第228話 友人は騙されて


「ところで先輩はこれからアカデメイアへ向かわれるんですよね? ご一緒してもよろしいですか? いいですね?」

 意外と押しが強いナタニアは、飛行船の着陸場から当然のように同行していた。レリィはそのことについて何も言わなかったが、つまらなそうに口を尖らせて、不機嫌な様子のまま黙って後ろを歩いていた。

「別に構わないが、少し街中を寄り道しながら行こうかと思っていた」

「なら中央通りを行きましょう。アカデメイアまで、ご案内しますよ!」

「いや、さすがに街並みを見ればアカデメイアまでの道くらいは覚えているけどな」

 何年も住んでいた街だ。日頃の食料から研究の材料まで、街のあちこちに出かける用事もあったので、グルノーブルの街並みは知り尽くしている。十年ほど経ったところで、主要な通りがなくなることはないだろう。苦笑する俺に、ナタニアは失言だったとばかりに自分の頭を手に持った本で軽く叩いた。

「ですね……。私ったら恥ずかしい」


 しばらく沈痛な表情で反省したのち、すぐに気を取り直したのかナタニアは、ずれた鼻眼鏡の位置を軽く直してから街の中心部を指さした。

「それなら、私の友達がお手伝いしている菓子パン屋があるので、そのお店に寄っていきませんか? 小腹も空く時間ですし」

「菓子パン! 食べたい!」

 それまで黙っていたレリィが会話に食いついてくる。機内食も多少は出ていたはずだが、一等客室の上品な食事だけでは不足だったようだ。それにしてもこいつは、食べること以外の話はできないのだろうか。今まで黙っていたのが不思議なくらいに、どんな菓子パンがあるのかナタニアに根掘り葉掘り聞いている。

「とっても甘くて美味しいパンを焼くお店なんですよ。期待してください」

「楽しみー。最近、甘いもの食べる機会は少なかったから! クレスが連れて行くお店は高級なところが多いんだけど、甘味処かんみどころの選択は甘いんだよね~」

「甘過ぎるんですか?」

「選択が、甘いの」

「…………」

 菓子パンの話で盛り上がる女子二人。いつの間にか、俺だけが会話から取り残されていた。



 郊外の飛行船着陸場からグルノーブルの街へと入ってすぐ、ナタニアがとある敷地の前で足を止めた。背の高い木々と鉄の柵で周囲を囲まれた広い庭があり、あちこち掘り返された地面は花壇というより畑のようにも見える。

「ここは……」

「友達の住んでいる家なんです。この時間だとお店に出ているとは思うんですけど、念のためにちょっと覗いていきますね」

 言うが早いかナタニアは手慣れた様子で門扉を開けると、小走りで敷地内にある大きな館へと駆けていく。相変わらず大きなトランクはしっかりと抱えたままだ。

「なんだか、お化けでも出そうな家だね」

「そうだな。実際、そんな噂もあった建物だからな」

「へえ、クレスも知っている建物なんだ」

「知っているも何も、昔、ここに住んでいた」

 グルノーブルでは珍しい木造の館で、黒ずんだ建材が建てられてからの長い年月を感じさせた。基礎は石造りのようだがこれもまた随分と苔むしていて年季が入っている。ただ、その有様は昔、俺が住んでいた頃とそう変わらないように見える。


「そうなの? ふーん……、意外だな。立派なお屋敷だけど、随分古いみたいだし、街の中心部からも離れていて不便じゃない? クレスが好んで暮らしたがる場所じゃないよね」

「まあ、好きでここに暮らしていたわけではないな。しかし、家賃が格別に安かった。学士の時は俺も大して金を持っていなかったから、経済的に助かったのは間違いない」

「この広い敷地で、大きな館なのに、家賃は安いんだ?」

「……何故かここを借りた人間が立て続けで不幸に見舞われてな、お化け屋敷のような扱いを受けていたんだ。おかげで家賃は格安に」

「よくそんな場所を借りようと思うね……」

「所詮は噂だ。俺が住んでいた頃は何も不幸など起きなかった。館が広すぎるせいで掃除とかの手入れが大変だったのは確かだし、油断するとすぐに鼠が入り込むから、維持管理がきちんとできる人間でないと住み続けるのは難しかったけどな。そうした不便も重なって家賃が安くなったんだと俺は考えている」

 なんだかんだ言って、常々、貧乏学士向けの住処として重宝されてきた建物なのだ。時には何人かの学士が複数人で借りていることもあったそうな。今はアカデメイアの寮が充実しているので、学士のほとんどはそちらに住むようになっているが。


