第189話 哀れなる操り人
「……さて、憑代となった
『風来』は背中の引き攣るような痛みを我慢しながら、四つ首蛇竜の死骸へと歩みを進めていった。この馬鹿げた騒動も、いよいよもって大詰めだ。最後まで気を引き締めて行かねばなるまい。
いまや、大地に横たわる四つ首蛇竜の体には異変が起きていた。
死骸の周りで沸き立つように踊っていた邪妖精は、自身が追い詰められている事を悟ったのか、追い立てられるようにして四つ首蛇竜の身体から離れていった。
四つ首蛇竜の体から完全に離れた邪妖精は赤黒い靄となり、地面の上を滑るようにして逃走を始める。無論、このまま見逃すはずもなかった。
『――神霊なる
連盟本部の建物、崩れた壁の暗がりから声は聞こえてきた。樹木の蔓が、しなる鞭の如く伸びてきて不定形な赤黒い靄を絡めとる。動物のように動き回るその異様な性質から、それが単なる植物の蔓でないことは一目瞭然である。
蔓が身をくねらせて動く度に淡い光が煌く。その細長い蔓には極めて緻密な魔導回路が刻み込まれているようだった。幻想種を捕らえる呪詛が込められているのだろう。まもなく邪妖精は全体を蔓に絡めとられ、完全に動きを封じられた。
蔓は枝葉を編みこんだ籠を成し、捕獲された邪妖精を主の手へと運んでいく。
「……少々、悪戯が過ぎましたね。この代償、例え幻想種と言えど、身を以ってお支払い頂きましょうか?」
崩れた壁の向こうから仄かに香草の香りが漂ってくる。
ほどなくして姿を現したのは、若草色のローブに身を包む『深緑の魔女』であった。彼女の長く柔らかな髪の隙間から、無数の蔓が這い出している。
『深緑』は美しい造形の小瓶を一つ手にしていた。その小瓶には見覚えがある。
あれは確かクレストフが幻想種の類を捕らえる為に造った、水晶を素材とした封印容器だ。非常に手間のかかる細工を施した数少ない品である。
自在に蔓を操って邪妖精を瓶の中に詰め込み、『深緑』は水晶で造られた蓋をぎゅっとねじ込んだ。そして、その蓋を瓶ごと緑の蔓で縛り上げ、厳重に封をする。
「これでもう逃げることは叶いません。後は……北の極地でゆっくりと反省してもらいましょう。これからずっと、永遠に……」
皺一つない『深緑』の顔に微笑が浮かぶ。笑っても陰影が出来ない表情は、どこか人間味に欠けて不気味に感じられた。
「ご苦労様です、『風来』。こちらへ……傷を癒します」
「……ああ、お願いしようかね」
他人に体を許すのは気が引けるが、『深緑』の癒しの技術は本物だ。生物の体を人為的に修復する術式は希少で、一級術士でも扱える人間は限られている。
『風来』は上着を自分の手で捲り上げると傷を負った背中を曝け出した。『深緑』は女の背中に手を触れると意識を集中し、癒しの術式を発動する。
『――神々の大陸、原初の入り江より求める――再生の力、世界樹の
痛みと熱を持った背中に、強い清涼感のある液体が沁み込んでくる。体の細胞が活性化していくのを感じた。濡れた肌からは泡が吹き、やがて液体が蒸発してなくなると共に痛みが消え去り、背中は以前より綺麗になった肌が露出していた。
「これが若さの秘訣かい?」
「興味がありますか? いずれ必要な歳になったら教えて差し上げてもよろしいですよ」
「……代償は高くつくのだろう。その時が来たら考えさせてもらおうか」
『風来』は『深緑』と軽い冗談を交わした後、崩れた壁を乗り越えて会議室の中へと戻り、床に横たわるドロシーの傍へと近づいていった。ドロシーは人の気配を感じてか、小さく呻きながらゆっくりと目蓋を開いた。
「やあ、起きたかい。悪夢から目覚めた気分はどうかな?」
「……最低ですね」
気がついて早々に『風来』の顔を見た所為なのか、ドロシーは憎らしげな表情を浮かべた。
そして、床に横たわったまま首を巡らすと溜め息を一つ吐いて天を仰いだ。会議室の屋根が一部分だけ吹き飛んでおり、青空に漂う白い雲が眺められた。
「あの子……殺してしまったの?」
「邪妖精なら、生かしたまま捕らえたよ。それでも、ここまでの騒ぎを起こした以上、『魂の監獄』に送られるのは確実だけれどね」
神出鬼没の幻想種でさえ、一度囚われたら自力で脱出することはできない。
