第100話 ビーチェの冒険

 洞窟攻略都市、その街外れの一画に非公認の組合、冒険者組合がある。

 そこは元々、自称冒険者が集うただの酒場だったが、酒場の主人を通して仕事の斡旋や情報交換ができる場として重宝されてもいた。

 単なる寄り合い所に過ぎなかった酒場も、ここ最近の冒険者の増加に伴って、副業として冒険者達の活動を補助する商売を拡大していた。

 ダンジョン・底なしの洞窟に関する情報売買や、仕事の斡旋、人材の派遣、果ては貸し倉庫と貸し金庫の管理まで手広く商売をして儲けていた。


 だが、少しばかり調子に乗って稼ぎ過ぎたのが裏目に出た。

 商売が軌道に乗って、冒険者組合などという名称が定着したところで、この街の領主であるフェロー伯爵令嬢に目を付けられ、商売を行った際の税金を支払えと督促されてしまったのである。

 そして今日、直に伯爵令嬢が視察に訪れ、この店の業務形態を詳細に調べることになっていた。



 決して広くない質素な部屋に、六人の男女が三人ずつに分かれ向かい合っている。

 一方には、五十代前半の男が一人と、若く体力があり余っていそうな青年二人。

 もう一方には、優雅に足を組み微笑む伯爵令嬢がいて、その両脇に護衛の騎士と術士がいた。

 騎士は顔面に無数の古傷を残し、一目見て歴戦の強者とわかる物腰をしている。

 そして、もう片方の術士は……。


 冒険者組合の長、ラウリは背筋に寒気を感じて身を震わせた。それは一度自覚してしまったら無視することのできない本能的な恐怖の感覚。

(くそぅ……なんて目で見やがるんだ……。体の震えに抗えねえ……)

 ラウリの視線の先には、黒いミニドレスに身を包んだ小柄な少女が立っていた。

 一見して、花よ蝶よと愛でられるだけの美しい容姿をした少女に思えるが、それは彼女の瞳と視線を合わせる前の感想だ。

 妖しく輝く金色の瞳は、視線を交わした相手を強制的に呪縛する。恐怖という鎖で相手を縛りつけ、頭の上から押し潰すような威圧感プレッシャーを与えてくる。


 ラウリは前もって伯爵令嬢とそのお供の情報を手に入れていた。

 全ては今日の日の交渉を有利に進めるため、相手の素性を知ることで様々な対策を考え、からめ手から攻め落すつもりでいたのだ。

 伯爵令嬢エリアーヌが連れるお供は三流騎士ゲッツェン、四級術士サリタの二人。荒事になれば三流とはいえ騎士であるゲッツェンを止める術はない。

 だが、暴力に訴えられないような状況を作り出し、正式な交渉の場を作ってやれば単なる剣術馬鹿など恐れるに足らず。四級術士のサリタは探索系の術士であり、情報収集には長けているようだが、いざ交渉に入ってしまえば商談の駆け引きなどの機微には欠ける。


 その二人以外は小間使いの人間ばかりで目立った配下はおらず、伯爵令嬢もまだ歳若い小娘と聞いていた。

 これまで癖のある冒険者連中を相手に商売をしてきたラウリには、自分に都合の良い交渉結果を引き出せる自信があった。


 しかし、その目論見は今日この場で脆くも崩れ去る。

 事前情報とは異なり、四級術士タリサはこの場に現れず、代わりにやってきたのが年端もいかない少女であったのだ。

 これはまた何の戯れかとラウリは内心で嘲り、交渉の優位を確信して席に着いたのだが……。


 その少女の本質は、恐るべき魔眼の持ち主であり、ラウリは視線を合わせただけで心胆が冷え切って思うように舌が回らなくなってしまった。

 それが、最近巷で密かに噂になり始めていた『魔眼のビーチェ』であることに気が付いたのは、少女の術中に完全に嵌まってしまった後のことである。情報が少なく、領主館での少女の立ち位置も客分扱いであった為、今回の交渉には関係ないと思い込んでいたのだ。


