【ダンジョンレベル 18 : 裏切りの洞窟】
第133話 惑わしの幻想種
時間の流れが歪み、実際にどれだけの時を費やしたのか、複雑に入り組んだ水路を延々と進んで俺達はようやく陸地へと辿り着いていた。
陸と言っても水路の切れ目、依然として四方を岩壁に囲われた、どこの秘境ともしれない洞窟である。
洞窟の分岐路はこれまでの水路同様、複雑に入り組んでおり、どこからともなく寒々しい霧が漂ってくる。
霧は肌を突き刺すような冷気を含んでおり、体に纏わりつくような粘性を帯びていた。この感覚は何度も体験したことがあるものだ。
(……ひどく濃密な気配……。まずいな、かなり力のある幻想種が集まっている……)
いまだはっきりとした姿は視認できないが、奴らがこの周辺にいるのは間違いなかった。
精霊術士のダミアンに目配せすると、彼もまた幻想種の気配にはとっくに気が付いていたようで、一行を守るように幻想術士団の団員達を散らして配置した。
「ビーチェ、お前の精霊……
「ん。いつでも、すぐ傍にいる。今は私の影の中」
ちらとビーチェの背後を見ると、小さな影から黒い蝙蝠型の翼がひょこひょこと見え隠れしている。シェイドもまた、この場の異様な空気を察知しているのかもしれない。ビーチェが呼び出したわけでもないのに、普段まったく姿を見せないものがしきりに存在を示していた。
「よし……シェイドがいれば大丈夫だろう」
俺も先行するジュエルの首根っこを掴み、手元に引き寄せる。契約精霊が近くにいれば、幻想種はその存在を嫌って近づいてこない。厄除けみたいなものである。
「あれ? なーに、ボス? ひょっとして怖いの? しょうがないな~、ボクがぴったり寄り添っていてあげるからね。むふふ~」
「あ、歩きづらい……調子に乗ってしがみつくな!」
こいつに頼ろうとするのは浅はかだったか、と早くも後悔する。
しかし、いざとなった時に動きを阻害されるのと、幻想種と契約精霊抜きでやり合うことを秤にかけてみれば、やはりジュエルを引きずりながら歩いてでも近くに置いたほうが安心なのは違いない。
ジュエルが傍に寄ったことで、俺の周囲を漂う冷たい気配が遠のいた気がする。ただその分、他の場所へ冷気が動いたようにも思える。ビーチェがゆっくりと首を左右に巡らせ、ぶるぶると身震いした。
(ますますもって嫌な気配だ……こちらを意識している感じが、はっきりと伝わってくる……)
幻想種は気まぐれで、個体によってその特性も大きく異なる。
全く何に対しても不干渉なものか、積極的に人へ干渉してくるものか、あるいは世界の全存在に対して働くものか。特性の差はそのまま有害性に関わってくる。それは実際に接触してみるまでわからない。
周囲の気配はますます強まり、濃密さを増していた。術士以外の同行者達も異変に気が付き始めている。もはや幻想種との接触は避けられまい。ここへ来て俺も確信を得た。
「幻想種が近くに潜んでいる! 全員、警戒しろ。意識をしっかり保てよ!」
気合いだけでどうにかなる相手でもないが、一般人でも精神の頑強な者ほど幻想種の力に対抗できる、というのはよく知られていることだ。少なくとも、何かが自分達の身に近づいてきているという意識が、ほんのわずかな異常でも察知するきっかけになればいい。
奴らは、人の心の隙間にさえ忍び込んでくるのだから――。
異変が生じたのは突然のことだった。
右端を歩いていた獣人の一人が急に立ち止まり、愕然とした表情をして立ち竦んだのだ。
「おい、どうした。ぼけっとしてんじゃねぇぞ!」
狼人のグレミーがその獣人の背中を軽く叩くと、獣人は怪鳥のような叫び声を上げながら隊列を離れて走り出してしまった。
「う、うお!? 馬鹿、戻れ! どこ行く!!」
グレミーの制止も聞かず獣人は洞窟の遥か前方へと走り去り、霧の向こうへと消えてしまった。
そして、同様のことがあちこちで起こり始めた。
主に獣人が、そしてタバルの率いる傭兵達が次々と、まるで発狂したかのように叫び声を上げては霧の彼方へ自ら走り去っていく。
「こら、お前達! 気は確かか、隊列を離れるな! 戻って来い!!」
傭兵隊長タバルが必死に仲間を押し止めようとするが、傭兵は次から次へと全力で走り出して隊列を乱してしまう。
ついに始まったのだ。幻想種による攻撃が。
「惑わされるな!!
襲ってくるかもしれない、とは考えていた。
だが、ここまで攻撃的な幻想種であるとは思いもしなかった。
どういうわけか、ここの奴らは人に対する敵意が強い。
(……あるいは、生命に対する飢餓感とでも言うべきか……)
命ある者を喰らわんとする意思。肉体を持たないがゆえに、受肉を欲するというのか。
生き物などめったに入り込まない領域で、多数の獲物を前に沸き立っているのかもしれない。
幻想種の姿はほとんど視認できないが、時おり目の端を薄青い
「騎士は闘気を、術士は魔導回路を活性にしろ! やつらに憑け入る隙を与えるな!」
俺の指示で、浮き足立っていた一行はどうにか平静を取り戻した。対抗策があれば、落ち着いて対処できる。
だが、対抗策を持たない者達はまるで抗うこともできないまま攫われてしまったようだ。
タバル傭兵隊はタバル隊長を残し、傭兵達全員が霧の中へと引きずり込まれ消失していた。
どうやら霊剣が幻想種を遠ざけているようだが、それでも全く近寄って来ないというわけでもないらしい。
油断すれば憑依され、攫われてしまう。仲間を守る余裕もなく、唯一人で捉えどころのない敵と応戦していた。
他に被害が甚大だったのはグレミー獣爪兵団だ。
グレミーは
次々と憑依され、一人、また一人と戦線から離脱して行方不明になっていく。
「くそったれがぁ!! どうして俺らのとこばかり、
吼えるグレミーのすぐ脇を
そしてそのまま、隊を外れてふらふらとどこかへ行ってしまう。
「ブチ!? お前もかよ! 戻れっ! 戻れぇっ、ブチィ――!!」
グレミーの叫びも虚しく、ブチは他の獣人達と共に霧の彼方へと消えてしまった。
幻想種の襲撃によって混乱が広がる最中、冷静に戦況を見極めて戦う者達もいた。
「敵はどこから来るかわからない。『表裏・三つ巴の陣』で迎え撃て!」
二人一組背中合わせで、六方向を警戒する『表裏・三つ巴の陣』を展開して、ファルナ剣闘士団は幻想種がどこから襲ってきてもわかるように円陣を作った。
白い霧に混じって、薄青い靄が這うようにファルナの足元へ近づいてくると、即座にこれを視認した団員の一人が『
不定形ながらも一定の密度を保って漂っていた青い靄は、霊剣に切り裂かれると風に吹かれた煙のように霧散した。
「続いて、二匹! 来るぞ!」
ファルナの声に応じて『妖剣・皮剥ぎの
「団長! 上からも!」
『
さらに、その間に死角から迫ろうとしていた黒い靄が、『妖剣・骨削りの
霊剣あるいは妖剣の類は幻想種にも効果があるらしい。次々と幻想種に惑わされる者達が出る中で、ファルナ剣闘士団は果敢に立ち向かい善戦していた。
他にも、幻想種に対抗する力を持った騎士や術士は、視界の悪い霧の中でありながらも次々と迫り来る靄を退けていた。
「悪しき妖魔を封じたまえ! 『呪符・
赤札の巫女アメノイバラノヒメが両手の指に挟んだ八枚の呪符をいっせいにバラ撒く。
宙に舞った呪符はすぐさま幻想種の存在を感知すると、八方向から取り囲み簡易的な結界を構築する。
周囲を取り囲まれた幻想種は身動きを封じられ、その空間座標に縫い付けられた。
「これで数時間は何もできませんよ。そこで大人しくしていてください」
赤札の巫女達はイバラノヒメを筆頭に、湧いて出てくる幻想種を片端から封じ込めていった。
また別の場所ではコンゴ魔獣討伐隊が巧みな連係で幻想種を次々と屠っていた。
まずは長尺の錫杖を持った筋骨隆々の女術士が前へ出て、幻想種の動きを封じる呪詛を放つ。
『形なきもの、縛れ!
