく使用されてきた召喚や送還の方法であればともかく、知的生命体の異界への長期滞在などという検証は困難であった。少なくとも自分自身で魔導を制御できない存在では異界に留まり続けることはできず、現世へと戻されてしまうからだ。かと言って、自動動作する観測機械を送り込んでも異界を通過する際の記録はほとんど何も取れず、魔導回路を体に刻んだ術士ではそもそも異界に送還することもできない。
そこでムンディ教授は、異界送還を阻害しない程度の魔導回路だけを標識として体に埋め込み、現世より異界へ、その標識めがけて術式を行使するという離れ業により自身が異界の調査を直接行うことにした。この試みがいかに狂っているか、まともな術士なら自殺行為だと考えるだろう。
異界に送還された後でも生命活動を維持するため、異界に満ちるエネルギーに対して障壁を張り、個体としての形を残すための情報を保存し、想定外の事態が起こっても経時発動型の術式により強制帰還させ、なおかつ観測者の目的を果たすに不可欠な記録媒体を用意する。これらの難しい注文を全て外部からの術式に頼り、一つ間違えれば存在消滅の危機がある実験などまともな精神の持ち主なら、まず自分でやろうとは思わない。
だが、それをやったのだ。このムンディ教授は。
そして見事、人類種による異界座標『逆転の渦』の直接観測を成し遂げたのである。この成果は新たな異界座標の発見と理解、なおかつその存在証明までを一度に達成した人類の魔導技術史上でも屈指の功績であった。
ただし、一つ間違えれば命を落としかねない危険な実験は、栄誉の代償としてムンディ教授の身に深刻な副作用をもたらしていた。ムンディ教授は自分自身を異界に送還した際、時間逆行の異界法則による影響で肉体が子供になってしまったのだ。幼児退行という現象、それも生命の設計図を遡って若返らせるという、自然の摂理をひっくり返すものだった。
若返ったのならむしろ幸運ではないか、と安易に考える人間は多かったが、良識ある術士達はこの事実によりムンディ教授の実験がまさに死と紙一重の危険行為であったことに思い至る。幸いなことに幼い少年として帰還できたムンディ教授であるが、もしも更に時間逆行が進行していれば生まれる前の状態まで戻されて存在消滅していた恐れがあるのだ。
異界で思考力を奪われるまでに幼児退行し、そのまま果てるかと思われたが、現世に残してきた経時発動型の術式で召喚術を発動し、ムンディ教授は存在消滅の寸前で奇跡的に生還したのである。幼児退行により知能の低下は免れなかったが、知識と記憶はあらかじめ
そうした綱渡り行為を経て、偉大な功績を世に残したのである。
(……想像するほどにヤバいとしか言いようがないな。俺でもここまでの危険を冒そうとは思わない。だが、だからこそ、異界の狭間に挑戦するならムンディ教授の協力ほど心強いものもない)
異界に踏み込んで、帰還した。その事実は、他のどんなに優秀な一級術士よりも彼の協力が不可欠であると判断させる。
ムンディ教授は魔導技術連盟の資格では準一級術士であり、一級と称されるには今一歩のところだ。成し遂げた功績は突出しているが、社会貢献としての規模では一級と称するに不十分であり、これ以外に目立った功績もないため準一級に留まっている。
それでも、異界法則に関しては研究をさらに深めており、間違いなくこの分野では最も造詣の深い人物に違いない。
「さて、挨拶も済んだことだし、単刀直入に用件を話させてもらいます」
「うむ。言ってみたまえ」
正面へと向き直り、ムンディ教授は低い背丈をごまかすように白衣の下で
「あなたに手伝ってもらいたい仕事がある。『
「そうか、断る!!」
(――即答かよ!? まだ話も途中だぞ!!)
これは交渉の仕方を間違えただろうか。単身で異界に踏み込むようなムンディ教授の性格からして、回りくどいことは嫌いだろうと踏んで簡潔に話を進めようとしたのだが。
一旦、話を中断して会話の切り口を考え直す。俺とムンディ教授が沈黙でお互いに睨み合うのを、そわそわとした様子でレリィが見守る。そして、俺の言葉の断片を拾って、ムンディ教授に俺が何を頼もうとしているのか察したアリエルは我慢できずに立ち上がった。
「ちょっと待ちなさい! 今の話、もしやムンディ老師を秘境の旅に連れ出そうというのですか!? 認めませんよ、私は! 老師がいなければこの研究室も存続できないのです! それに、そんなどれだけの年月がかかるかも不明で危険な旅に、老師のような貴重な人材を連れて行こうなどと! 知っているのですよ、あなたが宝石の丘の攻略にどれだけの犠牲を強いたか――」
「アリエル君、そこまでだよ。それ以上は真理の探究者達への冒涜だ。彼らは己の意思で秘境を目指した。その果てに唯一人とはいえ目的を達したのだから、犠牲は尊いものだったと言える。大勢を巻き込んだうえで目的を達成できなかったのなら、非難されるべきだろうけどね。しかし、そうではない」
ムンディの言葉に意気消沈してアリエルは口を噤んだ。
「アリエル君、今日は帰りたまえ。話の決着はこれからだ。冷静でなければ交渉はできない」
「……わかりました。今日は帰ります。ですが、私は反対ですよ」
アリエルは寂しげな表情を見せながらも、俺に対してきつい視線を送りながら、捨て台詞を吐いて研究室を出ていく。
「さて……。断る、と言ったばかりだが、条件次第では考えないこともない」
ムンディ教授はアリエルが研究室を去ったところで、つい先ほどきっぱりと断った発言を一転させる。より好条件を引き出すつもりで断ったにしては、発言の撤回が早すぎる。あるいはアリエルの心情を
「僕からも君に頼みたいことがある。交換条件というやつだよ」
「交換条件、なるほど。それはわかりやすくていい。よほどの無理難題でもなければ、依頼を達成してみせましょう」
つまりは条件さえ満たせば俺の申し出を受けるということだ。やはりムンディ教授は判断が早い。交渉はお互いの依頼を達成する方向で進んだとみてよいだろう。あとはその内容だが……。
「僕からの頼みはそれほど難しいことじゃない。多少の時間を要するとは思うけれど……そうだね、最短で三ヶ月、最長でも半年ほど君の時間をもらえればいい。そうしたら今度は僕の時間を、君の目的達成のために使ってくれて構わないさ」
「最短でも三ヶ月か……かなりの時間消費だが、それで協力を約束してくれるなら願ってもない。それで、具体的な内容は?」
ムンディは軽く息を漏らし、少年の容貌のなかに老爺の表情とでも言うべき深く穏やかな笑みをこぼした。
「学士アリエル・ラヴィヤンの指導に当たってもらいたい。彼女がこの研究室を継いで、一人でもやっていけるだけの下地を整えること、それが僕の望みだよ」
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