「さて、ラウリさん。冒険者組合、とあなた方が便宜上呼んでいるものについて、はっきりさせておきたいことがありますの」

 ラウリが動揺から立ち直れないでいる間に、伯爵令嬢エリアーヌは勝手に交渉を始めてしまう。

 こちらの沈黙を肯定的な意思表示と都合良く解釈して。


「この街で商売をする時は、どのような商売であっても必ず領主館への届出が必要です。そして、この街で収入を得た時点で税金の支払い義務が生じるのです。この意味がおわかりかしら?」

 魔眼の威圧に縛られて声を発することもできないラウリに対して、エリアーヌは続けて口上を述べる。

「仕事の斡旋に人材派遣、更には貸し倉庫と貸し金庫による収益獲得と……こちらで調べたところ金銭の貸与もしているとか。銀行業の一端に触れていますね? これまでに稼いだ未払い分の税金を納めることと、速やかな事業申請の手続きを求めます。もし、応じられないというのなら――」

 騎士ゲッツェンがわざとらしく腰の剣に手をかけて音を鳴らす。

「強制徴収に出向くこともあるでしょう。その場合、本来の支払額以上の徴収も覚悟してくださいね。ああ、ちなみに今から店を畳んで街を出ようとしても、探索術の網に引っかかりますから無駄ですわよ。未払い分は置いていって頂きます」


 逃げ道を塞いだ上での一方的な威圧と要求を行う姿勢。

 彼女らには初めから話し合いなどする気はなく、求めるのは街の規則の遵守のみ。

 義はあちらにあり、非はこちらにある。

 実質的な武力も、見かけの示威でさえ負けている。

 これ以上の抵抗は、冒険者組合の立場をよりいっそう悪くしかねなかった。


 税金の支払いに応じるしかあるまい、とラウリが判断を下そうとしたところで、ずっと耐えかねていたのか傍に控えていた青年の一人が一歩前へ踏み出し声を荒げた。

「て、てめえら! ふざけんなよ! おやっさんがどんだけ冒険者達のことを考えて、この組合を維持してきたことか! それを横から出てきて、利益を掠め取ろうなんて――」

 青年の言葉は半ばで途切れた。

 ずっとラウリのことを直視していた視線が、青年の方へと移ったのだ。金色の瞳を持った少女は今、威勢よく前へ出た青年を見据えていた。


「ぬ、ぬ、盗っ人、た、たけだけしいとは……」

 黒いミニドレスの少女、魔眼のビーチェは瞬きせずに青年を見つめている。

 それだけで威勢の良かった青年は言葉に詰まり、過呼吸を起こしたように体を引き攣らせる。

 そこへ追い討ちをかけるように騎士ゲッツェンが僅かに闘気を発した。

 揺らめく淡藤色あわふじいろの闘気が、幾本かの線となって天井へと立ち昇る。

「はひぃっ……」

 青年の気丈な振る舞いもそこまでだった。すっかり腰を抜かしてへたり込み、あろうことか下半身を盛大に濡らして床に水溜りを作ってしまった。


 青年の醜態を、眉を顰めて一瞥したエリアーヌはそれきり見向きもせず、正面を見て話の続きを促してきた。

「さて、この街で商いを続けていきたいのでしたら、規則は守り、誠意ある態度を示して頂けますか?」

「……ああ、わかった。一応は帳簿をつけてある。これまでの未払い分はきっちり払おう。事業の申請も近日中に済ませる……」

「まあ! そうですか、帳簿はつけておりましたのね。それはお互いにとって幸運でした。帳簿がなければどれだけ稼いだかわかりませんもの。下手をすれば、過分に徴収せざるを得ないかと考えていましたのよ」