北の極地にある『魂の監獄』は彼らにとっての地獄に等しい。
「さて、ドロシー。邪妖精に憑かれていたとは言え、君も裁きに掛けられるだろう。だがその前に、知っていることを話してはくれないだろうか。まだ、君から答えを訊いていなかった問いが一つある」
「……何ですか?」
仰向けで床に倒れながら、ドロシーは全てを諦めた虚ろな瞳で天井を見上げている。
「救済の光。その正体を君は知っているのかい?」
女の問いかけにドロシーは目を見開き、何事か喋ろうとして
全てを諦めて覇気を失っていた彼女に、醜悪な笑みが浮かぶ。
「今更そんなことを知って……貴女に何ができるの? きっと、死んだわ。『結晶』の奴! いい気味よ、あれに巻き込まれたら絶対に助からないんだから……くくっ」
もう邪妖精の支配は受けていないはずだ。だとすれば、結局これが彼女の本性ということだろうか。
「残念だ……。なんとも残念だよ」
『風来』は一歩後ろに退いて彼女から離れた。
それを待っていたかのように、含み笑いを続けるドロシーの口へ太い木の蔓が巻きつき
「ドロシーはこのまま連れて行きます。後の始末は私が責任を持ちましょう」
蔓で縛り上げたドロシーを傍らに置き、『深緑の魔女』が微笑んでいた。本心では怒っているのか、それとも呆れているのか、表情から真意を読み取ることはできなかった。
『深緑』は同情や憐れみで手心を加える人物でないことは間違いない。ドロシーは魔導技術連盟の査問に掛けられた後、国の法による裁きを受けることになるだろう。
「ま……それは良いとしてね。当の被害者であるクレストフにはどう言い訳をするのかな。全て邪妖精の仕業でした、なんて言い訳で納得すると思うかい?」
「彼への言い訳は必要ないでしょう」
クレストフは敵と見なした相手への報復に容赦がない。正式な法の裁きを待つまでもなく、私刑を執行するのではないか――と、『風来』は思っていただけに『深緑』の軽い返答は予想外であった。
「必要ない、とはどういった意味で言っているんだい……? まさか、クレストフが既に亡き者であるから、などとは言わないだろうね」
「些末なことですよ。恨みを買った人間から呪詛を掛けられ、また呪詛を掛け返す。彼にとっては日常茶飯事ではなかったかしら。呪詛を返した時点で彼はもう、彼自身の報復を終えているのです。牙を剥いた相手に対して明確な、罰を与えたことでね」
――それは詭弁だ。そう反論をしようとした女に、深緑の魔女は畳み掛けてきた。
「……ああ、いけません。他人の意思を勝手に代弁するのはよくありませんね。でもそれは私だけでなく……貴女にも言えること。違いますか?」
今この場で『風来』が、クレストフに代わって誰かに責任を求めるのは筋違いと言うわけだ。うまく丸め込まれた気もするが、それ以上の反論は出せなかった。
「今は祈りましょう。彼の無事を」
祈りを捧げる神などありもしないのに聖霊教会の信徒を真似たのか、胸の前で両手を組んで黙祷を捧げている。どう見てもクレストフの冥福を祈っているようにしか見えない。
「それでは私は各所に報告を済ませてきますから、貴女は連盟本部の後片付けをお願いしますね。『王水』とも少し話をする必要がありそうですし……」
相変わらず真意の読めない微笑を浮かべた『深緑』は、ドロシーの襟首を掴んで引きずりながら、建物の外へと出て行った。
一人取り残された『風来』は、荒れ果てた会議室の中心でこれまでの事件を思い返していた。
白骨の森で邪妖精に憑かれたドロシー。
遺跡に誘われ、命を落としたカガリ。
硝子の砂漠へ調査に出たクレストフ。
「哀れなる操り人……か。君は、本当はどこまで気がついていたんだい、クレストフ……」
彼のことだ。忠告するまでもなく、全てわかっていたのかもしれない。
理解していながら、迷わず突き進んだに違いない。
「それが君の決めた道ならば、私はただ無事を祈るだけだよ……」
遠い地で、苦境に立たされているであろう友人に想いを馳せて。
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