呪詛を吐くと、黄色い光の粒と共にまるで動物の神経を引きずり出したかのような糸状のものが召喚される。
捉えどころのなさそうに見えた幻想種であったが、不定形の黒い靄は出現した糸に絡め取られて地に落ちた。
そこへ、赤褐色の闘気を迸らせた騎士ガザンが、巨大棍棒を持って打ちかかる。闘気に包まれた棍棒は幻想種を叩き潰すと、その存在を徹底的に霧散させた。
魔獣討伐隊だけあって、魔獣を産み出す元凶である幻想種との戦いにも慣れているようだ。頼もしい限りである。
「やるな……大したものだ。もう少し俺も働くとするか」
他の術士達に触発されて、俺も幻想種に対抗する術を幾つか披露することにした。
とは言っても、奴らに有効な攻撃は数も限られている。
俺は懐から、
(――
脳から神経系を伝わって指先へと、魔力の呼び水たる魔導因子が
『
俺の吐き出した呪詛は、狙い違わず近くを漂っていた薄桃色の靄へと向けられ、その不定形な存在を丸ごと包み込んで透き通った水晶に閉じ込めた。
魔導によって創り出されたこの結晶は半永久的に幻想種を封じることが可能だ。これを応用すれば、無尽蔵のエネルギー源である精霊機関を作ることもできる。
最初から幻想種を捕まえる為に編み出した術式だ。その効力は高位精霊であるジュエルさえも自由を奪って結晶漬けにしてしまうほどである。有象無象の下級幻想種では、この術式から逃げ出すことはまずできない。
善戦する者達がいる一方で、グレミー獣爪兵団はいよいよ追い詰められていた。
逃げ惑う者達。立ち向かう者達。いずれもグレミー以外に幻想種に対抗する術を持たない獣人は、幻想種に惑わされて白い霧の向こうへ攫われてしまった。
そんな中、不自然にも無防備に立ち尽くす熊人グズリがいた。
「熊……さん?」
心配そうに声をかけるビーチェだったが、グズリの目は虚ろで、口は半開きのままだ。
「グズリ!! ぼけっとしてんじゃねぇ! 気合い入れろぉ!!」
グレミーの必死の呼びかけにもグズリは反応することなく、依然として口を開けたまま立ち尽くしていた。
そのだらしなく開いた口に、幻想種が何匹か入り込んだ。
――ぞくり、と俺の背筋に冷たいものが走る。これまで獣人を攫っていった幻想種の動きとはどこか違う。グズリの反応も他の者とは異なり、ふらふらとどこかへ行くのではなく、その場に留まりぶるぶると体を震わせていた。
(……様子がおかしい。この兆候はまさか――)
俺がある可能性に思い至るより先に、グズリの体に決定的な異変が訪れた。
『キヤャ――!! カァア――!!!』
どくり、とグズリの全身が大きく膨れ、虚ろだった目に光が戻る。
白目を塗りつぶして、
恐ろしい風貌に気圧されてビーチェが腰を抜かしている。何も言わずともジュエルがビーチェを引きずって、グズリから距離を取ったのは褒めてやらねばなるまい。
グズリと目があった瞬間、俺は悟った。
この目にまともな自我は宿っていない。
グズリは幻想種に憑かれた。
そして深く混じり合い、魔獣と化したのだと。
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