 底冷えするような冷たさを与えるエリアーヌの声には、冗談では語れない本気が込められていた。



 ◇◆◇◆◇



 冒険者組合との交渉が無事に解決したところで、エリアーヌとゲッツェン、そしてビーチェの三人は組合本部とは名ばかりの酒場で、軽い食事を取ってから帰ることになった。

 店のカウンターでこの三人の相手をするのはラウリだ。はっきりいって嫌がらせもいいところである。

「貴族の方々の口に合うようなものは、置いていないんですがね……」

「構いませんわ。たまには庶民の味に親しむのも悪くありません」

「俺はもともと高級酒なんて口にあわねえからな。安酒でもいいさ」

「私も、お酒――」

『子供は駄目!』


 流れに乗って酒を頼もうとしたビーチェに、その場の全員が声を揃えて注意した。

 年齢的には飲酒しても問題のない歳なのだが、見た目が幼いビーチェはまだ子供と見なされてしまう。

 ぷう、と頬を膨らませて席から降りるビーチェ。食事の注文は適当にエリアーヌとゲッツェンに任せて、ビーチェは酒場の中をあちこち見て回ることにした。


 冒険者の仕事を斡旋していることもあって、掲示板には求人広告や武器防具のお店の広告などが貼り出されていた。

 僅かながら広告料も得ているラウリは、熱心にそれらの広告を見ているビーチェを遠目で心配そうに眺める。その様子を観察していたエリアーヌが小さく笑みを零していたことにラウリは気が付いていなかった。

 また一つ、税金徴収の項目が増えたのは間違いなかった。



 酒場はそれなりに繁盛していて、冒険者達が酒を酌み交わしながら思い思いに情報交換をしていた。

「そういや最近になって、山から獣が下りてくるって話を聞いたんだが、本当かね?」

「人里近くで獣の死骸を見かけたって話は聞いたな。増えすぎた獣が餌を求めて山を下りてきたってところか」

 今、冒険者組合で専ら話題になっているのは、永眠火山から街へと獣が下りて来たという話だ。

 これまでは決して山から出てくることのなかった獣が、どういうわけか麓へと姿を現し始めていた。

 多くは山の境界に生えた食獣植物に捕らえられていたが、関所から底なしの洞窟へと人の手で拓かれた道を、逆に山から下ってくる獣がいるようなのだ。

 人が手を入れた弊害である。


「エリアーヌ嬢……ただの噂と聞き流すには、ちぃっとばかし面倒な話だなぁ?」

「そうね……街にはこれといって獣の侵入を防ぐ柵や壁はありませんもの。街の拡大の邪魔になるからと設置を見送って来ましたが、そろそろ対策は必要かもしれませんわね」

 カウンター席でエリアーヌとゲッツェンは街の防衛に関する相談を始めていた。街の周囲に柵や壁ができたら、ビーチェとしては脱走がことさら難しくなる。

 そろそろ次の脱走計画を考えておかねばなるまい、とビーチェは密かに決意していた。


 そんなとき、酒場の隅にある席から、ビーチェの耳に聞きなれた単語が飛び込んでくる。

「錬金術士クレストフが宝石の丘をめざしているというのは本当のようですね」

「ええ、他の場所でも同行者を募る貼り紙がありました。魔導技術連盟も公認の正式な募集のようです」

 隅の席で集まっているのは、見慣れぬ格好をした数人の女性であった。

 全員が全員、白い胴着に赤い袴をはいていて、どこか遠い異国の装いに見える。


「募集を開始した時期からして、そろそろ集合地点に向かわないと間に合わないかしら?」

「私達は底なしの洞窟の情報をほとんど持っていませんから、洞窟探索に時間がかかるかもしれません」

「まだ猶予はありそうですけど、急がないと置いて行かれますね」

 異国の女性達はお互いに頷きあって、底なしの洞窟攻略の為の作戦をあれこれと話し始めた。

 ビーチェはそんな話の中で、ある一言を聞いて衝撃を受けていた。


 ――急がないと置いて行かれる。


 クレストフと別れてからどれだけの日数が経過しただろうか。

 どうやらまだ宝石の丘へ向かう為に人を集めている段階のようだが、それも集合日時が過ぎれば出発してしまうだろう。

 そうなったらもう、ビーチェがクレストフに追いつく手立てはなくなる。ビーチェにわかるのは送還の門までの道のりだけ。その先は貴き石の精霊であるジュエル以外に道を知るものはいないのだ。


(……次の脱走が、最後の機会……)

 酒場のカウンター席で豪快に酒を飲むゲッツェンを見て、ビーチェは決意を固めた。

 決行は今夜、最低限の荷物をまとめて脱走を図る。




 深夜、ビーチェの脱走計画は実行に移された。

 領主館の人間が皆寝静まった頃合を見計らって、ビーチェは館の玄関口まで足音を立てずに移動する。

 夜中は、玄関を人が出入りした時点で探索術士サリタの警戒網に引っかかる。

 そうなればすぐさま騎士ゲッツェンや捕獲部隊の面々が動き出すだろう。


(……気づかれてもいい。足止めの罠、張っておけば……)

