第131話 海蝕地獄

 魔導推進式の大型船は一行を乗せ、糞の沼地を延々と航行していた。

 終わりの見えない地獄であったが、沼に入って十日もした頃だろうか、ようやく辺りの風景に変化が見られてきた。

 その様子にいち早く気が付いたのは、船の監視塔に登っていた妖刀使いの剣闘士ファルナだった。

「水の色が変わってきたぞ! 臭気も薄れてきた!」

 声を聞いて全員が甲板に出てくる。まだ、糞便のような臭いは漂っていたが、明らかにこれまでとは違う澄んだ空気が風に乗ってくるのがわかった。


 糞の沼は進むに連れて濁りを薄めていき、やがて透き通った赤色の水を湛えるようになる。

 その光景はさながら、地獄にあると言われる血の池のようだ。

「不吉な光景……いったい何が起きてこんな湖になったのでしょうか」

 医療術士のミレイアにとって、血の色とは身近なものであると同時になるべく見たくない色でもあった。羽織った白い法衣が湖面の照り返しによる光で赤く染まると、ミレイアはそれを嫌うように船内へと戻っていった。


「アルバ君! これは大変に面白い水域だ! サンプルを採取したまえ、サンプルを!」

「わかりましたから、落ち着いてくださいよ教授。水平線まで真っ赤なんですから、焦らなくてもしばらくはこの水域が続きますって」

 学士アルバがテルミト教授に急かされながら、縄を括り付けたバケツを湖へと放り投げる。

 バケツが十分に水中へ沈んだところで、アルバは同じくアカデメイアの学士ビルドと二人がかりでバケツを引っ張り上げた。


 掬い上げてみれば確かに赤く色づいた水が、バケツ一杯に満ちていた。ただ、水の透明度自体はとても高く、綺麗に透き通った赤だった。

「まあ~、見事に赤く染まっていますねー」

 湖の赤よりもなお鮮やかな赤い袴を穿いた巫女、アメノイバラノヒメがバケツを覗き込んで呑気な感想を漏らしている。バケツを覗くのに屈み込んだ際、胸元が大きく開いて谷間が見えたのをアルバとビルドは見逃さなかった。

 そんな周囲をよそにテルミト教授は早速、分析用の道具を持ち出して水質の調査を始めた。俺は教授の邪魔をしないように傍で見守りながら、赤く染まった湖を一望する。赤い水域に入って時間も経ち、既に後方も糞の沼地から遠ざかっていた。

「異様な光景ではあるが……糞みたいな地獄と比べれば随分ましな環境だな」

 肺から吐き出される息がまだ糞の臭気を帯びている。一呼吸ごとに空気が入れ替わり、体内から浄化されていくようだ。他の者も同じだろうが、今の自分が首都の通りを歩こうものなら、あまりの臭さに道をあけられるに違いない。それほどまでに臭気が体に沁みついてしまっていた。


「ふむ……まあ予想通りの結果かな……」

 水質検査を終えてテルミト教授が納得したような言葉を呟く。

「何かわかりましたか?」

「この水域の色素だがね、なに大したものじゃない。植物色素のタンニンが溶け出し、色付いているようだ。近くにそれらしい植物は生えていないかね?」

 言われて周囲をぐるりと眺めてみる。岸は遠く、湖面には特に水生植物は見当たらない。だが、ふと思い立ち水中を『天の慧眼』の術式で透視してみると、水底を這う無数の木の根が見えた。

「水底に……木の根らしきものが見えますね」

「それだ。おそらく薬湯樹ティーツリーの一種だろうね。強い抗菌作用と丈夫な植物細胞のおかげで、水底に根を這わせていても腐らない。薬湯樹からタンニンの色素が染み出しているのだと思うよ」

「それでこんなに赤く……」

 地獄にある血の池かと思われた湖の色も、蓋を開けてみればごく自然な現象が作り出した光景であった。

(……まだ、常識で測れる世界ということだな、ここまでは……)



