第223話 密やかな変化

 旅客船の甲板デッキへ出て、流れる運河の水面を柵にもたれながら眺める。首から提げた棒状結晶の録場機を手で弄びながら、俺は記録映像に残っていない宝石の丘における一つの心残りについて想いを馳せていた。

 宝石の丘で行方不明になったビーチェ。俺を慕っていた、黒髪で金色の瞳をした少女。

(断ち切るべきなのか、あくまで向き合うべきなのか)

 仮に断ち切ると決めて、それは許されることなのか。向き合うとしたら、何をどうすべきなのか。


 ビーチェはまだ生きている。彼女が物資を召喚できる『黒猫の陣』に捧げた食糧は、今も定期的に減少していた。

 食糧以外にも、本や道具を召喚陣に追加してやっているが、それがどこまでビーチェの役に立っているのかもわからない。

 手紙は……敢えて送ることはしなかった。ビーチェに何と伝えればいいのか思いつかなかったし、どうすればビーチェが帰還できるとか、迎えにいってやれるとか、具体的なことも言えなかったからだ。

 面倒なことに、ビーチェは送還術を使うことができない。意思の疎通は一方通行になってしまう。せめてビーチェの彷徨さまよっている居場所がわかれば、迎えに行く算段をつけられたかもしれないが。

(問題はそこか……)

 結論はいつもそこに行き着く。

(希望的観測だが、俺以上に優秀な探索能力を持った術士がいればあるいは可能か……? 宝石の丘への道も、中継地点に刻んできた世界座標を正確に追っていければ、到達も不可能ではない。あと必要なものは……)


 そこまで考えて、俺はふと自分がビーチェを救い出す方向に動いていると自覚する。自然と苦笑してしまう。

 断ち切るか、向き合うか、先ほどまでそんなことを考えていたのが馬鹿らしい。

 俺はこれほど自然に、心を決めているではないか。

 そもそも宝石の丘への到達にしても、かなり無謀な挑戦だったのだ。今度は、再挑戦のついでに少女一人を探すだけのこと。そう考えれば無理な話だとは思わない。

(そうだ。無理でも無謀でもやってみせる。今までだって、そうやって欲しいものは全て手にしてきたはずだ)

 莫大な富も、騎士を超える力も、俺は世間の常識を覆して手に入れてきた。それが少女一人、取り戻すことができなくてどうするのか。


「もう、迷いはない。やってやるさ、どんな手を使ってでも」

 思考の堂々巡りから解放された俺は、軽く体を伸ばしながら甲板を下りて船の中へと戻る。


 夜が訪れ、静かに揺れる船の中。客室の寝床で俺は横になっていた。

 二段ベッドの上はレリィが我先にと登って占拠していた。別に俺は上でも下でも構わなかったのだが、レリィとしては譲れない何かがあったらしい。あれだろうか、馬鹿と煙は高いところに上りたがるとか、そんなところか。

 早々に眠りこけたレリィを見習って、俺も横になり目をつぶっていると気がつかないうちに眠りへと落ちていた。



『クレス……』

 ぼさぼさに伸び放題の黒髪と、金色の瞳、そして眼の下にある泣き黒子ぼくろ

 別れた時のままのビーチェの姿が、闇の中に浮かび上がる。

『忘れないで……』

 願望が形になった夢だろうか。俺は無意識のうちにビーチェを追い求めている。

『私はずっと、クレスと繋がっている』

 黒猫の陣。捧げられた糧食が召喚術で消えていく度に、ビーチェが健在であることを知らされる。今も異界の狭間を彷徨っているのか、それとも宝石の丘にいるのか。俺のことを待ち続けているのか。

『忘れないで――』

 忘れられるものか。忘れられるものではない――。


「必ず、迎えに行く」



◇◆◇◆◇◆◇◆



 クレストフが長期間の外出で出払っている間、ビーチェの食糧を賄っている召喚陣、『黒猫の陣』に猫人チキータは食糧や物資を補充していた。

 首都の一等地に建てられたクレストフの邸宅への出入りを許されているので、特に契約の変更がない限りは定期的に食糧や物資を持ってきている。


 足りないものはないかとチキータは黒猫の陣に置いてある物資の一覧表を調べながら、はて、と首を傾げた。

 いつもより、食糧の減り方が早いのだ。

「にゃぁ……でもまあ、ビーチェ様も育ち盛りの子供ですし。そういうこともあるかもしれませんねぇ。クレストフ様のお気を煩わせても良くありませんし、報告はもう少し様子を見てからにしますか」


 些細な変化だとチキータは思った。

 ビーチェのことで心を痛めているクレストフに、このような些事を伝えることもないだろう、と。

 チキータの判断は優しさと気遣いから出たものであったが、結局、この『大きな変化』はクレストフが戻ってきた後もしばらくの間は伝えられることがなかった。


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