 召喚術の使用など魔導因子の活性も、探索術士には感知されてしまう。

 だから、術式を用いて罠を張るにしても効果的なものを一つか二つ仕掛けるのが精一杯だ。

 後は外へ出て、街中を駆け抜けて追跡を振り切るしかない。


 ビーチェはまず契約精霊である闇の精霊シェイドを呼び出し、一つのお願い事をする。

「私がこの館を出たら、館の中をしばらく闇で覆って」

 蝙蝠のような翼をはためかせ、黒い球体状の体をふわりふわりと揺らしてシェイドは肯定の意を示す。

 シェイドに精霊現象の発動を任せると、ビーチェは自身も術式の展開準備にかかる。


 深く息を吸い込み、ビーチェはクレストフに教わった世界座標へと意識を合わせる。そしてサリタから習ったように魔導因子を滑らかに脳神経から右手の魔導回路へと伝えていく。

(――大地溝帯グレートリフトバレー、ボゴリア湖に座標指定――)

 右手の魔導回路が白い発光を見せ、術式発動の活性を示す。

『来て、腐蝕粘菌ロットスライム!』

 ビーチェの呼びかけに応え、光の粒と共に無数の腐蝕粘菌が召喚されてくる。

「さあ、行って……」

 腐蝕粘菌はビーチェの指示に従い、館の中へと散っていく。


 召喚成功から間もなく、館の一室で戸の開く音がした。おそらくサリタだろう。彼女が動き出した以上、すぐにゲッツェンも起きだして来るに違いない。

 だが、サリタがゲッツェンを起こすよりも早く、絹を切り裂くような叫び声が館に響き渡り、館中の人間が目を覚ました。

 この悲鳴はたぶん、粘菌嫌いの女中アデーレの悲鳴だろう。

 何事が起きたのかと領主館は大騒ぎになっている。

「きゃああぁあっ!?」

 もう一声、アデーレとは異なる女性の叫び。

 声は間違いなく伯爵令嬢エリアーヌのものだった。


 ビーチェは粘菌の移動先をエリアーヌの部屋になるべく集中するように促したのだ。

 彼女に危機が及べば、ゲッツェンもサリタも主人たるエリアーヌのもとへ向かうことを優先する。

 隣室のアデーレにまで被害が及んだのは操獣術の拙さが招いた結果だったが、大勢に影響はない。

 領主館が大混乱に陥った頃合を見計らって、ビーチェは玄関を飛び出した。

 ビーチェは正門には向かわず、迷いなく裏庭に向かって走る。防風林を抜けて、街の大通りを走りぬけ一直線に永眠火山へと向かうためだ。


 背後で領主館の窓が開き、裏庭を走り抜けるビーチェに向かって大声が降りかかる。

「ビーチェ!! また、貴女ですの!?」

 開いた一階の窓には、腐蝕粘菌にたかられたエリアーヌの姿があった。ついさっき悲鳴を上げていた割には、もう粘菌に慣れてしまったのか、鬱陶しげに体に纏わり付いた粘菌を手で払いのけている。そして、伯爵令嬢にはあるまじき行為だが、窓枠に足をかけて乗り越え庭に着地する。

