第86話 忌まわしき力

 大理石で作られた白亜の迷宮、そこにはかつて邪神と恐れられた存在が眠りについていた。


 眼球に蒼い宝石が嵌め込まれた蛇の精霊は、全長極めて長く子細不明、白亜の巨体を雪崩の如く引きずっている。

 口から吹き出す吐息は火山性の毒ガスで、金剛石の牙からは致死性の鉱物毒が滴り落ちる。

 その前に立てば、弱き人の身は抗うすべなく腐り果てるだろう。


 迷宮は恐るべき邪神を封じ込めるために造られた檻だった。

 古代の人々は邪神を畏怖しながらも、その大きな存在に崇拝の念もまた抱いていた。

 邪神を地の底に幽閉して監視を続けながら、人々はこれを同時に崇め奉り、敬意を表して地上に神殿を建てたのだった。


 ◇◆◇◆◇


 迷宮を這いずり回る蛇神は、驚異的な質量でもって俺達を押し潰さんと目前まで迫っていた。

(――考える時間は少ない。そして、試す機会はない。半端な術式を放って、もし通用しなければ……即、死――)

 出し惜しみをして、悠長に相手へ通用する術式を選んでいる暇はない。

 次に使う術式が、蛇神の突進を止められなければ一巻の終わりだ。俺もビーチェも、確実に死ぬ。


(なら、考える必要はない。試すまでもない。命を懸けて、最も強力な術式で対抗する)

 覚悟は決まっていた。


「ビーチェ、なるべく俺から離れていろ」

「やだ」

「我が侭を言うな、死にたいのか」

「死にたくない!」

「なら、離れていろ!」

 ビーチェを思い切り突き飛ばし、俺はある一つの魔導回路を懐の奥から取り出した。


(ずっと研究だけはしてきたが、これを使う時が来るとは思いもしなかった)

 手にしたのは、金剛石ダイヤモンドに刻み込まれた魔導回路。

 指先に乗る程度の大きさ、これ一つで人一人が五年は食っていける価値がある。

 そんな宝石に惜しげもなく刻み込まれた魔導回路は、術士として俺に可能な限りの技術が組み込まれている。


 天然の金剛石には、多量の魔導因子も含まれていた。

 準備は十全。

 術式発動に必要な楔の名キーネームさえ唱えれば、それだけで最強にして最悪の呪詛が形を成す。


(――置き換えろ――)