 湖をしばらく進むと水の色も赤味が薄れ黄色くなり、今度は黄緑から鮮やかな緑色へと変じていった。

「青臭い……」

 甲板に立ったビーチェが眉根を寄せて鼻を摘む。緑色をした水を掬ってみれば臭いの原因はすぐにわかった。

 緑鮮やかなこの水域では大繁殖した藻類の色合いが強く出ているのだ。

 藻の生臭さはかなりきついものがあるが、屎泥地獄しでいじごくを通り抜けてきた一行にとっては大した問題ではなかった。

「臭いのに慣れてしまって、元の感覚に戻れるか心配だわぁ……」

 メルヴィオーサは自身の腕に鼻を近づけて、臭いが沁みついていないか確認する。微妙に歪めた表情を見るからに、いまだに糞沼の臭いは残っているらしい。藻の青臭さなど比較にならない臭気の中を、これまで通り抜けてきたのだと改めて感じられる。



 さらに数日の航行を経て、藻類の緑が色褪せてくるに従い、今までの色彩豊かだった湖が嘘のように澄んだ水域に入る。

「水が、綺麗……」

 テルミト教授が掬い上げたバケツの水を覗き込みながら、ビーチェの口からは自然とそんな感想が漏れた。

「魚もいる?」

「さて、どうかね。澄み切った水が、必ずしも生物にとって住みやすい水質とも限らない。いくら綺麗に見える水でも、水質検査が終わるまでは口に含んだりしてはいけないよ」

 ビーチェの頭を軽く撫でながら、テルミト教授は片手間に水質の分析を手早く進めていく。


 甲板から身を乗り出して湖を眼下に捉えると、白けた水底が透けて見える。

 所々、水深が深くなったところでは、光と水が干渉して織り成す、空と同色の真っ青な水域も見ることができた。

 水中には小魚が時おり泳ぐ姿が見られる以外に、大きな水棲生物の姿は見られなかった。

「クレストフ君、とりあえずこの辺りの水質は安全なようだよ。多少、金属成分が多めだが大量に飲んだりしなければ問題ないだろう」

「そうですか……それならば……」

 当初の進路からやや外れた湖の岸辺に船を近づけ、白い砂浜が所々に顔を出した浅瀬で停泊する。

 もういい加減、皆が限界を感じている頃だろう。色々な意味でガス抜きは必要だ。


「全員、聞いてくれ! ひとまずこの水域の安全が確認された。ここらで少し休憩をしようと思う。水浴びをするなり、船の周辺でなら自由に行動してくれて構わない。以上、一時解散!」

