第157話 闇色乙女
※関連ストーリー 『幻想種の祀り』参照
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暗い、暗い、闇の中。
ビーチェは一人、右も左もわからない洞窟に取り残されていた。
最初こそ道に迷う恐怖に囚われていたが、もはや完全に自分の現在地を見失ってしまっては、ただひたすらにここではないどこかを目指して歩くしかなかった。
それも、先が見えない洞窟を延々と歩き続けていれば、体力よりも気力が尽き果てて足は止まってしまう。
ビーチェはついに、前へ進むことを諦めてしまった。
「ここ、どこだろ……」
口から漏らした声は洞窟に反響し、誰の声が返ってくるでもなく虚空に消えた。
「誰もいない……何もない……」
闇の中には自分唯一人。魔導ランプの明かりを灯しても無機質な洞窟の壁が続くばかりで、隧道の遠く先は見通せない。
前も後ろも、左も右も進むべき道を見出せない。それはひどくわかりやすい、単純な絶望というものであった。
ビーチェは洞窟の壁に寄りかかり、そのまま腰を落として地面に座り込んだ。
膝に顔を埋めて、寂しさと悲しみに押し潰されまいと歯を食い縛っていた。それでも流れ出てくる涙を止めることはできず、喉は絞られるように痛んだ。
「うっ……うくっ……うぅ……」
ビーチェが寂しさのあまり泣いていると、闇から溶け出すように
「……シェイド、励ましてくれているの?」
ビーチェがシェイドに手を伸ばして語りかけると、シェイドは空中で円を描いて飛びながら、縦に割れた大きな口を開いた。
『私が闇の中で心細い時、私の助けとなってほしい』
シェイドの口から、ビーチェにそっくりな声が発せられる。それはビーチェがかつて口にした契約の言葉。
シェイド自身は喋る能力を持たないが、ビーチェの声を記憶し、そのまま反響させて返すことができたのだ。本来は『闇の声』という他人を惑わす呪詛の類であるが、シェイドなりにビーチェを励まそうとした行為だろう。
「ありがとう……そういえば、そんな約束してた」
気を取り直したビーチェであったが、一度座り込んでしまった重い腰は上がらなかった。
ジュエルとはぐれてしまった今、クレストフがビーチェを探し出す術は限られている。懐にしまってあった金属片、極単純な魔導回路の刻み込まれた番号座標を取り出して眺めながら、クレストフが自分の元に来ない理由を考えていた。
「クレスは、きっと迎えに来ない」
はぐれたとは言え、距離的にはそれほど遠くに離れたはずがなかった。
それにも関わらずクレストフと合流できないのは、おそらくこの辺りの領域が不可思議な異界と繋がっているため、位置を特定できなかったのだろう。
せめてジュエルと一緒にいたのなら、契約精霊の気配を辿って来たクレストフと合流できたのだが、色々と不測の事態が重なった結果のことだ。
「仕方がない。ここへ来るとき、約束したから。お互いに、覚悟を決めていたから……」
無理を言って付いて来てしまったのは自分の我が侭だ。はぐれてしまったのも自分の不注意が招いたこと。
「それでも私は、後悔なんてしない」
『後悔なんてしない』
ビーチェの声を反響させるシェイド。自分の言葉を肯定してくれたのが感じられ、ビーチェはにっこりと微笑んだ。
シェイドはしばらくビーチェの頭の上に乗って静かにしていたが、不意に羽ばたくと洞窟をある方向に向かって飛んでいく。
「……? シェイド? どこに行くの?」
思わずビーチェも腰を浮かせ、そのまま闇の中をシェイドに誘われて、いずこかへ通じる道を進む。
先は相変わらず見通すことのできない闇。時として上下さえわからなくなる異界の狭間で、その先に何があるとも知らぬまま、ビーチェは歩き続けた。
どれほどの時間歩き続けただろうか。
途中、お腹が減って何度か召喚術で食糧を呼び寄せた。召喚術を教わっておいて本当に良かった。ひとまず、餓死は免れた。
