第186話 魔性の契約
罪の糾弾をドロシーは否定も肯定もしなかった。
ただ、だらしなく半開きになった口から掠れた笑い声を漏らしていた。
「もう、お
絶望的な台詞とは裏腹に、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
言い知れぬ悪寒を感じて一歩後退りする。
ドロシーが無造作に右手を目の前にかざした。
『……
ぼそりとドロシーが小さな声で呪詛を吐くと、手の平から人間の頭ほどの大きさをした水の玉が出現する。
広く一般の術士にも共通して使われる、魔導技術連盟公認の
宙に浮いた水の玉が八つに分裂し、女を目掛けて高速で撃ち出される。
共有呪術『水弾』は拳大の水の玉を一つだけ高速で射出する術式だが、ドロシーの水弾は応用が利かせてあるのか八つの水弾が連続で襲い掛かってくる。
「――いきなり暴挙に出るとはね!」
水弾が出現した時にはもう回避体勢に入っていた。身を捻りながら素早く跳躍し、会議室に備え付けられた机の陰へと飛び込む。
八つの水弾が次々と机に激突し、木材の破片を周囲にまき散らす。水弾の一つ一つがかなりの威力だ。直撃すれば人間の骨くらい砕くかもしれない。
明らかな敵対行為、応戦もやむなしと判断した。
胸に手を置き、即座に意識を集中する。
(――世界座標『
『
机の陰から身を乗り出し、術式発動の一声で砂の混じった突風を巻き起こす。
至近距離から広範囲に吹き荒ぶ熱風は回避など不可能。ましてや術式を放ったばかりのドロシーには、次の術を行使するまでの間隙が生じている。並の術士であればこの一撃で確実に無力化できる。
だが砂埃の舞う会議室の中央には、平然と佇む影があった。
(……あの攻撃を防いだ? 防御の術式を展開するだけの時間はなかったはずだけれど……)
「そんな術式で、私を倒せるとでも思いましたー?」
砂煙の向こうからドロシーの声が聞こえてくる。そして、彼女と思しき人影が左手を掲げて女に差し向けた。
『
煙を裂いて水の奔流が複数、襲い掛かってくる。
咄嗟に身を捻り、水流の軌道から外れた。すぐ脇を暴力的な勢いを持つ水流が通り過ぎ、会議室の端に垂れる映写幕を濡らした。
砂煙を割って現れたドロシーが今度は右手を差し向ける。
『
右腕全体に淡く煌めく魔導回路の輝きが灯り、一瞬後、目に見えない空気の塊が放たれる。
砂塵の動きから空気の揺らぎを察知して、床に這い蹲り、辛うじてこの攻撃を避ける。頭上を通過した空気の砲弾は映写幕を吹き飛ばし、石造りの壁にぶち当たって拡散した。
「こうも連続で呪詛を発動とは……。驚いたね、いつから君は武闘派になった?」
術式の発動には魔力の根源たる魔導因子を脳から搾り出す必要がある。神経を通じて肉体に刻まれた魔導回路を流れるそれは、術者に多大な苦痛を強いるものだ。
あまりに魔導回路を酷使しすぎれば必然的に消耗し、身体に後遺症を残す危険さえある。
戦争を仕事にしている術士などは、それが原因で神経系の病にかかり、寿命を縮めてしまうと言われる。
「それじゃあ、日々の生活にも支障が出るだろう。体を壊してしまうよ?」
「お生憎さま。そんな下手を打つ私じゃ、ありませんから! 『
再び空気の砲弾を放つドロシー。やはり、ほとんど間を空けることのない術式発動。
ドロシーは哄笑を上げながら、狙いも定めず、辺りに呪詛を撒き散らす。乱暴な攻撃を掻い潜り、充分と思えるだけの距離を取った。
(……腑に落ちないな……)
先程にしろ、今にしろ、攻防における呪詛の発動時間が極端に短い。魔導因子の生成にはいくらか時間を掛けて意識を集中する必要があるのだ。
クレストフのように魔導因子を何か別の媒体に貯蔵でもしていない限り、ここまで発動が早く連発できるのは異常だ。
