第138話 裏切りの蜜
渓谷を抜けて、仄暗い洞窟を駆けていく二人の男女がいた。
一人は優男風の騎士、もう一人はこれといって特徴のない地味な女術士だった。
「ねえ、良かったの? 他の人達は戦っているのに私達だけ」
「元々、共同戦線を張らなくちゃいけない契約なんてしてないんだ。他人に任せて危機から逃げられるなら、それに越したことはないよ」
騎士と術士の恋人、マルクスとユリア。
皆が超越種に立ち向かう最中、二人は手を取って戦闘区域から離脱していた。
彼らの走って来た方向からは、恐ろしげな超越種の遠吠えが時折聞こえてくる。
「そうだけど、ちょっとくらいは戦ったふりでもした方が良かったんじゃない? もう一度合流するのに気まずいわ」
「ユリアは心配性だなぁ。あの混乱の中じゃ、誰がいたかなんてわからないよ。そんなことより……僕は君と二人きりの時間を大切にしたいな……。大所帯での移動で、ずっとご無沙汰だったからね」
「あ、んっ……! 駄目よ、マルクス……不謹慎だわ……」
「結婚しよう、ユリア……。宝石の丘に辿り着いたら、大粒の
「ああ! 嬉しい、マルクス……!」
渓谷から吹く寒々しい風が、洞窟を吹きぬけて
いつしか風は冷気ではない何か、背筋の凍るような邪気を帯びるようになっていた。
邪なる気配は洞窟の地面を這って進むように、不吉な風を吹かせる。
「マルクス、やめて……お願いよ……」
「あはぁ……ステキだよユリア。堪らないな、その表情……」
邪気の混じった風に乗り、男女の荒い息づかいが聞こえてきた。
「ううぅ……マルクス、どうして……」
「ここまでずっと我慢してきたんだ。もう限界だよ……」
興奮する男の声と、すすり泣く女の声。
マルクスはユリアを壁に挟んで、彼女の頬を伝う涙を舐め取った。
衣服を引き裂かれ、半裸で震えるユリア。
はだけた胸元を彼女は隠すことができなかった。
彼女の両手は剣で岩壁に縫い付けられ、柄を伝って赤い雫が滴り落ちている。
「どうして、こんなことを……」
ユリアは青ざめた表情で、上目遣いにマルクスを見つめた。一方で、これまでずっと一緒に旅をしてきた恋人は、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべ、ユリアを見つめ返してきた。
ユリアは一瞬、今も起きているこの事態が悪い冗談だったのではないかと期待を抱いた。だが、僅かに身じろぎした際に両手の甲に走った激痛で現実を再認識させられる。これが、このような事態が、冗談であるはずがない。
「許して……ごめんなさい……。でも、何がいけなかったの? 謝るから、悪いところは直すから……」
泣いて許しを請うユリアの顎を、マルクスのすらりと伸びた指先が優しく撫でる。愛おしく、大切なものに触れる、慈しみに溢れた動作だ。
「ユリアは何も悪くないよ? 君は最高のパートナーだったさ」
マルクスはユリアの耳元に、甘い声で囁いた。その所作に嘘偽りは感じられない、真摯な態度と信頼に足る発言。しかし、マルクスが次に発した台詞にユリアは耳を疑った。
「ああ、だからねユリア、だからなんだよ? だからこそ、裏切る価値があるんだ!! 心の底より愛した相手から、雰囲気も最高頂で裏切られる……ああ、それはなんて心躍る
ユリアは痛みに顔を半分歪めたまま、マルクスの独白を聞いていた。彼が何を言わんとしているのか、ユリアには全く理解できていなかった。
「わかるかい、ユリア? え、わからない? そう、そうだよね、わからないよね、突然のことで。でもね、それなんだよ、僕が見たかったのは。信じていた相手に裏切られた瞬間の惚けた顔が、その後の混乱に満ちた顔が、さらにその後の絶望に満ちた表情が! はぁあ……それが!! 僕にとって!! 最上の、愉悦なんだよっ!!」
信義に篤い騎士の裏切り。
あまりに唐突で不自然な言動。
筋道の立たない裏切りの理由。
――ナニイッテイルノ?