 憤慨した様子でのしのしとビーチェに向かって歩いてくるエリアーヌ。

「まだ脱走を考えていたなんて――きゃああああぁっ!?」

 突如上がったエリアーヌの二度目の悲鳴。

 それが意味するものは、彼女の姿を見れば一目瞭然だった。


 見れば彼女の夜着が、腐食してぼろぼろと崩れ落ちている。腐蝕粘菌は植物性の繊維を腐らせるのだ。

 元々が薄手の生地であっただけに、エリアーヌの身を包む布はあっというまになくなり、純白の絹肌が月明かりに晒される。

「な、な、何ですの、これは!? 今度という今度は、軽いお仕置きでは済まされませんわよ、ビーチェ!!」

 エリアーヌは胸と股を両腕で隠し、その場に座り込みながらもビーチェを強く叱責した。しかし、顔を羞恥に赤く染め、半泣きで叫ぶ叱責はいささか迫力に欠けるものだった。

 ビーチェは叱責に臆することなく、再び走り出した。

 エリアーヌが裸で館の人間の注意を惹き付けている間に、少しでも領主館から距離を取らなければいけなかった。



 ◇◆◇◆◇



「行かせませんわよ! クレストフの後を追うだなんて、自殺行為ですわ!」

 エリアーヌの制止にもビーチェは振り返らない。自分の言葉だけでは引き止められないと判断したエリアーヌは、領主館に向かって命令を叫んだ。

「サリタ! ゲッツェン! 早く来なさい!」

「はい、エリアーヌ様。サリタはここに」

「おぅ、エリアーヌ嬢。またビーチェ嬢ちゃんの捕獲か? って、おお!? 素っ裸じゃねぇか!?」

 呼びかけに応じて館から飛び出してきたサリタとゲッツェン。

 黒い外套を纏ったサリタは、エリアーヌが裸でいるのを見ると急いで自分の外套を羽織らせた。

 ゲッツェンはまじまじとエリアーヌの裸体を眺めていて、その白い素肌が外套に隠されてしまうと心底残念そうに「あぁ……」と声を漏らした。


「貴方達、二人だけ? 他の捕獲部隊の人間はどうしたの?」

 外套を胸の前で交差させて手を組んだエリアーヌは、きょろきょろと辺りを見回して、館からサリタとゲッツェンしか出てこないことを訝った。

「申し訳ございません、エリアーヌ様。実は、館の中には奇妙な呪詛がかけられていて、暗闇に閉ざされている状態なのです。いまだ混乱の渦中にあります」

「ビーチェ嬢の仕業だろう。精霊の力を使ったとみて間違いないな。待っていても他の連中は出てこられんぞ」

 思いのほか用意周到なビーチェの罠に、エリアーヌは外套の前がはだけるのも気にせず頭を掻き毟って怒り狂う。

「ビーチェを追いなさい! 脱走を阻むのよ!」

「はい。ビーチェお嬢様は、サリタが止めてみせます」

「仕方ねえ、俺達が止めるっきゃないか」

 主の命に従い、四級探索術士サリタと三流騎士ゲッツェンが夜の街へと走り出す。



 夜の街を二つの影がひた走りながら、会話を交わしていた。

「ゲッツェン、ビーチェお嬢様は真っ直ぐ大通りを抜けて、永眠火山へと向かっています」

「おう、了解。じゃ、俺は先行するぜ」

 騎士の身体能力は常人とは比較にならないほど高い。ゲッツェンは言うが早いか淡藤色の闘気を身に纏うと急加速して、大通りを走るビーチェとの距離を見る間に縮めていく。


「さーて、もう視界に捉えたぞー。ビーチェ嬢、大人しく捕まって――」

 ずるりとゲッツェンの足元が滑り、加速していた勢いそのままに大通りで盛大に転倒する。

「あだっ!? なんだぁ? 何か踏んだか?」

 足元を確認して見ると、大通りの地面に無数の粘菌が這っていた。

 ゲッツェンはそれを踏み潰して滑ったのだ。


「くそ、やってくれるじゃねえか」

 逃走するビーチェは、隠れやすい裏通りを行かず、敢えて見つかりやすい大通りを走っていた。それは、どの道サリタの探索術に捉えられると知っていたからこそ、最短距離を駆け抜けるという単純明快な結論に至ったまでだ。そこで重要なのは、いかに追っ手の足止めをするかに限られる。

