第156話 黒猫の陣

 魔導技術連盟の本部で一級術士への昇格を認められた後、俺は自身の錬金工房へ戻ると一人、念願の地位に登り詰めた実感に浸っていた。

 祝杯に年代物のワインを開けてグラスへとなみなみ注ぐ。酒の嗜み方などよく知りもしない俺は、香りを楽しむこともなく器を満たした赤い液体を一息に飲み干した。

 もう誰にも、何にも恐れを抱くことなどない。己の我が侭を通し、自由に振る舞うことが許される。


 これが、一級術士になった特権。

 俺はついにそこまでの領域に到達した。

 その実感が身に溢れて――。


(……これが俺の望んだ地位? 特権……?)


 否、実感は相変わらずなかった。

 強いて言うなら「こんなものか」といった程度だ。


 しかし、それもまた大きな心境の変化なのかもしれない。それまで騎士に対して抱いていた劣等感も、以前ほど強いものではなくなっていた。

 騎士は確かに強い。だが、それも超越種や高位幻想種を前にしては絶対的なものとは言いがたい。宝石の丘への旅でそれがわかった。

 そして、俺はそんな超越存在を相手にしながら生き残った。もう、騎士という存在を超えたと言っても過言ではないはずだ。


 そこまで考えて、俺は唐突に虚しさを感じた。

 くだらない。だからどうだと言うのだ。誰かに自慢するのか、密かに優越感に浸るのか。

 詰まるところ、俺が心を縛られていたことはその程度の取るに足らないことだったのだ。壁を越えてみれば大したことはなかった。

 頂点に登り詰めるとは、そういうものなのだろう。


 何だか心も体もだるい感じがして、とりあえず惰眠でも貪ろうかとベッドに向かったところで、来客を告げる鈴の音が鳴った。

 俺は大きく舌打ちをしてから、仕方なしに来客を出迎える。

 工房の扉を開けると、そこにはよく見知った黒い猫人の姿があった。




「にゃ、にゃ、この度は宝石の丘への御到達、まことにおめでとうございます」

 宝石の丘で最後に別れた時にはぼろぼろだったチキータも、今はすっかり艶のある黒い毛並みを整えていた。

 ぴんと立った髭を撫でながら、軽い口調で俺に祝福の言葉をかけてくる。完全にいつもの調子を取り戻しているようだ。

 もっとも、チキータが一足先に首都へ戻ってから、俺が宝石の丘に到達するまでに数ヶ月の時間が経過していたようだから、彼女の中でいかなる葛藤があって今に至るのかは知れない。いずれにしろチキータは、図々しい商売人として平常運転していた。


「今更、祝いの言葉はどうでもいい。それよりも、手紙でやり取りしていた例の件はうまく進んでいるのか?」

「ええ、おかげさまで、あらかた宝石の売り先も決まりまして。特に今回、宝石の丘から仕入れたことで実現できました破格の安値での宝石販売は、貴族から中流階級のお客様まで大変喜んで頂いております。ここ一ヶ月だけで、ざっと二十年分近い利益がまとまって得られました。にゃはは、笑いが止まりません」

「だいぶ手広くやったみたいだな。そうすると、しばらくは宝石需要も落ち込むか。市場が異変を察知する前にうまく引き上げろよ。ま、俺は既に利益を確定しているから、黒猫商会が欲をかくのは止めないけどな」

「にゃはは……耳の痛いお話です。商会の内部ではこの機会に稼げるだけ稼ごうと言う意見もありまして、もう一山ほど宝石の融通をして頂けないかと御相談に来た次第です」

「返品は受け付けないぞ。それでもいいなら、前回よりも一割引で提供してやる」

「にゃ、ありがとうございます。では、後ほどいつもの送還陣で金貨と宝石の交換を、よろしくお願いしますにゃぁ」


 商談が終わった後、俺は宝石の売買とは別に片付けるべき仕事をチキータに頼んだ。

「宝石の丘へ向かう間の補給として工房に設置した『黒猫の陣』だが、残りの物資を処分してもらえるか?」

「にゃ? それは構いませんがよろしいので? 残りの物資もクレストフ様の購入分となっておりますが」

 宝石の丘に向かう旅路で、水や食糧に困らないよう黒猫商会に依頼して定期的に物資を補給してもらっていた黒猫の陣。旅の終わりには予想以上に人が減ったため、大量の物資が消費されないまま残されていた。


