第60話 便利な魔導書
洞窟内の大掃除を終えた粘菌が、地下空洞の一画に集まっていた。
「皆、お疲れ様……」
集合した粘菌の状態をよく観察して、おかしな変質を起こしたものがいないか確認する。
こうした細かな世話はすっかりビーチェの仕事になっていた。
「手慣れてきたようだな。飲み込みが早いじゃないか」
粘菌を完璧に操作できるようになったことを褒めると、ビーチェは顔を赤くしてはにかんだ。お世辞でもなんでもなく、真っ当に褒められたという経験が少ないためか、どうにも気恥ずかしいようだった。
「そろそろ次の段階に進んでもいい頃合いだな。どうせなら召喚獣も使役できるようになった方が便利だろう」
俺はビーチェに獣使いとしての英才教育を施すべく、教材となる『操獣術・入門の書』を手渡した。
操獣術・入門の書、獣使いである操獣術士を目指す者の必読書と言って良い本だ。
だが、ビーチェが読み解くには少々難しい内容だろう。
そこで俺は、本に細工を加えていた。
「ビーチェ、本の表紙に手を置いて『教育訓練開始』と言ってみろ」
「……? 教育訓練開始?」
疑問の表情を浮かべながら、素直に本の表紙に手を置いて楔の名を口にするビーチェ。
すると、表紙を魔導回路の淡い発光が包み、勝手に本が開いて頁がめくられていく。同時にビーチェの耳には、男とも女ともつかない不思議な声が飛び込んできた。
魔導回路を本に刻むことで、本自体が内容を自動的に読み上げるようにした。読み手の理解度を確認しながら何度も解説を繰り返す、一種の魔導書だ。
「文字を自分で読まなくても、この魔導書が自動で読み聞かせてくれる。実に便利だろう? 俺も学士時代にはよく使ったものだ。効率は必ずしも良いとは言えないが、普段の生活の中で聞き流していれば自然と学習できる。脳波の反応を自動的に判定して、理解不足の部分は繰り返し読み聞かせてくれるからな」
そうして、操獣術に関するビーチェの勉強が始まった。
一日目は珍しい魔導書に興味津々で、ビーチェは魔導書の音読を大人しく聞いていた。
ただ、半日ほどすると飽きが出始めたのか魔導書から視線を逸らし、あちこち走り回り始めた。
魔導書は宙に浮きながらビーチェを追尾して読み聞かせを続けた。
その日の終わり頃には、ビーチェは一人頭を抱えてうずくまっていた。
二日目は昨晩も読み聞かせが夜通し行われていたようで、ビーチェはやや疲れた様子を見せていた。
機嫌が悪いのか、魔導書に八つ当たりして石を投げたりしていたが、魔導書による反撃に遭い、地に押し伏せられて読み聞かせをされていた。
三日目になった時点で、睡眠不足のビーチェはふらふらになっていた。
抵抗する気力も、もはやないようだった。
当然、魔導書の読み聞かせは止まらない。
四日目には意識が散漫になり、体の動きも緩慢になり、寝ているのか起きているのか判別のつかない状態の時もあった。
それでも魔導書の読み聞かせは止まらない。
五日目はいつになく静かだった。
ただ魔導書の読み聞かせは自動で行われており、ビーチェは黙々と食事を済ませると、虚ろな瞳でぼんやりと宙を眺めていた。
ビーチェの様子を気にかけたのか、ジュエルが遠慮がちに教育訓練の進捗具合を尋ねてきた。
「ねえねえ、ボス? あの拷問……じゃなかった、教育はいつまで続くの?」
「ビーチェの勉強か? そんなもの、本の中身を全て理解し終えるまでに決まっているだろ。そういう呪詛が込めてあるからな、あの魔導書には」
「へー…………」
その後、ジュエルは静かに過ごしていた。
ビーチェの勉強の邪魔をしてはいけないと思ったのだろう。感心なことだ。
魔導書はその後も、十日十夜に至るまで休みなくビーチェに知識を与え続けた。
普段、何もすることがないときは勿論、食事の時も、排泄をしている時も、寝ている時でさえ、魔導書は読み聞かせを続けている。
六日目、ビーチェは突然、胃の中のものを吐き出した。
その日は食事も喉を通らなかった。
なのに腹の虫はぐうぐうと鳴っているという、奇妙な状態であった。
その間も魔導書は読み聞かせを続けていた。
七日目、朝方に突然ビーチェが金切り声を発し、その後、びくびくと全身を痙攣させていた。
すぐに意識を失ってしまったが、確認するとどうも熟睡しているらしかった。
時々、悪夢にでもうなされている様子で苦しげに呻いていた。
その間も魔導書の読み聞かせは止まらない。
八日目、昼になって食事を取りながら休憩していると、ビーチェが急に嗚咽を漏らし、ぼろぼろと涙を零し始めた。
精神的に不安定になっているようだ。
それでも魔導書の読み聞かせは止まらない。
九日目、ビーチェが俺に縋り付いて離れなくなった。
常に何かを我慢するかのように、ふるふると体が震えている。
ちなみに魔導書の声はビーチェの耳元に直接囁かれていて、彼女にしか聞こえていない。進捗具合は気になったが、ビーチェが自分のペースに合わせて学習できるように、口出しするのは控えておいた。
その日はずっと、ビーチェは俺の傍にいた。
まあ、まだ子供なのだ。甘えたい日もあるのだろう。
ビーチェの頭を優しく撫でて「勉強がんばれよ」と言うと、何故かビーチェは絶望的な表情で硬直していた。
急に優しくしたから驚いているのだろう。
魔導書の読み聞かせはまだ終わらない。
十日目の朝、突然ビーチェが奇声を上げて魔導書に飛び掛った。
地面に組み伏せると必死の形相で頁をめくる。
自分から魔導書を手に取って読み始めたのだ。
勉強嫌いのあの娘が自分から……俺は不覚にもちょっと感動してしまった。
狂ったように、一心不乱に、魔導書に目を通し続け、日付も変わろうかという深夜、唐突に魔導書は自動の読み聞かせを止めた。
『操獣術・入門の書』は表紙の魔導回路から輝きが失われ、自然にその場で頁を閉じた。解呪条件を満たしたことで、常時発動していた呪詛が解かれたのだ。
ビーチェがついに魔導書を制したということだ。
「これで知識はしっかりと身に付いたな。この十日間、よく頑張った」
ビーチェは労いの言葉を受けて微笑み、偉業を成し遂げた者特有の満足げな表情になった。
ビーチェの屈託のない笑顔に釣られて、柄にもなく俺も笑ってしまった。
こうして誰かと楽しく笑いあうことなど久しくなかった気がする。
「ビーチェには何か、ご褒美をやらないといけないな」
ご褒美という言葉に、期待に満ちた眼差しを向けてくるビーチェ。
俺は拠点からビーチェの為のご褒美を取って戻る。
俺の手元には『操獣術・実践の書』と背表紙に書かれた一冊の本があった。入門の書に比べて、本の厚みは倍ほどに増えている。
「さあ、次は実践だ」
新たに現れたご褒美の魔導書を目にした瞬間、ビーチェが脱力して地に倒れ付す。
びくびくと体を痙攣させて口から泡を吹きながら、何か呪詛のようにうわ言を呟いていた。
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