第105話 妖刀・断ち首の鋸
(――もう二度と、あの屈辱的なゴミの生活に戻りはしない)
奴隷として飼われていた過去は、ファルナの心に深く陰湿な闇を植え付けた。
生まれながらの奴隷であった彼女は宿命を呪う。
生まれた時点で既に逃げ出すこともできない地獄の檻に閉じ込められていた。
初めから、どれほど幸せを望んでも叶わないと絶望せざるをえない状況だったのだ。
人の尊厳を全て剥奪された状態で産まれ落ちてきた彼女に、宿命と抗う術などありはしない。
彼女は、そういう国のそういう場所に生まれてしまった。
小さい頃は奴隷剣闘士の闘技場で働かされていた。
仕事である闘技場の清掃は血と汚物に塗れての作業となった。生まれてからずっと慣れ親しんできた臭いだが、決して気持ちのいいものではない。
ファルナの身体も、常日頃から蝿が纏わりつくほどに汚れきっていた。さすがに闘技場を汚すほどにまでなると、頭から水をぶっ掛けられて、自分で泥と垢を落すように命令された。
毎日毎日、清掃の日々。
奴隷剣闘士達の牢を回っていくと、明日に絶望して淀んだ瞳でファルナを眺める奴隷剣闘士がいる。彼らは一様に掃除の邪魔にならないよう部屋の隅っこの壁に体を預け、小さくなっている。
彼らもまた幼い時には闘技場の清掃を経験してきた者達だ。ファルナが掃除をしやすいようにどいてくれている。そして、そんな幼いファルナを見て、いずれ彼女にも訪れるだろう奴隷剣闘士としての末路を自分の姿に重ねて、絶望するのだ。
彼ら、彼女らには、生まれたときから価値あるものは何も与えられなかった。
剣闘士として死にゆく最後まで、何の価値もない人生だったと、絶望することになるのだ。
過去を振り返っても何もなく、現在は地獄で、明日の生死も絶望的だった。
せめてもの慰みに、奴隷剣闘士は清掃に来た次代の子供達に自分の身につけた剣技を教えるのが通例となっていた。
ファルナもまた、若い少年剣闘士あるいは少女剣闘士から剣を教わることがあった。
清掃と洗濯と食事の準備が終われば、彼らにも僅かな時間が与えられている。
それは見世物として最低限、見られるだけの修練を奴隷に積ませる為、設けられた時間でもあった。
彼らは必死になって剣技を身につけようとする。ごくわずか、生き繋ぐ可能性に懸けて。
奴隷剣闘士の相手は様々だ。
単純に奴隷剣闘士が嬲り殺されるさまを見世物とするため、屈強な戦士があてがわれる場合など、ほぼ確実にその奴隷剣闘士は死ぬ。
時には猛獣との闘いで、四肢を欠損しながらも生きながらえる者もいれば、もともと奴隷ではなく市民階級から落伍してきた者と闘い、あっけなく勝利してしまう者もいる。
だがいずれの場合も、奴隷剣闘士が長く生きることはない。
怪我や病気、運のなさで、大抵が若くして命を落す。
ここは地獄。決して這い上がることができない、地獄の底であった。
手足と背丈が伸びて、ひとしきりの成長が終わる頃、ファルナもまた剣闘士として闘技場に放り込まれることになった。
奴隷剣闘士として、嬲られて見世物になることを望まれていたファルナは、麻布を腰と胸に巻いただけの粗末な格好で闘技場の控室に押し込められていた。
生気のない目で敵と戦う為の武器を選びながら、避けようのない死を前に絶望していた。
これより自分は闘技場で敵と戦う。
自分よりも一回り以上も大きな巨漢の戦士が相手だ。
まさに結果の決まった茶番劇。観客はそれを楽しむために集まっている。
脆弱な小娘が必死になって敵に抗い、為す術もなく蹂躙されていく姿を見たいのだ。
予め敵の巨漢に言い渡された台本は容易に想像できる。
まずは浅く皮膚を傷つけていき、ついでに身に着けた麻布を切り捨てる。
裸に剥かれた娘から最後に武器を取り上げて、恐怖と痛みで泣き叫ぶ娘を観客の前で盛大に犯してから首を掻き斬るのだ。
反吐が出るような脚本だ。
ファルナは同世代の奴隷剣闘士の中でも剣技の覚えがよく、獣相手ならば何度か倒した経験がある。
だが、今度の相手は完全武装した本職の戦士である。
