第58話 粘菌少女
ふるふる……ふるふる、と。
地面や壁に貼りついたゼリー状の塊が、あっちへふらふら、こっちへふらふら。
餌を探しているのか、それとも住み心地のよい場所を探しているのか。
意思の見えにくい粘菌は、今日も気ままに洞窟内を這い回っている。
時には洞窟兎に食いつかれ半身をなくすこともある。
それでも粘菌は慌てず騒がず、一欠けらでも体の一部が残っていれば、そこからまた殖えて元の大きさへと戻る。
そんな不思議生物に興味をもった者がいた。
あちこち跳ねた黒髪と、金色の目を好奇心に輝かせた一人の少女。
彼女の熱い視線には魔眼による威圧の力が混じっている。常人や普通の獣ならば、その圧力に負けて萎縮してしまうことだろう。
たが、単純な神経しか持たない粘菌には魔眼の効果もほとんどなかった。故に、ビーチェに見つめられても粘菌は慌てず騒がず、いつも通りに地面や壁を這い回っているのだった。
「どうしたビーチェ? 粘菌が気になるか?」
「かわいい……」
粘菌に興味を持ったらしいビーチェ。この粘っこい不定形の生き物をかわいいとする感覚は俺には理解できなかったが、何事も興味を持つことは悪いことではない。特に粘菌という生き物は、単純に見えて奥深い謎を秘めた生き物である。
嘘か真か、粘菌術士などという粘菌の召喚・使役に特化した術士もいるらしい。彼らは日がな一日、飼育箱の中の粘菌を眺めて過ごすのだとか。俺には到底理解できない領域だ。
(……もっとも彼らのような術士からすると、俺みたいに宝石を眺めて悦に入る方が理解できないらしいが……。何故、宝石の美しさがわからないのか、それこそ美的感覚を疑う……)
人の趣味はそれぞれだ。それをどうこう言うつもりはない。
だが、宝石の美しさだけは普遍的なものだと俺は思っているのだ。
だからビーチェが宝石よりも粘菌に興味を持ったとしても、それを咎めることはしない。むしろ、ジュエルのように宝石を食べてしまうほど好きになられても困るのだから、これはいい傾向と見るべきかもしれない。
(……ジュエルとは反対に、か……。この嗜好性は、意外と使えるかもしれない)
粘菌を突っつき回すビーチェの姿に、俺は一つの可能性を見出していた。
◇◆◇◆◇
ビーチェは以前に洞窟内の獣と誓約を行ったが、粘菌とは関係性を持たせていなかった。
粘菌は無害なものから危険な種類まで様々だ。
特に俺が把握していないところで突然変異した種類などは、自衛手段の少ないビーチェが遭遇すると致命的な事態になりかねない。
(そう……これは自衛の為だ。ビーチェの為を想ってやることなんだ、うむ)
俺は密かに決意を固めると、相変わらず粘菌と戯れているビーチェに声をかけた。
「粘菌と仲良くなりたいか?」
「…………なりたい」
数秒の迷いがあった後、はっきりとビーチェは意思表示をした。
「ならその為の術を教えてやる。ただし、使いこなせるかどうかは、お前次第だからな」
期待と不安の入り混じった表情でビーチェは大きく頷いた。
第二の拠点、奥の部屋にある研究用の工房へ俺はビーチェを連れてきた。
簡素な寝台へ横になるよう促すと、大の字に寝転がったビーチェの手足を縄で寝台の足に縛りつける。
「クレス……?」
「施術の途中で暴れられると危険だ。頭の下にも緩衝材を敷いておくぞ」
手足を固定されて動けないビーチェの後頭部に、柔らかい布の塊を差し挟む。
居心地が悪そうに手足を動かそうとするビーチェをそのままに、俺は工房に据え置かれた真新しい金庫から大粒の結晶を二つ取り出してきた。
「この結晶には魔導回路を生体に転写する為の術式が組み込まれている。体のどこに刻むのでもいいが、なるべく神経の多く通った場所……意識を集中しやすい部位の方が、初心者にも扱いやすくていい」
「意識の集中……」
自然と手の平を握ったり開いたりしてみせる。
何も教えていないのに、意識の集中と聞いて手の平に考えがいくのはなかなか
「ああ、そうだ。普通は手の平や指に刻む。さ、これを両手に握るんだ」
「両手に?」
「右手には動植物など生きた存在を幅広く召喚できる汎用性の高い回路を刻む。操獣術を使う為の回路も一緒に刻んでしまうからな」
言いながらビーチェの右手に結晶の一つを握らせる。