 既に捕獲部隊の人員は大半が領主館で足止めをくらって機能していない。残るはサリタと、ゲッツェンの二人。

 だが実質、ビーチェが先行して逃げている状況では、彼女にとって警戒すべきは足の速いゲッツェンのみとなる。

「嬢ちゃん……今日はえらく気合が入ってやがる」

 これまで見せたことのない精霊現象の使用といい、今晩ばかりはこれまでの脱走とは力の入れ方が違うようだ。


「だけどな、まだまだ甘いんだよっ!」

 足の裏に闘気を迸らせたゲッツェンは、大通りの石畳を砕けるほどに蹴りつけて空高く跳躍した。

 地を這う粘菌を一足飛びに、先を走るビーチェの頭上すら軽々と越え、地響きを鳴らし石畳に着地を決めて少女の前に立ち塞がる。

 腕を組み、仁王立ちする騎士の姿にビーチェはやむなく足を止めた。

「ゲッツ……邪魔しないで」

 金色の瞳でゲッツェンを睨みつけるビーチェだったが、魔眼の威圧も闘気を纏った状態の騎士には通用しない。

「ここで俺に邪魔されて捕まる程度なら、底なしの洞窟へ行っても死ぬだけだ。先へ進みたけりゃあ、俺を出し抜いてみな」

 ゲッツェンは厳めしい顔つきを崩さぬまま、聞き分けのない子供に注意する親のようにビーチェへ向かって静かに言い含める。


 ビーチェはゆっくりとゲッツェンとの間合いを詰めていく。

 避けられない障害と判断して、正面から乗り越える覚悟を決めたのだ。

「さあ、来い。ビーチェっ!!」

 今この時だけは互いの立場も何も関係ない。

 相対する二人にあるのは、阻むか押し通るか、その二択のみ。

 愚直にもビーチェはゲッツェンへ真っ直ぐ向かっていった。


「馬鹿正直に突っ込んでくるか! 受けて立つぞ!」

 両腕を広げて通過を阻止せんとするゲッツェンに、ビーチェは低い体勢で突っ込んでいく。

「私の幻、つくって!」

「――――!?」

 二人が交錯しようとした瞬間、ビーチェの姿が揺らめき四つの影に分裂する。


「な!? なんだぁっ!?」

 目の前で突如として四人に増えたビーチェに戸惑い、ゲッツェンの動きが鈍る。

 それでも反射的に伸ばした手が四つの影の内一つを捉えるが、手応えは全くないままにビーチェの通過を許してしまった。

「ちぃっ、精霊現象か!」

 闇の精霊シェイドの能力の一種であろう、幻影を作り出す精霊現象。それも、相手の精神に干渉する幻惑の呪詛などではなく、光の屈折現象の摂理を捻じ曲げる業である。

 直接ゲッツェンに幻惑の呪詛をかけようとしても闘気によって無効化されてしまうが、目の前で起こる自然現象そのものを変質させる分には、それが確かな現実であるだけにゲッツェンの目には四つに分裂したビーチェが見えてしまう。

 本物のビーチェは分散した四つの影に紛れて、ゲッツェンの包囲を破ったのだ。


 だが、いまだゲッツェンを振り切れたわけではない。

「逃がすかってぇの!」

 すぐさま振り返り、ビーチェの背中へと追いすがる。

 逃げ切ろうとしていたはずのビーチェはしかし、ゲッツェンの予想に反して、すぐ間近に待ち構えていた。その右手には魔導回路の発光が見て取れた。


『私の元へ来て、巨群粘菌ヒュージスライム!』

 光の粒が舞い踊り、ビーチェの召喚に応えて巨大な半透明の生き物が眼前に出現する。

「ぶぶぶっ!!」

 巨群粘菌は出現すると同時に、半透明の橙色をした体の中にゲッツェンを取り込んだ。

 あまりの大質量に、さしものゲッツェンも粘液の中でもがくほかない。闘気を身に纏っているので消化されるようなことはないが、足掛かりも手応えもない巨群粘菌の体内から即時脱出することは難しかった。


 ゲッツェンが巨群粘菌と格闘している隙に、ビーチェは大通りを走り距離を稼ぐ。

 そうして街の終端が見え始めたころ、大通りの切れ目で大きな影が横手から走りこんでくるのが見えた。

 外套を翻し、惜しげもなく白い絹肌を晒して、馬に跨ったエリアーヌがビーチェの前に立ち塞がった。

 裸足のまま大地に降り立ち、両腕を広げて通せんぼ……しようとして、自らの姿に思い至り慌てて外套を掻き抱いた。

「ビ、ビーチェ! 戻りなさい! 貴女は底なしの洞窟に向かってはいけませんのよ!」

 伯爵令嬢にしては、どうにも威厳に欠ける格好である。


「エリー、私は行く。止めても、無駄」

「あ、こら、待ちなさい……! あ、あん! ……もう、ビーチェ!!」

 立ちはだかるエリアーヌを強引に押しのけながら、ついでとばかりに胸を揉みしだき、ビーチェは先を急ぐ。

 着るものも整えず、馬で追ってきたエリアーヌであったが、実のところ彼女にはビーチェを止める術がない。彼女にできることは唯一、言葉を尽くしてビーチェを引き止めることだけだ。