送還術も習っておけばクレストフと手紙でやり取りもできたのだが、旅に出るまであまりにも時間が少なすぎた。こればかりは一人でどうにかなるものでもない。
ビーチェが食事をしながら休んでいると、一匹の
「ノーム……こんなところにもいるの……」
ノームはこの辺りの地質の影響を受けているのか、銀色の毛玉となって光り輝いていた。
金属光沢のある毛むくじゃら。しかし、その光沢を際立たせていたのは、ノームが頭上に抱える輝く石だった。
「――
ビーチェの声にびっくりしたのか、ノームは一目散に駆け出す。
日長石の輝きを目印にビーチェはノームを追った。
ノームを追いかける途中でビーチェは新たな光を見つけた。暗い洞窟の地面にぽつりぽつりと光る日長石の輝き。
それは明らかにクレストフの意思で配置されたもので、どこかへ導こうとしているのがわかる。
点々と続く希望の光を夢中で追って、ビーチェは走って走って走り続けた。
やがて水晶の小路を抜け辿りついた場所は、暗く闇に沈んだ少女の心を一瞬にして煌きで埋め尽くした。
そこは、宝石の丘。
茶と緑の小粒な結晶、
宝石の砂利道をしばらく進むと、今度は結晶質の
「こんなにたくさんの宝石……初めて見た……これが……宝石の……丘……」
丘の上には
クレストフの元で、山と積まれた貴石を見てきたビーチェだが、さしもの彼女もこれほど大量の宝石を見るのは初めての経験だ。この時ばかりは寂しさも忘れて、宝石の丘を夢中で駆け回った。
梨地状に凸凹とした表面を晒す丘の上から辺りを一望すると、ひときわ大きく聳え立つ巨大な楕円形の水晶球が目に入った。
丘を下って水晶球の傍まで寄ってみると、その水晶球の中には小さな精霊が宿っている。
「ジュエル?」
彼女の知っている精霊の姿と比べて小さかったが、ジュエルそっくりの精霊らしき存在が水晶球の中で眠りについていた。
水晶球を突こうが叩こうが、中の精霊は微動だにしない。反応が返ってこないので、やがてビーチェも水晶球に構うのは飽きてしまった。
これはジュエルに似ているが別の何かだろう、と結論付けて、ビーチェはその場を後にした。
宝石の丘をさらに奥へ進むと、旅を共にしてきた人が結晶に包まれているのを見つけた。
金の縁取りがなされた美しい純白の鎧に身を包む、若い女性の騎士だった。
「セイリス……」
手を組み、目を閉じて、まるで静かに眠っているかのごとく、結晶に包まれた状態で横たわっている。
彼女もジュエルそっくりの精霊と同じように、ビーチェの声に反応することはなかった。
幻想的な風景をただただ唖然としながら見回し、ビーチェは宝石の丘を彷徨う。
足の裏で、何か丸いものを踏んだ。地面を見ればそこには、縞模様をした石の耳飾りが落ちていた。
他にも魔導回路を刻み込まれた宝石、宝飾品の数々が落ちている。そして、一枚の黒い外套。
見覚えのあるそれらの品は、疑いようもなく彼女の求める人が身につけていたものだ。
外套を抱きしめて、その襟元に顔を押し付ける。
「クレスの匂いがする……」
ビーチェにはわかっていた。洞窟に残された光の道はクレストフが自分を導いてくれたものだと。自分はそれを辿り、宝石の丘まで来ることができたのだ。
「でも、もうここにクレスは、いない……」
近くに構築された陣を見て、ビーチェはクレストフとの決定的な別れを悟っていた。送還の陣でクレストフは既に帰還した。
ビーチェはその陣を使って帰還することはできない。彼女の体に刻まれた魔導回路が、彼女自身の送還を阻害するからだ。
ビーチェは考えた。
彼がこの場へ戻ってくることはない。ここへ何も持たずに送還術で来てしまえば、彼自身も戻ることができなくなるからだ。
自分の生存は召喚術の行使によってクレストフに知れるだろう。しかし、自分を連れて帰る方法がないのなら、決して来ない。