 解散の合図と共に、歓声とも雄叫びとも取れる声を上げながら、一行は一斉に湖へと飛び込んでいった。

 いの一番に湖へ飛び込んだのは、狼人のグレミー。

「ひぃゃっはぁー!! こびりついた臭いともおさらばだぜ! おらぁ! おめえら、しっかり臭いを落とせよ!!」

「兄貴、子供みたいだなぁ」

「あんだと、ブチ! てめえもさっさと、その汚ぇ毛玉を洗い流しやがれ!!」

 砂浜で膝まで水に浸かっていた鬣狗人はいえなびとのブチを、グレミーが足を掴んで水深の深いところに引きずり込む。

「ひゃぁああっ! あ、兄貴ぃ、やめてくれごぼぉ!」

「ふふ、はしゃいでいるなぁ。わからんでもないがぁ」

 熊人グズリも船の甲板から豪快に湖へ飛び込むと、器用に水面を泳ぎながら全身の体毛を水で洗い流している。


「よっし、あたしらも行くかね! ほら、ミレイア、行くよ!」

「え? 服を着たままですか?」

「男や野獣のいる中で肌をさらすわけにもいかないだろ。それに、どうせ服も洗わないといけないんだから、このまま行くんだよ!」

「きゃぁああっ!?」

 イリーナがミレイアを抱え上げて、そのまま青く澄んだ湖へと飛び込んでいく。


「そんじゃ、セイリス。あたしらも行くかー?」

「ああ、待ってくれ。さすがに鎧は外していかないと」

「……いや、セイリスはその鎧も一緒に洗った方がいいだろ……」

「エシュリー! 何故、そんなに距離を取る!?」

 全体的に黄ばんだセイリスの鎧と衣服を見て、エシュリーはあからさまに離れていた。ここへ来て、セイリスに付着していた汚れと臭いが際立ってしまったのだ。


 騎士達はもちろんのこと、魔導鎧を着込んだハミル魔導兵団も、今ばかりは身軽な格好になって水浴びに飛び出していく。

「では、皆さーん! 水の事故にはくれぐれも注意して、船から離れすぎないようにー。それから……」

「レーニャ学級長、早く行きましょう! ほら、ほら早く!」

「あ、まだ準備体操も終わってない……」

 魔導鎧を脱いだ下着姿の魔導兵達が、わいわいとレーニャを中心に湖へと入っていく。

 日に焼けていない、若い少女達の肢体が惜しげもなく晒されていた。


「ファルナ団長、私達はどうしますか」

「安全は確認できているようだし、体の汚れを落とすにはいい機会だ。一応、一人を交代で見張りに置いて、水浴びを済ませてしまおう」

 ファルナ剣闘士団は剣と鎧を一箇所にまとめておき、一人を見張りに置いて湖へと入っていった。

 恥じらいというものがないのか、堂々と上半身裸で水浴びを始めてしまう。日に焼けた茶色の肌が、青く澄んだ水によく映える。


「それじゃあ、私達も水浴びに行きましょうか」

「はい、イバラノヒメからまず、水に入ってください。お召し物はこちらで洗っておきますので」

「すみません、お手間をかけます」

 呪術結社赤札の巫女達は赤い袴の帯紐を解き、白い胴着を脱ぐと、上半身は包帯のような白い帯で胸を隠し、下半身は尻の出た際どい意匠の下着(ふんどしと言うらしい)という格好で湖へと入っていった。

 お互いの体を洗い清めるように、柔らかい布できめ細かい白い肌を拭っている。


「あらあらぁ、皆、結構大胆な格好しているのねぇ。私もちょっと頑張ってみたけど、これじゃあ少し地味だったかしらぁ。ねぇ、クレストフ?」

「知ったことか。いいから、さっさとお前も水浴びを済ませてこい」

「はいは~い。まったく、もう少し鼻の下を伸ばしても罰は当たらないんじゃないかしらぁ?」

 そう言って俺を誘惑するように腰をしならせるメルヴィオーサの格好は、地味と言うにはほど遠い、胸の突端と股の中央を細い紐で隠しただけの水着姿だった。

 いや、これを果たして水着と言っていいのか。二本の紐を肩から股にかけて結んだだけだ。殆ど全裸と言って差し支えない格好である。


「ビーチェもおそろいの水着、着てみる? これ、黒猫商会で買ったのよ。クレストフを悩殺できるわよぉ?」

「クレス、悩殺……?」

「やめろ! 変なことをビーチェに吹き込むな!」

 俺は割と本気でメルヴィオーサの悪戯を阻止する。ビーチェがもしそんな格好をしようものなら、俺の趣味ではないかと疑われてしまう。メルヴィオーサは矯正しようのない痴女なので手の施しようもないが、純真無垢なビーチェを変態の色に染めるわけにはいかない。


「ああ、いいなぁこれ。天国だな、ここは」

「ダミアン……あなたはまた……まあ、今回ばかりは否定しませんけど」

 幻想術士団の精霊術士ダミアンとグレゴリーは揃って船の甲板に立ち、思い思いに水浴びをする女達の姿を眺めていた。すぐ近くで、同じく精霊術士のミルドも言葉少なに頷いていた。