万に一つも勝ち目はなかった。
そんな決まりきった彼女の宿命を変えることになったのは、剣闘士の控室で放り捨てられるようにして転がっていた一本の片刃の剣だった。
半ば錆びついていて、刃は鋸のように荒れていた。
誰も好んで選ぼうとはしない粗悪な剣に、どういうわけかファルナは強く惹かれた。
どうせ、どんな武器を選んでも似たり寄ったりだ。
なら最後くらい、自分が気に入った武器を手に取ろうと、ファルナはその鋸刀を手に取った。
何か得体の知れない、奇妙な力が全身に漲る感覚があった。
その日、闘技場では大番狂わせが起こっていた。
無敵にして暴虐の戦士と恐れられた巨漢が、錆びついた刀剣を持った奴隷少女に切り刻まれていた。
身につけた甲冑ごと利き腕の右手首を切り落とされ、巨漢は怒り狂った。
思わぬ展開に、闘技場の観客は盛り上がった。
彼ら観客にとって見れば、それもまた刺激的な見世物の一つでしかない。
巨漢は無事な方の左腕に大振りの曲剣を持って切りかかるが、奴隷少女は軽やかにこれをかわし、脇をすり抜けざまに巨漢の右足首を切り裂く。
堪らず膝をつく巨漢。兜の奥にあるその表情は、もはや恐怖の色に染まっていた。
背後から少女が飛び掛り、全体重をかけた一撃が巨漢の後ろ首に叩きつけられる。
そのまま引き切るようにして鋸刀が横に滑ると、巨漢の首がごとん、と闘技場の地面に落ちた。
闘技場は観客の大歓声に包まれた。
見世物が終わり、闘技場を後にして控え室へ戻るべくファルナは出口へと向かった。
だが、闘技場の出口は開閉用の鉄格子が下ろされていて通り抜けができない状態だ。
鉄格子の前で突っ立ているファルナに、頭上から声がかけられた。
「おい、娘。その物騒な得物を捨てろ」
訝しげに頭上へ視線を送ると、鉄格子の開閉をする門兵が武器を捨てろと指示していた。
武器を置いて闘技場を出なければ、鉄格子の檻を開けてもらえない。
そのことに、ファルナは強い拒絶感と反抗心を抱いた。
奴隷として生まれ、初めて抱いた敵愾心である。
自分は一人の奴隷剣闘士に過ぎない。
どれだけ抗おうとしても、奴隷制を許容するこの国はファルナの反抗を許さないだろう。
だが、問題ない。
この刀があれば。
(――この刀は私のものだ――)
ファルナは鋸刀を強く握り締めると、鉄格子に刃を当てて引き切る。
鉄粉が火花と散って、鉄格子がごりごりと削り切られていく。
「おい!? お前、何をやっている!! やめろ!!」
門兵が大声を上げて制止するが、声だけでファルナが止まることはない。
文句があるなら降りて来い、と言わんばかりに睨みつけてやると、門兵は顔を青くして慌てて逃げ去っていく。
おそらく、応援を呼びに行ったのだろう。
しかし、もう遅い。
鉄格子はあっさりと削り切られ、ファルナは剣闘士の控え室へと戻ってきた。
併設された武器庫の扉は鉄の閂に鍵をつけて閉じられていたが、ファルナは閂ごと鍵を切り落とし、武器庫を解放した。
そのまま控え室を出ようとして、その部屋の扉にもまた鍵がかけられているのに気が付いた。
扉の隙間を見れば、鍵を回すと小さな金属棒が閂の代わりになる作りだった。
ファルナは迷わず隙間から鋸刃を差し入れ、扉を閉ざす金属棒をごりごりと切り落とした。
控え室を出た入り口周囲には、闘技場を警備する兵隊が槍を持って複数人で待ち構えていた。
ファルナはすぐに踵を返し、控え室を通って武器庫の方へ戻る。
「待て! 大人しくしろ、奴隷が!」
「脱走するつもりだったか! 浅はかな娘め!」
「処刑は免れんぞ!」
一列になって突入してくる兵隊に向かって、ファルナは武器庫にあった手斧や短剣などを次々と投げつける。
「ぐぇっ!?」「ぎゃ!!」「ひぃっ!? ぐがっ……!」
槍と鎧で武装していても、投げつけられる金属の塊を弾くだけの盾は持っていない。
控え室に入ってきた何人かは武器の投擲をまともに受けて、致命傷を負った。
「武器庫が開いているぞ!?」
「どうして――うぁああっ!?」
