第132話 歪曲地獄

※関連ストーリー 『異界法則』参照

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 青白い魔導ランプの明かりを頼りに、列を成して水路を進む十数隻の小船。

 ただでさえ複雑に入り組んだ水路は、常に薄ら寒い霧が漂っており視界が悪い。ジュエルの先導がなければ確実に迷ってしまう地形だ。


「何だか気分の悪くなる洞穴ね……同じ場所を回り続けている気がするわ」

 珍しく傀儡の魔女ミラが愚痴をこぼす。

 錯覚だと、そう言い切る自信が持てないほどに、周囲の風景には変化がなかった。船が進んでいるのか疑わしくなるのも仕方ない。


「ジュエル、俺達は間違いなく先へ進んでいるんだろうな?」

「……あー、うん。宝石の丘に向かって進んでいるのは間違いないよ~。でも、あとどれくらいの距離かはよくわかんない」

 憎らしいほど余裕の表情で、しかし相変わらず曖昧な答えを返してくるジュエル。

「元々、何年もかかる旅程で来ているとは言え、旅の進行状況がわからないのはな……」

 正直なところ、全体の士気にも関わる。少しでも目的地との距離が詰まっているとわかれば、不安も多少は薄らぐのだが。


「ちょっといいかね、クレストフ君」

 船に同乗していたテルミト教授が神妙な面持ちで、二人の学士を連れて俺のすぐ隣に移動してくる。

「どうやら、そうのんびりとはしていられないようなのだよ。これを見たまえ」

 テルミト教授は何か術式を発動するつもりらしく、意識を集中している。教授の額に、魔導回路の活性を示す光が強く輝く。


『時を示せ、アトモスの指針!』

 術式発動の楔の名キーネームと共に、物体の召喚時に発生する光の粒が舞い踊り、目の前に大きな時計がぼんやりと現れる。

 その時計に見覚えがあった俺は思わず目を見張った。そんな俺の表情を読み取って、こちらの理解を確認するようにテルミト教授が頷く。

「太古の昔より正確な時を刻み続ける万年時計、それがこのアトモスの指針」

 術式の行使に集中するテルミト教授に代わり、学士アルバが説明を引き継ぐ。時計は空中に浮いた状態でそこにあるが、不完全召喚による存在の揺らぎか、実体としては曖昧な様子で薄ぼけた光に包まれている。


 アカデメイアの時計塔に備え付けられた世界で最も正確な時計、それがこの『アトモスの指針』である。

 アトモスの指針は世界の要所において複数台同時並行で動いており、万が一どれか一台に故障が起きたとしても他の指針が正確な時を刻み続ける。修理が終われば他の指針と自動的に同期して、再び正確な時間を刻み始めるのだ。