宝石の丘へ辿り着いたかどうか、無事な姿だけでも一目確認しようとか、わざわざ危険を冒してまでそんなことに時間を費やす人ではない。
クレストフは来るなら来る。来たならきっと自分も帰還できる。
来ないなら来ない。半端な希望を抱かせるほど、彼は残酷な性格ではない。
そして、おそらく彼が戻ることはないだろうということが、ビーチェにはわかっていた。
「クレス……」
もうクレストフには会えない。どうしたって会えないのだ。
「クレス、クレス、クレス……!!」
ビーチェは泣いた。誰もいない宝石の丘で泣き喚いた。親を呼ぶ赤子の泣き声のように、庇護者を強く求める子供の声で泣いた。
ここまで堪えていたものが堰を切って溢れ出した。
「会いたい、会いたいよクレス……。私、宝石の丘まで辿り着いたのに、こんなところでお別れなんて……!」
ビーチェは唯一人で泣き続けた。
時間を忘れて、いつまでも泣き続けていた。
静かなる宝石の丘に、少女の慟哭が虚しく響く。
昼も夜もない場所で、時間の感覚は不確かだった。加えて言うなら、ここが正常な時間の流れに乗っているかも怪しいところだ。
宝石の丘は一部、異界と融合している空間がある。こちらでの一日が、クレストフの方では一ヶ月になっているかもしれない。その逆だってあるかもしれない。
もう何日。何ヶ月。何年? 待ったかわからない。
時間の流れが異なるだろう宝石の丘の外で、どれだけの時間が経過しているのか。
彼は来ない。
希望はとうに捨てていた。泣き続けて、泣き続けて、泣き疲れて……。
ビーチェはいつしか宝石の丘で朽ち果てることを内心で覚悟していた。
(別にいい。私は十分、幸福だった)
ある日突然、召喚術による食糧供給が途絶えたとしても、彼女はその時を受け入れる覚悟を固めていた。
それでも気を緩めればどうしようもなく涙が溢れてきて、涙が涸れるまでは止めようがなかった。
ひとしきり泣いた後で、ビーチェは宝石の丘の大晶洞に入って一眠りした。
感情が爆発して疲れてしまったから、しばしの休息である。特に急いで何かをすることもない。
彼女の眠りを妨げるものなどここにはいない。ここには宝石以外、何もないのだから。
ぴしり、と音が鳴った。
固い物に罅が入る音。
ビーチェは眠っていたから、その音には気がつかなかった。
音は大晶洞の外、大きな宝玉の卵から響いていた。
とても長い時間、ビーチェは眠りについていた。身体は健康そのものであったが、弱りきった精神は彼女を長い眠りに誘っていた。
覚醒状態にあることが過大な精神的負担を少女に与えるため、脳が自衛の手段として長い睡眠により心の安定を図ろうとしたのだ。
眠っている間は苦しまなくて済む。余計なことは何も考えなくていい。何も感じられないが、一切の苦しみのない眠り。夢さえみることのない深い眠り。
それはある意味、少女にとって幸福な時間であった。
だが、どれほど深い眠りについても、正常な身体はいずれ目覚めのときを迎える。それは自然と覚醒する場合もあれば、わずかな外的要因でも起こりうる。
徐々に覚醒へと近づき夢現の狭間にあったビーチェは、不意に誰かに揺り起こされるような感触を覚えて長い眠りから目を覚ました。
「ん……誰? クレス……?」
そんなはずはないとわかっているのに、寝惚けた頭は甘い幻想を口にする。
実際に彼女を揺り起こしたのはクレストフなどではなかった。
目の前にいたのは二人の少女だった。
大粒ルビーの紅い瞳が二組、ビーチェの寝顔を覗き込んでいた。
「え……? ええ……!?」
彼女らは一見して十歳前後の少女の容姿だが、翡翠色の肌に銀糸の髪、そして水晶の二枚羽を生やしていた。明らかな人外である。
そしてビーチェにとっては見慣れた姿でもあった。
「ジュエル?」
ビーチェの問いかけに二人の少女、否、二匹の精霊は顔を見合わせた。
「ジュエル?」「ジュエル?」
互いに互いを見合って、自分がジュエルと呼ばれたのか、もう片方がそう呼ばれたのか、確認しあうように復唱した。