怯んだ兵隊にファルナは斬りかかり、狭い室内で槍を振るえない兵隊を次々に斬り伏せていく。
首を、すべて一太刀で切り落としながら。
まるで鬼でも乗り移ったかのような刀捌きである。
少女一人と侮ったのだろう。常駐の兵が必ずしも多くはなかったのかもしれない。追加の兵隊は現れなかった。
ファルナは兵隊がそれ以上増えないと見ると、控え室を飛び出した。
そして、奴隷剣闘士達の入っている牢を次々と斬り破り、呆けている彼らに武器庫から持ってきた様々な武器を握らせる。
足枷をされているものは、その枷を断ち切ってやった。
ファルナは奴隷剣闘士達に、何をしろとは言わなかった。
ただ解放して、武器を手渡した。
いきなりの出来事に反応できない奴隷がほとんどだったが、この事態がかなり大規模なものになりつつある事がわかると、もはや自分だけ従順な姿勢を見せても罰は免れないと悟った。
すると、それまで怯えていただけの奴隷剣闘士が、武器を手にして立ち上がった。
それはすなわち、奴隷の反乱である。
◇◆◇◆◇
「ファルナ団長、昼食ができました」
「ん……ああ。もらおう」
底なしの洞窟内に築いた野営地で、仲間に見張りを任せて軽いうたた寝をしていたファルナは、奴隷だった頃の過去を夢に見ていた。
昼食を運んできてくれたのは、当時の闘技場で働いていた奴隷仲間の少女だ。
あれから奴隷の反乱は国の軍隊によって鎮圧されたが、暴動は大規模なものになり、その混乱に乗じてファルナと五人の奴隷少女は逃げ延びることができた。
その後は剣闘士としての技を武器に、山賊紛いのことをして金銭を奪いながら各地を放浪した。
旅をするなかで、ファルナの持つ刀剣が妖刀と呼ばれるもので、『断ち首の鋸』という銘があることを旅の剣術士から聞いた。
以来、ファルナは妖刀、妖剣、あるいは霊剣と呼ばれるような、不思議な力を宿した刀剣類の収集を目的にして仲間と共に東西南北、各国を渡り歩いた。
執念が実ったのか、あるいは妖刀が他の剣を引き寄せたのか、ファルナは妖剣二本と霊剣三本を新たに手に入れて、ファルナ剣闘士団の仲間に持たせた。
今では当たり前に手にすることができる腹一杯の食糧、上質な鎧、清潔な衣服、それらはすべて彼女が力づくで手にしたものだ。
奴隷時代には私物の一つどころか、下着も身に着けることは許されなかった。
けれども今なら、大抵の望む物は自身の力で手に入れることができる。
満たされている、そのはずなのにファルナはどうしてか苛立つ感情の波を抑えることができない。
彼女の奴隷としての過去は、どこまでも彼女を卑屈にさせる。
例えば自分の手にあるこの妖刀を失ったら、また奴隷時代に逆戻りしてしまうのではないかという不安。
ファルナが妖剣や霊剣の次に求めたのは、武力で身を守り続ける必要のない安定した生活であった。
しかし、女ばかり六人もの集団が食っていくには、相変わらず世の中は厳しかった。
体力の充実している今はいい。
だが、やがて体力が衰えてきたとき、稼ぐ手立てがなくなってしまえば困窮してしまう。
女だけの傭兵団では仕事も少なく、貯蓄などする余裕もあまりない。
武力の充実している若い時期に、稼げるだけ稼ぐ必要があった。
そんな時、底なしの洞窟に来られたのは彼女らにとって幸運と思えた。
腕の立つ人間なら素性を問わず、宝石の丘へ至る旅へ参加できる。そんな夢のような一攫千金の話が、危険だが極めて確からしい情報と知ったとき、ファルナは決断した。
(この仕事を最後に、荒事から足を洗おう)
剣闘士としての技に頼って生きる限り、ファルナはいつまでも汚れた過去から抜け出すことができない。
今回の大仕事はこれまでの汚れた人生と決別できる、またとない機会とファルナは考えていた。
「もう二度と、あの屈辱的なゴミの生活に戻りはしない」
ファルナの手の中で、妖刀・断ち首の鋸が静かに赤紫色の妖気を垂れ流していた。
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