第187話 不穏な風
女は右の手の平で崩れた虹色水晶を散らしながら、床に伏したドロシーへと歩み寄る。
「予め魔導因子を貯蔵した結晶を開放することで、意識を集中して魔導因子を生成する時間を省くことができる。便利な物だよ。ま……少々、高価なものではあるけれどね」
もしもの時の為に、クレストフから買い上げておいたものだ。
通常、術式発動の際には魔導因子を練り上げる意識制御に時間が掛かる。戦闘時はこれが大きな隙となり、それこそ敵が騎士なら術式の発動前に切り倒されて終わってしまう。
その隙を埋める方策として創り出されたのが、予め魔導因子を貯蔵しておけるクレストフの結晶だ。奇襲や反撃を行う為の切り札としてこれほど心強い物は他にない。
「終わりだ、ドロシー。大人しく投降したまえ」
近づいてみて、ある異変に気がついた。
ドロシーは完全に意識を失っている。
だが、彼女の全身は淡い煌きに包まれ、魔導回路の活性を示していた。
(……術式の発動!? 彼女は完全に気を失っているのに何故……!)
元より彼女の身体に刻み込まれた魔導回路。彼女自身が気絶している今、魔導因子を供給できる可能性は唯一つ。
彼女の周囲で、赤黒い靄が沸き立つように踊り出す。
「邪妖精の仕業か! 一体何をするつもりか知らないが……させはしない!」
術式の発動を阻害するには、魔導回路に流れる魔導因子の動きを乱してやることだ。荒っぽい方法で構わなければ、ただもう術士を殴り飛ばすだけでも良い。
(――世界座標『死の谷』より、我が召喚に応じよ――)
『
物力召喚で呼び出した無数の
飛礫がドロシーに殺到する瞬間、彼女の傍らで光の粒が舞い、真っ青な巨体が現れるのを垣間見た。飛礫はその青い何かに遮られ、全て弾き返される。
ドロシーの――否、邪妖精の術式は発動してしまった。
それも予期せぬ最悪の形で。
「……おいおい、召喚術だって……? 一体、何を呼び出してくれたんだ、こいつは……」
姿を現したのは、腐敗を始めた水死体のように真っ青な丸い塊。
よく見れば表面には爬虫類のような鱗が並んでおり、何かの生物らしいことがわかった。大きさは中型の竜ほどであろうか。何か太くて長い形状のものが絡み合ったような複雑さが見て取れる。
(……普通の獣ではないね。
思考はそこで中断した。
絡み合う青い玉が解け、四本の太くて長いものが
――
召喚術によって呼び出されたのは、
その四つ首蛇竜に邪妖精の赤黒い靄が纏わりつき、じわりと浸透するように溶け込んでいく。眼光は緋色の光を帯びて、真っ青だった鱗には血管のような筋が走り
(――ドロシーから離れて、四つ首蛇竜に憑依したか――)
完全な魔獣と化してはいないようだが、もとより魔獣並みの闘争能力を持つ生き物だ。憑依によって魔力的な補助を受けた四つ首蛇竜の力は、一級術士の女からしても決して侮れるものではない。
ゆらゆらと天井付近で揺れる四つ首が八つの丸い瞳孔を大きく開き女を凝視してくる。やがて完全に標的として狙いを定めたのか、視線は固定したままに四つの首がぶるぶると小刻みに震え始めた。
「や、これはまず――」
危機を察知し、咄嗟に身を翻した。その瞬間に、四つ首の一つが開けた大きな口から、おぞましい叫び声が上がる。
『キシィィィイイイイ――ッ!!』
空気を裂き、耳を
強力な振動エネルギーを持った高周波、『
背中から胸へと音が突き抜けて、どん、と内臓が飛び跳ねるほどの衝撃が襲ってきた。
「――――ぐぅっ!!」
女は衝撃で吹っ飛ばされ、会議室の外へと転がり出た。焼け付くような痛みに耐えて立ち上がり、会議室に居座る化け物を睨み据える。
(――世界座標『風吠えの洞穴』より、我が召喚に応じよ――)
『
直ちに四つ首蛇竜から距離を取るべく、女は術式で自分の体を吹き飛ばし、廊下の窓を突き破って外へと飛び出した。割れたガラスの破片が腿を浅く切ったが、その程度のことを気にはしていられない。
本部の中庭に出ると、建物全体が妙な静けさに包まれているのを感じた。
(……異常事態に気付いて、本部の人間は避難したようだね……)
魔導技術連盟の本部には要人が訪れることも多い。万に一つでも外部の要人に間違いがあれば、連盟の信用失墜を招く。ましてそれが術士の争いともなれば大問題だ。恐らくは本部駐在の術士が、避難誘導に手を尽くしてくれているのだろう。
「さて、どうしたものかな。下手に刺激して、反撃を食らうのは御免だが……」
とりあえず応援が来るまでは踏み止まらなければいけない。あれが繁華街にでも移動して暴れたら、被害は計り知れないものになる。
女は注意深く会議室の方への警戒を続けていたが、四つ首蛇竜は一向に動きを見せる気配はなかった。
(……あるいは、物力召喚で一時的に借り出されただけで、元の場所に送り返されたか……)
淡い期待に一瞬だけ気を緩めた途端、会議室の壁を貫いて長大な蛇の首が飛び出してくる。そして、剥き出しの牙が女の喉下目掛けて伸びてきた。
「気持ちの悪いほど、よく伸びる首だ!」