「ジュエルだ!」
ビーチェは深く考えずに二匹の精霊に飛びついた。
「わきゃー!」「わひゃー!」
精霊達は可愛らしい声を上げてひっくり返り、ビーチェに押し倒された。
少しびっくりしたような表情で赤い瞳をぐるぐる回していたが、精霊達はやがてそれが親愛の表現なり遊びの類であるのだろうと理解したのか、くすくすと笑って今度は二匹でビーチェに飛び掛った。
「ぐぇっ!?」
見た目に反して重量のある二匹に押し潰されて、ビーチェが苦しげな声を上げた。
しばらく咳き込み、仰向けに倒れたまま苦しげに息をするビーチェを、二匹の精霊が心配そうに見守っている。
「あはっ。あははっ! ジュエル、ジュエルが二人もいる! なんで! 面白い!」
二匹の精霊は突然笑い出したビーチェに対して、困惑したように顔を見合わせたが、すぐに心配することはないと理解したのかビーチェと同じように声を上げて笑い出す。
「あははっ!」「わははっ!」
「あっはははっ!」
精霊達が笑った。ビーチェも笑った。
宝石の丘へ来て、笑ったのはこれが初めてではないだろうか。
だから、涙を流すほどに笑った。
本当はわかっていた。この精霊達がジュエルではないことを。
それでも、ジュエルと縁のある存在だと言うことはわかった。
それだけで十分だった。
クレストフとは遠く離れてしまったが、傍らには二匹の陽気な精霊がいる。
もう孤独を恐れることはない。
恐れることなど何もないのだ。
「あなた達は、ジュエルの子供?」
「ジュエル?」「子供?」
ビーチェの問いかけは、二匹の精霊にはいまいち伝わらなかった。それでも、問いかければ何かしらの反応を返してくれるので、ビーチェは根気よく彼らと話を続けた。
「私はビーチェ、あなた達は誰?」
「ビーチェ? あなたはだーれ?」「あなたは、ビーチェ!」
とりあえず、ビーチェという名前の意味はなんとなく伝わったようだ。二匹の精霊はしきりにビーチェの名前を連呼している。
「ビーチェ、行こう」「行こう、ビーチェ」
精霊達はビーチェの左手と右手を取って立ち上がらせると、円を描いて回りながら宝石の丘を走り出す。ビーチェも引っ張られるようにして宝石の丘を走った。
「行く? 行くってどこへ?」
「お外!」「お外!!」
「外……?」
ビーチェの問いかけに返ってきた答えは、彼女が考えもしなかったことだった。宝石の丘の外へ出ること、ここではないどこかへ行くこと。
「道、わかるの?」
「道?」「道、わかんない」
無邪気な精霊達は顔を見合わせて首を傾げた。
少しだけ悩んだ様子を見せていた貴き石の精霊達であったが、考え込むよりも前に鏡合わせのような動きをしてビーチェに振り返る。
「でも平気だよ」「どこかに着くよ」
底抜けに明るい前向きな発想。宝石の丘から外に出れば、少なくとも外へは出られる、当たり前の話。それでも、何の希望もなく宝石の丘で朽ちるのを待つよりは、よほど意味のある行動だろう。
そういえばジュエルは一人で、宝石の丘から人間達の暮らす世界へとやってきた。
この精霊達もまた、独自の感覚で外の世界を目指すのかもしれない。
宝石の丘から出た先が、どこへ行き着くのかはわからない。だが、もしかしたらもう一度、人里へ下りさえすればクレストフの元に帰る道が見つかるかもしれない。
微かだが、絶望の闇の中で見つけた一筋の光明。その輝きは、ビーチェの目にはどんな立派な宝石よりもまばゆく映った。
「行こうか、お外」
「行こう!」「行こう!」
そして少女は宝石の丘を
いつ来るとも知れない人を想って。
待つのではなく、向かっていった。
精霊達と共に、自らの足で帰還の道を辿り始める。
魔物達には主がいて、
いつしか
その最奥を見た者は未だおらず、今なお洞窟は複雑に延び続けている。
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