「アルバ……俺、この旅についてきて良かったよ……」

「ああ、ビルド、僕もだよ。もういつ死んでも後悔しない……」

 アカデメイアの学士もまた船の甲板でやや前屈みの姿勢になりながら、湖に広がる光景を見て至福の笑みを浮かべていた。


「あははっ、マルクスー! こっちよー!」

「ふふふっ、待ちたまえー、ユリアー!」

 馬鹿みたいに追いかけっこをしてはしゃぐ騎士と術士。


「まったく、ここは兄様には目の毒ばかりです」

「ルゥ、そんなこと言っていないで僕らも水浴びしないかい? 臭うよ?」

「臭くないです! でも水浴びはします! 向こうへ行きましょう! もっと人の少ないところへ!」

 密やかに絆を深め合う兄妹。


「…………」

 そして唯一人、岩礁に腰をかけて風に吹かれている剣聖アズー。

 相変わらず穏やかそうに見えて、その実、常に鋭い視線を送っている瞳。

 彼が気を抜かない限りは、魔剣とやらも本性を表さないのではないかと、最近の俺は考え始めていた。



 皆がそれぞれ自分なりに束の間の休息を満喫する間、俺は甲板に立って自主的に監視員の役を担っていた。

「わーい! お姉さん達~、ボクと遊ばない?」

「あ、宝石の精霊さん? ……しっかり体は洗いましたか? 遊ぶのはそれからですよ?」

 ジュエルは特に体の汚れが酷かったので、高速で水中を泳がせて、汚れを落としてから戻るように指示しておいた。戻ってきたジュエルは随分とつやつやした岩肌を見せている。レーニャがジュエルの体の隅々まで臭いを嗅いで、もう大丈夫と言わんばかりに大きく頷いていた。

 見た目、羽衣一枚の少女姿であるジュエルの体を嗅ぎまわる下着少女の絵図は、そこはかとなく背徳的な感じがした。


「クレスは、泳がないの?」

「うん? ああ、俺は後で、な」

 黒猫商会で水着を買ったビーチェは、レースのついた黒の上下分割水着を着込んでいた。あちこち跳ねた長い黒髪は無造作に後ろで縛られ、年相応の少女らしい姿を演出している。

「気にせずに遊んでこい。ここで見ていてやる」

「……ん、ミレイアのところ、行ってくる」

 ビーチェは身軽にも甲板の手すりを飛び越えて湖へと飛び込む。そのまま勢いよく泳いでいき、白い法衣を水で体に張り付かせたミレイアに抱きつく。服が重いのか身動きの鈍いミレイアが、ビーチェに抱きつかれた勢いで転倒し水中へ没する。

 楽しくやれているようで何よりだ。

(……せめて今ぐらいは存分に、気分転換をしてもらいたいものだ……)

 ここまでに仲間を失った者達は多い。この先、更に過酷な道が続くのだ。いつまでも悲しみを引きずってはいられない。ここで気持ちを切り替えて楽しめなければ精神的にもたないだろう。

 しかし、どいつもこいつも肝が太いのか、楽しく水浴びしている姿を見る限り杞憂のようであった。


(もっとも……こういうときこそ気を抜くのは危険だ。誰か一人くらいは警戒をしていないとな……)

 辺りに満遍なく注意を払いながら、ふと後ろを振り向いてみると、黒い修道服を着込んだままの聖霊教会の四姉妹が佇んでいた。


「あんたらも息抜きをしてきたらどうだ? こんな遠くの土地まで来て、教会の体面を守る必要もないだろう」

 四姉妹は反応らしい反応を見せなかったが、少し間を空けてから長女のマーガレットが軽く会釈をすると、姉妹共々連れ立って船内へと降りていった。しっかりと着替えをして、臭い消しも行っているのか四姉妹からは何の臭いも漂ってこなかった。

 水浴びをしなくとも衣類や体を清潔に保てる秘訣というのを知っているのだろう。浄化の術式というのは聖霊教会では重宝されるものだ。姉妹の誰かしらが修得しているに違いない。




「皆、存分に息抜きできたようだな」

 船の甲板へと上がってきた、さっぱりとした同行者達の姿を見て俺は再出発の頃合だろうと見ていた。

「そろそろ旅を再開しようと思う」

 甲板でのんびりと寛ぐ水着姿の男女の集団。俺の声は聞こえているのだろうが、気持ち良さそうに甲板で寝そべったまま動こうとしない。そんな彼らを見やって俺は言い放った。

「だから……とっとと服なり鎧なり、装備しなおせ! いつまで経っても出発できないだろうが!」

 あまりにも気を抜きすぎな全員に喝を入れ、俺は魔導推進船の舵を取りに船内へと降りた。


 ジュエルの導きにより、夜の湖をゆっくりと大型船が進んでいく。

 船の先端に吊るされた魔導ランプの青い光が、行く先を阻む岩礁を明るく照らしだす。昼間は水底まで透き通るほどだったものが、夜間には深淵へと様変わりしている。

「夜間の航行はなるべく避けたかったが……あまりのんびりもしていられないしな……」

「ここから先にねー、宝石の丘へ通じる近道があるんだよ。確かね」

「お前の確かは、むしろ不確かだろうが。本当に二〇〇〇年前の記憶を頼りにしていいんだろうな?」

「多少は違うところもあるけど、ここまでちゃんと記憶にある道を辿っているから、大丈夫、大丈夫!」

 何一つ、安心できる要素がないのだが、こいつの記憶以外に頼るものがないのも事実だ。今は、ジュエルの直感に従って先へ進む他ない。


 湖を更に進むと、ようやく対岸らしき場所へと辿り着いた。

 そこは巨大な岩礁群となっており、聳え立つ崖の横腹に深く大きな洞穴が口を開けていた。

「湖の岸、というか断崖か。宝石の丘への道はこの洞穴を通るのでいいんだな?」

「そだよ。でも、この大きな船じゃ通れそうにないね」

「なら、ここからは小型船に乗り換えていくだけだ。皆、船を移る準備をしろ」


 大型船から十数隻の小型船へ乗り換え、洞穴の水路をゆっくりと進んでいく。

 洞穴には水面を波立てる強い風が時おり正面から吹いてきた。

「潮風か? 塩気があるな。海と繋がっているのか」

「さぁ、どうだろね。ボクが通ってきた道は海に出なかったと思うけど」

 複雑な構造の洞穴だ。どこか脇道には海と繋がる場所があるのかもしれない。

 この洞穴自体も、長い時間をかけて波と風に削られたのか、岩壁は穴凹だらけで波状に削られている。

 奥に進むにつれその複雑さは増して、まるで迷路のようになっていた。


「不気味な洞窟ですね。何か潜んでいてもおかしくない雰囲気……」

 ぼそりと口にしたミレイアの言葉は、控えめの声量であったにも関わらず、奇妙なほどに洞穴内で反響した。

 その瞬間、反響音に反応するかのように洞穴内が一斉に淡い光で満たされる。


「何の光だ!?」

 魔導の光にも似た淡い緑色の光が洞窟全体を照らし出している。

(――洞窟内を照らす、というよりは……洞窟が光っている?)


「水の中を見ろ! 何か動いているぞ!」

 隣を並走していた船の上から、タバル傭兵隊の傭兵が水中を指し示す。

 指の先を視線で追うまでもなく、水中で揺れ動きながら光る物体が目視できた。

 手の平のような無数の触手を伸ばし、水中で揺れ動く磯巾着いそぎんちゃく。そして、まるで脳味噌のような形状をした石珊瑚いしさんご。それらが自らの体を発光させているのだ。


 ――びゅっ、と。水中から何かが飛び出し、目の前を横切っていく。

「がっ!? うぐ……あぁ……」

 どぷん、と近くで大きな水音がする。隣の小船を見れば、先ほど立ち上がって水中を指し示していた男がいなくなっている。

 恐る恐る水中を覗き込めば、先ほどの傭兵が水中でもがいていた。傭兵の体には無数の糸のようなものが絡み付いており、それが邪魔して傭兵は水中から上がってこられないらしい。


 俺は胸元に下げている、鬼蔦おにづたの葉を模した銀の首飾りを取り出し、刻み込まれた魔導回路に意識を集中して魔導因子を流し込む。

(――あざなえる縄の如く、縛り上げろ――)

『銀鎖の長縄!』

 長く編まれた銀の縄を水中へと放ち、傭兵の手足に絡めて引き上げる。

 すると白く半透明な無数の糸が、傭兵の体と一緒に水上へ引きずり出されてきた。

 それは水中に潜む磯巾着の触手のようだ。先端が人の手の平のような形をしたうねうねと蠢動する触手は、傭兵の体にしっかりと巻きついて放そうとしない。


「おのれっ!!」

 タバルが霊剣泗水を一閃して、絡みついた触手を斬り飛ばす。

 抵抗がなくなったところで、俺は傭兵の男を元いた小船へと引き上げてやった。

 すぐに仲間の傭兵が生死を確かめるが、水に落ちた傭兵は既に事切れていた。

「死んだのか!? 溺死するほど長い時間ではなかったはずだぞ!?」

 タバルが傭兵の死を確認した者に再度問いただす。しかし、水に落ちた傭兵の死は覆らなかった。


(――この短時間で死んだ? ということは、溺死ではなく――)

 俺は銀鎖の長縄に絡みついた触手の一本を近くで観察してみる。すると、その触手には複数の細かい棘が生えているのに気が付いた。

 刺胞だ。触手から無数の毒針を出して、獲物に毒を注入して殺す。水母くらげや磯巾着などの水棲生物によく見る殺傷器官である。

 そうこうしている内に、ゆらゆらと水面から顔を出す無数の触手。それらは瞬時に腕を伸ばすと、船から身を乗り出していた一人の獣人の首に絡みつき、毛皮の下の皮膚に毒針を突き刺した。

 瞬時に体の自由を失い、水中へと落下する獣人。その毒性の強さに俺は目を見張った。これは、解毒の猶予など全くない。


「刺されたら即死するぞ! 水面に体を近づけるな!!」

 空を切って唸る触手を俺は身を屈めてかわし、外套を頭から被ってビーチェの上に覆いかぶさる。反応の遅れた何人かがまた犠牲になったのか、大きな水音が何度か聞こえてくる。

 外套の下に身を隠しながら、俺は声を張り上げた。

「ジュエル! 船の先導を任せられるか!?」

「え、ええ!? そんな無茶な! 十隻以上もあるんだけど!? 全部は無理だよ!!」

「舵取りは誰かがやらなければならないか……」


 俺は意を決し身を起こして、ほかの船の様子を窺う。

 皆、姿勢を低くして触手の攻撃をかわしながら、どうにか座礁しないように舵を取ろうと苦心していた。

「ぬぅっ! 術士がやられた! 舵を取れるものは他にいないか!?」

 何隻かに別れて乗っていた国選騎士団の船のうち、騎士隊長ベルガルの乗る船で、舵を取っていた術士がぐったりと倒れ伏している。前方確認のために顔を上げたところで触手に刺されたのだろう。


「そいつ、どかしなさい! 私が代わるから!」

 傀儡術士ミラが、別の船からベルガルの船へと飛び移ろうと身を乗り出す。

 ミラが船を飛び移ろうとしたとき、獲物を逃すまいと触手が一斉に襲い掛かり、ミラの小さな体を触手で縛り上げ宙吊りにする。

「あ、ちょっと……やめなさいっての。こら! ああん!」

 毒針は飛び出しているのだろうが、さすがに人形の体を有しているだけあって、ミラには毒針が効いていないようだ。しかし、そのままでは水中に引きずり下ろされてしまう。


「このっ! このっ!」

 近くにいた傭兵が鋼の長剣を振るうが、弾力のある触手に刃が立たず、絡み付かれて逆に剣を奪われてしまう。そして、剣を手離すまいとしたばかりに、水中へ引きずり込まれてしまった。並みの剣では触手を断ち切ることができないのだ。


「はぁっ!!」

 ファルナが気勢を上げて、錆で赤茶けた妖刀・断ち首の鋸によって触手を一度に断ち切る。

 抜き身の刀身から立ち昇る禍々しい赤紫色の妖気は、斬りつけた触手の先まで侵して力を失わせる。生物の生きる力を奪う、妖刀の特殊な力であろうか。斬りつけられた触手はことごとく水中へと没していった。

