第161話 終わりなき借金返済
労働を知らぬ女の白い指先が艶めかしい動きで伸びてきて、咄嗟に引いたこちらの指を絡めとり、しっとりと湿った手の平の内に握り込んでくる。
「ねえ、クレストフ……なにも遠慮することはないんですのよ? 私と貴方との間のことだもの。多少、強引に迫られて身を許してしまったとしても、それは合意の上と周囲もみなしますわ」
「……戯れはよして頂きたい。一時の感情で道を誤るなど、理性ある人間の振る舞いではないでしょう」
「あら、私は貴方となら道を踏み外しても構いませんけれど。貴方は……嫌、なのかしら?」
俺の胸元へとしな垂れかかってくる伯爵令嬢。さらさらとした金髪が押し付けられ、上目遣いの熱を持った潤んだ瞳でこちらの瞳を覗き込んでくる。
口で拒絶はすれども乱暴に手を振り払うわけにもいかず、どうにかこの危機から逃れようと策を考えている間にも、伯爵令嬢はじりじりと俺との距離を詰めながら既成事実を作り上げんと接触を深めてくる。
彼女の細い指が俺の腰から背中へと這い回り、逃げられぬように抱きしめてしまおうと最適な位置取りを探っていた。
「くっ……。嫁入り前の女性がこのようなこと、誤解をされてしまいますよ」
「ふふ……それはどんな誤解かしら? もし、その誤解で嫁の貰い手が居なくなったら、責任は取って頂けますのでしょう? 私は貴方がお相手であれば全く問題はなくてよ」
「貴女の御父上が許さないでしょう」
「それでしたらむしろ、諸手を上げて喜んでくれますわ。貴方ほどの優良物件を婿に迎えられるなら本望でしょう」
伯爵令嬢は、つつっ……と意味もなく俺の胸板を指でなぞる。「うくっ……」と思わず変な声が出てしまう。
ただ守りに入って耐えていてもこちらの不利は増すばかりだ。
「それに、私と一緒になってしまえば、もう借金の返済など考えなくてよいのですよ。新たな事業を興したいのなら資金提供だって考えますとも。悪い話ではないと思いません?」
確かに悪い話ではないのだろう。借金がなくなって、資金援助も得られるとなれば、秘境『
しかし、それは本末転倒というものだ。
そもそもの借金が旅費を稼ぐために始めた鉱山開発の資金なのだから、ここで旅費の資金援助のため伯爵令嬢との結婚を引き換えにしてしまったら、わざわざ鉱山開発を始めた意味すらなくなる。
それに一度、伯爵家に取り込まれてしまったら、飼い殺しの日々が待っているに違いない。
最悪、秘境探索などという危険は冒せなくなるかもしれない。つまるところそれは自由を失うことに等しい。
伯爵令嬢は頭もよく、器量よしだ。意志の弱い男なら、こうして甘く囁かれて向こうから迫られたら、勢いで一晩を共にしてしまうかもしれない。
だが、それだけは駄目だ。俺には目標がある。
それすら果たしていない段階で、自由を失うわけにはいかない。
「申し訳ないが、今はまだ身を固めるつもりはありませんので。それに、借金の返済ならば当てはあるのです。近いうちに、きっちりと清算してみせますよ」
「まぁ……そこまで、私との結婚はお嫌ですか?」
「好き嫌いの問題ではありませんから。借金の返済はあくまで契約上の義務。返済の計画も考えているのですから、妙な後付けの条件で返済契約を破棄してもらう必要はないのですよ」
情に訴えてくる伯爵令嬢に対して、最後は強引なお断りでもって切り抜ける。
少しでも脈があるなどと思わせては、いつまでも経っても不毛な色仕掛けと拒絶の応酬が続いてしまう。
「ふぅ……クレストフは本当に頑固ですね。わかりました、借金の返済期日はまだ先のことですし、話を急ぐつもりはありませんわ」
「ええ、もちろん期日内に借金は返済してみせますとも。では、今日はこれで失礼――」
「それはそれとして、今日はうちに泊まっていくでしょう?」
「いや、俺はすぐに帰りますが……」