「左手には非生物を召喚するのに効率が良い回路を刻む。これで俺がいなくても食料など生活物資を召喚できるようになる。飢えた召喚獣どもへの餌やりも、これからお前の仕事になるわけだ」
「仕事、頑張る!」
もう一つの結晶を左手に強く握り込み、ビーチェは威勢のいい声を上げた。
洞窟にやってきてからというもの、子鬼や狼、ノームにジュエルと皆が採掘作業を行うなか、体力のない彼女は採掘した原石の種類わけぐらいしかやることがなかった。やや生真面目な性格のビーチェにとっては、自分だけあまり仕事をしないのは居たたまれなかったのかもしれない。
「施術の前に確認だが、体に結界印は刻んでいるか?」
「結界印?」
「ああ、お前が幼い頃にでも、体にこの……水晶に刻まれているような魔導回路を刻まれていないか? もっと単純な回路だろうが」
「あ……それなら」
手足を縛られたままもぞもぞと腰の辺りを動かす。
「お尻にあったような……」
「尻か。まあ、その辺りなら施術に影響あるまい」
大抵の人間は生まれた時に結界印という小さな魔導回路を体に刻む。
これは刻まれた対象を召喚術で呼び出せないようにする為のもの。
即ち、召喚術を悪用した誘拐を未然に防ぐものである。
皮膚の病気や宗教上の理由などで結界印を刻めない者は、代わりに結界石や結界符といった同様の効果があるものを肌身離さず持つことになる。
ちなみに俺は召喚術を使った緊急時の移動を可能にするため、敢えて結界印を体に刻んでいない。
その代わり体中に魔導回路の結晶を身に着けているので、これが悪意ある召喚に対して術式を撹乱する効果を発揮する。
結界石や結界符とはつまるところ、何らかの魔導回路のことなのだ。一定以上の複雑性を持った魔導回路は、召喚術に干渉して術の発動を阻害する。
魔導回路が巷に溢れ生活に役立っている現在でも、こういった理由により人間の移動や魔導回路を刻んだ品物の輸送は原始的な方法に頼らざるをえない。
便利な技術であっても、必ずしも自由に使えるわけではないという話だ。
もっとも、ビーチェの場合は生まれつき天然の魔導回路とも言うべき魔眼が備わっているので、結界印などなくても召喚術による誘拐は不可能である。
「では、これより魔導回路の転写施術を行う」
ビーチェが神妙な面持ちで口元を引き締める。
「これから起こること全てを受け入れろ。今から行う施術は呪詛をかける行為に等しい。被施術者の意識抵抗があると魔導回路の定着に時間がかかる」
「わかった……」
表情をいっそう固くして目を閉じる。両手にはしっかりと黄水晶を握りしめていた。
俺はその両手に軽く手を重ねて、黄水晶へ魔導因子を流し込む。
両手の指の隙間から仄かな光が漏れ始めた。結晶が十分に活性化したのを見て取った俺は静かに手を離す。
『異界より魔を導く門を、彼の者の身に刻め。術式開始――』
淡々と告げられた
「あ……。ああっ……! あぁあぅううー――っ!!」
光は近くに立つ俺が感じるほどの熱を発していた。
熱いのだろう。苦悶に満ちた声を上げ、思わず両手を広げ投げ出してしまうビーチェ。
両手を焼き尽くしてしまいそうな閃光が、開かれたビーチェの両手から眩しいほどに放射されている。
光り輝く黄水晶は手の平へ吸いつくように半ば融合しており、結晶中に刻まれていた複雑な回路がビーチェの皮膚へと浸食を始める。
「うっぁああ――っ!?」
自分の身に何が起こっているのか訳も分からず、縛り付けられた寝台の上でのた打ち回る。
魔導回路を体に刻む痛みは、皮下組織を針で縫い進むようなものと言えば多少なりともその苦しみが伝わるだろうか。
麻酔はほとんど意味をなさない。
魔導回路は直接に神経系へと繋がれ、より深い脳神経へ至るまで魔導因子の導通が行われる。その際に筆舌に尽くし難い痛みを伴うのだ。
ビーチェはあまりの苦痛に体を捩り、泣き叫んだ。失神しようにも、気を失ったそばから更なる痛みに苛まれて目を覚ます。そしてまた苦痛に耐えきれず意識を飛ばす。そしてまた苦痛に目覚めるということを繰り返し何度も続けた。
それでも最後には全身の感覚が麻痺してしまったのか、突然がくりと脱力する。
