第152話 宝玉の座

「ジュエル……」

 白銀の砂漠に浮かぶ翡翠の妖精――貴き石の精霊ジュエルスピリッツ

 水晶の六枚翅が僅かに震えながら、その翡翠の体を宙に浮かせている。

 小刻みに動く翅は斜陽を透かして、赤い光を四方に散乱させていた。


 自身の契約精霊であるジュエル、こいつと離れていたのはほんの少しの間だけだというのに、随分と久しぶりに会ったような気がする。

 契約による繋がりはずっと感じていたが、今こうして目の前にしても何故か互いの距離が遠く感じられた。


 宙に浮くジュエルは、顔を空へと向けながら目を閉じて沈黙している。

 俺がすぐ近くまで寄っても、いつものように騒がしく喋り出すことはなかった。

 あまりにも静かなジュエルの反応に俺が不安を抱き始めたところで、ジュエルの翅がひときわ大きく震え、聞き慣れた高い声が響いてくる。


『……ボス、ありがとう。おかげでボク、大人になれたよ』

 声帯から発せられる音声とは異なる、くぐもった声がジュエルの閉じた口から漏れ出した。


『長かった……本当に長かったー』

 二〇〇〇年の長い旅路の果てに、ジュエルは宝石の丘へと帰ってきた。

 単純だが、年月の重みを感じさせる言葉だった。


『もっと早く大人になれるはずだったのに、寄り道ばかりしてきたせいかなぁ』

 ジュエルらしい間の抜けた口調で、俺にはよくわからない事情を勝手に喋りだす。


『ボスとの約束、これで果たしたよ。ついでにボクも故郷へ戻ってこられたし……完璧だねっ』

 ジュエルらしい軽い口調で、契約の完遂を告げる言葉が紡がれた。

 いつもとは違うのに、いつも通りのジュエルを見て、俺は背筋から力が抜けるような気持ちの悪さを感じた。

 約束は果たされた。それはすなわち、俺とジュエルの契約の終わりを意味する言葉なのか。


 思わず不安に駆られた俺は、懐深くにしまっていた『契約の石』を取り出してみる。

 一見して何の変哲もない丸い石だが、翡翠をベースに特殊な魔導回路を組んだ契約の証である。

 それはまだ、ジュエルとの繋がりを主張するかのように、辛うじて微弱な魔導因子の固有波動を放っていた。

 刻まれた約束が果たされたからか契約の力が弱まっている。


 手の上に乗る契約の石を、頭上から降り注ぐ虹色の光が照らし出す。

 石に気を取られていた俺が、はっ、として顔を上げれば、目の前からジュエルはいなくなっていた。

 ジュエルは先程よりも高い位置に浮かび上がり、ゆっくりと上昇している。


 幻想的な煌めきと輝きを全身から放ち、貴き石の精霊が天に昇っていく。


「待て……、どこへ行くんだ? おい、ジュエル――!!」

 天に昇ったジュエルの腹がばっくりと裂けた。

 大きく開いた口から色彩様々な結晶が生え出し、瞬く間に伸びて大地へと根を下ろす。

 それはまさに、先程まで俺が座り込んでいた大晶洞ほども大きな結晶塊へと成長した。

 美しい楕円を描いた球状の結晶。さながら宝石の卵とでも言ったところか。

 その卵を抱くように、頂上にジュエルが居座っている。


『ボク、これからお母さんになるよ』


 ジュエルの口から思わせぶりな言葉が発せられる。

 その意味するところを考え、目前で展開される光景を見て、俺はようやく今何が起こっているのか理解した。

 ずっと俺の心の内にあった大きな謎が、解けた。


 そうか。

 そうだったのだ。

 宝石の丘、このような秘境が生まれた理由。

 貴き石の精霊が宝石の丘より来て、宝石の丘に帰る理由。


 貴き石の精霊は宝石の丘で生まれる。

 しかし、宝石の丘が貴き石の精霊を生み出したわけではないのだ。


 宝石の丘より旅立った貴き石の精霊は、外界でたくさんの鉱物や宝石を食ってその身に蓄える。

 十分に宝石を蓄えた貴き石の精霊は、やがて故郷である宝石の丘へと帰っていく。

 生まれ故郷へと戻った貴き石の精霊は、新たな貴き石の精霊を宝石の丘に卵として生み落とす。

 その過程で、卵塊の殻である宝石の揺り籠が創られる。


 それは長い年月に渡り繰り返され、数多く創られた宝石の揺り籠は、寄り集まってついに宝石の丘と呼ばれるまでになった。

 ここは貴き石の精霊の産卵場。宝石の丘とは、卵の殻の残骸に過ぎなかったのだ。

