ノームの終わりなき道程

【第一章 幸の光】

第165話 翠の瞳

 走り続けていた。

 草木の茂る鬱蒼とした森の中を、ただひたすら走り続けていた。


 幾度目かの峠越え。ひと山越えれば目的地の村へ辿り着く。そう思って夜の山道を無理に進んだのが良くなかった。

 傾斜が多く足場の悪い山道、いつしか獣道に迷い込み、完全に森の深奥にまで入り込んでしまっていた。

 気がつけば闇の中、無数の獣に追われる始末。


 追って来ているのは、野生の鋭爪竜ディノニクス。体長ニメートルほどの小型竜で、非常に攻撃的な性格をしており、群れをなして他の大型動物を襲う肉食獣である。

 並大抵の動物ならば、奴らに囲まれた時点で死を覚悟しなければならない。だが、知恵ある人の技ならば、奴らを返り討ちにすることも容易い。太古の昔ならいざ知らず、今の世は人の時代である。


 ……にも関わらず、自分がこうして逃げ回っているのには理由があった。今思えば、その人の知恵とやらに驕りがあったのだろう。

 鋭爪竜の群れさえ一撃で屠り去るだけの術式を封じた結晶――例えば自分が今手にしているこの紅水晶べにずいしょうの魔導回路――これ一つ使えば奴ら獣の群れなど、いとも容易く殲滅できた。備えも十分にあった。


 ただ、ふと思ってしまったのだ。


 ――たかが獣相手に、もったいない、と。


 絶対的に優位な、強力な武器を持っているがゆえの余裕。目的地が近いこともわかっていた。そこから生まれたケチな根性だった。

 術式を封じた結晶を消耗するのが惜しく、適当に逃げ切ろうとしていたのだが……。

 奴らはどうにもしつこく追いかけてきて、結局は深夜から朝方まで走り続けるという馬鹿をやってしまった。


 白み始める空を仰ぎながら思う。

(……こんな労力を使うくらいなら、いっそ初めの遭遇で使ってしまえばよかった……)

 そもそも懐事情が厳しいわけでもなく、むしろあり余るほどの備えがあった。それでも出し惜しみしてしまったのは、単に自身の性格がケチであったというだけのこと。

 しかし、ここまで逃げてきた挙句の果てに、手持ちの結晶を消費することになるのは嫌だった。それは理屈でも打算でも何でもなく、ただの意地だった。


 ――ゲギャァ! ゲギャギャッ!


 喧しい鳴き声と共に二匹の鋭爪竜が前方の道を塞ぐ。

 一歩、足を止めた瞬間にはもう、後ろに数匹が追いついてきた。追いすがる勢いのまま一匹の鋭爪竜が飛び掛ってくる。

 僅かに横へ動き、鋭い爪から逃れる。小振りの短刀のような爪。あんなもので引っ掻かれたら、まず流血は免れない。奴らの狩りの手段はまさに、獲物を傷付けて失血させるのが狙いだ。血を失って動きの鈍った獲物へ、群れで殺到し止めを刺す。


(……さすがにもう限界か……)

 周りを囲まれ、間合いを詰められた以上、もはや逃げる手段はない。

 出し惜しみして怪我をしたり、命を奪われては元も子もない。


 ――奴らを一掃する。


 その決断を実現する切り札、紅水晶を握り締め術式発動の意思を込める。

(――薙ぎ払え――)

 準備の第一段階は完了。後は一言、呪詛を唱えるだけで良い。

 間合いを開ける為、大きく後ろへと跳び退り、敢えて奴らの囲う中央に躍り出る。

 息を吸い込み、一息に呪詛を吐く――。


 鈍い衝撃音が響き、一匹の鋭爪竜が横っ飛びに吹っ飛んだ。

 続けて近くにいた二匹の首が同時にへし折れ、少し離れた所にいた一匹が宙を舞い、後頭部を勢いよく地面に激突させて動かなくなった。

 薄暗い森の中に、不気味な沈黙が流れる。奴らは仲間が四匹、一瞬で葬り去られた事をすぐには理解できない様子だった。


 理解できない。それはこちらも同じだった。

(……術式はまだ、発動していない……)


 影が一つ、闇の中を疾走して、棒立ちしている鋭爪竜を次々に打ち倒していく。

 短い鳴き声を上げては吹っ飛ばされていく鋭爪竜。時折、ぶぅんっ、と物騒な風斬り音が聞こえたかと思うと、また一匹、宙を舞う。その投げ出された体躯が、木々の合間を縫って足元の地面に転がってくる。


 ――ゲギッ……。ゲギャア! 


 転がりながら身を起こしたそいつは、やや混乱気味に頭を振りながら、こちらへと襲い掛かってきた。

 その途中で、ずんっ、と脳天を地面に押し付けられ絶命する。

 地面に突き立ったのは一本の長い棒。


「気をつけて。気を緩めたら、怪我するよ」

 薄闇の中、浮かび上がるは白い影。


 袖のない胴着、四方に切れ目の入った腰巻は白一色で統一され、覗く手足は白磁の陶器のように滑らかな肌をしている。

 ただ長く伸びた髪の毛だけは、森と同じ深緑色をしていた。何か呪術の一種なのか、怪しげな紋様の入った帯で、髪を八つの束に分けて後ろに流している。

 まだ年若い少女だった。


 鋭爪竜の群れは、その数を半分に減じていたが、目の前の獲物を諦めるつもりはないらしい。その気配を察した少女は、再び奴らに向かって突進していった。長大な棒が振るわれる度、鋭爪竜達は派手に吹っ飛ばされていく。

 少女が跳ねると、その背中で八つに束ねられた髪の毛も四方八方に暴れまわる。

 本当にまだ若い少女なのだが、その身のこなしは一流だった。操っている棒術も、よほどの訓練を積んだものと思われる。

 少女は縦横無尽に動き回り、ものの数分もしない内に鋭爪竜の群れをあっさり全滅させてしまった。


 死屍累々の風景を背に、棒を持った少女が無言でこちらへ向かって歩いてくる。その様は何か禍々しく、自分もまたこの少女に撲殺されるのではないかという恐怖を抱かせる。

 思わず一歩、後退りしたこちらを見て、少女は、はっとしたように目を見開いた。

 美しい、緑柱石エメラルドのように透き通った翠の瞳。


 無骨な棒を隠すように背負いなおして、少女はほんの一瞬だけ、哀しげな表情を見せた後、微妙な作り笑いを向けてくる。

 こちらの緊張を解そうというつもりなのか、だとしたら下手糞な愛想笑いだった。

(……愛想笑いは、他人の批判もできないか……)

 少女の愛想笑いに苦笑いで応じると、そんな不器用な応答でも、こちらが警戒心を解いたのはわかったのか、彼女は先程よりも幾分か自然な表情になった。


「君、一人で峠越えしてきたの? 誰か他に、一緒に来た人とかはいる?」

 子供を相手に話をするような、穏やかな口調で問いかけてくる。

 自分は中肉中背で人並みの体格はあるつもりなのだが、顔のつくりがやや童顔なので、実年齢より下に見られることは多い。大方、年下に見られているのだろう。


 だがこちらとしては、そんな勘違いに合わせてやる義理はない。

「一人で来た」

 横柄に一言、事実だけを口にすると、少女は驚きを顕わにした。

「本当に? それ、ちょっと無謀だよ。いったいどうしてそんな自殺行為をするかな……」

 咎めるような表情でこちらを見やる少女。しばし、こちらを睨みながら、深刻そうな面持ちで考え込む。不意に発したのは意外でもなんでもない提案。

「また猛獣に襲われるのも心配だし、麓の村まで一緒に付き添ってあげる」

「必要ない」

 小娘にお姉さん面されるのは御免なので、即座に断った。


「……え? 何? 君、何て言った?」

 今の返答は聞き間違いか、と問い質す少女にはっきりと告げてやった。

「一人でいい。付き添いは必要ない」

 こちらの返答に少女は困った様子で頬を掻く。

「いや、でもさ……君、弱いでしょ? 一人で猛獣に遭ったら殺されるよ」

 殊更に強調された「弱い」という単語にぴくりと頬が引き攣る。


「……別に、鋭爪竜なんて敵じゃない」

「ついさっき、追い詰められていたじゃない」

「まとめて一掃するつもりだった」

「息も絶え絶えの状態でどうやって?」

「どうとでもなった」

 何だか負け惜しみを言っているように聞こえてしまうが、全て事実である。

 それなのに、少女はまだ納得がいかない様子だった。


「やっぱり心配だから一緒に――」

「――しつこい。これ以上、構うな。それとも、恩を売って礼金でも求めるつもりか?」

 思わず生来の悪質な性格が出てしまった。

 口の悪さと疑り深さは超一級、などと言われる捻くれ者。

 笑顔で近づき、無償で他人を助けるような人間は信用できないと思っている。この少女はまさにその典型なので、警戒を怠ることができない相手とみなしていた。

 心身共に疲れ果てている今、何を考えているかわからない人間を傍に置いて歩くのは、自分にとって精神衛生上よろしくない。

 それゆえの拒絶。至極当然の流れだ。


 だというのに少女は、たかがそれだけのことでひどく傷ついた様子を見せ、震える声でもう一度こちらに問いかけてくる。

「あぁ……、そう? 本当に、助けは要らないんだ?」

「余計なお世話だ」

 その一言で、少女は飛び上がった。

 岩の突き出た山の斜面を猿のように駆け上がり、一際大きな岩の上で、こちらを見下ろしながら怒鳴り散らした。


「もう知らないから! 勝手にくたばっちゃえ!」

 なるほど、彼女もまた自分同様、口が悪いようだ。

 それでも何度か、道の先から心配そうにこちらを振り返る姿が見えた。追い払うように手を振ってやると、少女はわかりやすく手近な木々に八つ当たりしてから、山の中を走り去っていった。


 ………………。


 ようやく、一人になれた。

 おかげで、ざわついていた心も落ち着いてくる。


 ゆっくりと一人で歩みを進め、結局最後まで使わなかった紅水晶を手の平の上で遊ばせながら独り言を呟いた。

「……ただで助けてもらったのだから、儲けものか」

 助けられたという実感は薄く、欠片の感謝の気持ちも湧いてはこなかった。

 そうしてすぐに先程の少女についても興味を失った。


「……まあ別に、どうでもいいことだな……。それよりも求めるものがあるといいが……」

 山道を下り終えて村を視界に捉えると、ここに至るまでの経緯を思い出し、感慨深い溜め息が出る。そもそもこんな山奥の田舎にまで、貴重な時間を割いて足を運んだのには、それ相応の理由がある。


 ただ、その理由について語ったなら、多くの者は笑って馬鹿にすることだろう。

 自分はここに、『さいわい』を探しに来たのだと……。

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