 簡潔なる意思のもと、最大級の術式が発動する。

『……金剛黒化こんごうこっか……』

 呪詛を呼び込む、不吉な音を含んだ楔の名が告げられた。



 変化はすぐに現れた。

 術者自身の皮膚が、瞬く間にどす黒く変色していく。

 皮膚だけではない。眼球も、口内も、すべて真っ黒に塗り潰されていく。

 全身が黒く染め上がると、今度は黒く耀く八面体の結晶が皮膚表面から成長して全身を覆い尽くした。


 変貌していく俺の姿を目にして、ビーチェは体を完全に硬直させていた。

 離れたくないという想いとは無関係に、とにかく遠くへ離れなければいけないと本能が、彼女自身に訴えかけているはずだ。

 ただ、この狭い迷宮では離れるにも限度があるし、どうやらビーチェは恐怖で足が竦んで身動きできないらしい。

 すっかり腰から力が抜け、ビーチェはみっともなくも失禁していた。


 だが、これでビーチェにもわかっただろう。

 とにかく、これは駄目なのだ。

 離れていろと言ったが、言われるまでもなく、近づけるはずがない。

 賢いビーチェのことだから、はっきりと理解できたはずだ。

 これは本来、人が扱っていい術ではない。


 これは禁呪だ。



 世界へ及ぼす影響が著しいとして、魔導技術連盟が使用を禁じている呪詛・術式の類。

 それが、禁呪。

 禁呪に類するものは大きく二つ。

 一つは、大規模な異界現出を引き起こす術式の行使。もう一つは、意図的な魔獣の生成および人間の魔人化である。


 だが一方で、連盟は禁呪の研究までは禁止していない。

 実際に使用するのでなければ研究するのは構わないという、ひどく際どい規則のもとで禁呪の扱いを容認しているのだ。

 事実、公にはそれを決して使用しないという姿勢を見せながら、一級術士の大半は複数の禁呪の研究に手を出している。

 もっとも、彼らが本当にその禁呪を使用していないかといえば、ほとんど確かめようがない状態である。


 詰まるところ、誰かに目撃されなければいいのだ。

 そして、禁呪を使った痕跡を跡形もなく消し去ってしまえるなら問題はない。

 どんなに疑わしくても明らかな証拠を残さない限り、禁呪の使用は黙認されていると言い換えても良い。

 禁呪を制御できてこそ一級と、暗に言われてもいるくらいだ。

 準一級術士である俺も、一級術士と並ぶため禁呪に関わることを恐れてはいられない。


 地の底深く、ビーチェ以外に目撃者もいない現状で、禁呪を使用した痕跡も容易に隠蔽できる条件が揃っている。

 その上で命の危機が迫っているなら、俺はためらうことなく禁呪を使う。

 世界に与える歪み、そんなものは自分自身の生死に代えられるわけがなかった。



 かくして、禁じられた呪詛が形を成す。

 黒く輝く結晶が、全身から生え出している。

 自身の体を一時的に魔人化させる呪詛。

 それが準一級術士クレストフ・フォン・ベルヌウェレの最高秘術。


 蛇神はこちらの変化もお構いなしに、真っ直ぐ突っ込んできた。

 俺は蛇神の鼻先へ黒い結晶に包まれた片腕を突き出し、突進を真正面から受け止める。

 迫り来る質量の塊を支えた足は、床面を踏み砕き、黒く耀く結晶で地に根を張った。蛇神の頭を受け止めて勢いを完全に殺しつつ、逆に押し返してやる。

 目には見えない衝撃波が蛇神を襲い、白亜の鱗が幾枚もひしゃげた。

 轟音が周囲の壁を叩き、這い回る蛇神の体が急制動をかけられたことで迷宮全体を揺るがした。


 あれほどの質量による突進を受けても、俺の体に損傷はない。

 全身を真っ黒な結晶が覆い尽くし、禍々しい紫紺色の光を放射している。

 無数の結晶粒が緻密に詰まり、その一つ一つに魔導回路が形成されている。

 集積された魔導回路は一度流れた魔導因子を捉えて逃さず、擬似的な精霊機関となって連続稼動を続ける。


 言葉を発しようとした俺の口からは、紫色をした光の粒が噴き出した。

『……破滅させてやる』

 漏れ出る言葉の一言一言が呪詛となり、一挙手一投足が空間を震わせて、辺りに腐敗と破壊を撒き散らす。


 蛇神は長大な体を震わせて、ゆっくりと後退を始めていた。曲がり角へと顔を引っ込め、俺から距離を取った。

(……逃げようとしても無駄だ……)