「お待たせしました! やっぱりもう、お店に出ているみたいですね」

 郊外の館を後にして、俺たちは街の中央通りへと向かうことにした。

 錬金工房が軒を連ねる職人市街も軽く見て回りながら、街の住人が行き交う中央通りへと出て、ナタニアが案内するパン屋へ寄り道していく。アカデメイアには特に急いで行く理由もないので、軽く菓子パンなど腹に詰めてから向かえば丁度いいくらいだろう。



「こんにちはー!」

 店の戸を開けるなり、ナタニアが元気な声で挨拶をする。だが、店は静まり返っていて、陳列された菓子パンの甘い香りだけが漂っている。わずかだがパンの温かみも空気を伝わってくる。焼かれてからさほど時間も経っていないのだろう。

「ぅわ~、本当にたくさんの種類がある! どれもおいしそうだな~」

 今にも涎を垂らしそうな顔で、レリィが鼻をひくつかせながら店の奥へと引き込まれていった。ナタニアや俺のことは既に眼中にないようだ。どこまでも本能に忠実な奴である。まあ、本人が満足するなら菓子パン程度いくらでも食べればいいとは思うが。


「あ! アリエル! いるなら返事しなさい。私だからともかく、もし他のお客さんが来ていたらどうするの?」

「……ナタニア? なんですか、もう旅先から帰ってきたのですか? 随分と早い戻りですね……ふぅ。もう少しゆっくりしてくれば静かで良かったのに……」

 けだるそうな声音で、店のカウンターにのっそりと顔を出したのは、声の調子を体現するかのように眠たそうな細い目をした少女だった。波打つ長い黒髪を背中で乱雑に縛り上げ、少女の頭にはやや大きめの白い三角巾が前髪を垂らさないように巻かれている。

「おや、お客さんが来ていたのですか。はぁ、ナタニアがいないようなことを言うから、カウンターに出てきてしまったではないですか。これでは居留守も使えない……とりあえず、いらっしゃいませ」

 なんだろうか、このやる気のない店員は。

 いや、間違いなくナタニアの友人というのがこの少女なのだろうが、あまりにもナタニアの生真面目さとは正反対で呆気に取られてしまった。


「……それでお客さん、買いたいパンはお決まりでしょうか?」

「あぁ、悪いな。俺は菓子パンを買うつもりはないんだ」

「お客さんじゃない……? ちっ……なら何の御用でしょうか、いったい……」

 今、アリエルは確かに舌打ちをした。ただ、客じゃないというだけで舌打ちをされた。

「ご、ごめんなさい! この子、素直であって悪気はないんです、本音がそのまま口調と表情に出ているだけで!」

 ナタニアが慌てて弁解しているが、擁護になっていない気もする。


「もしかしてナタニアの知り合いなのですか? しかし……あなたにはこんな派手な友人知人はいなかったはず……。もしや、旅先で?」

 やたらと装飾品を身に着けている俺の姿をうさん臭げに観察しながら、アリエルはナタニアに俺との関係を尋ねる。

「そうよ。旅先というか、こっちへ戻ってくるときに飛行船内で知り合ったの」

「……はぁ、あなたは警戒心が薄いから、いつかこういう男に騙されるのではないかと心配していましたが……。よりにもよって、これはないでしょう? 宝石を全身に身に着けた男など、財産を持っているように見せかけ、引っ掛けた女を食い物にする典型ではないですか」

「ちょっ……! ちょっとアリエル!? 先輩はそういうのじゃないから! せ、先輩も真に受けないでください! 今のは冗談で――」

「クレス~、この菓子パン食べたいんだけど、会計お願いできる? 支払いはお給料から引いておいてくれていいから」

「新たな女の気配? しかも財布を握っているのは男の方ですか。ナタニア……あなた騙されています。完璧に騙されていますよ。いいえ、それともナタニアの方がお金で釣られて擦り寄ったのですか? だとしたら、私は友人として恥ずかしい……」

「違います!!」

 妄想たくましいナタニアの友人、本音を隠せない少女アリエルは、俺に対する疑心暗鬼を解くまでにそれから小一時間ほどを要し、それでも最終的に俺の人格評価については保留としたまま、ひとまずの納得をしたのであった。


 俺自身は正直、アリエルからの心証など心底どうでもよかったのだが、ナタニアはアカデメイアへ向かう道中ずっと平謝りしていた。

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