第225話 空の上の遭遇


 ごうごうと空気の流れる音がして、俺は夢現ゆめうつつの浅い眠りから覚醒した。

 微振動が体に伝わり、腹の中をくすぐるように揺らしてくる。

 自分が今どこにいるのか一瞬考え、すぐ隣にいるレリィの姿を見て理解する。

「おぉ……おぉぅ……す、すごい……!」

 空気の流れる音はかなりの大きさだったが、それさえ日常の音であるかのように錯覚するほど騒々しく、レリィは翠色の瞳を輝かせて窓の外の風景に見入っていた。


 白い霧が青一面の景色の中を素早く流れ去っていく。

 その流れを追うように首ごと視線を動かすと、八つ結いにされた深緑色の髪が馬の尻尾のようにせわしなく揺れ動く。

 はしたなくも座席に膝を着いて、尻を突き出しながら外の風景を夢中になって観察するレリィの姿は、まさに珍しい物を前に好奇心を隠せない子供そのもの。捲れそうになる腰巻の裾をさりげなく俺が直してやっても、まったく気が付く様子もない。相変わらず隙の多い娘だが、もはやどれだけ注意してもこの性格は直らないのかもしれない。

「レリィ……珍しいんだろうが、いい加減に落ち着いたらどうだ」

「えぇ~!? 冷静でなんていられないよ! こぉんな凄い景色、二度と見られないかもしれないじゃない!!」

「いや……少なくとも往復で二回は見ることになるんだが……」


 俺たちは今、空の上にいた。

 首都から魔導飛行船で飛び立ち、遠く目的の地へ向かう旅の途中。

 飛行船が離陸して、俺が一眠りしていた一刻ほど、その間ずっとレリィは窓の外の風景を見てはしゃいでいた。

 個室となる一等客室を取っておいて正解だった。もし他の乗客がいる場所で連れがこんな調子なら、確実に赤っ恥をかくことになっていただろう。しかもレリィ本人は自覚なく、俺だけが居心地の悪い思いをしていたはずだ。


 一刻の間ずっととなれば羞恥に耐え切れず飛行船の窓から飛び降りていたかもしれない。いや、冗談抜きで、レリィを置き去りにして本当に俺一人で脱出していたと思う。

 そして、悠々と次の便で一人、空の旅を過ごすのだ。目的地はどうせ変更しようもないのだから、レリィも飛行船の着陸場で待つほかない。忘れ物を取りに戻った、とでも言いくるめれば納得するだろう。レリィは阿呆だ。俺が糞真面目な口調で話せば大抵のことは信じる。


 ……などと、くだらないことを本気で俺が考えている間も、レリィは流れゆく雲を目で追うのに必死だった。この調子では一刻どころか、半日経っても落ち着かないのではなかろうか。そして当然、着陸時にはまた大騒ぎするだろう。何しろ離陸時の騒ぎようが酷かった。初めての浮遊体験だから仕方なくもあるが、飛行船の乗務員が慌てて客室に様子を見に来るほどだったのだ。


 少々、気疲れしてしまった俺は気分転換に飛行船の待合室ラウンジへ出て寛ぐことにした。

「ちょっと席を外すが、お前は俺が戻ってくるまで出歩くなよ?」

「んー。わかった~。いいよ、あたしは景色を見ているから。お茶でもお手洗いでも行ってきてー」

「……どっちもこの個室に備え付けのもので十分なんだけどな。まあいい、今は広い場所で一息入れたい気分だ」

「あはは、今まで寝ていたのに今度は別の場所で休憩って。クレス、仕事のし過ぎで疲れているんじゃない?」

 お前に対する気疲れだよ、とは敢えて言わずに俺は客室を出た。レリィも窓の外から視線を外さないし、わざわざここで彼女に文句を言って互いに気分を悪くするのもつまらないことだ。



 ラウンジには疎らに人がいる程度で、レリィのようにはしゃぐ者は一人もおらず、誰もが旅慣れた様子で思い思いに時を過ごしている様子だった。

 軽食コーナーのカウンター席でサンドイッチとコーヒーを注文している若い男女。大きなソファに腰かけて新聞を読んでいる紳士。大きなトランクを持ったまま壁際でうつむいている学生と思しき少女。

(……うん? ……あの女学生、もしかすると……)

 縁なしレンズの小さな鼻かけ眼鏡をした女学生は、よほど大切な物でも入っているのかトランクからは手を離さず、もう片方の手で器用に本を開きページをめくりながら読んでいる。花柄の書皮ブックカバーをかぶせてあるので何の書籍かわからないが、随分と熱心に読みふけっていた。

 その彼女の胸元に光る物が、幾何学模様の対数螺旋を模した黄金のバッジだとわかって、俺はその女学生について一つ確信を得る。


 はっ、と弾けたように女学生が顔を上げたところで、じっと見つめていた俺と視線が合う。彼女は自分が視線を向けられていたことに気が付き、困惑した表情になった。

 旅先で見知らぬ男に凝視されていたら、年頃の娘なら警戒するのが自然だろう。今にも泣きだしそうな憂いを帯びた表情は、彼女の薄青い髪の色素と合わせて儚げな印象を与える。

「え? あ……あの、何か御用でしたか?」

「……いや、すまない。別に用事があったわけではなくて。ただ、気になったことがあったものだからつい、視線をやってしまったんだ。その学章のバッジ……」

「あ、これですか……。ひょっとしてお兄さん、学院の関係者の方ですか? 学生……に見えなくもないですけど、ちょっと違いますよね?」

「学士はとっくの昔に卒業したな」

 その言葉で得心がいったのか、女学生は硬かった表情を少し緩めた。ただ、笑顔を作ろうとして失敗したような表情になっていたが。

「じゃ、じゃあ……もしかして卒業生の方ですか?」

「ああ。君と同じ、『アカデメイア』の門をくぐった人間だ」


 首都から飛行船に乗り向かっていたのは、かつて俺が学術を学んだ場所。

 世界最古にして最高峰の学術機関、アカデメイアが旅の目的地だった。

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