「構わない。一人で処理しきれる量でもないからな。腐る前に黒猫商会で適当に片付けてくれ」

「承知しました。では物資の量だけ確認させて頂いて、後で人を引き取りにやらせます」

 チキータは俺と一緒に工房の地下へ降りると、手早く物資の一覧表を作成して撤去の算段を整えた。


「では私は一旦、商会に戻りますので。また後ほどよろしくお願いします。にゃは」

 チキータは軽くお辞儀をして、黒猫の陣のある地下室から出ていった。

 俺もまた地下室を後にしようと階段を上りながら、ふと背後に魔導因子の活性を感じて振り返った。


 黒猫の陣には宝石の丘の旅に備えた結果として、陣いっぱいに食糧や水、燃料などといった物資が積み上げられている。

 それはさながら、神々を祀る祭壇に捧げられた供物のようで――。


 不意に物資の一つが光に包まれ、陣から消失した。

 何者かが召喚術によって呼び寄せたのだ。


 その事実に俺は戦慄し、驚愕に目を剥いた。

 思わず言葉にならない悲鳴を漏らし、二歩、三歩と後ろへよろめく。

 胸の内に鈍い痛みと恐怖が湧き上がり、喉の奥を絞られるような閉塞感に襲われる。

 呼吸は自然と浅くなり、動悸は激しくなっていく。


 こうしたことが起こる可能性は十分に理解していたはずだった。だが、俺はそのことから目を逸らし、考えないようにしていた。

 そして、宝石の丘より帰還して今日まで、陣には何の変化もなかったのだ。

 だからもう、終わった、と。片付けてしまえば良いと思っていた。それが今この時になって、俺の目の前で変化を起こした。


 この『黒猫の陣』から物資を呼び寄せることができるのは俺か、後はもう一人、ビーチェだけだ。

 黒猫商会は契約の関係上、この陣の中へ物資を送還することはできても、物資を召喚することはできない。

 すなわち、この陣から物資が消えたことの意味するところはただ一つ。


 ――ビーチェが生きていた。


 だが、喜ばしいと感じることは刹那の一瞬もなかった。

 彼女が生きているという事実は、絶望を突きつけられることに等しかったからだ。


 ビーチェが生きているとして、どうやって連れ戻すというのだ?


 宝石の丘に送還術で飛ぶか?

 駄目だ。

 そこにビーチェがいる保証はなく、魔導回路を持っていけないのでは幻想種に遭遇した時点で俺の身が破滅する。


 魔導回路がないなら、現地で作ればいいのでは?

 駄目だ。

 いくら機材を宝石の丘に送っても、幻想種がうろつく環境で悠長に魔導回路を作っている暇はない。


 およそ幻想種を退ける手段となるものは、送還術に干渉して転移させることができない。

 幻想種を滅ぼすということは、魔導因子の流れを乱すということ。霊剣や妖剣の類はそのような効果を持つが故に、送還術にも干渉してしまう。


 いっそ、もう一度、宝石の丘への道を辿って遠征するか?

 それも駄目だ。もう人は集められない。誰も集まらないだろう。

 一人で行くには過酷な道だ。そもそもビーチェが異界の狭間をさまよっているなら探し出すこともできない。


 いっそビーチェに俺自身を召喚させるか?

 それならいけるかもしれない。ビーチェには会えるだろう。だが、その後はどうする? ビーチェを連れて、どうやって帰還する?

 同じことだ。俺一人にビーチェが加わったところで、宝石の丘から戻ることは実質的に不可能だ。

 それでも、全てを捨てて――。



 俺はそこで思考を放棄した。

 全てを捨てる選択肢など、取れるわけがない。


 宝石の丘で手に入れた栄光。その栄光を手にするのに、一体どれだけのものを犠牲にした?

 それら全てを捨てる? ありえない。

 打つ手などない。ないのだ。

 俺は自身に言い聞かせるように、何度も心の内で「打つ手などない」と繰り返した。


 ビーチェを救い出す方法がない以上、生存の信号シグナルは良心を苛むばかりである。

 自分の中にまだそんな偽善めいた心が残っていることを自覚させられるのも、己の醜さを突きつけられる息苦しさがあった。

 今更ながら、風来の才媛の言葉が脳裏によみがえる。


 『かつて僅かながらも持っていた、人としての温かみは完全に失ってしまったのかな』


 完全に失っていたのなら、どれほど気持ちが楽であったろうか。迷いなく、ビーチェを自身の心から切り捨てられたなら。

 俺はその重圧に耐え切れず、宝石の丘で最後に見た人影を頭から振り払いながら、黒猫の陣に背を向けた。


「チキータ! チキータぁっ!!」

 俺は大声で狂ったように猫人の商人の名前を叫び、すぐさまチキータを呼び戻した。

 黒猫の陣へ、減った物資を定期的に補充するようチキータへ依頼をすると、俺自身は黒猫の陣に近づかないことを決めた。


 減り続ける限り、捧げ続ける。

 黒猫の陣はいつでも目一杯の供物で満たされていた。

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