 つまるところ、貴き石の精霊が宝石の丘を生み出したに他ならない。

 伝承に記された宝石の丘ジュエルズヒルズの大晶洞、それを創りだしたのも他ならぬ貴き石の精霊ジュエルスピリッツだったのだ。


「ははは……。まさか、そんなことになっていたのか……やられたよ。ジュエルの奴……結局は都合よく、俺を道連れにしただけじゃないか」

 俺を宝石の丘へと案内する。それはジュエルにとっておまけの行為で、宝石の丘へ戻ることは最初から予定されていたことなのだ。

 いや、むしろ帰還に必要な送還の門を掘り起こす作業や、道中の暇つぶし、安全の確保まで、全てジュエルにとって都合の良いことだったのかも知れない。

 完全にしてやられたのだ、俺は。この貴き石の精霊に。


 宝石の卵の直上に上半身だけ出して鎮座するジュエルを見上げ、俺は深く大きな溜め息を吐いた。

 ジュエルは目を閉じたまま微動だにしない。

 『お母さん』になると言っていたから、卵が孵化するまで見守り続けるのだろうか。

 だとすればそれは何年先のことなのか、全く想像も着かない。そして、宝石の丘へ辿り着いて目的を達成した俺としても、もはや卵の孵化に付き合う義理もなかった。


「さて……もう行くか。まだまだ、送還陣の構築作業が残っている。お別れだ……ジュエル」

 もう二度と、この精霊と出会うことはないだろう。寂しくはあるが、後腐れはない気もした。

 どこまでも人のことをおちょくって、迷惑ばかり掛けられたように思うが、少なくともジュエルと過ごした日々は退屈しなかったように思う。



 俺はジュエルに別れを告げ、宝石の卵に背を向けて歩き出した。

 俺にはまだこの地でやることがある。それが全て片付けば――。

 そこまで考えて、俺は唯一つ片付いていない問題に思い至り、胸の内に鈍い痛みを感じた。

 ――ビーチェ。

 彼女をどうすべきか、まだ俺の中で答えが定まっていない。


 しばしの間、俺はその場に立ち止まり瞑目した。

 本当に、どうすべきなのか――。

 考えをまとめようと思考の海に没入しかけたとき、耳障りな雑音が突然、俺の頭蓋を震わせた。


 ――しかして、契約は果たされた。契約者をこの地へ導くこと叶い、我は故郷に到達せり――


 いきなり響いたその声は、意味を持った言葉というよりも岩の擦れ合う音のようだった。


 ――我はこれより守護者となる。次代の精霊を生み出すための母岩となる――


 宝石の丘に轟く山崩れのような大音声。

 騒音にしか聞こえないその声を辛うじて言葉として受け取れたのは、それが俺に向けられたものであった為か。


 声の主が何者か、それは理解を超えたことだった。それでも俺は反射的に後ろを振り返っていた。

 振り返れば、そこにあるのは宝玉の卵と頂点に鎮座するジュエルの半身。

 ――いや、その時、既にジュエルの半身はそこになかった。

 ジュエルの上半身だけが、不器用に翅を震わせて空中に浮いている。宝石の卵から距離を置いた、白銀の砂漠の上空で漂っていた。


 ――人の子よ。命惜しくば直ちにこの地を立ち去れ――


 見開かれた赤い紅玉の瞳は爛々と輝き、翡翠色の岩肌が深い濃緑色に変質している。

 禍々しい気配が目に見える瘴気しょうきとなって漏れ出し、俺の見ている目の前でジュエルの体が変貌を遂げていった。

 その身を構成していた翡翠の岩塊から、内より溢れ出るように無数の瘤が盛り上がり、一気に小山ほどの大きさまで膨れ上がる。


 ――我は守護者。次代の精霊を守る母岩である――


 再び、発せられた『声』とは言いがたい『音』が、宝石の丘全体に響き渡る。

 不快感を覚える雑音と共に生まれ出でたのは、所々に濁りきった巨大な水晶を生やし、極彩色の岩の塊が寄り集まった醜悪なる怪物。

 美しい宝石を全て吐き出して、汚れた滓だけを寄せ集めて生まれた存在。

 この姿に相応しい名を俺は知っていた。


 ……宝石喰らいジュエルイーター


 宝石で構成された巨大な卵塊を産み出したジュエル。

 彼の精霊は、今や醜い守護者へと変貌を遂げていた。

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