第182話 硝子の砂漠

 首都を出て、枯れた草原を延々進み、やがて空の厚い雲が切れて緑なす大地が広がる。レリィの居た山奥とはまた違う、壮大な大自然の風景に圧倒されて、思わず馬の手綱を持つ手が緩む。


 陽も、雨も十分なだけ降り注ぎ、多種多様な植物や動物が成育するこの土地は、かつて太古の時代には人間の住む都市であったとか。


 その痕跡は所々に残されており、鉄骨で組まれた塔や直方体をした石造りの建造物などが、植物の蔦に絡みつかれてほとんど崩壊しながらも、辛うじて人工物とわかる片鱗を晒している。


「神々の栄えた古代より、もっと古い有史以前の遺跡だな……。時間があれば少し調査していきたいところだが、残念だ……」

「君も物好きだよねー。こんな廃墟に興味があるなんて。いっそのこと、考古学士にでもなったら?」

 馬車を引く二頭の馬の内、片方の背に跨りながら、遺跡に目を奪われていたこちらをレリィが揶揄してくる。


「――それも、悪くないかもしれない」

「ええっ!? 本気? あっはっはっ! 嘘、嘘! 嘘でしょ!」


 ゆったりと時間の流れる風景を眺め、考古学士として生きてみるのも面白いかもしれないと考えたのは本当だ。しかし、レリィは完全に冗談と受け取ったようだ。馬から転げ落ちそうになるほど身を捩じらせ、腰巻の切れ目から下着が覗くのも気にせず笑っていた。


「そういうお前は何も感じないのか? この風景を前にして」

「ぷ、くっ、く……。その台詞、似合わないんだけど……あー、おかしい」

 目に涙まで浮かべて笑いを堪えるレリィ。どうもこの娘には、過ぎ去る時の儚さに感じ入る心はないらしい。


「それよりさ、硝子の砂漠にはまだ着かないの?」

「予定ではあと半日程度のはずだ。急に環境が変わるそうだから、砂漠に入ればそれと判るだろう」

「ふ~ん……。そんな気配は全然ないんだけどね……」


 レリィが軽口を叩けたのも、それからほんの数時間の間だけだった。

 急に草木が少なくなり、辺り一面の風景が平坦になったと気がついた頃には、地面は焼けた硝子の砂でいっぱいになっていた。

 所々に鋭く尖った黒曜石の欠片が転がり、半透明の硝子の粒が風に舞って砂嵐を起こしている。そして、遠く地平線に見えるのは揺らめく蜃気楼。


「暑い……。あっつ~い!!」


 不満の声を上げたのは、恥ずかしげもなく下着一枚で馬車の中に寝転がるレリィだった。薄布で胸と腰周りを隠しただけのあられもない姿。それも汗が滲んで肌に張り付き、もはや衣類としての役目を何一つ果たしてはいなかった。


「クレス~、暑いよ~……どうにかして……」

「言うな。言っても涼しくはならん……」

 馬の手綱を片手に握りながら、水筒から温くなった水を一口、喉を湿らす程度に飲む。水分は摂った傍から汗となり、額に浮いた汗が乾いた空気中へと蒸発していく。

 こちらはレリィと違って、いつも着ている黒い外套をきっちり着込んでいた。


「ねぇ、クレスー……そんな格好で暑くないの~?」

「心頭滅却すれば火もまた涼しい、という太古の格言があってだな」

「え~? なにそれ」

「要するに、気合いだ」

 実は自分の外套の中だけ、冷却の術式を使っていたりするのだが、レリィには秘密だ。


 ばらせば確実に彼女自身にも使えと迫ってくる。さすがに大人二人分の冷却術式を行使するとなると魔導因子の消耗が激しくなる。ケチな根性が働いたと言えばそうかもしれないが、効率の良い中規模の冷却術式は持っていないのだ。

 他にあるのはどちらかと言うと砂漠を凍土に変えてしまうような環境変質系の術式なので、むやみやたらと使うわけにもいかない。溶岩地帯など火傷するような熱さなら迷わず使うのだが。


(……それでも、こうした状況に対応できる中規模の術式も作っておくべきだったな。工房に戻ったら少し研究してみるか……風系統なら風来の才媛が得意だろうし、冷気や氷は……)


 そこまで考えて、ふと胸の内が痛む。過去、冷気や氷を操ることを得意とした知り合いの術士がいた。

 いつも露出の多い格好をして、しなだれかかってきては人のことをからかってきた、二級の腕前をもつ女の術士である。

 だが、彼女はもういない。自身が一級術士へと昇格する決め手となった『宝石の丘ジュエルズヒルズ』の冒険で犠牲となったのだ。


 今の地位を築き上げるのに、多くのものを犠牲にしてきた。そのことに後悔は――。

 そこまで頭に思い浮かべて、考えるのをやめた。

 不毛なことだ。考えても仕方のないこと。


(……そうとも、考えても意味がない。幸の光、それさえ手にすればきっと、こんな煩わしい思考からも解放されるのだから……)

