ダブルフォルト

@hosokuda33

ダブルフォルト

「本来ならば、東京オリンピックが今日開幕していたんですよね」

 リビングにあるテレビから、コメンテーターの声が聞こえる。京子は、そんなテレビを見ながら、白米を口に運ぶ。そのテーブルの向かいには、家庭教師の橘高志が、めがねを曇らせながら、熱々の肉じゃがを食べている。いつもは京子の母もいるが、今日は町内会の会合に出席していて、この場にいない。

 橘は京子の兄、弘毅と高校時代、同じテニス部に所属し、親友だった。今、橘は地元の大学に通っていて、4年生である。就職活動を3月に終わらせて、今は卒業論文以外やることがない。その一方、弘毅は一年浪人しているため、まだ大学3年生だが、東京の名門大学に通っている。そんな弘毅が母から妹の受験勉強の調子を聞いて、橘に家庭教師を頼んできたのだった。

 今日の京子はテンションが低い。というかわかりやすく落ち込んでいる。そのせいで、さっきまで勉強をしたいたが、まったく集中できていなかった。昨日、3週間前に受けた模試の結果が返却されたのだが、結果がかなり悪かった。第一志望の判定は「E」。一番悪い判定だ。

 京子の第一志望は、橘が通っている大学だった。正直、このままでは合格するのはかなり難しいだろう。しかし、京子は勉強していないわけではなかった。週に2回、橘は京子の家にいき、授業をしているが、そのたびに宿題をたくさん出している。それを京子はしっかりこなしてくれていた。それなのに、結果が出ないのは、おそらく受験勉強を始めるのが遅かったからだろう。京子が勉強を始めたのは、4月に、部活動を引退してからだった。

「はあ、もう私だめなのかな」

 京子が小さい声でつぶやく。合格するのが難しいとはいえ、まったく可能性がないわけではなかった。現役生は、模試で結果が出るまで時間がかかる。だから、このまま続けてくれれば、合格する可能性はあった。そのためには、この勉強を続けてもらう必要があった。しかし、京子のメンタルはかなり揺らぎ始めていた。

「そんなことないよ。がんばってるんだから、このまま続ければ、結果がついてくるよ」

 私は、京子にそういったが、彼女は何にも感じなかったようだ。

「そりゃ橘さんは、うまくいったしさ。そういえるよね」

 京子は不貞腐れた表情で、声を高くして言う。橘はなんていってあげればいいのかわからなくなった。今の京子にはなにをいっても響かないような気がした。

 聞きなれたボンッ、ボンッという音がテレビから聞こえてくる。オリンピックに出るはずだった日本人テニスプレイヤーが、練習に励んでいる映像が流れ、それから、その選手のインタビュー映像が流れ始めた。

「来年に向けて、練習するしかないですよね。一年、遅れてしまいますけど、いい結果が残せるように今は取り組んでいます。」

 彼は焼けた肌に、白い歯を見せ、微笑んでいる。それをみて、橘は弘毅のことを思い出していた。


「逆転されたな」

 弘毅はダブルスのペアの橘の隣に座り、ラケットを隣に立てかけながらつぶやく。4月だから、暑くはないのだが、二人は汗が止まらず、コートチェンジの短い時間を利用して、水分補給をしている。二人の足元には、汗の後が残っている。

 ゲームカウント4-5。次のゲームをとられたら、私たちの負けだ。途中までは、4-2でこちらが優勢だったが、その後、3ゲーム、連続で奪われてしまった。完全に相手のペースだ。

 この試合に勝てば、念願の県大会に進むことができる。逆にこの試合で負ければ、団体戦とシングルスですでに敗退していた二人は、部活動を引退することになる。半年前の大会でも、二人のダブルスは後一歩のところで負けていた。今回も前回の繰り返しになるのかと、頭をよぎる。

「なあ。次のゲーム、俺がサーブじゃん?」

と、下を向きながら、タオルで顔をぬぐっている弘毅が、肩で息をしながら言う。前回の大会のことをもう一度思い出す。前回の大会、最後のゲームでサーブを打っていたのも、弘毅だった。

 その試合の最後のポイントは、弘毅のダブルフォルトによるものだった。それ以外にも、その試合の中で弘毅はダブルフォルトを繰り返していた。正直、弘毅のダブルフォルトがなければ勝てたかもしれないと、橘は思っていた。そして、実際、弘毅もそう感じていたようだった。

 テニスは一本目のサービスを失敗(フォルト)した場合、もう一本うつことができる。それもフォルトだった場合、ダブルフォルトとして、相手にポイントが入るのだった。ダブルフォルトは、何もせず相手にポイントを与えてしまうので、絶対にしたくないものだった。

