【第三章 幸福への道標】
第224話 回想・生け贄ビーチェ
その少女との出会いは、およそまともとは言い難いものだった。
山の中腹にぽっかりと開いた洞窟の入り口に、薄汚れた少女が座り込んでいたのだ。
あちこち跳ねて伸び放題の黒髪、その隙間から覗く金色の瞳。左目の下にある泣き黒子が特徴的な、見た目は十歳前後の少女。
身体は痩せこけていて顔にも生気が感じられず、ひどく不健康な様子であった。身に着けた麻の服も、布きれに穴を開けて紐で縛っただけの粗末なものである。
『おい……なんだお前は? 物乞いなら他でやってくれ、ここに居座られると迷惑なんだが』
洞窟の管理をしていた俺にとって、少女の存在は単純に疎ましいものでしかなかった。淡々とした口調で立ち退きを命じる俺に、少女は金色に輝く二つの瞳を真っ直ぐに向けてきた。
『物乞い……? 私は、違う』
少女は小首を傾げて、じっと俺を見つめている。その視線にさらされると、何故だか無性に落ち着かなくなった。
『私は、ビーチェ』
『そして私は……生け贄』
洞窟に巣くう悪魔への生け贄として、近隣の村から沢山の供物と一緒に捧げられた娘。それが、ビーチェだった。
身の上は哀れとしか言いようのない境遇であったが、俺からすれば関わりのないこと。少女を保護する義務もなければ、同情で世話をしてやる義理もなかった。
放っておけば自分でどこかに行くか、あるいは山中をうろつく灰色狼にでも喰われていなくなるだろうと、忙しい俺はビーチェをそのまま捨て置いた。
だが、俺の予想に反して少女は獣に襲われるでもなく、何日もその場に居座り続けていた。
『まだ生きていたのか。とっくに狼に喰われていてもおかしくないはずだが……』
脱力しきった体を岩壁にもたれ洞窟の入り口に横たわるビーチェは、ぼんやりと洞窟の外を眺めていた。その表情は虚ろで覇気もなく、獣に襲われれば黙って食われてしまいそうだった。
そんな少女を生かしていたのは、言い知れぬ嫌悪感と圧迫感を放つ金色の瞳――『魔眼』による力であった。
瞬きもせずに俺の眼を凝視してくる、憎らしい、生意気な目。この不快感の正体が魔眼の効果と知らなければ、居心地の悪さに目の前の少女を張り飛ばしていたかもしれない。
この娘が生け贄とされた経緯も容易に想像がついた。洞窟の悪魔への捧げもの、そんな口実でもってこれ幸いと山へ捨てられたのだろう。
『……あなたは、どうして私から目を、そらさないの?』
ビーチェの問いはまるで俺のことを試しているかのようで、ひどく不快な気分にさせられた。けれどここで目を逸らせば、魔眼の力に屈したも同然だ。故に俺は決して目を逸らさなかった。
『種が知れてしまえば恐れるものでもない』
魔眼の能力とは、天然の魔導回路により発生する一種の呪詛に過ぎない。そうだとすれば、こんな子供のつたない術式に俺が怯むことなどありえない。
『生きる気力があるのなら、最低限の補助をしてやろう。代償として、幾らか俺の実験に付き合ってもらうことになるが』
それは決して同情などではなかった。ただ、打算の上での取引だった。子供一人を食わせてやる代わりに、希少な魔眼の研究ができるなら悪くない投資だと思ったのだ。
『私……は、生き……たい。死にたくは……ない!』
ビーチェの確かな生への執着を見て取った俺は、それから彼女の衣食住の保障を約束してやった。
良い研究材料が手に入った、と本気でそう思っていた。
この時は、まだ――。
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