「大したことないんですねぇ! 一級術士なんて言っても、戦闘は不慣れのようじゃないですか?」
「……君は、一級術士というものを誤解しているよ」
彼女の行動の変化から意思の動き、呪詛の発動を見逃すまいと観察を続けながら、付け入る隙を窺う。
「第一級であるということは、呪詛を扱える数が多いことでも、ましてや戦闘技能が高いことでもない。一級とはね、それ以上、階級では評価できない可能性を持つ、そういうものさ」
「見苦しい負け惜しみですね! そこまで言うのなら……、その可能性とやらでこの危機を乗り切ってみてはどうですか!?」
声を荒げた瞬間に、ドロシーの左手から不気味な風が巻き起こる。
『
ただの『風圧』の術式ではない。何か
「あはっ、あははは……っ! 初めからこうしていればよかった。強欲なあの男も、目障りなあなたも、邪魔な人も、気に入らない人も、生意気なカガリも、面倒な手間を掛けずに力ずくで捻じ伏せてしまえばよかった!」
何かがおかしい。哄笑を上げ続けるドロシーに、はっきりとした違和感を覚え始めていた。
「どうもまともじゃないね。私の知っているドロシーはもう少し、頭の良い子だったはずだけれど」
ドロシーは再び左手を振るい、共有呪術『
辛うじて動いていた右足も不気味な風に呑み込まれ、両足が力を失い、その場に膝を落としてしまう。
「この妙な呪詛……。そして、術式発動の早さ……」
人の限界を超えた高い戦闘能力。それを有する意味は数える程度の理由でしか考えられない。そして、最も単純な方法として挙げられるのが、人外の存在との契約。
「精霊現象の一種と見るべきかな……。だとすると、一体どんな幻想種と契約を……」
目を凝らして、笑い続けるドロシーの姿を観察する。よく見れば彼女の肩越しに、赤黒い
「――
思わず、そいつの正体を苦々しく口にしていた。
邪妖精は幻想種の一種だ。
一般に認知されている精霊の内では知性に乏しい下等な部類に属するが、人に取り憑き、悪心を抱かせるという特徴を持っていて危険視されている。稀に高位精霊並の魔力を操るものもいるだけに、決して油断はできない相手だ。
「
「この子の故郷ですか? それなら、貴女もよく知っているはずですよ。何週間も旅行へ行っていたじゃないですか、無駄足を踏みに」
「……白骨の森か。そういえば、あの件を最初に調査していたのも君だった」
今更になって気づいたことだが、ここ最近のドロシーの凶行は、彼女が白骨の森の事前調査を終えて帰還してから起こしている。
(……こいつが元凶だったとはね……)
「白骨の森でこの子に出会った時、一目でお互いに通じるものを感じたんです。この子は私に勇気を与えてくれる。代わりに私はこの子を守る庇護者となった……。理想的な共生関係だと思いませんか? これ以上はない、最高のパートナーですよ!」
「それは共生ではなく、寄生だよ。君の意思も身体も、ただそいつに利用されているだけさ。邪妖精は人が心に抱いた悪心を煽り、都合良く操る」
「どうとでも言ってください。仮にそうだとしても、そのおかげで私は自身の心に偽りなく生きることが可能になったんです。そう、何も我慢することなんてなかった。私は私の思うように生きればよかったのよ!!」
邪妖精に憑かれた影響なのか、ドロシーの性格は歪められていた。だが、それすらもドロシー本人は好影響と考えているようだ。
もう何を言っても話の通じる状態ではないかもしれない。
「今の君に聞いても無意味かもしれないが、もう一つだけ聞いておくよ。どうしてカガリまで巻き込む必要があったんだい?」
この問いかけがよほど意外なことだったのか、彼女はきょとんとした表情を浮かべた後で、狂ったように大笑いを始める。