 それも、決意を固めたビーチェには歩みを遅らせることさえ叶わないのであったが。


「帰ってきて、ビーチェ!!」

 悲痛な叫びが、少女の足を一瞬止めた。

 すすり泣く嗚咽と共に、エリアーヌは懇願する。

「お願い……帰ってきてよ……。あなたまで、私を置いていくの……?」

 その言葉には、残された者の悲しみや怒り、やるせなさが入り混じっていた。ここ最近までビーチェも同じような感情を抱いていただけに、後ろ髪を引かれる思いがした。

 ――だが、それでも振り切らねばならない。ずっと先を行く、クレストフに追いつく為には。

「……ごめんなさい、エリー……きっと、帰ってくる。クレスも連れて、帰ってくるから」

 ビーチェは振り向かず、そのまま街の外へと駆け出した。

 地平の彼方、日の没した闇に溶け込むようにビーチェは姿を消した。


 ◇◆◇◆◇


 永眠火山の裾野へ辿り着いたビーチェは、関所は通らずに、以前に山を下りたとき鉄条網をこじ開けた場所から山へと入り込む。

 境を越えて山林へ足を踏み入れた途端、ビーチェは臓腑を締め付けるような圧迫感に襲われて身を縮めた。

(……森の雰囲気が、これまでと違う……)

 森全体に薄く広がる不快な空気。

 重苦しい敵意のようなものが、あちこちから向けられてくるようであった。


 月明かりを避け、森の闇を渡り歩きながらビーチェは底なしの洞窟を目指した。

 闇は味方だ。

 彼女の姿を消し去り、敵の目を欺いてくれる。

 真っ暗闇の中でも、闇の精霊が与える加護のおかげかビーチェは迷うことなく洞窟への道を辿ることができた。

 遠くに不気味な獣達の遠吠えを聞きながら、少女は一匹の獣にすら会うことなく洞窟へと辿り着いた。



「帰ってきた……私の、家」

 夜の森よりなお陰影深い闇を湛え、底なしの洞窟は山の中腹に口を開けていた。

 その様子はビーチェが洞窟を出た日からまるで変わっていないように見える。

 ところが、洞窟へ一歩足を踏み入れた瞬間に、山へ入ったとき以上の違和感がビーチェを襲った。

(……濃い、獣の臭い……それに、嫌な気配……)