 硬化処理された大理石の壁も、今の俺にとっては砂の壁のようなもの。

 黒い結晶の刃を腕から生やし、壁を切り裂いて最短距離で蛇神を追跡する。

 壁を裂いて進んだ先に青い宝玉の瞳が待ち構えていた。


 蛇神は大きく口を開けて、真っ赤な喉から白黄色の火山性ガスを吐き出した。

 常人には耐え難い悪臭と刺激性を伴った白煙は、わずか数呼吸で生物にとっての致死量となる。

 逃げ場のない迷宮に蔓延する即死濃度のガスに巻かれながら、俺は歩みを止めず前へと進んだ。


 ――ガスは効かない。この体は呼吸の必要がないから。


 白煙を突っ切り、歩みを止めない俺に対して、蛇神は後方に下がりながら真っ赤な毒液を吐き出した。

 俺は顔面から体全体にかけて血赤色の毒液を浴びた。毒々しく滴り落ちる赤い液は、しかし俺に対して何の痛痒も与えない。


 ――毒も効かない。この体に染み入る隙などないのだから。


 蛇神はなおも後退を続けながら、再び大きく口を開くと鋼鉄さえも腐らせる酸性霧を吐き出した。

 腐食性の濃霧が辺りに立ち込め、切り崩された大理石の瓦礫が泡を噴きながら溶けていく。

 酸性霧は結晶化した俺の体を包み込んだが、黒く紫紺に耀く結晶はその光沢を失うことはない。


 ――酸は効かない。この体は安定で、腐ることなどないのだから。


 蛇神は燃え盛る灼熱の溶岩を吐き出した。

 溶岩には大きな硫黄結晶が混ざっていた。燃える硫黄は青い炎を立ち昇らせる。

 真っ青に燃える土石は、熱と重量であらゆるものを呑み込み焼き潰す。

 だが、流れ来る青い溶岩流に呑み込まれ、それでも俺が歩みを止めることはない。


 ――熱も衝撃も通さない。この体は重厚、硬質にして堅牢。

 人の限界を超越し、絶対の防御となり、完全なる破壊の力をもたらす呪詛。


 腕の一振りで石英の礫が飛び、足の一踏みで大地から水晶の槍が生える。

 溶岩流の上に水晶の道を造り出し、俺は蛇神との距離を詰めていく。

 敵意は対象を蝕む毒となり、息の一吹きで煉獄蛍が舞い踊り、言葉を紡げば呪詛となる。

 今の俺は、持ちうる全ての術式をただの一段工程シングルアクションで行使可能。


『――貫け――』

 迷宮の壁が結晶の礫と槍で打ち砕かれ、その先に隠れていた蛇神の身体さえも突き破る。

 蛇神の長大な体は無数の結晶槍で貫かれ、迷宮の床と壁に縫い付けられた。

 動きを封じてから、しかと敵の本質を見極めるべく、真正面から蛇神の目前へと迫る。


『……なるほど、読めた……』

 意識は先鋭化され、紫紺に耀く慧眼は視線の一睨みで敵の本質を暴き出し、蛇神の真なる姿を捉えていた。

『貴様の忌み名……宝玉の大蛇グローツラングか……ジュエルの言う通り、幻想種の類に間違いないようだな……』

 その存在が確かな意味を持つとき、それを表す概念とも言うべき名が自然と生じる。

 それこそが忌み名、存在そのものを定義する名称である。

 人に限らず、精霊に限らず、事物全てが生まれながらに内包する楔の名とも言い換えられるか。

 忌み名を知りさえすれば、楔の名で術式を操るが如く、そのものに向けて呪詛を掛けることが容易になる。


『……破滅の呪詛を受けよ、宝玉の大蛇グローツラング……』

 グローツラングの体に黒い水晶が生え出し、徐々にその動きを鈍らせていく。

 黒水晶に紫紺の耀きが灯り、グローツラングの存在を侵食する。

 彼の者は魔導因子の霧へとその身を還元されようとしていた。

『異界へと還るがいい……』


 滅びの意思を発すれば、俺の思念に応えるように黒水晶が紫紺の光を烈しく放つ。

 存在の薄れゆくグローツラングの口から、精霊ジュエルが慌てて飛び出してきた。


「待って、ボス! 滅ぼさないで!」

 グローツラングを輝く翅で庇うように、ジュエルが俺の前に立ちはだかる。

『ジュエル……邪魔をするのか』

 僅かな苛立ちがジュエルに対する呪詛となり、口から破壊の振動を漏らす。

 俺の言葉はびりびりとジュエルの身体を震わせたが、二対四枚の水晶翅が小刻みに振動し、破壊振動を辛うじて打ち消していた。


 その間にどこからともなく現れたノーム達が、グローツラングの体に生えた黒水晶を一つ一つ砕いて回っていた。

『ノーム達まで……何のつもりだ……』

 俺の意識がノームに向かうと、何匹かのノームが呪詛にてられたのか、ころころと引っくり返ってグローツラングの体から転がり落ちる。

 しかし、ノームはグローツラングを救い出すため多少の犠牲は厭わず、俺の呪詛に身を晒しながら黒水晶の撤去を続けていた。


『こいつの存在が……均衡と循環を乱していると言うのなら、滅ぼすべきだろう』

 人の言語はノームに通じない。だから、呪詛で編まれた言霊をノームへと投げかけた。

 また何匹かが、俺の呪詛を受け止めきれずに引っくり返ったが、何匹かはこれに耐えて返答らしき思念の波動を寄越してきた。


『違うというのか……。ここに留まっていることが……循環の妨げ……ふん……相変わらず理解し難い……』

 ノームがここまでついて来た本当の目的。

 それは彼らにとって神にも等しき存在、宝玉の大蛇グローツラングを迷宮から解放すること。

 かつて、その存在を恐れた人の手によって封じられし彼の者を、再び自然の循環へと戻す。

 このまま迷宮に封じていると、いずれ世界に歪みを生み始める。

 魔導特異点、すなわち異界現出のきっかけを作る歪みである。

 古代から現代まで歪みは溜まり続け、もう許容限界が近づいていたのだ。


『……いいだろう、そういうことなら解放してやる』

 グローツラングの体に生えた黒水晶が砕け散り、紫紺の煌きが宙に舞った。

『ただし、首輪は付けさせてもらうぞ……』

 砕け散った黒水晶の破片が形を変え、二重三重の鎖となってグローツラングの胴に絡みつく。

『……眷顧隷属けんこれいぞく……』

 服従を強いる呪詛が、グローツラングに楔として打ち込まれた。

 これでもう、この精霊は俺の命令に抗うことはできなくなる。


「ボス……グローツラングを、迷宮から出してあげて」

『言われるまでもない。異界現出だけはなんとしても避ける』

 俺は一言、破壊の呪詛を唱えた。

『……穿て、鮮血の灼糸しゃくし……』

 幾本もの紅い閃光が奔り、迷宮の壁を中心から端まで一直線に貫通する。

 大理石の壁を焼き切られて、グローツラングが通れるだけ幅のある道が造り出された。


『行け、そして二度と迷宮に戻るな』

 命令に従い、グローツラングは迷うことなく迷宮を抜け出して、地の底から這い出した。


 古代の神殿を抜けた巨大空洞まで来ると、グローツラングは手近な岩壁へ頭から突っ込み、岩盤を砕きながら横穴を掘り始める。

 やがてその長大な体さえ収まるほどに坑道を掘り進め、精霊たる宝玉の大蛇は自然の循環へと戻っていった。


 こうして、底なしの洞窟における歪みは正された。

 黒曜の魔人という小さな歪みを残して。

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