「アトモスの指針によれば、我々が送還の門をくぐってから、既に三年の時が過ぎています」

 学士アルバの言葉に誰もが耳を疑った。大半のものが三ヶ月と聞き間違えたと思ったことだろう。しかし、学士アルバは再度、念を押して言い直した。

「三年です」


 はっきりと明言するアルバの言葉に、疑いを持ちながらも自前の時計を確認する者たちがいる。だが、その行動はあまり意味がない。

 アトモスの指針は絶対だ。手持ちの懐中時計などより、はるかに精度も信頼性も高い。

 ゆえに、自前の時計を確認することは、その時計がどれくらい狂っているか確認する作業に他ならない。

「馬鹿を言え、まだ三ヶ月しか経っていないぞ!」

「私の時計も旅立ってから三ヶ月と五日を示している。三年も経っているはずがないだろう」

 傭兵や騎士が口々に自分の時計を掲げてアルバの言葉を否定しようとするが、術士連中はアトモスの指針を見た時点で、自分の時計を見るまでもなくこの異常事態を察した。


 列をなした小舟の上を、ゆっくりと伝播していく混乱の波。収拾がつかなくなる前に、俺は皆に現状の把握を徹底させることにした。

「俺達自身の時は確かに体感通りの日数経過だろう。皆が皆、手持ちの時計は三ヶ月の経過を示している」

 自前の懐中時計を取り出して、その事実を敢えて確認する。その上で、変わらない真実もまた告げる。

「一方でアトモスの指針が示す時間は、疑うことなく今現在の世界の時間を示している。そうなると可能性は低いが俺達全員の時計が狂っているか、あるいは――」

「我々だけ時間の流れが異なるのかもしれませんね」

 格好の良いところだけをアルバが持っていく。呪術結社赤札の巫女達から尊敬の眼差しを受けながら、若い学士は気分良さそうにふんぞり返っていた。


 そんな学士アルバにナブラ・グゥが質問を投げかける。

「一つ、確認したいんだけど。時間の流れが変わったのは送還の門をくぐってすぐなのか、それとも旅路の途中からか、どちらだろうか」

「え!? あええ、ええと……」

「いい質問だね。それには私が答えよう」

 騎士ナブラ・グゥの質問にうろたえるアルバに代わって、アトモスの指針の一時召喚を終えたテルミト教授が答える。

 アカデメイアより呼び出されていた大きな時計は教授によって術式を解かれ、光の粒を残して蜃気楼のように消え去った。


「実は、送還の門をくぐった時から、時間の確認は定期的に行っていたのだよ。既にその時からアトモスの絶対時間と我々の時間には、ずれが生じていた」

「そんな前から時間のずれが?」

「ああ、そうなのだよ。しかし、道中でも時間の進み具合は遅くなったり早くなったり、一定しなかったというのが実際のところだ。ただ……」

 テルミト教授は眉根を寄せて難しい顔を作り、船の周囲を見渡した。


「この複雑な水路に入ったあたりから急速にずれが大きくなった。おそらく我々は、異界現出が起きて時空に歪みが生じた領域に入ってしまったのだろうね。アトモスの絶対時間に対して、我々の時間の進行速度が極端に遅くなっていると言える。これまでと違って、とても楽観視できる状況ではないと判断して、今ここで明かしたわけだよ」


 誰もが口を閉ざし、突きつけられた真実を前に沈黙した。

 ……やがて、密やかに交わされる不安の声。

「そんな……それじゃあ、うちの家族とかはどんどん年を取っているってこと?」

「帰る頃にはいったい何年後になっているのかな……」

「家に戻ったら、弟が兄になっていたりするの? なにそれ?」

 ハミル魔導兵団の女学生達はまだ若いだけに、故郷の家族との時間的な隔絶を感じずにはいられなかった。


「にゃぁ……商会の組織体制が変わっていたりしたら面倒ですね……」

「チキータ商隊長、自分の首が心配ですか?」

「商隊長、成果持ち帰らないと出張でなく長期欠勤扱いで首ですか?」

「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。もともと数年かかる出張と言ってきました。でも、数十年まで経ったらさすがに首ですか、商隊長?」

 黒猫商会のチキータと烏人達も、時間の流れによって自身の立場がどう変わってしまうのか心配そうだ。


 確かに、宝石の丘で巨万の富を手に入れて凱旋しても、自慢できる身近な人間が軒並み年を取って死んでいたりすれば、それはとても寂しいことになるだろう。

 けれどもこの旅に同行した者達は、少なくとも数年の時間的損失を覚悟でやってきているはずだ。俺を例にしても身辺整理をしてから旅立ってきた。今更、残してきたもののことを気にするなど覚悟が足りない証拠である。


「うーん……困ったな。せめて十年以内には戻りたいな。一族の皆も心配するだろうから……」

「平気です、兄様。どれだけ時が流れても、私達兄妹の絆は変わりません。例え一族の皆が死んでしまっていても……」

「うん……そうだね、ルゥがいるものね」

「はい、ですからご心配なく、兄様」

 兄のナブラ・グゥは一族の心配も少しあるようだが、妹のルゥは完全に吹っ切れているようだ。これくらいの精神的余裕が全員に欲しいものである。


「いずれにしろ、このままでは時の流れに取り残されてしまいます。先を急ぎましょう」

 いつの間にか止まっていた船の進行。冷静なミレイアが皆に呼びかけ、小船の列は再び動き出した。

 まだ納得のいかない連中もいたようだが、ここに留まるのも、ましてや引き返すことなど誰一人考えなかった。


 宝石の丘への挑戦は、何があろうと諦めることはありえないのだ。

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