体を仰け反らせて、尻餅をつきながらも間一髪で牙の一噛みをかわす。四つ首蛇竜の攻撃はそれに止まらず、すぐさま首をうねらせ女に向けて大口を開いた。
喉の奥から透明な液体が溢れ出て、勢いよく女に向けて噴出してくる。
「立て続けに、今度はなんだって!?」
大きく地面を転がりながら飛び散る液体を避ける。思った以上に体へ負担が掛かり、腰が激しく痛み出す。ほとんど不意討ちで直撃を受けた『
女が避けた後に降り注いだ透明な液体は、付近にあった金属製の立て札を瞬く間に溶かしていく。じくじくと泡を立てて溶ける様子から、強酸性の液体であろうことが一目でわかった。
(
四つ首蛇竜は崩れた建物の壁から這い出し、さらに二本の長い首を中庭まで伸ばしてきた。追撃が来る前に、まずは身の安全を確保しなければならない。痛む腰を左手で押さえながら、右手は胸に当てて意識を集中する。
(――世界座標『
『
周囲に心地よい微風が吹き、肌の上を滑るようにして空気の流れが生じる。衣服の中を通り抜ける風がこそばゆく、緊迫した状況下だと言うのに女は思わず吹き出してしまった。
「相変わらず、いやらしい風だな……」
しかし、この加護のおかげで若干だが腰の痛みは引いた。自身の体重さえ感じなくなるほどに体は軽くなり、二歩三歩と後ろへ跳んだだけで四つ首蛇竜の攻撃範囲から抜け出すことができた。
今まさに建物の中から這い出してきた四つ首蛇竜に対して有効な手段を考える。
一方の四つ首蛇竜も隙なくこちらの動きを捉え、牙で噛み付こうか、高周波で焼こうか、それとも酸で溶かそうか、四本の首が攻撃手段を選ぶように入れ違いながら間合いを詰めてくる。
(厄介なのは首の数。とにかく一本でも減らして奴の攻撃手段を潰す!)
多彩な攻撃を繰り出してくる頭を潰せば、相手の手数は確実に減る。無理に強力な術式で押し切るよりも、それなりに効果の見込める術式で堅実に追い詰めていくべきだろう。
充分すぎるほどに距離を取り、両手を胸に当てて精神統一を図る。
(――世界座標『風吠えの洞穴』より、我が召喚に応じよ――)
『
かつて古代の神として崇められ、今なお風吠えの洞穴の奥底で密やかに存在し続ける
空気を圧縮し、不可視の矢として撃ち出す呪詛。超高密度の
目の前の空間を歪めるほどに収束された風が、撃ち出される瞬間を今か今かと待つように周囲の空気を震わせる。
『
力ある一声で破裂音と共に不可視の矢が飛翔し、四つ首蛇竜の首二つを一撃で吹き飛ばした。青い血をまき散らしながら、大蛇の首が地面に叩きつけられのた打ち回る。
(……まずは二つ! 残り二つも速やかに潰す……!)
続けて術式の集中に入ろうとした女であったが、その試みは思いもかけない方向からの攻撃により中断される。いつの間にか女の背後へと回りこんだ四つ首蛇竜の首が、水弾を吐き出して女の身体を弾き飛ばしたのだ。
「……くはっ!?」
『西司る風精の加護』に守られて負傷は免れたが、今の一撃で意識を集中していた追撃の術式構成が霧散してしまう。
予期しなかった方向からの攻撃で大きく体勢を崩してしまった。その隙に四つ首蛇竜はちぎれ飛んで短くなった二本の首を震わせると、肉の断面から赤黒い靄を噴出しながら新しい首を瞬時に再生する。元々の四つ首蛇竜の再生能力に、邪妖精の魔力を重ねがけした効果といったところか。
再生した首も合わせて四本の蛇の頭が、一斉に牙を剥いて女の喉を噛み切らんと殺到してくる。
(――常識外れの怪物め!)
心の中で毒づきながらも、体は凍り付いたように動かなかった。すぐ喉元まで、死が迫ってくる。
「手ぇ、貸してやるぜ。『風来』」
一瞬、空耳が聞こえたのかと思った。
死が迫り、視界が暗転した次の瞬間に女は空を飛んでいた。
鱗に覆われた太くて長い尻尾が腰に巻きついている。尻尾の持ち主は蝙蝠のような巨大な翼を忙しなく羽ばたかせ、蛇の如く長い首を巡らせて女の顔を覗き込んできた。水平に狭められていた瞳孔が開き、まじまじと見つめてくる。
――
「……『竜宮の魔女』、ようやくのお出ましかい?」
「仕方ねえだろうが! 一般人の避難誘導やらされていたんだからよぉ! こっちだってぐず共のケツに火ぃ点けて回る仕事なんざやりたくもねえ! ……それより、ありゃぁ
「……任せるよ。私は少し休みたい」
「物分りが早くて助かるぜ、じゃ、怪我人は邪魔になんねぇ所で寝てな!」
翼手の蛇竜に跨った『竜宮』は手綱を引いて、更に高度を上げようとする。その際、重荷になる女の体を適当な方向に放り投げていく。
「助けてくれて感謝するよ……」
聞こえていないだろうと思いながらも、女は『竜宮』に口先だけの礼を述べて地面へと落下していった。『西司る風精の加護』は顕在だ。落下の衝撃はなく、無事に安全域へと離脱できた。
「やれやれだね、これで少し休める。しばし、『竜宮』のお手並みを拝見といこうか」
近くにある背の高い建物の屋上へ登って、『竜宮』の動向を見物することにした。
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