「あ、あははっ! そ、そんなことも、わからないの!? 言うまでもないけど教えてあげます。カガリは私を裏切って一人だけ幸せになろうとしたから、一緒に上を目指そうって約束したのに故郷へ帰って結婚するって、だから、だから……ふふっ、
無邪気な子供のような笑顔に、他者を見下しきった目が重なる。
「割のいい仕事を最後に紹介してあげたんです……。結婚資金が少し足りないとか、つまらない事を言っていましたから。そんな心配もなくなるような、一級資格のいる高額な難件をね……」
カガリの個人的な事情につけ込んで操心術を掛けたのだろう。本人が望んで行動する理由付けを与えてやることで、操心術はその効力を増す。
「カガリにしても、君を裏切るつもりではなかったろうに。夢を諦めて、ささやかな幸せを手にしようとしただけだ。邪妖精に操られていたのだとしても、許される行為ではないよ、ドロシー!」
「許される? 誰が、誰を許すって言うんですか? そうよ、許せるわけがない! 何より許せなかったのはあの強欲な男。私がこんな不幸な境遇にいるのに、まだこれ以上の幸福を欲している! せめてその幸福を少し分けてもらおうと近づけば、まるでゴミか虫を見るような目で私を蔑む……。挙句の果てに若い娘を囲い始めて、私みたいな嫁ぎ遅れなんて眼中にないんでしょうね! なんて傲慢、なんて狭量……。あの男が幸福を独り占めするから、だから私が不幸になるんです! これ以上の幸せを手にするなんて、見過ごせるわけないじゃない!?」
まともな会話はもう成り立っていない。それでも女はドロシーに対して一言、はっきりと言ってやりたかった。
「クレストフは……決して幸福な男ではなかったよ」
――二〇の歳。仲間と共に黄金郷とも言われる『
『途中で別れた』
クレストフはそれ以上、語ろうとはしなかった。どういう経緯かはわからなかったが、その別れが永遠のものであることは容易に想像がついた。そしてその別れが、彼の心を決定的に歪めてしまった不幸であることも。
「嘘を言うな! あの男が幸福でないなら、私はどれだけ不幸だって言うの!?」
「……君も、わかっていないようだね。いったい何が自分にとっての幸せなのか」
脱力した両足に活を入れ立ち上がる。
「私も、クレストフも、つい最近まで幸せとは何なのか理解していなかった。だが、私は今のパートナーを得て気づいた」
右手を開いて、握り、感触を確かめる。
「クレストフもようやく気がつこうとしている」
左手を胸に当て、意識を集中する。
「その幸福を、踏み躙るような事はさせない」
(――世界座標『風吠えの洞穴』より、我が召喚に応じよ――)
「遅いですよ! 『
右手を突き出し、水の砲弾を放つドロシー。
精霊の力を借りて行使する術式は、自身で魔導因子を生成する必要がない。連続して、僅かの時間で発動する呪詛は、常に敵よりも一瞬早く攻撃を仕掛けられるという利点を持つ。
(――けれど、その優位性は絶対じゃない――)
右手に隠し、握っていた虹色水晶から魔導因子を開放、体内の魔導回路を通して左腕に集中させた。爪に刻まれた魔導回路に、胸の内で加速された魔導因子が一気に流れ込む。
爪の一枚が負荷に耐え切れず罅割れた。
それでも呪詛を強引に発動させる。
『
発現した呪詛は鋭い気流となり、放たれた水弾ごとドロシーを吹き飛ばす。
「――――っあ!」
声にならない悲鳴を上げ、風に巻き上げられたドロシーは会議室の壁に激突する。そして苦悶の表情を浮かべながら、何か一言二言の怨み言を吐いて固い床へと倒れ伏した。
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