「もう遅い時刻ですし、明日の出立までゆっくりしていってくださいな。それに天候も崩れていますわ。お話に夢中で気が付かなかったかもしれませんが、外は雨ですから」
確かに今から出発しても真夜中の暗闇を馬車で行くことになる。
雨まで降っていては最悪、道から外れて事故を起こしたり、遭難する危険だってある。こうなると、なかなか断りの言葉を探すのが難しいのだった。
(……断りの理由と、帰還の方法を用意しておくべきだったな……)
伯爵邸の長い夜が始まった。
伯爵令嬢の話し相手に遅くまで付き合わされた俺は、ようやく解放されて客室の寝台の上で休んでいた。
(……あの令嬢にも困ったものだな。本気で好意があるわけでもないだろうに、利得だけで伴侶を決めようとしている。ま、貴族なら普通なのかもしれないが、もう少し後先を考えて行動してもらいたいところだ……)
二十歳を待たずに準一級術士となった俺の能力を欲しがる人間は確かに多い。
一級術士となるのも時間の問題、そうなれば魔導技術連盟の幹部として長く権力を掌握できることだろう。
その地位と権力を有効活用したならば計り知れない利益を生み出す。
貴族からしても、その手の権力は魅力的に過ぎる。
それ故に、あの伯爵令嬢のように互いの人間関係を深く考慮しないで囲い込みに走る者も出てくるわけだ。考えるほどに溜め息しか出ない状況である。
あれから天候はさらに荒れ、外は雷と嵐が激しくなっていた。
俺は完全に寝入る前に、客室の内鍵に『
この伯爵の館で命の危険があるとは思えないが用心に越したことはない。
呪詛で部屋の入口を固めて気分的にも一心地ついたところで、俺は肌着だけになると寝台に潜り込んだ。今日は気疲れが過ぎた。ゆっくり休むとしよう。
途切れることのない雨と風が窓ガラスを叩き、時折激しく鳴り響く雷の音が遠くに聞こえる。一度は眠りについたのだが、不意に外の音が気になって目が覚めてしまった。
ギシギシと寝台の
すぐ近くで――。
雷光が部屋を一瞬白く染め上げ、数秒遅れて雷鳴が轟く。刹那の光に照らされ、寝台に膝をついてこちらを覗き込む女の姿が網膜に焼き付いた。
「おわぁああっ!?」
「きゃっ!?」
俺が上げた声に驚いたのか、可愛らしい悲鳴が上がる。寝台の上で尻もちを着いたのは寝間着姿の伯爵令嬢だ。
「――な、何故、部屋の中に、いる?」
あまりの驚きにうまく言葉が紡げない。
部屋の戸の内鍵は『閂の呪詛』で開かないようになっている。窓からかと思ったが、そちらも鍵は閉まったままで雨も入り込んではいないから開け放たれた様子はない。
いったいどこから? そう思って室内を見回すと、明らかに違和感のある扉が部屋の壁に出現していた。
見た目はただの壁なのに、半開きになって隣の部屋と通じていた。
隠し扉だった。
「ふふ……驚きました? この部屋、昔ここに住んでいた別の貴族が作らせた、逢引き用の隠し通路があるんです」
「そんな部屋に客を泊めるとか……悪質だろ……」
「ねえ、クレストフ? 今夜はお父様も帰ってくる予定はありませんの……」
俺の文句は無視して伯爵令嬢は寝台の上を四つん這いになって距離を詰めてくる。緩く開いた寝間着の胸元から、白い肌と谷間が覗く。
「外は嵐で、雷まで鳴っている……私、心細いわ。慰めてくださらない?」
まずい。この状況は非常にまずい。
なし崩し的に一緒の寝台で寝ようものなら、確実に俺は伯爵家に取り込まれてしまう。それだけは避けなければ。
「すみませんが――急用を思い出しました!!」
慌てて着替えると、俺は大雨の降りしきる外へと飛び出した。
「ちょっとお待ちになって!? さすがにそれは無茶ですわよ! 外はまだ嵐で――」
伯爵令嬢の声が背後から聞こえていたが、ここで立ち止まれば連れ戻されてしまう。
そうなれば今度はどんな理由を付けて、何をされるかわかったものではない。想像できるだけで幾つもの罠が思い浮かぶ。