「ぎゃふんっ!」

 触手の支えを失ったミラは水面に落ち、しかしそこから自力で泳いでベルガルのいる船へとよじ登っていく。


「ミラ殿! 船の上へ!」

「こらっ、ベルガルあんた、私が濡れる前に助けられないわけ!?」

「無茶を言わんでほしい。あんないきなり飛び出されては、受け入れる準備も何も――」

「言い訳しない! ほら、舵代わるから、騎士共は闘気をまとって触手を斬り払いなさい。他の船も! 舵を取る術士を死守しなさいね!」

 ミラの的確な指示により各船で、どうにか毒の触手に対抗する態勢が整った。

 騎士ならば闘気をまとえば毒の触手も皮膚を貫けないので、触手を斬り払って舵取りの術士を守ることができる。


「ユリア! 君は僕が守るからね。安心して舵を取っておくれ!」

「マルクス、あなたを信じているわ!」

「……僕の妖剣・甘い罠ハニートラップで、その無遠慮な腕を一本残らず切り落としてあげよう!!」

 細く、串のような細剣レイピアの形状をした、怪しい波動を発する妖剣。

「ふぅっ!!」

 剣先の動きが殆ど見えないほどの速さで振られ、突きとも斬撃とも判別しかねる攻撃が、触手を確実に一本ずつ斬り飛ばしていく。

 その気迫からは触手の一本も、ユリアに届かせまいとする意思が感じられた。


 また、騎士でなくても霊剣や妖刀であれば触手を難なく斬り飛ばし、無力化することができる。

 ファルナ剣闘士団、そして霊剣泗水の担い手タバルは、危険を承知で迫り来る触手を薙ぎ払い続けていた。

 そして今一人、妖爪鎌鼬を持つグレミーも果敢に触手を斬り飛ばして、仲間を毒針の脅威から守っていた。

「兄貴ぃ! 本当に一人で大丈夫かぁ!?」

「いいから、頭あげるんじゃねぇよ! 無駄に死ぬことになんぞ!!」

 グレミーはコンゴ魔獣討伐隊の騎士達と共に、船の舵を取る術士を守っていた。


「ようよう、クレストフ! このままじゃ、いつか追い込まれるんじゃないか?」

「ダミアンか!? 何か策があるのか!?」

水妖精ウンディーネの力で船の速度を上げようと思う!」

「水中の敵を倒すことはできないか?」

「それはやめとけ! あんまり派手にやると船が転覆する!」

「しかたない……。徐々に水の流れを速めてくれ、加速はゆっくりだぞ。舵を取っている者、いいか! 少しずつ速度を上げるぞ!!」

 あちこちの船から「やってくれ!」「それでいい!」などと口々に同意の声が聞こえてくる。

「よしっ、ダミアン頼んだ!!」

「よっしゃぁあ、行くぞ! 激流下りだ!」

「加速はゆっくりだぞ、ダミアン!! ゆっくりだー!!」

 水流が急に強くなり、船の進行速度がぐんと上がる。舵が取りづらくはなるが明らかに進行速度は速まっていった。



 どれほどの時間を船の上で戦い続けただろうか。

 いつの間にか洞窟内は暗くなり、水中に緑色の光は見えなくなっていた。

 俺は魔導ランプを掲げて、同行者達の様子を確認する。

「あれだけの状況でも犠牲者は数人か。まあ、上出来だな……」

 小船の上では、皆が疲れ果てた様子で座り込んでいる。

 俺は魔導ランプの光を前方へと向けて、進路を照らし出した。


 風もなく、波もない静かな水面を小船が進んでいく。

 前方には薄っすらと霧が立ち込めて、肌寒く湿った空気が身体を冷やし始める。

「危機は乗り越えたはずなのに、どうにも気分は良くないな……」

 先の見通しが悪いためなのか、俺の胸中は依然として晴れぬままに、宝石の丘への道程は続いていく。

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