「絶対、いいサーブを決めてくから、ここ取ろうな」

 弘毅は力強くそう言った。さっきまで乱れていた呼吸はもう整っていた。弘毅は自信に満ち溢れた歩みでコートに向かっていく。橘も弘毅の力強い後姿に思わず微笑み、彼の後ろを追う。

 弘毅が自分のダブルフォルトによって負けたあの試合の後、ずっと下を向いて落ち込んでいた。そして、その次の日からずっとサーブの練習をひたすらしてきていたのを橘は知っていた。弘毅は毎日、朝の練習に誰よりも早く来て、一人で黙々とサーブを打っていた。だから、橘は弘毅の纏っている自信がハッタリではなく、本心だとわかっていた。

 コートで、二人は足を動かしながら、作戦を立てる。だが、二人ともわかっていた。作戦よりもここで大事なのは、折れずに粘る精神力だった。

「じゃあ、いくぞ。集中」と弘毅が叫ぶ。それにあわせて、二人はこぶしをあわせる。そして、弘毅はコートの後ろ、橘はネットの手前に歩き、プレイの準備をする。

 審判がプレイの開始のコールをすると、弘毅がボールを3回バウンドさせる。そして、トスをあげ、破裂音のような打球音とともに、「うっ」と短いうねり声が、橘の耳まで届いた。


 そのあと、ずっと京子は不機嫌なまま食事を続けていた。いつもは母が食事中、話題を出してくれていたから、二人だと会話が続かなかった。そんな沈黙の中、橘は、京子になんて声をかけてあげるべきなのかを考えていた。それと同時に弘毅のことを思い出していた。

「なあなあ、京子ちゃん」と橘は機嫌を伺うように目の前に座る京子の顔を覗き込む。

「何ですか」と京子はつんつんとした態度を崩さず返事をする。

「弘毅が浪人するって決めたときのこと覚えてる?」と橘は不機嫌な京子を気にせず問いかける。このあと、どんな話をするかは決めていた。

「覚えてますよ。めちゃくちゃ落ち込んでましたよね」

「そうそう。あいつは失敗すると、思いっきり落ち込むからね」

「それがどうしたんですか?」

 京子はなぜ兄の話題が出たのか理解できず、訝しげな顔をしてた。

「あいつ、部活でも、めちゃくちゃ落ち込んでたことあったんだよ」

 橘は弘毅がダブルフォルトを繰り返して負けた試合の話をした。

「でも、あいつ、それからずっと誰よりもサーブを練習したんだ」

 京子は表情を変えていなかったが、話は聞いているのか箸の動きは止めていた。

「そしたら、その半年後の試合で一回もダブルフォルトしなかったんだ」

 橘は一回、京子の顔を見る。

「でさ、浪人することになったとき、めちゃくちゃ落ち込んでたよね。でも、あいつ落ち込んだ後にそれをバネにできるんだよね。浪人してた一年間死ぬほど勉強して、今の大学に合格したんだよ」

「それが私になにか関係あるんですか」

「いや、京子ちゃんがめちゃくちゃ落ち込んでるのはわかるよ。でも、ここでその落ち込んでる感情を勉強にぶつけるしかないって話だよ」

「ふーん」

 京子は特になにも感じなかったといった表情だった。だめだったかと橘は落ち込んだ。そして、ありがたい話のように弘毅の話をする自分が恥ずかしかった。

「まあ、別に響かなかったならいいよ。まあ、伝えたかったのは、結局ダブルフォルトしなかったらいいってこと」とその恥ずかしさをごまかすようにふざけた口調で言った。

そうすると、京子は下を向いたまま、ほっぺたを膨らませて、「それって、一回浪人してから合格しろって話ですか?」と聞いてきた。

「いやいや、違う。たとえ話で、次の模試に向けてがんばればいいって話だよ」と橘は焦りながら言い返す。

 そうすると、京子は「冗談です」と初めて笑顔を見せた。

「私、がんばりますね。さっきのお兄ちゃんの話はまったく感動しなかったんですけど、必死に私を励まそうとしてくれる橘さんの様子がちょっと面白くて元気でました」

 橘は、「馬鹿にするなよ」と思わず笑ってしまった。なにより元気な表情を見せてくれたのがうれしかった。そして、「じゃあ、そろそろ勉強に戻る?」と京子に聞くと、「そうだね。さっきまでは進まなかったから、集中しよう」と自分に言い聞かすようにつぶやき、先に席を立ち、自分の部屋がある二階へあがっていく。

 その後姿がなぜか弘毅に重なった。まったく背丈も髪の長さも違うけど、あいつとそっくりなように橘は思った。そして、橘もそれを追いかけようと席を立った。

 

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