「あはーっ!! それ、その顔だよいいねぇ!! ユリア、君ってば最高だよ! あっはっはっはっはぁー!!」
裏切られたユリアの表情を拝み、マルクスは絶頂感に身を震わせていた。
マルクスの言動はもはや尋常ではない。ユリアには何故、彼がこうも狂ってしまったのか見当もつかなかった。
「なんで……どうして……?」
邪気の渦巻く洞窟内に、虚ろなユリアの掠れた声が響く。
マルクスの哄笑、ユリアのすすり泣き、そこへ……ざり、と洞窟の砂利を踏みしめる音が割って入ってきた。
マルクスとユリアの二人きりしかいない空間に今一人、新たな人物が現れる。
「既に、危惧した通りになっていたか……」
苦々しい声を漏らしながらその場に現れたのは、動きやすさを重視した軽装の鎧を身に着け、立派な拵えの剣を背負った男。
男の腕や肩、首元など、肌の見える部分には、鮮やかな青と緑で彫り込まれた聖痕が浮き上がっている。
剣聖アズー。剣神教会が有する数少ない剣聖の
「若い女の術士ばかりを狙って、『悲劇の別れ』を演出する裏切りの騎士……まさか本当にここまでの外道が存在するとは思わなんだ」
アズーは眼光鋭く、薄ら笑いを浮かべたマルクスを睨みつけた。
「お前達二人の姿を見て、私の勘違いだと信じたかったのだがな。正常に見えても、やはり魔剣に支配されていたか」
魔剣の担い手、アズーが追い続けていた標的、それがマルクスだった。
「ま、魔剣……? 嘘よ……だってこの剣は、妖剣・
壁に両手を縫い付けられたままのユリアが、アズーの説明に疑問を挟む。そんなユリアにマルクスは笑いかけた。
「あははもうー、ユリアは馬鹿かわいいなぁ……」
マルクスは片手を壁について、ユリアに寄り添うように顔を寄せた。
「――そんなふざけた妖剣、あるわけないだろ?」
両手を貫く剣に力を込め、より深く押し込む。
ユリアは激痛に体を捩り、悲痛な叫びを暗い洞窟に響かせた。
「よせ! それ以上、その娘を傷つけるな!」
「何だよ、あんたは。僕らの蜜月を邪魔して。興が冷めちゃったじゃないか」
マルクスはユリアの両手から剣を引き抜くと、今度はその剣であっさりとユリアの胸を貫いた。
けふり、と血の混じった咳が出る。
「これで、離婚だ。あはっ」
止める間もない、一瞬の
「貴様ぁっ!!」
アズーが怒りの声を上げて一歩踏み出すも既に遅く、剣を引き抜かれた胸から赤い血の花が咲く。間もなくユリアは失血して死んでしまった。
「お前達、魔剣は人の意思も尊厳も、ただ唐突に捻じ曲げ、踏み躙り、破滅させる。まさに悪意の顕現よ。剣神教会の信念に誓い、剣聖アズー、ここで魔剣を討つ!」
静かな怒りに震えるアズーに対して、魔剣の担い手マルクスは嘲りを含んだ笑みをより一層深めるだけだった。
「あはっ! いいね、剣聖! 怒りに身を焦がす人の姿もまた乙なものさ。
「聖剣、
アズーの身体に彫り込まれた聖痕が鮮やかな青と緑の輝きを放ち、聖剣もまたアズーの声に応えるように刀身を青く光り輝かせる。
「
「邪悪な!!」
問答はそこまでだった。銘を明かせばそれ以上、聖剣と魔剣が言葉で語り合うことなどない。
あるのはただ剣戟による応酬のみである。
アズーの聖痕が青く光り輝き、瑠璃色の闘気が全身より迸る。
対するマルクスも鋭く研ぎ澄まされた薔薇色の闘気を放つ。だが、その闘気には人のものではありえない真っ黒な邪気が混じっており、赤黒く変色した禍々しい闘気となってマルクスの周囲に渦巻いていた。
「魔剣め、砕けよ!!」
一息のうちに二撃を放つ剣聖アズー。青い剣閃が左右から切り返してマルクスを襲う。
並の剣士なら一撃は防げても二撃目は防げない速さの連撃。だが、魔剣の担い手マルクスは人間業と思えない速度で、刺突の三連撃を繰り出し、アズーの二連撃を捌いた上に反撃してみせる。
「あははぁっ!!」
「くらうものか!」
アズーは半身を捻りマルクスの刺突をかわす。そのまま後ろへ跳んで間合いを取り直した。マルクスもまた軽やかに後ろへ跳んで、
「その構え、正統な騎士のものだな。なぜ、魔剣に心を売ってしまったのだ?」
「うぅん? この戦いの最中に何故そんなことを聞くんだい?」
「真っ当に生きていれば、立派な騎士として大成しただろうに」
「はははっ! 僕は真っ当に生きているさ。表向きは立派な騎士としてね。今回も、君をここで口封じしてしまえば問題ないじゃないか。ユリアは旅の途中で事故に見舞われ、僕は悲劇の騎士として帰還する。そうしてまた、新たな恋人を探しに行くのさ!」
「どこまでも外道な奴め!!」
「なんとでも言いなよ! 僕はこういう生き方が楽しくて仕方ないんだ! それを手伝ってくれる魔剣は最高さ!!」
鋼と鋼の打ち合う音が連続して響き、宙に赤い火花を散らして魔剣と聖剣が衝突する。
速さではマルクスが勝り、一撃の重さではアズーが凌ぐ。
マルクスが手数で圧倒しようとすれば、アズーは重い一撃で相手の体勢を崩しにかかる。
一進一退の攻防はどちらが有利とも言えない、完全に拮抗した戦闘であった。
マルクスは滑るように踏み込んで、顔、肩、胸、両足と一瞬の間に魔剣の五連撃を突きこんでいく。
アズーはそれらの攻撃を身体の中心から外へと聖剣で受け流しながら、敢えて一歩踏み込んで間合いを詰める。
「迂闊だよ!!」
赤黒い闘気を剣先に集中してマルクスが放った神速の突きがアズーの右肩を貫く。
「ぐぅっ!?」
「これでもう、存分に剣は振れないねぇ!」
聖剣を右手から取り落とすアズー。
聖剣を落としたアズーへ追い討ちをかけるべく、魔剣を引こうとしてマルクスはその動きを止めた。
「なっ!? 抜けない!?」
アズーの肩口に刺さった魔剣は、アズーの筋肉にしっかりと握り込まれて動かなかった。
聖痕がかつてないほどに輝きを増し、魔剣の刺さった肩に闘気を集中している。
「お前は……すぐに魔剣を捨てるべきだったな!」
取り落とした聖剣を爪先で跳ね上げ、左手で柄を握るとそれまでと全く変わらない剣速でアズーはマルクスに斬り付けた。
マルクスの右腕を斬り飛ばし、返す刃で左肩から右足へ抜けるようにばっさりと斜め斬りにする。
「あああっ!? 僕の、僕の魔剣がぁああっ!! あぅぐううぅっ!! 返せぇ! 僕の魔剣を返せぇ!!」
アズーの肩に刺さったままの魔剣には、しっかりと柄を握るマルクスの右腕が残されていた。
マルクスは自身の傷を気にするよりも、魔剣との繋がりが失われるのを恐れていた。魔剣を手にしてから、一時も手放したことはなかったのだろう。
「哀れな。この期に及んでまだ魔剣を求めるか。例え魔剣を手放しても、もはや真っ当な道には戻れまい。ここで、引導を渡す!!」
アズーは聖剣を一度、鞘へと戻して腰の横に据える。そして、深く腰を下ろして瑠璃色の闘気を聖剣へと集中させた。
地を蹴り、一瞬でマルクスとの距離を詰める。
「――破ぁあっ!!」
抜刀の勢いのままに、聖剣・
一切の音もなく、血の飛沫を一滴と飛ばすことなく、だが聖剣は確実にマルクスの首を骨ごと断ち切っていた。
マルクスは力なく地面に倒れ伏し、その衝撃で首と胴体が二つに分かれた。
それが、魔剣に魅入られた哀れな騎士の末路だった。
「魔剣、
マルクスとの戦いに勝利したアズーは、肩に刺さったままの魔剣を引き抜いて地面に突き立てた。
「既に妖刀三本、合わせて魔剣を持ち帰るのは些か荷が重い。持ち帰らずここで処分しても、剣神様はお許しになるだろう」
妖刀ならば手にしていたところで大した影響もないが、魔剣を持ち歩くのは心身が充実している時でなければ、剣聖でも心を蝕まれかねない危険がある。
魔剣について、回収が難しい場合は破壊すべし、というのが剣神教会の教えである。無理に持ち帰ろうとして、魔剣に支配されてしまった剣聖も過去にいたそうだ。
アズーは教義に従い、
十分に闘気を高めて、聖剣・
「かぁっ!!」
青い剣閃が走り、赤黒い火花を散らして魔剣・
――ギキイィイッ……ン……。
不気味な金切り声にも聞こえる高音を発し、魔剣は根元から断ち切られてその柄を地に落とした。さしもの魔剣も担い手がいない状態では、完全に力を引き出した聖剣の一撃に耐えられるものではない。
魔剣を折った後もアズーはしばらくその場に留まっていた。
やがて折れた魔剣の柄と刀身から、赤い霧のようなものが立ち昇ってくる。
「正体を現したな。邪まなる幻想種め」
赤い霧は空中をあてもなく漂っていたが、手近なものに憑依しようとアズーに向かって浮遊してくる。
アズーが聖剣を一振りすると、造作もなく赤い霧は吹き散らされた。
「これで任務完了だ。剣神教会に戻るとしよう」
聖剣を鞘に納め、アズーは一人、洞窟を戻る。
途中、旅の同行者であった錬金術士一行とすれ違ったが、彼らもまた激しい戦いに疲弊していた様子だったので、アズーは挨拶を遠慮して帰還の道を進んだ。
彼の者の旅は一人、魔剣がこの世に存在する限り、決して終着点はない。
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