 洞窟の空気は、むせ返るような獣の臭いと、底冷えのする悪意で満ちていた。


「はぁ……はぁっ……」

 知らず知らずのうちに洞窟を歩むビーチェの足は速まっていた。

 見知った道であるはずなのに、まるで他人の家へ勝手に上がり込んだような居心地の悪さが心を支配している。

 やがて、無数に枝分かれする坑道を抜け、大空洞へと至り、そこでようやく一匹の獣に出会った。


 ……ぐぅるる、るるるぅ……ぐぅるるるぅ……。

 太く発達した四肢と丸く湾曲した鉤爪を持つ屍食狼ダイアウルフ。この種の狼にしては図体がやや小柄だが、若い個体なのだろう。

 狼は威嚇の唸り声か、飢餓の腹鳴りか、判別のつかない音を漏らしながらビーチェを睨んでいた。

「私のこと、わからない?」

 屍食狼は問い掛けに応じることなく、牙を剥いて躍りかかってくる。

 ビーチェは後方に跳んで鋭い牙をかわすと、金色の瞳を屍食狼の目に合わせ、魔力を込めた視線で射殺すように睨み付けた。

「どうして……言うこと、聞かないの!」

 ビーチェの魔眼が強力な呪縛の力を発すると、金縛りにあった屍食狼は突っ込んだ勢いのまま、もんどりうって地面へ倒れ込んだ。


「どうして……」

 呟くビーチェに応える声はなかったが、その代わりに幾匹もの獣の気配が彼女の元へ近づいてきていた。

 統率はなく、ただ獲物の臭いに誘われて近づいてくる洞窟の獣達。

 ほとんどが合成獣……それも見覚えのない獣ばかりだった。無秩序に交配を重ねた結果であろう。元が一体何の動物であったのか不明なものもいた。

 彼らはビーチェという獲物に襲い掛かる優先順位を巡って牽制しあい、互いに威嚇行動を取り合っていた。


 そばの地面でびくびくと痙攣を続けている狼を見下ろしながら、ビーチェは洞窟の獣達に生じた異変を感じ取る。

(……ただの獣。クレスの意思、感じない……)

 洞窟の獣達には服従の呪詛が行き渡っていたはずだ。それは獣の行動に影響を与え、一定の秩序を洞窟内にもたらしていた。例外はなく、第二世代以降の若い個体であっても、クレストフの強力な呪詛による波及効果で行動を抑制できていたのである。

 ところが、今の獣達にはその抑制が働いていない。


 実のところ、いくらクレストフの呪詛が強力であっても、世代交代を繰り返した獣にまで呪詛の効果を伸ばすのは限度がある。

 呪詛の上書きによる誓約の更新が必須となるわけだが、クレストフは敢えてその作業を止めていた。

 数が増えすぎて管理が面倒になったのだ。

 そもそもクレストフは獣達を脅威とは感じておらず、本人は今や洞窟の最下層に篭っており、獣に襲われる心配もない。その状況で、余計なことに力を割くことを嫌ったのだ。


 もしこの獣達を支配下に置くつもりなら、改めてビーチェ自身が契約を交わさなければならない。

 だが、いくら操獣術で可能なこととはいえ、彼女の実力では一匹ずつ個別に呪詛をかけていくほかない。それも粘菌のように単純な生き物ならまだしも、知能を持った獣を管理するのは同時に二、三匹が限度だった。

 クレストフのように操獣術用の高度な魔導回路が扱えてこそ、あれだけ多くの獣を従えることができたのである。


 今更ながらクレストフの能力の高さを知って、ビーチェは一抹の不安を覚えた。

(……私は、やっぱり、クレスの足手まとい……?)

 街で暮らしていたとき、エリアーヌに言い含められた言葉が思い返される。

 ――クレストフの邪魔をしてはいけない。

 その言葉は呪われた楔のようにビーチェの心へ突き刺さり、彼女の先へ進もうとする意思を挫き、足を地面に縫い止める。


 動きの見えないビーチェに、大空洞へ集まってきていた合成獣達はようやく互いの牽制を終えたのか、あるいは痺れを切らして早まったのか、次々に少女へと襲いかかっていく。ビーチェは、ぼぅとして大空洞の真ん中に突っ立ったままだ。

(それでも……私は、クレスに会いたい)

 少女の中で、何度も考えられた末に出てきた答えはひどく単純なものだった。

「私は、クレスに会いに行く。だから、邪魔しないで――」

 金色の瞳に射竦められ、先頭を走っていた合成獣が体を強張らせてひっくり返る。

 一方で、残る後続の合成獣は焦点も定めないままビーチェへと殺到し、牙を剥いて喰らい付こうとしていた。


 しかし、合成獣の牙は少女の影を噛み締めただけで、そこに本人はいなかった。

 ビーチェの傍らに闇の精霊シェイドが出現し、少女の体を闇で包み込むと四つの影として分裂させたのだ。

 目標を見失い、新たに増えた四つの影に合成獣達は混乱した。闇雲に食ってかかるものの、影には手応えが全くない。

 全ての影に噛み付いてみても、四つのうち一つがまたしても新たな四つの影に分裂する。

 獣の牙はビーチェを捕らえること叶わず、闇に抱かれた少女は歩みを止めずに大空洞を抜けていった。


(私はきっと、クレスの元へ辿り着く)

 揺るがぬ強い想いを抱きながら、ビーチェの姿は洞窟の闇へと溶け消える。

 今ここから、少女の冒険が始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る