腰の力も抜けてしまったのか力なく失禁して、今度こそ完全に気絶してしまった。
多大な苦痛と引き換えにして、ビーチェは無事に召喚用の魔導回路を身体に転写された。
ビーチェが心から魔導回路を受け入れなければ、この施術もあるいは成功しなかったかもしれない。子供の術士では恐怖心から拒絶して失敗することも多いのだが、大人でさえも我慢し難い苦痛によく耐えたと褒めてやりたい。
これで魔導因子の扱いを練習すれば、簡単な召喚術と召喚獣の行使ができる。
もっとも、召喚獣に関しては既に俺が呼び出したものに限ってのことだ。ビーチェにいきなり新しい召喚獣の呼び出しはできない。
それでも操獣術の支配権を握る鍵である楔の名を教えることで、ビーチェのような素人でも獣を操れるようになるのだ。
余談であるが、結晶に刻んだ魔導回路は何度も使うと劣化して破壊に至る。
だが、人間の体組織に刻まれた魔導回路は、生体の自己修復機能を活用して、回路が痛んでも体組織の自然治癒と共に修復される。
便利だが、魔導回路の使用には身体に負荷がかかる。
施術の際の痛みを思い出してしまい、術式の行使を躊躇する術士も少なくない。ビーチェには痛みを克服してくれることを望むばかりだ。
ビーチェや他の多くの術士と違って、俺は自身の身体には一切、魔導回路を刻んでいない。
ただし、指先の神経に魔導因子を通すことができる疑似神経、いわゆる
これだけならビーチェもここまでの苦痛を味わうことはなかっただろうが、その代わり魔導因子を外部回路に流す感覚を身につけるだけで一年は費やしてしまうだろう。
集中力が高く、感覚が鋭いと言われた俺でさえ半年はかかった。ビーチェにそこまで訓練を施している暇はない。さっさと使える魔導回路を体に刻んでしまった方が早く役に立つようになる。
そもそも、外部回路のみに頼る術士は稀な事例だ。どうしたって、自分の体に魔導回路を刻んでしまった方が術式の習熟は早いし、精度も高く、何より自己修復機能があるので外部回路を使い潰すより金がかからない。
大抵の術士は基本的な召喚術と、自分の得意とする幾つかの術式に絞って能力を特化させていく。
一つの物事に限って研鑽した方が、一分野とはいえ大成しやすい。あれもこれもと欲張っても、よほど努力しなければ器用貧乏で終わるだけだからだ。
必要になる魔導回路は数種類だろうし、それならば施術が多少苦しくても体に刻んでしまうのが普通の術士だ。
俺のように自分の体に魔導回路を刻まず、結晶に刻んだ外部回路でのみ術式を扱いたいと考えるのは少数派であった。ビーチェまでそんな例外的な術士にする必要はないだろう。魔眼という他にはない特徴もある。
「わざわざ邪道を行くこともない。真っ当に訓練を積めばいずれ大成するよ、お前は」
ビーチェの拘束を解き、目の端に溜まった涙を拭いながら、俺はガラにもなく優しい声をかけていた。
そして、悲しいかな。
気絶したビーチェの粗相を、一人で後始末するのだった。
◇◆◇◆◇
「横隊列、組めー。進めー、前!」
ビーチェの溌剌とした掛け声が洞窟に響き、その声に従って無数の粘菌達が整然と横に並び、一斉に前進を開始する。
あれからビーチェは魔導因子の扱いを覚え、粘菌との交流を深めていた。
今は最下級の粘菌を操って、ダンジョン内の清掃活動を積極的に行っている。
生物や非生物の召喚については、世界座標を意識下で指定する、という感覚を掴むのに苦労しているが、いずれそれにも慣れて召喚術を扱えるようになることだろう。
「ううう……」
そんなビーチェの成長を陰から見守る者がいた。
「粘菌が……ボクの苦手な粘菌が、隊列を組んでいる……」
貴き石の精霊ジュエル、苦手なものは粘菌。
ずっと前に、宝石を摘み食いした罰として磔にされていた時、体中を這い回った粘菌のおぞましい感触はジュエルにとって恐怖となっていた。
そして粘菌を手懐けたビーチェは、ジュエルにとって直近の脅威である。
「はあ~……これからはビーチェの御機嫌も取らないと……」
いつ主人の御機嫌取りをしたのか、そんなことは棚に上げて先行きの不安に肩を落とすジュエルであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます