第53話 過ちの沼縁

 洞窟の奥では天候を気にすることがない。それでも、洞窟の入り口付近までやってきたときには、外が嵐になっていることがわかった。

 この辺りの気候としては珍しく、大雨が長く続いた。

 今年はよく雨の降った年として記録に残されるかもしれない。


 雨の勢いが弱まり、それでも小雨が何日か続いた後、ようやく雲が晴れて久々の快晴となった。洞窟の外へ出て山の様子を見ると、空は青々と明るいのに地表に近づくほど白く霞んでいて、山の中腹から下は見通しが利かなかった。

「霧が濃いな……」

「わぁお、なんだか面白いことになっているねー?」

「ん、まっ白しろ」

 洞窟を背にした俺の後ろから、ジュエルとビーチェがひょっこりと顔を出す。

 

「ボクちょっと偵察してくるー」

 好奇心を押さえられないジュエルは、背中から生やした二枚の水晶翅で白い霧の向こうへと飛んでいく。

 ほどなくしてジュエルの姿は見えなくなり、霧の向こうから陽気な声だけが聞こえてくる。

「ボスー! ビーチェー! どっちを向いてもなんにも見えないよー!」

「ジュエル、どこ?」

「さして距離は離れていないはずだがな」

 声はすぐ近くから聞こえる。

 だがその声も山の斜面のあちこちで反響して、実際にジュエルがどの辺りにいるのかは全く見当もつかない。


「だっだーん! ここでしたー!」

「おぅぐ……!」

 いきなり斜め上空の背後から体当たりを仕掛けてくる。ジュエルの岩のような体の重量を一身に受けて俺はその場に膝をついた。

「ジュエル、いた」

「きゃははっ、捕まったー!」

 ビーチェが俺からジュエルを引き剥がし、ふらふら何処かへ行かないようにがっちりと抱き締める。

(――よし、よくやったビーチェ、後で飴をやろう。ジュエルには鞭打ちをくれてやる……)

 強かに地面へ打ち付けた膝をさすりながら、俺は調子に乗り過ぎている屑石精霊をきっちり躾けることにした。




 昼に近づき気温が上がってくると、それまで樹海を覆っていた濃霧が消えて山の風景がはっきりと見渡せるようになった。

 永眠火山はここ最近の環境変化で緑濃い山林となっていたが、今でも所々は山肌が剥き出しになった岩場を見つけることができる。

 特にそのような岩場では地面に水が溜まりやすく、幾つもの沼を形成していた。

 ある場所では岩の亀裂から澄んだ水が湧き、泉や小川が生まれ、滝が流れ落ちている。

 俺は久しぶりの外で暖かな日差しを浴びながら、清々しい空気を肺一杯に吸い込み、山の中腹から広がる眺望を満喫していた。暗くじめついた洞窟の中で仕事ばかりせずに、たまにはこうした休息も必要だろう。


 ビーチェも久々の外に解放感を覚えたのか、両手を掲げて思い切り背伸びをしている。日に当たる少女の顔は真っ黒に煤けており、ついこの前に買い与えた綿布の服もすっかり土埃で汚れていた。

「洞窟の中では気にならなかったが、随分と汚れているな」

「クレスも汚い」

 言われて自分の衣服も見れば、ビーチェのことを非難できない有り様だと気がつく。

「……体、綺麗にしたい」

「手近な水場で洗うか」

 ちょうど眼下には綺麗な泉も幾つか散見する。ざっと見渡した限りでは危険な動植物も目にはつかない。

 俺達は山を少しばかり下り、水場で体と衣服を洗うことにした。



「ああ~そこそこ、気持ちいい~。うう~ん、もっと下の方も……」

「注文が多いぞ」

 ジュエルが体に苔が生えたと騒ぐので、手近な川で洗い落とす作業を俺が手伝う羽目になった。強い水流がある川で、勢いに任せて汚れを洗い流す。苔が生えて光沢を失っていたジュエルの体も、川で磨き上げるとすぐに艶のある翡翠色の肌を取り戻した。

 ついでに俺も衣服と外套を川の中で洗いながら、自身の垢も泥汚れと一緒にさっぱりと洗い流した。

 ビーチェは流れのない静かな泉で一人、汚れた体を洗いに行っている。ビーチェの体格で流れの速い川に入っては簡単に押し流されてしまうので、場所を選び二手に分かれることになったのだ。

 本当はジュエルの苔落としなどビーチェに任せたかった。だが、脆弱なビーチェの腕力では苔どころか固く付着した泥を落とすことすらままならない。手足が短く、関節が硬いジュエル自身にやれと言うのも難しい。結局、俺が面倒な仕事を引き受けることになった形だ。

 とは言え、川の流れの力もあって思っていたよりも簡単にジュエルの苔は取り除くことができた。

 十分に体の汚れを落とした俺は、川から上がると衣服を乾かすための火を熾す。燃料となる薪は近くの山林から、落ち葉と枯れ枝をごっそりとジュエルに拾ってこさせた。最初は湿っていたこともあって燻っていたが、一度でも炎が立つと後は勢いよく燃え続けた。


 ほどなくして、焚き火に近づけていた俺の衣服は完全に乾き切った。ジュエルの身に着けていた羽衣も乾いているが、当の持ち主はまだ川の中で遊んでいる。流れの速い川だがジュエルの重量ならば押し流されて溺れることもないだろう。仮に溺れても沈むだけで、呼吸の必要のないジュエルがどうにかなることはない。

 むしろ心配すべきなのはビーチェの方だろう。以前にも一人で水浴びはしていたし、特に心配もせず送り出してしまったが、いくら穏やかな泉とは言え子供を一人で水浴びに行かせたのは拙かったかもしれない。周囲に危険はないと確認していたが、水辺の事故と言うのは思わぬところに危険が潜んでいるものだ。

 早々に衣服を着込んだ俺は、川で魚を追い掛け回しているジュエルは放置して、ビーチェの様子を見に行くことにした。そこまで急ぐ理由はないが、なんとなく嫌な予感がしたのだ。こういうときの直感を無視すると、後になって悔やむことは多い。俺は足早にすぐ近くの泉へと向かった。


 ◇◆◇◆◇


 泉へ向かい始めてすぐ、前方の茂みが揺れてビーチェが姿を現す。彼女もまたこちらに気が付くと小走りに駆けてくる。

 下着だけ身に着けた格好で衣服は小脇に抱え、濡れた髪を体に張り付かせていた。濡れた体で服を着るのを嫌ったのだろう。

(……以前よりは肉が付いてきたか。それでもまだ痩せ過ぎだが……)

 ビーチェが洞窟にやってきたばかりの頃は、栄養失調ぎみで骨が浮かび上がるほどに痩せ細っていた。人並みの食事を摂るようになってしばらく、ようやっと血色が良くなり、頬などもふっくらしてきたところだ。

 俺が健康状態を色々と考えて体の肉付きに注目していると、ビーチェは居心地が悪そうに衣服を抱えて俯いてしまった。何はともあれ無事を確認できたので一安心だ。


 ビーチェの無事を確認して安堵したのも束の間、再び前方の茂みが揺れて二人の人間が姿を現す。

 咄嗟にビーチェを背後に隠し、外套に隠してある魔導回路の結晶を幾つか手に握り締める。攻撃されたらいつでも反撃できる戦闘態勢を取った。

「ビーチェちゃん、一人で先へ進んだら危ないよ!」

「あれー? ひょっとしてその人が親方さん?」

 現れたのは二人組、若い冒険者風の女達だった。

 ビーチェは何の警戒もなく、二人の傍へと走り寄っていく。

「これ、マイスターのクレス」

「……ビーチェちゃん、お世話になっている人を、これ、とか言っちゃだめだって」

「どうもー、ビーチェちゃんの……保護者の方ですよね? 探しましたよ」


 二人の女は随分と親しげな感じでビーチェと話をしている。俺の知らない人間だが、ビーチェの知り合いだろうか。

「ビーチェ、知り合いか?」

「違う。さっきそこで会った」

「ええー……! ビーチェちゃん、ひどくない?」

「まあ、さっき会ったばかりなのは間違いないですけど」

 女達はビーチェのつれない態度に苦笑いをしている。どうやらついさっき知り合ったばかりのようである。だが、それだけではこの二人がビーチェについてきた理由にならない。

「何故、見ず知らずの人間と一緒にいるんだ?」

 俺がやや詰問の調子になったことで慌てたのか、二人の女はビーチェを庇うように前へ出た。


「あー、あの、怒らないであげてください。私たちが勝手について来ただけなので」

「女の子一人で危険な森にいたから、てっきり迷子かと思って。保護者はいるって言うから、一応、合流できるまでは付き添ってあげようと、ね?」

 要するに、小さな親切、大きなお世話というやつだ。

(見たところ、こいつらも洞窟の貴石を狙ってやってきた冒険者のようだが……)

 洞窟に侵入することを目的に来ているのなら、彼女らは敵だ。本来ならここで始末をつけておくべきだろう。

 だが、ビーチェと仲良くしている姿を見ると、手荒な真似をするのも気が引けた。

 そもそも親切でビーチェを俺の元まで送り届けたような人の良い連中だ。それを敵だからといきなり叩きのめすのは人間としてどうだろうか、と考えてしまう。

(……俺も甘くなったな。手心を加えるとは、どうかしている)

 やはり、ビーチェのような子供を預かったことで、他人への余計な情が生まれているのかもしれない。

 これは俺にとって足枷だ。悪い傾向である。

 それでも結局俺は、ともすれば噴き出しそうになる殺気を抑えて、ビーチェの身柄を引き取るのだった。



「ちなみにー、ビーチェちゃんとあなたって……どういう関係?」

「保護者にしては年齢も近いみたいですし、兄妹にも見えないような……」

 二人の女は俺とビーチェを交互に見やって、何かを期待する眼差しを向けてくる。興味津々といった表情である。

 そしてビーチェもまた、何故か期待に満ちた顔をして俺を見上げてくる。

(……関係か。問われて見ると一言では言えないな。正式に養子にしたわけでもなく、後見人として役場に届け出たわけでもない……)

 考え込んでしまった俺の様子を見て、女達が慌てて言い繕う。

「あ、いいのいいの! 深く聞くつもりはなかったから」

「そーそー、訳ありなんですよね? これ以上は聞きませんよ」

 妙な方向に誤解しているようだ。かといって、俺は誤解を正す答えを持ち得なかった。


「そうだ、今更だけど改めて自己紹介しておくね。わたし、ネリル!」

「私はシアナです。あなたのお名前は?」

 聞いてもいないのに自分から名乗り出す二人の女、ネリルとシアナ。

 二人とも、まだ十代の年齢だろう。どことなく子供っぽさが抜け切れていない印象だ。

 向こうの態度からして、俺の方も同年代と見ているのだろう。実際のところ、ぎりぎり俺も二十歳前である。

 本来なら気の合う年代同士で打ち解けあうのが普通なのだろうが、生憎と俺は連盟の仕事で年上の連中を相手することが多い。老成した考え方に慣らされているので、今時の若者とは正直に言ってつるみにくい。

「俺は――」

「ボク、ジュエルだよー! 仲良くしようね、お姉さん達!」

 がさり、と茂みの中から飛び出してきたのはお気楽精霊のジュエル。

 ネリルとシアナは「きゃあ!」と揃って可愛らしい悲鳴を上げたが、それは驚きや恐怖といったものより、むしろ歓声に近い色をしていた。

「えー!? 何、この子! 妖精!?」

「うわ、か、可愛いかも……」

 突然の闖入者に場が盛り上がる。

 俺は一人だけ取り残された感じだ。

 やはり、ついていけない。


 別に不満が顔に出ていたわけではないだろうが、ネリルと名乗った女の方がこちらを見て、にやりと笑った。

「よろしくね、お兄さんもっ」

「ああ、俺は……クレストフ。見ての通り術士だ。一応、よろしくな」

 準一級とは言わないでおいた。なんとなく、この手の女どもには肩書きを名乗っても良いことがなさそうに思えたからだ。


「ところでー。見たところ、お兄さん結構やるでしょ? よかったら、わたし達と遊ばない?」

「それがいいですよ。ビーチェちゃんと、ジュエルちゃんも混ぜて一緒に。大勢の方が楽しめますから」

 いきなり何を言い出すのか、この売女ばいたどもは。

「ぶっちゃけた話、子連れの術士なら野蛮な傭兵とかと違って安心だし」

「女二人だと、落ち着いて水浴びもできないんですよねー」

 つまるところ水遊びをしている間の見張り役が欲しいということか。

 この展開、どう考えても俺一人が見張りの役回りだ。

「いや、もう先程、水浴びは十分に――」

「はいはーい! ボクもお姉さん達と遊びたーい!!」

「私も……もう少しだけ」

 結局、ビーチェとジュエルにせがまれて、付き合うことになってしまった。

 やはり、俺は随分と甘くなったようだ。


 ◇◆◇◆◇


 俺はビーチェが先程まで水浴びをしていた泉へと連れられてやって来た。

 浅瀬となっている泉の縁が、全体に見渡せる程度のこぢんまりとした広がりを見せていた。中心部の水深はかなり深いようだが、透明度が高いので奥の方まで見通すことができる。

 ざっと見たところ危険な生物が棲み処にしている様子はなかった。魚の一匹も見当たらないのは気になるが、最近になって湧き出した泉なのかもしれない。

(ここ最近は急に山の保水量が増えているからな。これも、あちこちに湧き出した泉の一つに過ぎないのだろう……)

 ビーチェが下着のまま、ジュエルは素っ裸になって泉へと飛び込んだ。

 ネリルとシアナも泉へ着くなりさっさと上着を脱いで、上下に別れた無地の肌着姿で泉へと足を踏み入れる。

 出遅れた俺は近くの木陰に座り込み、水浴びを始めた彼女らの姿を遠くから眺めていることにした。



 太陽が天頂に昇り、木陰が短くなると、山中は急に熱気を帯びてきた。たまに山頂から冷気を含んだ風が運ばれてきて、真昼の日差しで火照った体を心地よく冷ましてくれる。この吹き下ろしの風がなければ、恥を捨てて俺も泉へ飛び込んでいるところだ。

 ビーチェはネリルとシアナ、それにジュエルを交えて、泉の浅瀬でちょっとした格闘ごっこを繰り広げている。

「来い! ビーチェちゃん!」

「むぅ……望むところ……」

「ほぉら、ジュエルちゃん捕まえましたー!」

「うわぁー! 捕まったー!」

 年相応といった様子で無邪気に突っ込んでいくビーチェに対して、ネリルは年上の貫録を見せつけるように大きな胸でビーチェの突進を受け止めている。

 一方でシアナはジュエルを抱え上げようとして予想外の重さに押し潰され、そのままジュエルにむしゃぶりつかれて半ば本気で悲鳴を上げていた。


 しばらくして、遊びつかれたビーチェは陸に上がって寝転がり、ジュエルも濡れた体を日に当てて乾かしている。

 木々の間から差す木漏れ日が気持ちいいのか、ビーチェは小さな寝息を立ててそのまま熟睡してしまった。


 体力があり余っているのか、冒険者の女達はまだ泉で遊んでいた。

 二人とも体つきはなかなか良く鍛えられている。

 じっくりと観察したところ、体に魔導回路を刻んでいたりすることはない。純粋に格闘技術や剣術を駆使して闘う冒険者と思われる。よくこの樹海を山の中腹近くまで登って来られたものである。

(……どう考えても実力不足だな。ここまでは運が良かったとして、洞窟に入り込めば確実に死ぬ。目に入らない場所で勝手にのたれ死んでも俺の知った事ではないが、一応は警告しておいてやるか。洞窟を荒らさず素直に帰るならそれで構わないのだし……)

 ビーチェやジュエルといった邪魔者が寝静まった頃合をみて、俺はネリルとシアナの二人に声をかけることにした。


 木陰から立ち上がった俺に気が付いたネリルが、泉の真ん中で立ち泳ぎしながら、こちらに向かって大きく手を振る。

 そのすぐ後で唐突に泉の中へ、とぷん、と潜るネリル。

 そして、そのまま浮かび上がってこない。


「おい?」

「やだ、ネリルったら。ちょっとあからさまな誘いじゃない?」

 困惑した表情でいる俺に、浅瀬にいたシアナがネリルは悪戯で脅かそうとしているのだ、と笑う。俺が飛び込んで助けに来るのを期待しているのか。

 だが、悪戯にしては長い潜水だと思った俺は泉に顔をつけて、水中の様子を観察した。

 泉の中を窺うと、ネリルが何もない水中でもがいていた。とてもふざけている様子ではない。

(脚でも攣ったのか!?)


 異変に気付いたシアナが泳いで助けに行くが、泉の中央付近にまで潜ると同じように水中でもがきだす。

(何だ!? 何が起きている!? 迂闊に近づくのは危険なのか?)

 原因がわからないまま泉に潜るのは自殺行為だ。かといって、このままでは二人が溺れ死んでしまう。

 俺はすぐさま左耳の耳飾りを抓み、意識を集中して天眼石アイズアゲートに魔導因子を流し込む。

 

(――見透かせ――)

『天の慧眼!』


 魔導因子を媒介に全てを見通す『天の慧眼』の術式で泉の中を注視する。

 すると明らかに泉の水とは成分の違う、しかし屈折率は水とほぼ同じで肉眼では見分けのつかない、透明な不定形物体が確認できる。

 そいつは泉の底を広く覆うように存在していた。

 信じられないくらい大きな、粘菌である。

(あんな粘菌は召喚した覚えがない……!)

 間違いなく野生の粘菌だ。当然ながら俺の命令など聞かないだろう。


 助けを求めて、もがく女達。

 陸の上なら涙でも流していそうなほど悲愴な表情で、シアナが目で「助けて」と訴えかけてくる。

 ネリルの方はとうとう意識を失って、動かなくなってしまった。

 行きずりの関係とは言え、目の前で死なれては気分が悪い。


 俺は泉から一度顔を上げると、鬼蔦おにづたの葉を模した銀の首飾りに手をかけ、刻み込まれた魔導回路に意識を集中して魔導因子を流し込む。

(――あざなえる縄の如く、縛り上げろ――)

『銀鎖の長縄!』

 即座に術式を発動し、長く編まれた銀の縄を泉の中へと突入させて、ネリルとシアナを引き上げようと試みる。

 伸びてきた銀色の縄を見てシアナの表情に希望が戻る。

 だが、銀の縄が二人に巻きつく一瞬前に、彼女らは透明な粘菌に体全てを丸ごと取り込まれ、より深い水底へと引きずり込まれていく。

 あっという間の出来事だった。

 シアナは水底へ沈みながら俺の方を呆然と眺めていた。

 見る見る内に二人の姿は遠ざかり、仄暗い水の底へと消えていった。



 別に見捨てるつもりはなかった。

 けれども、水中での予期せぬ生き物との遭遇に焦り、迅速な対応ができずに見過ごしてしまった。

 もしこれが自分自身に迫った危険ならば、躊躇なく強力な術式で周辺ごと吹き飛ばして事なきを得たことだろう。

 しかし、他人を傷つけずに助けようとするのが、これほどまでも勝手の違うものだとは思いもしなかった。


 考えてみれば、俺はこれまでに他人を助けようとしたことなどあっただろうか? 普段は単独で仕事をこなし、たまに仕事で組んだ術士や騎士はどいつもこいつも他人の助けなど必要としない腕の立つ連中ばかりだったのだ。

 弱きを助けるなどという状況は経験としてなかった。それ故に対応を誤ったのかもしれない。

(状況の把握は後回しにしてでも、二人を引き上げることを優先すべきだったのではないか?)

 考えても答えは出ない。

 いずれにせよ、水底に沈んだネリルとシアナはもう二度と戻っては来ないのだ。


 俺が泉から顔を上げると、ビーチェが不思議そうな表情でこちらを見ていた。どうやら事態を把握できていないらしい。

 俺もどう説明したものかわからず、無表情でただただビーチェの顔を見返した。

 一つ間違えれば、水底に引きずり込まれていたのはビーチェだったかもしれない。

 その時、俺は果たして無事にこの少女を助け出すことができただろうか。

 あるいは助けられなかったとして、所詮その程度の運しかなかったと諦めることができただろうか。

 急に背筋が寒くなり、全身から力がぬけた。


「帰ろう」

「? お姉さん達は?」

「あの二人なら、かえった」

「そっか……、かえったんだ」

 そう。還った。自然界の循環の輪に。


 そして俺達は洞窟へ帰った。




 ……ほんの少し前まで荒野だったとは思えないほどに、現在の永眠火山は緑と水で潤っている。

 あちこちで湧き出す小川と泉、一見して美しい自然の風景。

 だがその実態は、はまれば逃れられない底なし沼。足を踏み入れたものを引きずり込む水棲粘菌アクアスライムの棲み処だ。


 決して少なくない数の人間が、泉の底へと引きずり込まれて消息を絶っていた。

 その沼縁ぬまべりから、ただ一歩を踏み出さなければ命を落とすこともなかったというのに。


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