 強引に思考を断ち切り、現実の世界へと意識を戻す。

 相変わらず周囲は殺風景な砂漠が広がっており、地平線には蜃気楼が揺らめいている。


 ちらりと馬車の中を振り返ると、レリィは犬のようにだらしなく舌を出しながら、馬車の壁にぴったりと沿う様な体勢で座っていた。白い肌の上で光る珠の汗と、高潮した頬にへばりつく深緑色の髪がひどく扇情的だ。


 健康な青年男子なら辛抱堪らず襲い掛かっているところだが、現状はそんな欲情さえ萎えてしまうほどに、ただひたすら暑かった。いくら外套の中を冷やしていても外気に触れている顔は、砂漠の地面から太陽の照り返しを受けているのだ。


「おい……。おい、レリィ! 生きているか! 飲み水は十分に持ってきているんだ。水分補給はしっかりしておけ、下手すると死ぬぞ!」

「わかってる……。大丈夫だから、静かにして……。クレスの声すら暑苦しいよ……」

「ああ……そうだな。俺も暑い――」

 ふと気がつくと馬車が止まっていた。

 そして、目の前には何かを訴えるような目でこちらを見ている二頭の馬。


「お前たちもか……」

 馬車の幌を広げて日陰を作り、炎天下を歩き続けてきた馬に水と飼葉と休憩を与えた。レリィも馬車の陰で水をがぶ飲みしている。顎を水滴が伝って、張りのある胸元へと流れ落ちていく。


「さすがに限界か。出し惜しみしている状況でもないな」

 レリィと馬達が必死に水を飲んでいる間に、懐から氷晶石の魔導回路を取り出して召喚術を行使する。


(――世界座標、『凍れる大陸』に指定完了――)


 脳裏に思い浮かべるのは遥か最果てに存在する極寒の大地。彼の地から呼び寄せるのは凍れる大地そのもの。


『――彼方かなたより此方こなたへ――。万年凍土、来たれ!』


 足元を光の粒が広がっていき、氷の大陸から大量の凍土が召喚される。

 砂漠の上に呼び出された凍土は、召喚されるとすぐに溶けて白い冷気を放ち、辺り一帯の気温を下げてくれた。熱を帯びた体が急速に冷えていく感覚が心地よい。あっという間に汗が引いていく。


 ちょうど水を飲み終わったレリィが一息ついて、ようやく辺りの環境が一変していることに気がつく。

「うわ! 何これ!? どうなってるの、クレス! あたし達、さっきまで砂漠にいたよね!?」

「休憩の間くらいは涼しくしようと思ってな。ちょっとした術式を使った」

「ちょっとしたって……すごすぎるでしょ、これ。いったい、何が起こったんだか……」


 周囲の一変した環境に目を丸くするレリィ。

 一方で、馬達はささいな変化など気にせず、単純に辺りが涼しくなったことで食欲も湧いてきたのか、ひたすら飼葉をがっついて食べていた。


「ねぇ、クレス! これ、馬車で移動中もできないの?」

「目的地までどれだけの距離があると思っているんだ。とてもじゃないが、魔導回路の結晶がもたない」

「うーん、残念……」


 そうして休息の一時だけは、涼しく過ごしやすい環境で体力と気力を回復させることができた。

 だがあまりの過ごしやすさに、出発をすると言い出しても、馬もレリィも術式の効果が切れるまでその場を動こうとしなかった。




 夜になり、太陽が沈むと一転して厳しい寒さが襲ってきた。

「ひぃいい~! さ、寒い、寒いよ~! こ、凍え死ぬかも……」

 夕方になり涼しくなってきた頃、ようやく元気を取り戻したレリィは率先して馬の手綱を握っていたが、日が落ちてからは急激に気温が低下し、いつの間にか氷点下まで冷え込んでいた。この急激な気温の変化が、砂漠環境の特徴なのだ。


「砂嵐も強くなってきた! 今日はもう、これ以上進むのは危険だ! 馬を車内に入れて、扉を閉めろ! ……と、お前いつまでそんな格好でいるんだ!? 凍死するぞ!」

 もう防寒着を着込む必要のある時間帯だというのに、レリィはまだ下着姿で外をうろついていた。


「急に……寒くなって……体が動かなく、なって……ううぅ……」

 既に凍死する寸前だったようだ。震えるレリィを馬と一緒に車内へ引っ張り上げ、毛布をかぶせてやる。

「ああぁ……あったか~い……もう死んでもいいかも……幸せ~」

 二頭の馬に揉みくちゃにされながら、至福の表情で毛布に包まる。こんなことで幸せを感じられるとは、本当に羨ましい性格である。


「今日は予定していたほど進めなかったな……。砂漠に入ってからの行軍がここまで過酷とは予想外だ。明日は朝早く、気温が上がる前に動くとしよう」

 馬を車内の隅に寄せて歩き回らないように繋ぎ、反対側の隅で丸まっているレリィに夕食の干し肉を手渡す。大きめの馬車を用意したとはいえ、往復二ヶ月の旅ともなると一日の食糧も質素なものだ。


 最悪、水や食料が尽きても、『物力召喚ぶつりきしょうかん』の術式を使えば物資を手元に呼び寄せることはできる。その為の『陣』は工房に組んできたのだが、調査が終わるまではなるべく余計な術は使いたくない。

 手持ちの結晶に封じた魔導因子の貯蔵にも限りがあるのだ。いざという時の為、往路では節約の心がけが肝心だ。


 レリィもその点は理解していて、食事に関して不満を言うこともなく、じっくりと味わうように手渡された干し肉を齧っている。

 食事を済ませて特にすることもなくなると急に寒さが身に堪え始めたのか、レリィが毛布に包まったまま、もぞもぞと近づいてきた。


「気温、下がってきているよね? 毛布に包まっていても寒いぐらい……」

 白い息を吐きながら、断りもなく人の毛布の中へ潜り込んでくる。毛布二枚と人間湯たんぽで、幾分かお互いの身体が温まる。


「ねぇ、クレスはさぁ、どうしてこんなきつい仕事を進んで引き受けたりしてるの……? そうまでして得られる物があるの?」

 毛布から顔だけを覗かせたレリィは、暇つぶしにとりとめもない話を始めた。

 時間を持て余していたのはお互いさまだ。いつもより近い位置にあるレリィの後ろ髪を眺めながら、普段なら言わないようなことまで自然と話し出していた。


「俺とて、好き好んで苦労しているわけじゃない。当然、苦痛よりは快楽を好む」

 快楽、という言葉に反応して毛布の中のレリィが身を硬くした。その反応が珍しく、わざと逃げられないように抱きすくめてやると、ますます体を硬くして縮こまってしまう。

 レリィは困ったような顔でこちらを仰ぎ見た。少々、悪ふざけが過ぎたようだ。


「……快楽を得るのは容易い。散々、贅沢の限りを尽くして遊び回った時期もあった。けれどそれで俺の欲求が満たされることはなく、ただ虚しさだけが日増しに強くなっていった。結局、俺が求めていたのは単純な快楽ではなかったというわけだ」


 抱きしめていた腕を緩め、軽く肩を竦めてみせる。レリィは身じろぎして体の位置を変えたが、あからさまに距離を取るようなことはしなかった。心なしか震えているような感触が伝わってくるが、これは単に寒いからだろう。


「そんな鬱々とした日々を過ごしていたとき、幸の光という伝説を知った。その光は、あらゆる不幸を打ち消して、求めるだけの幸福をもたらすとされる。幸福……それはまだ、俺が手にしたことのないものだ……」


 これまで考えもしなかった、幸福という概念。

 他人を出し抜き、富や地位を勝ち得て、思う存分に優越感を享受して、それでも心満たされなかった自分にとって、幸福という言葉は他にない甘美な響きがあった。


「今回の依頼を受けているのも、誰より、俺自身が幸の光を求めているからに過ぎない。もしそれが実在するなら、如何なる手段を持ってしても、どれほどの犠牲を出そうとも、俺はそいつを必ず手に入れる。他の誰にも譲りはしない」


 決意を新たにして意気込むのを尻目に、レリィは、くちゅん、と小さなくしゃみをした。鼻を啜りながら、「ふーん……」と興味もなさそうに、自分の髪の毛を弄っている。


「でも、他人をおとしめてまで手に入れるそれって、本当に幸せなのかな?」

 別に深い意味などなかったのだろう。だが、ぽつりとこぼしたレリィの一言はやけに気に障った。まるで、あの女みたいなことを言うのだな、と。

「幸福を望んで何が悪い。その為に他の者がどれだけ不幸になろうとも、求めてやまないのが幸福というものではないのか?」

 ついつい棘のある口調になってしまう。

 これに対してレリィも喧嘩腰になり、真っ直ぐに目を見て問い質してくる。


「……君の言う幸福、あたしには分からないよ。そもそも君の幸福ってどんなものなの?」

「どんなもの、だと……?」

 問いかけられて、答えのないことに初めて気がつく。

 あれほど貪欲に追い求めてきた幸福が、どんなものなのか自分には未だ見当もつかないでいた。


「富も栄誉も地位も権力も何もかも全て手にできるこの俺が、未だ手にできないでいるもの。……それがどんなものかわからないが、俺の……飢餓にも似た貪欲を満たせるのは、きっとそれしかないはずだ」

 血を吐くような思いで口にした言葉は、馬車内の狭い空間に虚しく響いた。揺れ動くこちらの心を見透かすように、緑柱石の如き翠の瞳が見つめてくる。


「そ……。手に入るといいね……君の幸せ」

 毛布の中に頭を突っ込み、レリィはすぐに寝息を立て始めた。

 明日に備えて自分も寝なければならない。


 しかし、自分にとって幸福というものが何なのか考えるほどに、その疑問が胸につかえて眠れそうになかった。

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