まずは雨に濡れて冷えた体を温めましょうと浴室に連れ込まれ、着替えを取り上げられて寝台へ直行、そこに伯爵令嬢が乗り込んでくれば詰みだ。
いや、あの勢いなら浴室に一緒に入ってくる恐れさえある。もしそうなら、その時点で終わりだ。
嫁入り前の貴族女性の裸を見てしまったとなれば、難癖をつけられて責任取らされるのが落ちだ。侮ってはいけない。無茶苦茶な理屈でも通してしまうのが貴族というもの。
「……だとすれば、ここで振り返る選択肢はない!」
大荒れの天候、真っ暗な闇夜。
馬車にも乗らず身一つで飛び出した俺だったが、この選択に間違いはないと判断して一路、現在の仮拠点となっている鉱山洞窟を目指して走り出した。
降りしきる雨の中、俺は
(――組み成せ、地を跳ねる獣の如く――)
魔導回路が淡く光を放ち始めたところで、赤鉄鉱を自身の足先へと投げつけた。
『
術式を発動する
靴底に強靭な
これならば馬がなくても自力で帰還できる。
(……ただ、視界が悪いな。仕方ない、術式を惜しんでいる場合でもないか……)
丸く磨き上げられ、猫の目のように光の筋が走った蜂蜜色の宝石、
(――見透かせ――)
『猫の暗視眼!!』
通称、
こうして俺は伯爵邸から、まさに全力離脱とも言うべき逃走を果たして、仮拠点である洞窟へと無事に戻ってきた。そう、無事にだ。
「ぐっ……それにしても、全身ずぶ濡れだな……。一晩、走り続けたのも体に負担が来ている……早く着替えて休むとするか」
思い返せば今夜は仮眠程度にしか睡眠を取っていない。
ずっと街道を走り続けてきて疲労も激しい。
途中でどこかの街や村に立ち寄って休もうにも深夜であったため宿も閉まっていた。結局、ここまで休憩なしで帰ってくるしかなかったのだ。
俺が洞窟の中に設営した天幕へと向かうと、その途中で地面に座り込んでいる精霊ジュエルを見つけた。
「ジュエル、戻ったぞ! 悪いが着替えを手伝ってくれ。雨でずぶ濡れなんだ」
「むぐっ!? ボ、ボス、お帰りなさい! は、早かったねー? こんな嵐の中を帰ってきたの?」
「あぁ、まったく酷い目にあった。どうにか逃げ出して来られたが……ジュエル? お前、何を食べている?」
「…………な、何も。モグッ、ごくんっ」
よく辺りを見回せば、半貴石の欠片と思しきものが地面に散らばっている。
「なぁ……ジュエル。お前、俺がいつも口を酸っぱくして言っていること、理解していたのか?」
雨に濡れた体が冷えてきたのか、ひどく薄ら寒い感覚が腹の底から伝わってくる。
「あの、ボス? ええとね、これはその……ちょっと口寂しくてつい……」
「俺が毎日、毎日、必死で借金返済の計算をしている横で、菓子を貪るように貴石を食い散らかしやがって……。それに飽き足らず、少し目を離せばまたこれか――」
「だだだっ、だって、こんなに早くボスが帰ってくるなんて聞いてなかった……」
相変わらず反省もしなければ、言い訳しか口にしない。
この屑石精霊にはお仕置きが必要だ。
(――世界座標、『腐海の湖』に指定完了――)
『服従を誓うもの、我が呼びかけに参じよ――
黄水晶が閃光を放ち、舞い散る光の粒と共に巨大な粘菌が召喚された。橙色に透き通った巨体をぶるんぶるんと揺らして、粘菌はジュエルへと迫っていく。
「あ、あああ、あわわわわわぁっ!? わぁ――!!」
慌てふためくジュエルを巨群粘菌がずるりと呑み込む。
「ジュエル貴様ぁあっ!! 俺の計算を狂わせやがってぇぇっ!! 丸一日、粘菌のなかで反省していろ!!」
狂ったのは借金返済の計画か、それとも俺の精神なのか。
正直なところ伯爵令嬢に手間をかけさせられた八つ当たりかもしれなかったが、俺は荒ぶる感情を抑制することもなく怒りの粘菌召喚でジュエルを責め立てるのだった。
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